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    Shijima_shhh

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    Shijima_shhh

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    車を運転しながら、風見ができたばかりの恋人である降谷さんのことを考える話。

    寝てもさめても忘れぬ君を 焦がれ死なぬは異なものよ(隆達小歌百首)

    #降風
    (fallOf)Wind

    寝ても覚めても(降風) さて、あの人といわゆる恋人という関係になったわけだが。

     気を引き締めるために、いつもよりも意識して表情を引き締めながら、風見はスカイラインの運転をしていた。今日はこれから3025、つまり協力者に会いに行く予定だ。会う場所はいつも決まっている。警視庁から車を50分ほど走らせたところにある。古い教会だ。最低限の手入れはされているが、人がいるのを見たことがない。といっても、風見がそこに行くのは3025に会うときだけで、それは多くても半年に一度程度の頻度なのだから、たまたまかもしれない。教会というものになじみのない風見には、これが普通なのかそうでないのかはわからなかった。数年前に父方の祖父が亡くなったときには近所の僧侶に経をあげてもらったし、実家には小さな仏壇がある。しかし、風見自身も両親も、そしておそらくは祖父母も仏教徒というわけではないし、他に特定の宗教を信仰しているわけではない。慣習的にそうしたという程度だ。
     だから、3025に会いに教会に行く度にどことなく居心地の悪さを覚えていた。しかし、それと同時に夏でもどこかひんやりとした静謐な空気と冷たい木のベンチは、嫌いでは無かった。
    (3025も、キリスト教徒というわけではない、とは言っていたが)
     いつも教会を待ち合わせ場所に指定する協力者番号3025。彼女は、とある暴力団の幹部の隠し子だ。優しげな垂れ目は少しだけあの人を思わせるが、似ても似つかない。いつも強い決意を灯すあの人と違い、彼女の顔は常に憂いを帯びていた。この教会で彼女は何を祈っているのかわからない。ただ、風見に情報を渡した後には、いつも救われた顔をしていた。

    (この調子なら、約束の10分前には着きそうだな)
     思っていたよりも道路は空いていた。スカイラインは軽快に高速を走っていく。いつも風見よりも先に教会にいて、風見が帰った後もしばらくはそこで祈りを捧げている彼女は風見の多忙をよく理解しており、多少時間が前後しても大丈夫だと言ってくれている。どこかで時間をつぶして調整する必要はないだろう。
     今日は昼食を取り損ねてしまった。彼女から情報を受け取った後、帰庁する前にどこかで昼食を買って帰ろう。いや、呼び出しがなければ食べて帰ってもいいかもしれない。恋人になって以来、降谷は前にも増して風見の食生活を気にするようになった。勘弁してほしい、と思うこともあるけれど、心配されるのは単純に嬉しい。
    『この仕事をしている以上、生活が不規則になるのは仕方がない。しかし、それを理由に不摂生を重ねていては、いざという時のパフォーマンスに影響が出るぞ』
     上司の顔で厳しく叱咤した次の瞬間には、目元の強い光を和らげる。
    『僕個人としても、君が心配なんだ。君にもしものことがあっては、困る。ゼロとしてだけではなく、……恋人としても、な』
     そう言ってふに、と風見の下唇を食んだ彼の唇は、思わず開いた口にすかさず侵入し、好き勝手キスを貪って満足そうに笑ったのだが。
    (……煮物の味がしたな)
     思い出せば、ぐぅ、と腹が鳴った。餌付された身体は一時期の不摂生が嘘のように空腹に敏感になってしまった。カロリーさえとっていればなんとかなると滅茶苦茶な食生活でも乗り越えられていた日々は過去のものとなった。口うるさく面倒見の良い、今や恋人にもなった上司のおかげで、風見の身体は人間らしい機能を取り戻してしまった。それは悪いことではないのだが、一日三食とるというのは面倒なものだとは少しだけ思っている。特に、降谷の作る極上の手料理に慣らされてしまった舌は、少々贅沢になってしまって、困る。

