においまるで雨上がりのけもの道にいるようなにおいが充満している。『匂い』というより『臭い』と書きたくなるにおい。
「ねぇ、それ臭くないの?」
カナヲの問いかけに庭先のアオイは手を止めた。アオイがかがみ込んでいる洗い桶の中では伊之助の猪頭が水を吸ってしょんぼりしている。
「臭くないけど」
縁側に座るカナヲに答えるとアオイはまた手を動かし始めた。カナヲの隣には禰豆子もいるのだが禰󠄀豆子には目もくれない。
秋分まであと数日となり、空もだいぶ高くなっている。けれど、今日も暑い。
雨の中休みといった晴れ模様の今日は、これぞ洗濯日和という一日だった。
カナヲは「ふーん」とあまり納得はしていないようだったが、アオイは気にもとめずせっせと洗濯を続けていた。
伊之助の猪頭。元々は獣の一部で、それがさらに人の汗を吸って、時間が経っている。匂わない方がおかしいとカナヲは思うのだが、アオイは全く気にしていないようだった。
アオイは、目の前の仕事を早く終わらせたかった。臭いからではない。猪頭は乾くのに時間がかかる。明日も晴れそうだが、日に日に涼しさを増していて、乾くのには時間がかかるようになっている。一刻も早く終わらせて干してしまいたい。
「そうだ。匂いと言えば……禰󠄀豆子ちゃん、炭治郎って何食べてるの?」
アオイの作業を見ていた禰󠄀豆子は、突飛なことを言い出したカナヲを見て目をぱちぱちと瞬かせた。首を傾げるだけに留まらず眉間にも皺が入ってしまう。
アオイに臭くないのかと訊いていたくらいだ。もしかしたら兄のことが臭くて堪らないのかもしれない。自分が気づいていないだけで、強烈な匂いを放っていて周囲を不快にさせているのかもしれない。
雨の日以外は風呂に入っているし、雨の日は身体を拭いている。大蒜は最近口にしていないし、これと言って特別変なものを食べたりはしていない。毎食自分も同じものを食べ、日常生活も同じことを考えれば、兄が臭うのなら私も臭っているのかもしれないと禰豆子は思って、肩や袖にくんくんと鼻を擦った。自分ではわからない。
「お兄ちゃん……臭う?」
「まさか!まさか!臭うだなんて一回も思ったことないよ。……その逆。いつもね、炭治郎から甘い匂いがするから、何を食べたらああなるのかなって思ってたの」
禰󠄀豆子は肩を撫で下ろした。
「あーよかったー。てっきり臭うのかと思っちゃった。……うーん、お兄ちゃん、甘いものはそんなに食べてないかなぁ?食べてる物は、私と同じだし……甘いものなら善逸さんが一番食べてるけど、善逸さんよりも甘い匂いがするの?」
「善逸?」
今度はカナヲが訝しげに眉間に皺を寄せた。
お、俺
二間向こうから自分の名前が聞こえてきて、善逸は饅頭を口に運んでいる手を止めた。目を閉じて耳を澄ますと、きゃいきゃいと話す女子たちの会話に自分が出てきているのがハッキリと聞こえる。
──善逸は普通でしょ
──餡子つけたまましゃべってるんじゃないですか?
