スキップ(降風)出会いと別れは双子の兄弟であり、愛と憎しみはジキル博士とハイド氏のようなもの。そして正義と悪意はコインの裏表。そんな分かったようなことを嘯く俺はまだ20代の、社会的に見れば人生の何たるかもまだわかっちゃいない若造だ。
それでも、そんな警句を弄びたくなる程度には色んなものを見てきた。警察官、それも公安なんて部署にいれば、人間の美しいところよりも醜いところの方が目にする機会は多い。人というのはこんなに残酷になれるのかと吐き気を覚えたことだって両手両指の数でも足りない。
そんな俺が、その日、世にも恐ろしいものを見た。
深夜の警視庁。その廊下でスキップする上司の上司だ。
「……あの先って」
「仮眠室だな」
「今、仮眠室にいるのって」
「風見さんだけだな」
「あの人、うちの部署素通りして迷わずあっち行きましたよね」
「……事前に確認したんだろ。電話かメールで」
「確認されたなら、なんで風見さん起きてこないんです!?」
「聞かれたらまずい話でもするんだろ。たぶん」
「そんな話するのにスキップで向かいます!?」
「なにか意味があるのかもしれないだろ俺に聞くな!」
「だって……! あ、降谷さん戻ってき、た……!?」
おそらく人よりも恐ろしいものへの耐性はある。ホラー映画はもともと好きだし、仕事柄、人の作り出す地獄も数多く見てきた。
それでも、そんな俺でも思う。恐ろしい、と。
「あ、君たち」
爽やかに笑う世にも美しい上司の上司。
「ヒッ」
金の髪も垂れがちな青い目も褐色の肌も、そんじょそこらの芸能人では太刀打ちできないほどに美しい。なぜ警察官などやっているのかいっそ不思議なほどだ。
そんな人物の、上機嫌な笑み。
「悪いんだが、風見の荷物をまとめてくれないか?」
その笑みだけを写真に切り取って額縁に入れて飾れば、きっと1つの芸術がそこに完成する。
「か、風見さんは……その、……」
しかし、それが俺には恐ろしくてたまらない。
「ん?」
口角の角度が上がる。美しさの中にも凄みがある笑みだ。ぶるりと身体が震えた。今までに数多くの犯罪者と対峙してきた。その度に肌で相手のヤバさを感じてきたが、こんなにも身体が警鐘を鳴らすことはそうそうない。
「い、いえ!なんでもありません!風見さんの荷物ですね!」
「こちらにまとめました!スマートフォンなんかは風見さんのジャケットに入っているかと」
「ああ。握りしめて寝ていたからな。回収済みだ。荷物をありがとう。風見は今日はもう上がりだ。君たちも、あまり根を詰めすぎないようにな。じゃ、お疲れ様」
「はい、お疲れ様です!」
「失礼致します!」
気がついたら手が動いていた。敬礼。儀礼の時くらいにしかしないそれを、無意識にしていた。俺だけじゃない。隣に立つ先輩もだ。敬礼というのはただの形式ではなく、本能からするものなのだとこの時はじめて知った。
「そんなに畏まらなくてもいいのに」
そう笑って、世にも美しい上司の上司は去っていった。眠ったままのかざみさんを横抱きにして。さすがにスキップはもうしていなかったが、鼻歌でも歌い出しそうなほどの上機嫌さで。
「……」
「……」
二人を乗せたエレベーターのドアが閉まり、階数表示が二つほど下がった頃、ようやく俺たちは手を下ろした。顔を見合せて、大きくため息を吐く。
「っはあああぁぁぁぁ」
「今日はまた、一段と………………すごかったな」
「ですよね」
三日前、風見さんは負傷した。女性を庇って容疑者のナイフを腕で受け止めたのだ。その後すぐに犯人は取り押さえられ連行されていったし、風見さんは病院で手当を受けた。傷は幸いにも深くはなかった。急所は避けたし、重要な筋を傷つけられてもいなかった。
医者の診察を受けてすぐに、風見さんは事後処理にあたった。重症ではないものの軽傷とも言い難い程度に深い傷だ。休むように言ったが風見さんは聞く耳を持たず、痛み止めを服用して精力的に事後処理を進めていった。
そして、ほんの一時間ほど前。後処理の目処がたったところで、少し休むと言ってようやく仮眠室に向かった。
というところで、降谷さんがスキップしながら現れたというわけだ。
「こ、こわかった……」
「……ああ」
さて、スキップとはどういう時にするものだろうか。日常ではなかなか出番のない動きだ。漫画的表現としては、上機嫌の表れだろうか。喜びの表現などにも使われるだろう。先程の降谷さんも、たいへんご機嫌麗しかった。