    『今までは、我慢していたんだ。あれでも』
     そう言って、情報交換にかこつけて毎回のように弁当を渡し、深夜の本庁に現れては夜食を差し入れ、さらにはいつの間にか風見の部下たちをも手懐けて風見および班全体の仕事の進捗を完璧に把握した上で家に招いて手作りの食事を振る舞ってくれる恋人は、何から何まで完璧すぎて、風見はいつも従う以外の選択肢が選べない。いや、選ぼうとも思えない、といった方が正確だろうか。降谷は風見の逃げ場を奪い、選択肢を削り追い詰め、けれど差し出した手を風見自身にとってもらうことを好んでいた。そんなに必死になって外堀を埋めなくても、自分はいつでもあなたの手をとるのに。と思いつつ、風見はそれを口にしたことはない。自分のために一生懸命になる降谷が嬉しくいとしいからだ。
     あまりにも頻繁に絶品手料理を振る舞われて恐縮する風見に、降谷は味噌汁のおかわりをいそいそと温め直しながら、幸せそうに笑った。
    『君がおいしそうに僕の手料理を食べるのを見ていると、幸せを感じるんだ』
     その言葉にぼっと顔が熱くなり、眼鏡が曇ったことまで思い出してしまい、風見はハンドルを握る手にぎゅうっと力を入れる。なんであの人は臆面もなくあんなに甘ったるいことを言えるのだろうか。そんなことを言われ慣れていない風見は、降谷といるとたびたび眼鏡が曇るほど赤面してしまう。それを見て降谷が嬉しそうに笑うものだから、顔の熱はなかなか引かなくて、しまいには眼鏡を外されてキスをされるところまでがもはやお約束になってしまっている。
    (だから、そういうのを思い出すんじゃないっ)
     必死に自分に言い聞かせるが、それなりに優秀なはずの脳みそはなかなか言うことを聞いてくれない。それどころか、優秀さを別方向に発揮してしまうものだから、思わず舌打ちしそうになる。
    『君と一緒に食事をするようになってから、思い出したよ。食事っていうのは、栄養の補給だけが目的じゃないんだってな。君のおかげだ』
     止まらない記憶の再生。ただの上司と部下だった頃にはついぞ見たことのない、蕩けるような笑みまで思い出してしまい、心臓がドキドキと高鳴って痛いほどだった。これが自分の家だったら、布団を被ってゴロンゴロンと悶えていたことだろう。シートベルトをきっちり締めた車内でまだ良かった。おかげで暴れずに済んでいる。

    (そもそも、あの人はなんであんなに存在感が強いんだ……)
     どう足掻いても脳裏から消えてくれない人に、八つ当たりの文句をぶつける。いっそ沖野ヨーコのCDでも爆音で流して頭の声をかき消したいところなのだが、あいにくと彼女はアイドルである。そして、アイドル――特に女性アイドルの場合は、恋愛ソングが圧倒的に多い。以前、降谷を一時的に頭から追い出すために沖野ヨーコのライブ映像を流してみたところ恋愛ソングに感情移入をしすぎてしまいますます降谷が頭から離れなくなってしまったという経験がある。しかもその課程で、彼女の優しげな垂れ目が降谷を彷彿とさせることにも気が付いてしまい、ゴン、と机に頭を打ち付けてしまったのは風見だけの秘密である。
     それ以来風見は沖野ヨーコの写真や動画を直視できなくなり、さらにはせっかく発売されたばかりの彼女の新曲だってまだちゃんと聞き込めていない。とんだ二次災害である。