二人ともひどくない⁈特にアオイちゃん!流石の俺でも餡子つけたままなんて、そんな汚いことは、……たぶん、してない。
絶対してないと断言できないのが悲しいが。
禰󠄀豆子の援護射撃をしたいところだが、割って入ったら盗み聞きしてたのがバレてしまう。
──餡子の匂いとは違うんだよねぇ。お菓子ともお花とも違うんだけど……甘いの。善逸さんの匂い
ひゃあああ!禰󠄀豆子ちゃん!俺って、そうなの⁈甘いの⁈花を求めて飛ぶ蝶々は俺の方だと思ってたけど‼︎
──善逸さんは普通ね。可もなく不可もなく。私からすると炭治郎さんもだけど
アオイはピシャリと言い放った。
目の前にいる炭治郎が話題に出て、善逸はつい炭治郎の顔をじっと見てしまった。
いつもなら頬袋いっぱいに饅頭を口に放り込んでいる善逸が、菓子を食べる手を止めているのだ。それに加えて、じっと見つめられたら、誰だって異変に気づく。
「善逸?どうしたんだ?腹でも痛いのか?布団出して横になるか?」
言うや否や布団を取りに立ち上がった炭治郎に善逸は縋りついた。
ここは蝶屋敷だ。布団を借りるならアオイかカナヲに声をかける必要があるが、下手にいま出ていっては、気になる会話の続きが聞こえない。善逸はぶんぶんと首を振り、目で訴えかけた。炭治郎ならわかってくれるはずだ。
できれば盗み聞きは女子側に露呈せぬまま完了させたい。バレては元も子もないのだ。善逸は目を血走らせて縁側の方をアピールした。あまりの懸命さに、これは只事ではないと炭治郎はもう一度腰を下ろした。
「どうしたんだ善逸」
「しぃーー!」
口の前にあった人差し指で、ちょいちょいと手招きすると炭治郎が耳を寄せた。カランと耳飾りが揺れる。善逸は聞こえるかどうかぎりぎりの小さな声で呟いた。
「カナヲちゃんが。炭治郎の話、してるの」
炭治郎の耳が、自分の目の前で赤く染まっていくのを見て、善逸は引き留めたのは正解だったとニヤニヤと笑った。
「カナヲちゃん、炭治郎から甘い匂いがして、食べちゃいたいって」
「‼︎」
幾分、会話を盛っているが、真偽のほどは炭治郎にはわからない。
「た、食べちゃいたいって、ど、ど、どういうことだ⁈」
たらりと炭治郎の鼻から流れる鮮血。
「しぃーー!声が大きい!……そのまんまの意味だよ」
「い、い、意味が、わからないぞ!カナヲがそんなこと、言うはずがないだろう!」
「あーもう!ちょっと静かにして、話が続いてる」
──えぇーー!炭治郎から甘い匂いしない⁇アオイならわかってくれると思ったのにな……
「アオイちゃんは、炭治郎から甘い匂いしないみたい」
善逸がアオイのことを口にして、今度は伊之助がそばに寄ってきた。饅頭は頬張ったまま、咀嚼しながら声のする方を見つめている。声は聞こえるが何を話しているかまでは聞こえてこないのがもどかしいのだろう。
縁側ではなく隣の部屋に続く襖を一瞥すると、行くぞ、と伊之助が目配せした。もう二人も頷くとそれに続いた。音を立てずに障子を開けると匍匐前進で隣の八畳間へ進んだ。この部屋なら、縁側に座る二人の背後に回れる。隔てるものは障子一枚のみ。外の方が明るい時分だ。影が映ってバレることもない。
「私の気のせいか……。それにしても、アオイ、それが臭わないなんて、びっくりよ」
眉間に皺をよせたままカナヲは猪頭を指差した。禰󠄀豆子は同意を求められて苦笑いをした。たとえ、臭いと思っていても、禰󠄀豆子の口からは言いにくい。
「禰󠄀豆子さんも、これ、苦手ですか?」
ポタポタと水を滴らせた猪頭と目が合う。濯ぎも終えてあとは干すばかりだった。
「うーん……臭うとは思わないけど、好きな匂いかって訊かれると違うかなぁ?」
「そうですか」
「ねぇ、善逸の匂いだけ甘いの?」
「うん。甘いって言うのがいいのかわからないけど、ふわっと香った後にもう一回そばに来てくれないかなぁって思うの。近くに行って嗅ぎたくなっちゃったり」
禰󠄀豆子はきゃっと両手で頬を隠すと首をすくめた。
