今一度ーーー七海が術師になるってさ。
備品のありふれたオフィスチェアに、窮屈そうに身体を折り曲げて座る規格外の体格をした男は唐突に告げた。
なんの脈絡もなく発せられたそれは『明日の天気予報、雨だってさ』程度の軽々しいもので。昨日電話かかってきたんだ〜、なんて何の返事も待たずに続ける五条は、こっちの動揺に気付いていない筈がない。取るに足らないと思ったのか、気付かないフリをしているのか。
五条の性格からして恐らく前者だろう。口から落としかけた煙草を咥え直して、そのまま吸う気になれず、吸殻の溜まった灰皿に押し付ける。
「……マジか。」
「マジ。」
嬉スマホの着信履歴を見せ付けながら、持ち込んだ大福をつまみだす。老舗の大福が美味しいだけでないだろう。長年の付き合いだからこそ、五条の声がいつもの白々しく寒い演技などではなく、嬉々として弾んでいるのがわかった。
そして、その気持ちもわかる。
私だって高専を卒業して以来一度も顔を合わせたことのないたった一人の、一つ下の後輩と会えるのだから、五条の突拍子のない報告に驚きこそしたものの、今は喜びで溢れている。高専時代は一言では言い表せない、酸いも甘いも綯い交ぜになった青春を共に過ごしたのだ。何も感じないほど冷徹でも、無関心でも、荒んでもいない。
一般の出の七海からすれば、高専での出来事はさぞ辛かったであろう。卒業式の日の、苦悩から解放されたような、それでいて呪術界から立ち去ることへの罪悪感を滲ませた瞳が今なお脳裏に焼き付き離れない。
どんな心境で戻ってくることになったのだろうか。
心優しい七海のことだから、後ろ向きな理由ではないだろうけれども。今は無粋な詮索はよして、七海が呪術師になり、再び会えることを純粋に楽しみにするとしよう。無性に甘いものが食べたくなり、五条の腕に収まったパックから大福を掠めとって一口齧った。
七海の扱いは、高専を卒業しているから呪術師としての資格は有効。呪力の扱いに関しても問題無し。蠅頭程度なら触れれば祓えるし、3級相当の呪霊も素手で消し飛ばした。ただしブランクがあるとして、階級は4級。生徒同様、呪術実習のような形で監督付きで呪霊を祓うという。
まぁ、七海ならすぐ2級には上がるだろうね。とは五条談。進路のことさえ無ければ準一級の推薦も在学中に受けていただろう。
五条が目にかけていた呪術師が復帰する、と尾ヒレが付いた噂は高専のみにとどまらず、呪術界にまで広まった。浮かれた五条本人がアレコレ場所も人も問わず話すものだから、現場は相当期待と不安で入り交じっていただろう。高専内は常に妙な雰囲気に包まれていた。
そうして迎えた、七海が高専を訪れる当日。
社会人経験を積んだからだろうか、七海はその日、各所へと菓子折りを持って挨拶回りをした。その対応が良かったのだろう。マトモな人だっただの、常識人だの、カッコイイだの、医務室を訪れる人や廊下から聞こえてきた。大方、五条の知り合いということで、似たような奴が来るんじゃないかという予想が良い意味で裏切られたからだろうが、好印象を持たれているのは私の鼻も高くなる。
今日は治療に来る人数が少なかった。そろそろひと休憩入れるかと肘掛に手をかけたところで、医務室の扉がノックされる。どうぞ、と声をかけるとゆっくりとドアノブが回され、長身の男が入ってくる。後ろ手に扉を閉じた、ブロンドを七三に分けた男。記憶にある姿から随分と骨が太くなった。想像よりも男らしくなっていたそいつは、質の良さそうな革靴で規則正しく床を鳴らしながら目の前までやってくる。
「お久しぶりです、家入さん。」
「久しぶり。……誰かと思ったぞ。」
「それ、五条さんにも夜蛾校長にも、伊地知くんにも言われました。」
若干不服、と言った様子の七海には失礼だが、五条達の言い分はよく分かる。数年ぶりに見る後輩は、元々整っていて日本離れした顔をしていたが、歳を重ね、堀が深くなって顔付きが変わった。成長期だったこともあり、華奢な印象だった身体も骨が太く男らしくなった。会社員だったからか、逞しいよりも背が伸びて大人になった、という方がしっくりくる。
「挨拶回りは疲れたか?」
顔に浮かぶ疲労と、うっすら残っている目の下の隈を見付けて声を掛ければ、七海は眉を下げて苦々しく笑う。
「挨拶はそれほどでも。前の職場を辞めるのに一悶着ありまして。」
「はは、ひきとめられたか。」
「えぇ、まぁ。」
賢い七海のことだから、社会でも上手くやれていたのだろう。無事そうな様子にひと安心する。
「家入さんにはこういったものの方が喜ぶと思いまして。口に合うといいのですが。」
軽く近況を話した後、七海が持っていた紙袋を差し出す。縦長の紙袋に、中身への期待が高まる。ありがたく受け取って、七海に悪いとは思いつつ、早速紙袋から覗く瓶を取り出す。中々値の張る日本酒に、自然と笑みが浮かぶ。
「気が利くな。今夜開けさせてもらう。」
「喜んでもらえて良かったです。家入さん、また、お世話になります。」
深々と、七海は腰を直角に曲げて頭を下げる。さらり。耳にかかった髪がさらりと動きに合わせて落ちる。
ブロンドの髪と大きな背広を見下ろしながら、その言葉に、後頭部をガツンと鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
そうだ、七海は呪術師になったんだ。お世話になります、は新しい職場、同僚への挨拶としては常套句。
でも、七海と私の関係では大きく意味が変わる。七海が私の世話になるときは、任務で怪我をしたときだ。呪霊を相手に戦い、怪我を治しにここにくる。軽傷でも呪霊からの攻撃を受ければ一大事になるから、必ずここにくるようになっている。軽傷ならいい。等級が上がれば危険度も増し、怪我の頻度も度合いも変わってくる。
いなくなったはずの一つ下の後輩が戻ってきた。
私の世話になることは、危険な目に合うということ。
死と隣り合わせのこの場所に戻ってきた七海が、またいなくなるかもしれない。その事実に気付き、紙袋を持つ手が震える。
「まだ挨拶が終わっていないので、そろそろ失礼しますね。」
頭を上げた七海は、一言詫びを口にして踵を翻す。廊下から足音が聞こえなくなるまで、医務室の扉から視線を外すことができなかった。
あんなにも再会を楽しみにしていたと言うのに、気分は一気に急降下してしまった。また、七海がいなくなる、七海を失うかもしれない。目を手のひらで覆い、天を仰ぐ。
「……頼むから、私に世話をさせないでくれ。」