夜明けの空を翡翠が飛ぶ耳慣れた轟音を洞窟の外に聞いて目を覚ます。
渇いた喉を潤そうと、左手に小さく火を灯し右手で水差しを掴んだが、口をつける前に肺の奥から澱みがあふれ出した。
音を響かせぬよう口を押さえて咳気を飲み込み、掌を見る。
幸い血はあまり出ていなかった。
寝台の下を見下ろせば、北の大地で再会した弟弟子とその仲間達が岩肌のままの床に散らばって寝ている。
いつの間にか棚の隠し酒を呑んでいたらしい。まあいい。今更勿体なさがっても遠からず形見分けされるだけだ。
残りの酒は余らず彼等に持ち出されるだろうが、あいつは何を選ぶだろうか。
扉の向こうは寝入る前より闇が薄らいでいるようだった。
夜明けが近い。
寝台を下り椅子に掛けたままの上着を羽織る。床一面に広がる一団の間を、慎重に慎重に
「うぐっ」
「ぐえっ」
「げほっ」
「んがっ」
吐かぬ程度に腹を踏みしめて表へ出た。
重い岩戸を開くと、眼前の砂浜には予想通り年若い弟子が膝を立てて座り込んでいた。
こちらを振り向きもせず、すまねえ起こしちまったかい、と言うので、謝るくらいならもうちっと上手く着地しやがれと返してやる。
彼がここへ来たときのいつものやりとりだ。
覚え立ての頃は勢いよく飛んでは頭から尻から地面に激突していた瞬間移動呪文も、今では世界屈指の使い手となっているはずだ。
普段であれば嬢ちゃん達のスカートをひらりとも揺らさず目的地に降り立つのだとか。全くつまらない成長をしたものだ。
呪文を行使する際には魔法力の大きさ以上に集中力が重要な要素となる。
小指の先より狭い穴に収束させた閃熱呪文を通すほどの実力を持つ男が、毎度毎度ここへ来るときには派手に着地音を響かせる。
そこまで弱っているならいっそ動かず休んでいれば良いものを、とも思うが、眠りが傷を癒やさない夜もあることはよく知っている。
祖国の王配となった最初の師の元へは、もう弱音を吐きには行けないのだろう。
拠り所をどんどん少なくしている若者の行く末が心配にはなるが、どうしようもなく心が荒んだときに無意識で訪れる場所がいつも変わらずここだということに仄かな優越感を覚えてしまうのも事実だ。
弟子は最初の謝罪以降一言も発さず、ただ海を見ている。
視線の先には彼と彼の仲間達が死闘を繰り広げた島がある。かつてそびえていた塔は大魔宮からの急襲によって破壊され、凍り付いた爆弾を抱えた尖塔が残るばかりだ。
その細い輪郭が少しずつ露わになっていく。
墨染めの夜空は徐々にその色を淡くし、水平線の向こうは青みがかった紫色に染まっている。
弟子の隣に座り、同じように海を見つめた。
紫の次にやってくるのは赤。今日は薄く雲が張っているからか強く焼けている。
やがて光の条が四方へと広がる。日の出だ。少しずつ昇る太陽とともに、空は白く眩く輝く。老いた目には強すぎる美しさだ。
目を眇める己とは対照的に、隣に座る若者はその大きな瞳でじっと夜明けを見つめていた。強い光のせいで目元に染みついた隈がより濃く見えた。
夜と朝の狭間をじわじわと昇っていた太陽も水平線を越えればあとは早い。一気に青が目の前に広がる。
その一部始終を見届けてから、弟子は小さく言った。ああ、また朝が来ちまった。
これもいつもの言葉だ。膝頭に顔を埋めてしまった彼のつむじを見るとも無しに眺める。もう頭を撫でて欲しい年頃でも無いだろう。頬を伝う一条は眩しさのせいにして見逃してやる。
彼が自分に望むことはただこうして隣にいてやることだけだ。
いつもの朝が来る恐怖をよく覚えている。
大切な友人を目の前で失ってしまってからの、無力感に苛まれ続けた日々。
彼の為になるはずと自分に言い聞かせ、夜を徹して魔導書を読み込み、魔法力の尽きるまで修行を重ねた。
そうやってどんなに自らを追い込み、痛めつけても、朝が来れば思ってしまうのだ。