見た目だけは。
俺があの人について知っていることは少ない。詮索してはいけない人だからだ。けれど、あの人は風見さんの上司で、俺は風見さんの部下だ。そんな立場だからこそ、見えてしまうものもある。
「あれ、わざと俺たちに見せてるんだと思います?」
「牽制のためにか?」
「はい」
「まあ、それもあるだろうな」
「やっぱり」
「風見さんは自分のものだって全身で言ってるからな、あの人」
「ですよね。風見さんはもともと俺たちの上司なのに、自分のモノみたいな顔して、俺たちにはちょっと貸してるだけだと言わんばかりですよね」
殊更に軽口を叩いて、無理やり笑う。さっきまで敬礼をしていた手を軽口ぐーぱーと握り、意識して深呼吸をした。
「まったくだ」
隣で同じようなことをしていた先輩が、ばんっ、ばんっと両手で俺の肩から腕を順番に叩いていく。その衝撃で、ようやく入りすぎていた身体の力が抜けていった。
「……あの人の独占欲。どうにかなりませんかね」
無理だろうな、と思いながらもぼやかずにはいられない。
「どうにもならないからああなんだろ。ま、悪いばかりでもないさ。あれがあるからあの人は絶対に帰ってくるんだろ。風見さんのところに」
「それは……そうですけど」
「あの人に何かあれば風見さんが悲しむ。なんだかんだ言って破れ鍋に綴じ蓋だろ、あの二人は」
「わかってますけど、あれは、…………あの殺気は、どうにかしてほしいです」
一見すればこの上ない上機嫌。しかしその実、死ぬほど不機嫌。それが降谷さんのスキップだ。
降谷さんは、風見さんが傷つけられることを何よりも嫌う。どんなに些細な傷であろうとも自分の預かり知らぬところでつけられたものであれば嫌がるし、機嫌を悪くする。ましてや、今回のように病院のお世話になり、傷跡が残りそうな怪我の場合ときたら。
「風見さんも、直ぐに報告すればいいのに、報告するほどの怪我じゃないって何も言わないんだもんなあ」
「ある程度の怪我なら無理してでもいつも通り仕事しようとするし、実際いつも通りのパフォーマンスを無理やり維持はする人だが、そういうことではないからな。俺たちの心配も、あの人のアレも」
はあ。会話の合間にもため息は出る。あの人がこのフロアにいる間に吸った空気は、そろそろ肺の中から完全に追い出されてくれただろうか。
「上機嫌の皮を被った地獄の不機嫌降谷さんに連行されましたからね。今回も、死ぬほど説教されてうんざりするくらい世話を焼かれて、怪我が完治するまで手作り弁当が続くんでしょうね」
「今回の降谷さん、スキップがいつもより軽やかだったからな。いつも以上の不機嫌と見た。怪我自体は前の銃創の方が酷かったから、たぶん、タイミングが悪かったんだと思うが」
「夢にあのスキップの軽快な足音が出てきそうです」
「……俺もだ」
はあ。もう一度顔を見合せて大きなため息。それから、どちらからともなく荷物を片付け帰り支度。仕事はまだまだあるが、もう仕事を続ける感じではなくなってしまった。一度帰宅してしっかり睡眠をとって、それからまた頑張るべきだろう。いつもならば仮眠室に行くところだが、さっきまであの二人がいた空間には行きたくない。何があったか知らないが、降谷に横抱きにされた風見は完全に気を失っていた。つまりあの短い時間に何かがあったのだ。そんな現場には行きたくない。
パチリ。帰り支度を済ませて、誰もいなくなった部署の電気を消す。先輩とふたりでエレベーターに向かいながら、ふと思い立ってタタンッ、タタンッとスキップをしてみる。
「なんだそれ」
「せめてもの抵抗です」
「は?」
「スキップの足音が、恐怖の大魔神の襲来音として定着しないように記憶の上塗りです」
タタンッ、タタンッ。
スキップを繰り返すうちに、気持ちが落ち着いてきた気がする。そして、気がつく。スキップの軽快なリズムに怒りや不安は似合わない。
(もしかして、あの人なりの……気持ちの落ち着け方か?)
その結果、こちらに恐怖を植え付けるのは勘弁してほしいものだけれど。
「いつまで跳ねてるんだ。エレベーター来たぞ」
「はいっ」
小さな箱に乗り込んで、今日は仕事にバイバイ。
エレベーターのドアが閉まる瞬間、ふと思う。
今頃、降谷さんは風見さんの傷をどんな思いで見つめているのだろう、なんて。