     仕事とプライベートの境目が難しい。恋人になる前だって、あの人に手製の弁当をもらっていたし、合鍵を預かって上司が不在の際にはその愛犬の世話をしたりもした。降谷の置かれた立場の特殊性から、家に他者を入れるわけにはいかないし、ペットホテルに長期間預けるのもかわいそうだ。また、ペットホテルではなかなかこちらの都合の変更に対応しきれないこともある。となれば、降谷が愛犬を頼む相手として頼れるのは風見くらいのものなのだろうが、果たしてあれは上司と部下として適切な距離だったのだろうか。他のゼロの下についたことがないため、風見は測りかねている。まあ、仮に上司と部下として不適切な距離であったとしても、今となっては恋人という関係まで付随してしまったがためにその線引きはさらに有耶無耶になってしまったわけだが。あったかもしれない曖昧な公私の線引きは、今や完全にシームレスだ。おかげで、風見はいつだって、今まで以上に降谷のことが頭から離れない。
     となれば、降谷が涼しい顔、いや、熱を持った瞳で距離を詰めてくるのに対抗して、風見もそのシームレスな境目を少しだけ自分から踏み越えてみても許されるのかもしれない。
    (まあ、こっちが近づく前にあの人が爆速で近づいてきてくるんだけどな)
     それでも、上司と部下であれば上司たる降谷からの指示を一方的に風見が受けてそれに応えるだけであったが、恋人となったからにはやはり双方向から距離を詰めていくべきなのだろうとも思う。というわけで、手始めに。
    (……あの時の味噌汁と、こないだの煮物。次に会ったときにまた作ってくださいって頼んでみようかなあ)
     恋人、になったのだから。もうただの部下ではないのだから。そのくらいのおねだりくらいは許されるだろうか、と。笑顔で頷いてくれることがわかりきっているくせに、少し心配になったりなんかもして。

     そんなそわそわした気持ちに、やっぱり浮かれてるなあ、と。バックミラーに映る自分のにやけ顔に顔をしかめた。
     それでも、どれだけ気持ちを引き締めても、これから会う協力者の情報のおさらいをしていても、風見の心は降谷から離れてはくれない。幸いなことに今のところ、降谷と付き合いだしたことなど誰にも言っていないのに部下たちには「最近、風見さん調子いいですね」「顔色もいいし、書類処理も前よりも早くなってるし、絶好調ですね!」と言われている。どうやら自分は、恋に現を抜かして仕事がおろそかになるタイプではなかったらしい。降谷と付き合い始めてからこちら、ふわふわした気持ちは抜けないものの、仕事への悪影響はないようでほっとした。むしろ、形はどうであれ降谷への感情と繋がりが深まったことにより、よりいっそう自分の職務に邁進できているようだ。
    (とはいえ、どうにかしないとな……どうすればどうにかできるんだ、これ)
     連絡役に就いたその日からずっと。降谷の居場所が風見の中にあるのはもはや当たり前のことだったが、そこに色恋の情が形を得てしまったものだから、制御がきかなくなっている。恋でも、仕事でも。風見の中で降谷が占める割合が大きくなりすぎて、少し恐い。
    (自分を見失わないようにしないとな)
     惚れ込むことと、盲目になることは違う。風見は警察官としても一人の男としても降谷零という男に惚れ込んでいるが、彼を自分のすべてとするつもりは毛頭無かった。なぜなら、彼に寄りかかるのではなくて、隣に立つことが風見の望みであるからだ。

     考えないようにしようと思えば思うほど、降谷のことを考えてしまう。完全に悪循環だ。そして、風見はこの悪循環から逃れられた試しがない。仕事に没頭している時ならばすぐに頭を切り替えることができるのだが、こうして運転しているだけの時間というのはどうにも思考を持て余す。
     付き合い始めて三ヶ月。ずっとこんな調子だ。あの人が恋人であるということに、まだ慣れない。月阿始めてからこちら、プライベートで顔を合わせる回数よりも情報共有のために会う回数の方が多いけれど、たとえばUSBの受け渡しのときに一瞬だけ指先を握られたり。すれ違いざまに暗号を伝える際に手の甲をすりあわせたり。そんなさりげない接触で、思いを伝えられる。
    『君が、僕の恋人であるということを忘れないように』
     いたずらっぽく笑ったあの人を思わず睨んでしまったのも、仕方の無いことだと思う。