障子の裏では善逸がゴロゴロともんどりを打っていた。禰󠄀豆子からそんな風に思われていたなんて初耳だ。今すぐこの障子を開け、「さぁ!好きなだけ嗅いで!」と叫びたい。
「もしかしてカナヲちゃんのも同じかも?」
「そうでしょうね。炭治郎さんにだけそう感じるなら」
矛先が自分に向いたのを逸らそうとカナヲはアオイに振った。
「そ、そういうアオイはどうなのよ?アオイにとっては炭治郎も善逸も普通なのはわかった。じゃあ伊之助は?それを臭くないと思ってるのはアオイくらいよ?」
アオイに抱えられてらいる猪頭に意思はないはずだが返事を待ってソワソワしているようにみえる。障子の裏にいる伊之助も然り。
「……嫌いじゃ、ないけど……」
もごもごと口篭っている。天邪鬼なアオイの「嫌いじゃない」は言葉以上に重い意味を持つ。少しでも嫌なところがあれば嫌いだとはっきり言うし、なんとも思っていなければ普通と答えればいいのだ。けれど、いま口にしたのは「嫌いじゃない」。
伊之助は空気を読まず障子をスパーンと開け放った。
「」
「こ、こら!伊之助!!」
話題にしていた相手と目が合う。
仁王立ちした伊之助と猪頭を抱えたアオイ。
畳に転がっている善逸と頬を隠したまま振り返った禰󠄀豆子。
半畳もない距離で見つめあう炭治郎とカナヲ。
ここに至るまで、わずか一秒。
脳内で情報が結びつく。
聞かれてたと思う者、バレたと慌てる者。
一番に動き出したのはカナヲだった。その場から一目散に走り出した。
(目が合った炭治郎には鼻血のあとがあった。饅頭で鼻血なんか出ない。きっと最初から聞かれていたんだ。恥ずかしい!穴があったら入りたい!)
隊士であった脚力は健在でカナヲは目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。
「カッ、カナヲ!」
追いかけるは炭治郎。誘われたからと言って一緒に盗み聞きすることはなかった。後悔が押し寄せる。追いかけるも、一向に距離は縮まらない。もう蝶屋敷の端まで来てしまった。腕を振って走れれば追いつけるのに。
使えぬ腕が仇となった。
「うわっ」
敷居につまづきバランスを崩した炭治郎は使えぬ腕の方から体勢を崩した。このままでは地面に顔を強打してしまう。
「!」
声に驚いて振り返ったカナヲはよろけた炭治郎を見て、名前を叫んだつもりだった。声にならなかった音をその場に置いて、炭治郎に駆け寄った。
間一髪、倒れ込む炭治郎の下に潜り込んだ。肩にずしりと重みがかかる。
「カナヲ、すまない」
とん、とその場に尻もちをつく。胡座をかくように座り直した炭治郎の顔を、膝をついて覗き込むカナヲがいた。
「大丈夫?……ごめん。私が走ったりしたから……」
「いや、謝るのは俺の方だよ、あんな風に聞かれてたら俺だって、同じようにしたよ。ごめんな」
頭を下げた炭治郎に、カナヲは何も言えずにいた。
聞いたことは全部忘れて欲しいし、聞いたことには触れないでほしい。でも、上手く伝えられる言葉が見つからない。
炭治郎の穏やかな眼差しにホッとしていると、その目にぐっと力がこもった。ガシッと両手を包むように握られていてカナヲはたじろいだ。
「嬉しかったから!ありがとう!カナヲ!」
きらきらと輝く瞳には一点の曇りもなかった。
「食べちゃいたいっていうのがよく分からないが、俺もカナヲの匂いは好きだ!そこに花が咲いているようで好きだ!自分が蝶になったような気持ちになることもある!」
鼻のきく炭治郎相手に匂いの話をされるのは、服を着ていないくらい恥ずかしい。
「……だ、だから!」
真っ赤になった炭治郎の瞳孔が開いているのがわかる。意を決して何かを伝えようとしてくれている。
「だから?」
「カナヲが嫌じゃなければ、その、ここへ来た時とか、遊びに来てくれた時とか、そういう時はそばにいたいし、そばにいてほしい」
「そばってどれくらい?これくらい?」
カナヲはずいっと身を乗り出した。ふわっと漂う花の香。カナヲが炭治郎の匂いだとわかる距離は体のどこかが触れるほどの近さだ。
(近い!近過ぎる!)
