色気と食い気と欲望と「やあ、食欲旺盛なノアじゃないか。いらっしゃい」
「食いしん坊のノアさん、いらっしゃ~い」
「二人とも、それ嫌味ですか?褒め言葉ですか?」
「よく食べるのだから褒め言葉なのだろう」
宗雲さんの一言に浄さんと颯さんから一斉に違うよ、という言葉と共に溜息が吐かれた。
「いや、結局勝負には勝ったんだけどさ?なんか釈然としないっていうか。鹿に負けたのか~、って思うと……」
「言っておきますけど、僕だって申し訳ないなとは思ったんです。なので今回、お二人の指名をしたいと常日頃から仰っている人たちに協力を仰ごうと思ったのですが」
「おっ」
浄さんと颯さんの瞳に輝きが戻る。そんなに鹿のローストに負けたのが悔しかったのだろうか。いやでも、可愛らしい雰囲気を持つ人と色気たっぷりの人と美味しそうな料理が並べられていたら、誰しも料理に飛びつくだろう。しかも今回はお肉、その上ジビエである。食いつかずにはいられない。………まあ、こんな事を口にしたらそれこそ総スカンをくらうだろうし、「本当にお前は御曹司なのか……?」という無言の視線を宗雲さんから受けるだろう。というわけで、大人の僕はぐっと口を噤み、代わりに二人を指名したいひとたちの名を言った。
「浄さんをご指名したいと言う方は」
「ノアの知り合いかあ。さぞラグジュアリーでキュートなレディなんだろうね。ふふ、きっとその名前もさぞ可愛らしく……」
「Qです」
「何だって?」
Qいわく、この間の不思議の国のアリスのようなカオスワールドの一件から浄さんにイタズラの狙いを定めたのだという。
『アイツのきょとんとした顔、すっご~~~く面白いんだよ。だからウィズダムに遊びに行って、あいつを指名して、た~っぷり可愛がってあげようと思って☆』
「――――――――と、言ってたんですが今日はランスの日だったみたいで」
「本当に良かったよ。いや本当に良かった。あとノアは後で話があるから裏まで来てくれ」
額を押さえて溜息を吐く浄さんは、なるほどいつもの飄々とした余裕ある態度ではない。むしろ本気の安堵を感じる。すでにQに何かしらのイタズラをされたのだろう、気の毒だと思いながらも「きょとん顔、見てみたいな」という意地の悪い気持ちになった。
「ね、ねえ!じゃあ僕を指名したいって人は誰?」
「ルーイさんです」
「戒………ちが、ルーイ!?」
ルーイさんはあからさまに、少し前のクリスマスの時から颯さんの名前を出すだけでそわそわしていた。僕はその一件を後日聞かされたのだけど、どうやら二人には色々―――――――本当に色々、あったそうで。
『あいつの働きぶりが見てえ。格好付けて、客に甘い言葉を囁いているあいつが見たい。』
『あと、いつでも会えるのにわざわざ金払って指名するってのも………趣味が悪くて、いいな。いっそ見せつけてやるか?他の客に』
「――――――――と、言ってたんですが今日はゲームの大会があるらしく手が離せなくて」
「ほ、ほんとに悪趣味………!ルーイのばか!」
颯さんは真っ赤になって顔を両手で押さえながら「ルーイの前で営業モードの僕でいられるわけないじゃん~~~~」と呻いている。いや本当にこの二人、何があったんだろう。颯さんのことを語る時のルーイさんからは、なんだか悪戯っぽい声色と――――――なんだか、独占欲とか、愛情だとか、色んな感情を感じたのだけど。深水くんならルーイさんの感情のひとつひとつを、ひも解いてくれるだろうか。
颯さんは真っ赤に、浄さんは絶妙に青ざめた顔でのたうちまわっている。そんな二人を見て宗雲さんは呆れたような、でも笑いを堪えたような息をひとつ吐き、「ノアさん」と僕を呼んだ。
「今宵は皇紀のご指名、ありがとうございます。只今料理を作っておりますので、奥の席にてお待ちください」
「あ、いきなり営業モード……」
「お待ちください。」
「はい………」
有無を言わせぬ笑みにたじろぎ、僕は奥の席へと向かった。途中には若い女性からマダムまで、様々な年齢層の女性が食事を楽しみ、お酒に舌鼓を打ち、意中のキャストの再来を待ちわびている。颯さんも浄さんも、落ち着いたらきっとこちらへ戻って完璧な笑みを魅せるのだろう。プロだなあ、と改めて思う。
「よいしょ、っと」