    「忘れるはず、ないでしょう」
     あの時告げたのと同じ言葉が、思わず口をついて出てしまう。一人きりの車内。眼鏡の小学生に盗聴器を仕掛けられて以来、まめに自分の衣類や所持品、車内などに盗聴器や発信器の類いが取り付けられていないかチェックするようにしている、だから、独り言のひとつやふたつ、誰に咎められるものでもないけれど、思わず苦笑してしまう。


     降谷の連絡役に抜擢されてから、一瞬たりともあの人を忘れたことはない。他の案件に集中している時でさえ、自分の中にはいつもあの人がいる。何せ、連絡役というのは過酷だ。1日24時間、何時であろうとも電話は3コール以内に出る。1年365日、非番の日も関係なく呼び出されたら応えなければならない。
     警察官は法を守らなくてはならないけれど、労働基準法は適用外。安月給でこき使われて必要とあらば命もかける。とんでもないブラックだ。もともとそう思っていたけれど、連絡役に抜擢されてから今までの〝ブラック〟はまだ手ぬるいものだったのだとわかった。連絡役に就いてからの就業状況は、漆黒だとか純黒だとか、そういう表現が似合うほどの黒さだ。
     それでも辞めることなく連絡役を続けたのは、惚れてしまったからだ。あの人の、正義に。降谷が見た目通りの優男ではにことくらい、すぐにわかった。
     それまで、風見は自分のことを優秀だと思っていた。天才にはなれなくても、秀才にはなれると思っていたし、実際、それまではそうだった。主席にはなれなくても、集団の上位1割には入っていたし、苦手なものでも努力でカバーしてなんとか上位2割、悪くても3割までには入ってきた。けれど、降谷零の優秀さは圧倒的だった。優秀だなどと自惚れていたことが恥ずかしくなるほどに。
     降谷はあまりに優秀すぎた。そして、潜入捜査官という立場から誰のことも信用していなかった(彼が親しい友人たちを喪っているということを、そのときの風見はまだ知らなかった。そのため、彼の人間不信的な態度は、立場故のものだと思い込んでいた)。それが、風見には悔しかった。
     降谷は、たいていのことは自分一人でできてしまう。降谷は風見を必要としていなかった。だから、連絡役に就いた当初の風見は、年中無休の伝言サービスみたいな扱いだったように思う。
     それが悔しくて屈辱で、耐えがたかった。怒りすら覚えたし、自分に失望もした。けれど、逃げ出すことはプライドが許さなかった。
     何より、あの人の見る正義を風見も見たかった。