炭治郎は鼻の奥でまた鉄の匂いがするのを自覚した。垂れてはいないが、本日二度目の鼻血だ。毎回これでは身が持たない。
「も、もう少し遠くに頼む。……でも、少しづつ距離は縮めて、時間も長くはしていきたい。俺の勝手な言い分だけども……」
「いいよ。じゃあこれくらいから始める?」
そう言うと正座は崩さずに一歩分後退りした。
これさえも遠く感じるようになった自分は随分と欲張りになったものだと炭治郎は思った。近過ぎるのは困ると言った手前、今度は遠いからもっと寄ってくれとは言いづらい。
「ん、ま、まぁそうだな」
目が泳いでいるのをカナヲが見逃すはずがなかった。
「これも近過ぎる?もう少し下がる?」
もう一歩分下がれるか後ろを振り返った。
これ以上遠くなってしまったら、距離を縮めることにも時間がかかってしまう。そんな悠長なことを言っている暇はない。
鼻血は呼吸で止めればいい。今はカナヲの匂いに包まれたい。
炭治郎は咄嗟にカナヲの腕を掴むと、自分の元に引き寄せていた。腕の中のカナヲは想像以上に柔らかかった。鼻先で香るは髪から香る芳しい匂い。
「炭治郎?」
「やっぱりこの距離から始めてもいいだろうか?」
カナヲは炭治郎の背に腕を回すと、ぎゅうと抱きしめた。カナヲも炭治郎に倣って腕を回した。これは返事の代わりだ。
すぅっと息を吸って、鼻腔をくすぐるのは愛しい人の匂い。
どきどきするのに、どこか懐かしくて、甘くて、優しい、匂い。
「……やっぱり、甘い」
伊之助はカナヲが座っていた縁側の端までくると、しゃがんでアオイと目の高さを揃えた。
「『嫌いじゃないけど』、何だ?」
聞かれていた上に、濁した文末を問いただされるとは思ってもみなかった。驚き過ぎて猪頭をぽろっと落としそうになる。猪頭は滑り込んだ伊之助が受け止めた。「せっかく洗ったのに何すんだよ」と機嫌が悪い。
アオイの真正面に立つと伊之助はもう一度訊いた。
「で、嫌いじゃないけど、何だよ?『ないけど』って言うなら、それに続く言葉があんだろ?」
ただでさえ綺麗な瞳に、力強さまで加わってアオイは怯んだ。でも、ここで思いを全て言ってしまったら、自分の負けを認めるような気がしてしまう。
「……言いたくありません」
「ハァ?」
険悪なムードになっている庭の二人の心の機微を捉えて、禰󠄀豆子は転がっている善逸の肩をトントンと叩いて必死に屋敷の奥を指差した。禰󠄀豆子の誘いを無碍にする善逸は善逸でない。阿吽の呼吸で頷くと、禰󠄀豆子の手を引いてその場から去っていった。
二人がいなくなったのも気付かぬまま、伊之助とアオイは押し問答を続けていた。
「と、とにかく!私はこれを干しますので!」
伊之助の手に乗っているだけの猪頭を取ると踵を返した。物干し台の柱部分のてっぺんにこれをはめて、日の当たる面を1時間おきに変えていきたいのだ。
「アオコ一人じゃ届かねぇだろ?」
「大丈夫です!」
と、言い切ったものの、物干し台の頂点へはアオイ一人では届かなかった。
立ち尽くすアオイの横で、ほら見ろ、言った通りじゃねぇかと伊之助が呟いた。
「梯子を忘れてました!……って、伊之助さん⁇」
気づけば伊之助がしゃがみ込んでいた。蟻でも見つけたのかと思ったがそうではないらしい。
「ほれ」
ちょいちょいと人差し指で自分の背中を指している。
「な、なに?」
「乗れ」
「え?」
「届かねぇんだろ?梯子じゃ片手しか自由にならねぇ。肩車なら両手が使えんぞ?」
「……でも」
「あー!もう!いいから肩幅に足開け!下から持ち上げてやる。いいか、それ、落とすんじゃねぇぞ」
言うや否やアオイの足の間に頭を入れ込むと、膝を抑えて立ち上がった。不安定な居心地で重心の置き場に困る。後ろに倒れてしまっては後頭部が危ない。猪頭からも手が離せない。フラフラしているのはアオイだけで、踏ん張っている伊之助は体幹そのままに、びくともしていなかった。恥ずかしがっていないで、やや前のめりに体重をかければいいのだとわかるとぐらつきもおさまった。