ふかふかのソファに座り、ぼんやりと外の景色を見つめる。夜の商業地区はひと際輝き、まるで宝石箱のように光を放っている。ビルにマンション、お店に街路樹のイルミネーション。あれらひとつひとつに人の手が掛かり、ひとの営みがある。何故だかそれを考えると、ただ美しいという感情を抱くには不適切なんじゃないかとも思えてくる。戴天さんならきっと、あの光たちを見てもう少し気の利いた言葉が出てくるのだろう。
「(…………見習わなきゃな………)」
「おい」
「うわっ!」
耳馴染みのする声が後ろから響いた。見れば皇紀さんが片手に料理を持って立っている。僕の目はおおいに輝き、お腹は音を立てた。
「皇紀さん!お待ちしておりました!」
「………そんなに食いたかったのかよ」
「それはもう。あのメッセージのやりとりをしてから、半日はそれで頑張れました」
「………そうかよ」
僕の前に、真っ白くて美しいお皿に乗った鹿肉のローストがお出しされる。穏やかな緑色のソースは山葵なのだろう、口の中に涎が溜まっていくのを感じる。
「い、いただきます………!」
「ああ」
銀に光るナイフで肉を一口大に切る。肉汁が白い皿の上に広がり、ソースに絡んでいく。少し冷ましてから、フォークに刺したそれを口に運んだ。
「……………っ……………」
美味しい。美味しすぎて泣けてくる。山葵と聞いて少し身構えたが、ツンとするほどの辛さはない。むしろ上品な辛味と爽やかさが心地よい。鹿もしつこくなく、ジビエ特有の獣臭さはどこへやら。さっぱりとしていながらボリューミーでもある、不思議な料理だった。
「………美味しい、です……!」
「………そうか」
「…………あれ?皇紀さん、厨房に戻らなくていいんですか?」
皇紀さんは立ったままじっと僕の咀嚼を見つめていた。が、ひとつ息を吐いて観念したように向かいのソファに座る。そうしてボトルに入った白ワインをグラスに注ぎ、僕に差し出した。
「肉と言えば赤だが、この鹿には白が合う。一緒に食え」
「ど……どうも……?」
皇紀さんは僕の問いには答えずに、己のグラスにも白ワインを注ぎ―――――――じ、と僕を見ながらグラスに口を付けている。
「…………指名」
「は、はい」
「指名、しただろうが。お前。食い終わるまでは、ここにいてやる」
「――――――――え、いいんですか!?」
僕は思っていたより大きな声を出してしまったらしい。皇紀さんは少しだけ目を大きく開いて、それから唇の端を少しだけ上げて「………ああ」と頷いた。
「――――――へへ、嬉しいです」
フォークが進む。皇紀さんは頬杖を付きながら、じっとこちらを見つめている。その視線を不快とは思わない。むしろ見守ってくれている気がして、なんだか胸の奥がじんわりと熱くなる。
「(…………幸せだ………)」
美味しい料理を好きな人が作ってくれている。これ以上の幸福があるだろうか。もちろん、これは営業であり高級ラウンジであることは充分に理解している。でも、しかし。それでも嬉しかった。
「……………そうだ、いっぱい食え。ただでさえお前は、貧弱な肉質なんだから―――――」
「む。僕だって最近は鍛えてるつもりなんですけど」
「俺からすればまだまだだな」
皇紀さんはくすくすと笑いながらワインを口に運ぶ。なんだか今日の皇紀さんはいつもより機嫌が良くて、アルコールが入っているからじゃ目元が少しだけ赤い。なんだか煽情的で、どきりとした。
「――――――――食え。そして。………俺好みの肉質になれ」
「!」
ごくん、とよく噛まないまま鹿を飲み込んでしまう。すぐに咽なかった僕は偉い。
「………好みの肉質になったら、食べてくれるんですか」
「そうだな、最高の状態でお前を喰うのが楽しみだ。……それと」
皇紀さんはすうと目を細めて――――――それで、囁くように言った。
「最高の状態のお前に、喰い尽くされたい」
「………………っ…………」
この人は本当に、……本当に、僕の三大欲求のふたつを刺激するのが上手い。
これが営業だとしたら大したもので、でも彼が他の三人みたいな営業をしない・できないというのもよく知っていることで――――――――
奥の、窓際の席。他のお客さんに、皇紀さんのこんな声を聞かれなくて良かった。こんな表情の皇紀さんを見られなくて良かった。……僕が、独り占めできて良かった。
「……………努力します」
「ああ。期待してるぜ――――――ノア」