     当時、風見は悩んでいたのだ。公安への配属は風見の自尊心を満たしたが、迷いもあった。風見の所属は警視庁。たまたま東都で生まれ育ったから東都の警察採用試験を受けたが、地方で生まれ育っていたらおそらくそちらで警察採用試験を受けただろう。もともと、身近な人達の平穏を守りたくて警察官になったのだ。
     だから、国を守るなんていうことは、風見には問題が大きすぎたのだ。正直に言えば、警察学校を卒業してからすぐの交番勤務の一年間が、風見がイメージしていた警察官にもっとも近かった。たまたま場所が東都だったというだけで、しょせん地方公務員に過ぎない風見は、国という大きなものをどう守っていいのかもわからなかった。たとえば刑事部であれば、起きた事件を捜査すればいい。交通部であれば、交通規制や交通事故の処理。生活安全部は少年犯罪やサイバー事件。では、公安は。
     自分が、国際的なテロリズムと戦う日が来るなんて、正直、思ってもみなかった。それも、応援としてかり出されるのではなくて、自ら捜査をする立場になるなんて。ただでさえ首都というものは狙われやすい上に、犯罪都市とも時に揶揄される米花町を擁しているのだからなおさらだ。警視庁所属の警察官の数はもちろん他の道府県に比べて多いが、それでも犯罪発生率の高さと比較すれば一人あたりの負担の大きさはダントツの全国トップであり、しばしば問題となっている。特に殺人事件の多さはがしばしば問題となりがちであるが、公安案件だって余所に比べて格段に多い。時に違法捜査もするのが公安だ。
     目の前の仕事をひたすらこなしていけばある程度の成果は出るが、やはり自分の中に軸がほしい。道に、迷わないために。
     身近な人の平和を守りたい。そんな気持ちで警察官になったけれど、もっと大きなものを見る目が風見には必要だった。日本の警察は、拝命から退官までで拳銃を使用したことのある者は全体の1%に満たないとも言われている。そんな中で、風見は何度も拳銃を使用した。撃たれたことだってある。何回も。拳銃だけではない。爆弾の爆発に巻き込まれ
    たことも、爆弾を解体したこともある。公安に配属されてから、普通の警察官ならば警察官人生で一度遭遇することがあるかないかという事件に何度も遭遇している。日本警察の年間殉職率は10名程度と言われているが、風見はすでに何人もの同僚を見送っている。
     そんな日々の中で、心がすり減っても踏みとどまるための信念が風見には必要だった。手に握る拳銃の重さを知っている。その恐ろしさも。痛みも。高度な政治的配慮とやらで真実を隠蔽された事件だって知っている。そんな中で自分の中に〝絶対〟がほしかった。
     そんなときに出会ったのが、降谷だったのだ。
     彼の正義は、鮮烈だった。あまりに眩しくて、不安になるほど強くて、惹かれずにはいられないほどに強烈だった。
     自分の信念を誰かに委ねようとは思わない。自分の正義を誰かに借りようとは思わない。自分の正義くらい、自分で見つける。そのくらいの強さは風見だって持っている。
     降谷に依存するとか、盲信するとかではなくて。もっと純粋に、思ってしまったのだ。この人の貫く正義を自分も守りたい、と。
     だから、ただでさえ真っ黒な就労環境がさらに黒くなったとしても、風見は逃げなかったし、自分の実力不足に歯がみしても、意地でも食らいついてやると邁進した。
     その結果、降谷の信頼を勝ち得、名実ともに〝右腕〟となったわけなのだが。

    (まさか、そこに〝恋〟なんてものまで付随するとは)
     幾度となく繰り返した苦笑いをもう一度零す。そんなつもりはなかった。本当に、純粋に上司として、警察官として、一人の男として降谷を尊敬していただけのはずだったのに。


     恋が芽生えたきっかけは、プラーミャによる連続爆破事件だった。
     地下シェルターで二人きり。何が何でもこの人を死なせるわけにはいかない。その一心で解体した首輪爆弾。
    『よくやった、風見!』
     三日もの間、降谷の首に巻き付いていたあの忌まわしい爆弾が外れた瞬間。彼は、笑った。嬉しくて仕方がないというように。
    『ふ、降谷さん……』
     情けなく声が震えた風見を抱きしめて、よくやった、ともう一度降谷は言った。
    『君に頼んで正解だったな』
     少年のように無邪気な笑顔。そしてそれは、自らの命の危険が去ったことではなく、風見がやり遂げたことへの喜びだった。ドクン、と。心臓が大きく存在を主張する。風見の心は大きく震える。降谷の笑顔に、揺らされる。
    『風見、君を誇りに思うよ』
     そう言って、震えていた風見の背中を大きくバシンと叩いて、降谷は再び風見に背を向けた。
    『さあ、反撃の時間だ。ダミーの装着、頼んだよ。風見』
     そこには、風見裕也への全幅の信頼があった。