アオイは腕を伸ばすだけでよかった。洗った猪頭を柱頭に被せると、下の伊之助に合図を出した。いつもの自分より遥かに高い視点は遠くまで見渡せて気持ちがいいが、自分の足で立っていないというのは心許ない。
あっという間に下ろされると、今度は名残惜しさが勝った。年齢的にこれ以上背が伸びることもないだろうから、自力であの高さになることはない。
いつぞやの思い出を噛み締めるようにアオイは物干しを見上げたままでいた。
「肩車、好きなのか?」
ぼぅっとし過ぎた。ハッと我に帰るとアオイはいつもの調子に戻った。
「嫌いじゃないです」
ふん、と聞こえそうな勢いで髪を振ると、たらいの片付けを始めた。
伊之助は落ちている小枝を拾うと、その場に「きらい ふつう すき」と並べて書いた。
「おい」
「なんですか」
たらいをひっくり返しながらの答えは水の音に半分かき消されていた。
「さっきから『嫌いじゃない』ばっかだけどよ、おめーの嫌いじゃないってのはどこだよ。嫌いじゃないってのはこういうことだろ?」
伊之助は話しながら、「きらい」と「ふつう」の間に線を引いた。「きらい」に触れそうな程ギリギリに線がある。そこからぐるっと、円を描いた。「すき」と「ふつう」が線で囲われて、線の外に仲間はずれの「きらい」がある。好きから嫌いのギリギリ手前までとは、嫌いじゃないの包括する意味が何とも広い。この曖昧な感じが、伊之助にはむず痒かった。
「そうですよ。その通りです」
何か文句でもあります?と聞こえてきそうな眉間の皺に伊之助は腹が立ってきた。
「めんどくせぇ」
そうでしょう、そうでしょうとも、とは口にせずアオイは「もういいですか?」と棘が残る言い方で背を向けた。
「俺は、これだな」
「何が……な、な、な、何が⁈」
最初の「何が」で振り返り、同じ言葉を繰り返したアオイの顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。まだ日は高く、夕焼けを受けたわけでもないのに赤い。アオイが見つめる先には、小枝で指された「すき」の文字。
「な、何が!」
動揺が隠せない。アオイは三度同じ言葉を放った。
「白いメシに天ぷらに饅頭」
小枝を楊枝のように口に咥えると、伊之助は頭の後ろで手を組んだ。
拍子抜けする答えにアオイの心は割れてガラガラと音を立てて奈落に落ちていった。期待した自分が馬鹿を見た気がする。アオイは動揺を隠そうと冷静を装った。
「あ、あーー。そうですね……そうでしたね!よく存じています」
「と、アオイ」
「⁈」
驚きすぎると声も出ない。不意打ち過ぎてアオイは固まった。アオコ、アオコと名前も碌に覚えてもらえていないと思っていたのに。好きなものを列挙した最後に自分の名前を聞くとは思わなかった。治りかけた顔の赤みが一瞬で戻る。狙いはご飯でしょう⁈と言える余裕も吹き飛んでしまった。
「あー、こういう時に使うのか?『嫌いじゃない』って。メシ作ってる後ろ姿も、掃除してる横顔も、嫌いじゃねぇな。一番は……こう一仕事終えた後の顔とか匂いとか……って、何だよ、その顔。使い方、間違えてねぇだろ?」
ぼぼっと顔から火が出そうになってアオイは頬を隠した。
自分でも素直じゃないことはわかっていた。好きだと堂々と言えればいいのだが、それはどうにも性に合わない。本で知った「嫌いじゃない」の便利な使い方を自分に合わせた。だから、伊之助が自分と同じように「嫌いじゃない」を使って恥ずかしくてたまらなくなった。今さら用法を間違えていますとも言いづらい。
「その使い方は間違ってはいませんが、誤解を招きかねませんので、他の方には使わない方がいいかと」