ああ、また朝が来た。また自分は無意味な一日を過ごしてしまったと。
しばらく顔を俯けていた弟子は、やがてスンと鼻を鳴らしてこちらに向いた。
なあ、あいつらってまだ此処に居んの。
腹を踏んづけても目を覚まさない寝汚い連中のことか。中に居るぜと答えると、弟子にすんのかと重ねて問われた。
半端な魔法使いのまま年を重ねたらしい弟弟子は自分よりは若いが、もう修行をして伸びる余地は少ないだろう。勇者擬きと僧侶紛いはそこそこに魔法を扱うが向上心がいまいち見えない。
戦士の形(なり)をした大男は論外だが、見た目に似合わずよく家事をこなすのでいっそそちらの才を活かす職に就いてはどうかと思う。
まあ何にしろ。
お前さんで手一杯なのにこの年でこれ以上背負い込めるかよと言ってやると、何だあ兄弟子として威張ってやれると思ったのにと嘯いた。
変に意地を張るところは自分に似てしまったか、元々の性分か。こき使われている連中に同情の視線を向けているつもりのようだが、その中に滲む密やかな嫉妬心に気付いてないとでも思っているのか。
僅かな期間で大魔王にも食い下がれるほどの魔法力と知略を身につけたとは言え、ようやく10代半ばを過ぎたところ。素直になりきれない様も可愛らしいものだ。
あまり意味の無い会話をいくらか続けて、少し顔色が明るくなった弟子は立ち上がる。『いつもの』一日を過ごす覚悟が決まったのだろう。今日は何処へ飛んでいくつもりやら。
うんと背伸びをして青空を見上げた青年は、なあ知ってるかとこちらに声をかけてきた。
夜明けの空の色ってさ、おれの兄弟弟子たちの魂の色に似てるんだ。
紫、赤、白、そして青。
だからかな、おれ日の出を見るのが好きなんだ。おれの魂の色はそこには無いけど、その代わりこの地上から精一杯手を伸ばすんだよ。少しでもあそこに近づけますようにって。
崖上に茂る木々の緑を見渡して彼は言った。詩人だな、と笑ってやると、我に返ったのか寝不足で呆けてたんだ忘れてくれと頬を赤らめた。
朝飯でも食っていくかい夜明けを慕う大魔道士さまよ、と更に揶揄うと、羞恥にいたたまれなくなったのか本当に後生だから勘弁してくれ、と宙に体を浮かせた。
強い魔法力の燦めきが細い身の周りを包み込む。
じゃあまた!体に気ぃつけてな、ジジィなんだから呑み過ぎんなよ!と余計な一言を吐いて彼は飛び立っていった。空に残る翡翠色の光線をしばし目で追う。
ふと目の端に微かな輝きが映った。波打ち際まで歩み、小さな欠片を拾い上げる。どこからか流れ着いた硝子片のようだ。波に晒され角は丸くなっている。
掌の上でしばし転がし、陽光に透かしてみる。複雑な反射を重ねた多色の光が白い砂を照らした。その色合いにふっと笑んでしまう。
なあひよっこよ、知っているか
太陽の光は一色じゃ無い
人の目には僅かな色しか見えないが
こうして小さな虹を作ってみせれば
きっとお前も気付くだろう
天から届く鮮やかな色の中心に
お前の魂にとてもよく似た
緑の光があることを
やれやれ全くらしくない。
師匠が弟子に似るということもあるのだろうか。
あいつの初(うぶ)さにこの年寄りも毒されてしまったらしい。
老いた身に余る甘い毒は別の毒をもって制するしか無い。
いまだ岩窟の中で寝こける怠惰な若人達を叩き起こし、無理難題を押しつけてやろう。
そうして自分も自分らしく『いつも』の一日を始めるのだ。
岩戸に向かう前にもう一度空を見上げる。
もう彼の軌跡は見えないが、生涯唯一にして最高の弟子が自由に飛び回る姿を思い浮かべる。
眠れぬ幾つもの夜を越えて、いつかきっと彼は夜明けの向こう、追い求め続けてきた青い輝きをその手に掴むだろう。
願わくばその日まで、この残り少ない命の灯が保たんことを。
並より長く与えられた人生の最期に、彼の曇り無き笑顔が思い浮かべられるように。