     ダミー爆弾の装着が終わったあとは、降谷は極度の緊張から解放されぐったりと座り込んだ風見の肩に自らのジャケットをかけ、よくやった、ともう一度言った。
    『僕はすぐに行くが、君は少しここで休んでいけ。プラーミャは必ず捕まえる。風見は中和剤の散布を頼む』
    『はい』
    『地上でまた会おう』
    『はい……!』
     シェルターを出て行く降谷をほとんど朦朧とする意識のまま、しっかりと視線で見送って、それから風見は大きく息を吐いた。
    『ふ、るやさん……』
     肩にかけられたジャケットを引き寄せ、ぐ、と握りしめる。
     出られた。この、太陽の光の届かない場所から。地上と切り離された孤独な箱から。あの人は、自分の足で出て行った。ようやく、出ることができたのだ。
     長い三日間だった。本当に、長かった。
     閉じた瞼の裏が熱くなる。心臓が、痛いほどに走っていた。
    ――あの人を、喪わずにすんだ。
     まだ体温の残るジャケットにすがりつくように強く、握りしめる。確実に皺が着いてしまうだろうが、どうせクリーニングに出すのだから、許してほしい。やることは山積みだ。ここで少し休んでいけと降谷は言ったが、今は一分一秒も惜しいはずだ。風見もすぐに地上にも取らなければならない。でも、少しだけ。あと少しだけ。降谷が生きているということを。降谷を喪わずに済んだのだということを、実感したかった。
    (まだ、事件は終わってない、というのに)
     ぎゅ、と強く目を閉じる。少しでも気を緩めれば、泣いてしまいそうだった。しかし、まだ何も終わっていない。泣いて、すがって。風見がすべきことはそれではない。風見は公安警察だ。そして、降谷の右腕だ。だから、すぐに。すぐに立ち上がって、地上に戻る。降谷は降谷にしかできないことをしに行った。だから、風見も風見にできることをしなければならない。わかっている。けれど、身体はまだ震えていた。
    『ふ、るやさ……っ』
     歯を食いしばる。これ以上口を開けば、嗚咽が漏れてしまいそうだった。そして、唐突に気が付いた。自分が恐れていたことを。
    (自分が死ぬことよりも、……あの人を喪うことが、恐かった)
     死ぬつもりも、死なせるつもりもなかった。けれど、最悪の想像を一度もしないでいられるほど風見は強くはなかった。
    『……』
     握りしめていたジャケットを、恐る恐る抱きしめる。降谷の匂いがした。ここに隔離されていた数日の間、風呂にも入れなかったはずなのに、臭いとは思わなかった。ただ、安心した。
    (こんな、強い思い……)
     降谷を尊敬していた。あの人の見つめる正義を、自分も見たかった。だから、死なせたくなかった。生きていてほしかった。あんな犯罪者なんかの手にかかっていい人ではない。そう、思っていた。それらは、当たり前の感情だった。降谷が首に爆弾を巻きけられたのは、風見の失態が原因だったのだからなおのことだ。しかし。
    『喪いたくない、か……』
     これは、本当に部下としての思いなのだろうか。本当に、あの人の右腕としての感情なのだろうか。頭の中はぐちゃぐちゃだった。うまく思考がまとまらない。答えは出ない。ただ、その違和感だけが残った。


    (で、その後、いろいろあってこうなったわけだけど)
     好きだ、と。そう言ったのは降谷の方だった。しかし、風見はわからなかった。特殊な環境の中で芽生えたそれは、いわゆる吊り橋効果という奴なのではないかとも思った。だから、降谷の想いは泣きそうなほどに嬉しかったが、安易に応えるのは躊躇われた。しかし、降谷は決して諦めることなく、風見の戸惑いも暴いて、言ったのだ。
    『たとえ吊り橋効果の恋だったとしても、安心しろ。君の乗っている吊り橋を、ずっと揺らし続けてやるから』
     口元に浮かべた笑みとは裏腹に、必死な瞳に胸がしめつけられた。
    『なあに、僕たちの仕事なら、吊り橋には事欠かないさ。盛大に揺らすから、覚悟しろよ』
     そう言って、降谷は風見の腕を掴んで離さなかった。それを嬉しいと思った時点で、風見の負けだったのだ。この人が愛しいと、はっきりとわかってしまったのだから。

    (なーにが、吊り橋効果なんだか)
     結果、ずぶずぶと恋の深みにはまっている今である。寝ても覚めても降谷のことばかり考えている現状は、実のところ恋人になる前と変わらない。けれど、そこにある感情が変わるだけでこんなにも心乱されるものなのか。今までに恋人がいたことだってあったけれど、こんなにも脳裏から離れてくれない人は初めてだった。
    「本当に、厄介な人だ」
     そろそろ高速をおりて下道に合流しなくてはならない。ウィンカーを出してするりと曲がる。ここからあと十分も車を走らせれば、協力者と落ち合う教会に着く。線路を走ったり壁を走ったり空を飛ばせたりすることはできないが、〝お手本のような〟と教官にも同僚にも称される程度には風見も運転がうまい。いつだったか、降谷の車の助手席で居眠りをしてしまったことがあったが、降谷だって風見の車の助手席で運転したことがある。もちろん、上司と部下という関係性を考えれば、上司に運転させておきながらその助手席で眠ってしまった風見の方がより問題があるのだが、それはさておき。
    『君は、運転がうまいな』
     目が覚めてから、気恥ずかしそうに目元をわずかに赤くした降谷に、どきりと胸が高鳴ったことを覚えている。恋を自覚するよりも随分前だったが、今にして思えばあの頃には既に好きだったのかもしれない。答え合わせのように、過去の自分の感情や鼓動の意味に気づいてしまうのは、少しだけきまりが悪くて気恥ずかしい。自分でもまだうまく飲み込み切れていない恋心。こんなに惚れてるなんて、あの人にはまだ教えられない。けれど、教えたらきっとあの人は風見の心を震わせるあの笑顔で笑ってくれるだろうから。だから、風見が自分の恋心ともっとうまく付き合えるようになったら。その頃には、どれだけ降谷のことを好きなのか、自分からもちゃんと言葉で伝えようと思う。



     協力者番号3025との待ち合わせの教会が見えてきた。小さな駐車場には、一台も車が停まっていない。3025はバスでここに通っていると言っていた。おそらく今日も他に人はいないだろう。
     古びたドアを開ける。差し込む光に照らされた小さなステンドグラスが美しかった。いつもと同じベンチに座った彼女は、今日も何かに祈っている。
     人には、救いが必要だ。暴力団幹部の隠し子として生まれ育った彼女には、風見にはわからない苦しみがあるのだろう。そして、その苦しみ故に神に祈り、風見に情報を提供しては救われた顔をするのだ。
     警察官になって以来、風見は多くの地獄を見てきた。地獄とは聖書の中に書かれたものでもなく、地の底にあるものでもない。地上にこそ、地獄がある。無力なものが作り出した地獄も、権力者が作り上げた地獄も見てきた。清濁併せのむ。それがどれほど困難なことか。歯を食いしばり、握りしめた拳を身体の横で震わせ、地獄と知りながら見ないふりをしたことだってある。
     人の造り出した地獄に対し、神は何も救ってくれない。3025の見てきた地獄と、風見の知る地獄は違うものだ。それでも、地獄を耐えるためにすがるものが必要な気持ちは、風見にもわかる。彼女の場合はそれは神だった。そういうことなのだろう。
    (俺の場合は……降谷さん、だな)
     美しく、強く、賢い。おおよそ完璧に見える人。けれどあの人は、神なんかではない。もっと泥臭くて、足掻いて藻掻いて苦しみながら生きている人間そのものだ。けれど、あの人の中にある決して折れない正義は何より尊い。だから、風見はそれに惹かれるのだ。
    (まあ、結局のところ)
     仕事でも、プライベートでも。風見の人生に降谷以上の人なんて居ない。志を同じくする警察官、上司としての降谷も必要だし、恋人としての降谷も今や失えない存在となっている。だからこそ、寝ても覚めても忘れられない人なのだ。風見の奥深くに根ざして、もはや切り離すことなどできない。責任をとってほしい、なんてことは言わないが、せめて。
    (俺も、俺にとってのあの人と同じくらい、あの人にとって欠かせない人間になりたいなあ)
     そんなことを考えながら、表情を引き締める。静謐な空間に響く足音。3025は足音に気が付いているだろうが、顔は上げない。いつものことだ。
     彼女から手に入れる情報を、今夜のあの人はどんな顔で聞くだろうか。
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