「じゃ、センヨウだな。アオコにしか言わねぇ。なんか合言葉みたいだな」
にぃっと白い歯を見せて伊之助は笑った。
「そうですね」
すん、とアオイに平静が戻った。うまく切り抜けた。後はみんなが戻ってくるのを待てばいい。
「なぁ、アオコ」
「何ですか?」
「俺、おめーのこと、めちゃくちゃ嫌いじゃないわ!」
「なっ!だ、だからそれは!」
「おめーは?俺のことどう思ってんだよ?今まで聞いたことがねぇ」
伊之助はわくわくした目でアオイの答えを待っていた。アオイはスカートをぎゅっと握り、俯いたまま小さな声で呟いた。
「嫌いじゃ、ないです。全部」
満面の笑みの伊之助がアオイを抱きしめると、蝶の飾りのそのすぐそばで鼻から大きく息を吸った。
「俺は好きだ。全部」
「……善逸さん、そろそろ戻らないと……」
蝶屋敷の二階の奥の部屋。閉じられたカーテンの隙間から漏れる陽の光が、層になった埃を照らしている。かつて禰󠄀豆子の箱が置かれていた部屋だ。二人はドアのすぐ横、禰豆子は善逸に抱きしめられてすっぽり隠れてしまった。長い髪が見えなければ、そこにはあたかも善逸一人しかいないように見える。善逸の肩口からかろうじて覗いている耳とうなじがほんのりと赤い。
「やだ」
禰󠄀豆子は身をよじってみせるがびくともしない。一度決めたら梃子でも動かぬ頑固なところがあるのはわかっていた。今日もそのパターンだ。
「炭治郎たちは帰ってきてないし、伊之助たちはまだ話の途中だよ」
だから戻っても意味がない。伊之助たちの邪魔をするだけだよ、と。
「嫌なら離すよ?」
低い声を拾った禰󠄀豆子の耳たぶがさらに朱に染まる。
この部屋に潜り込んだ時には「禰󠄀豆子ちゃん俺の匂い好きなの?!俺も禰󠄀豆子ちゃんの匂い大好き!今日はいっぱい嗅ぎ合う?!」なんて鼻息荒く言っていて、「さぁ!いっぱい嗅いで!!」と両手を広げて禰豆子が飛び込んでくるのを待っていた。
縁側の会話を聞かれた以上は、我慢せずに飛び込めばいいのか。それともはぐらかしたほうがいいのか。禰󠄀豆子が躊躇している間に、待ちきれなくなった善逸に手首を引かれると抱きすくめられてしまった。
首元ですぅぅぅっと胸いっぱいに息を吸われて、禰󠄀豆子は恥ずかしさで身を固くした。
「私、汗かいてるから……」
と言っても善逸にはどこ吹く風だった。
「それがいいんじゃないの!」
もう何を言っても、簡単には離してもらえなさそうだ。観念した禰󠄀豆子はそのまま身を任せた。
禰豆子が自分に身を預けてくれたことで、善逸の騒がしさは身を潜めていった。代わりに年上の余裕を感じさせる落ち着いた善逸が現れてきた。少し強引で意地悪で、禰豆子の余裕を奪っていく善逸だ。
嫌なら離すよ?と言ったが、禰豆子から嫌がっている音が聞こえないのはよくわかっていた。
沈黙が流れて、お互いの心音が聞こえるほどの静寂に包まれている。耳を澄ませば遠くで伊之助とアオイが言い合う声がするが、これは善逸にしか聞こえていない。
禰豆子は自分の鼻が善逸の服に埋もれて、息を吸う度にどこか甘い匂いが自分の中に入ってくることに、言葉にできない安心をおぼえた。
無理にでも言葉にするなら、温かくて、甘くて、優しくて。
懐かしいわけじゃないのに落ち着く匂い。
さみしい夜にそばにいてくれたら、安心して眠れそうな。
(好きだなぁ……この匂い)
押入れを開けて、家族の匂いがすれば懐かしいし、蝶屋敷に来れば花の匂いがして楽しい時間の始まりだと心が踊る。しかし、そのどれとも違う。アオイもカナヲも普通だと言っていた善逸の匂い。
いま胸いっぱい吸たこの匂いだけは特別な気がしている。
禰󠄀豆子は善逸の背に腕を回した。
中毒性のある甘い匂い。他の女の子には気づいてほしくはない。
これを知ったらきっとみんな恋しちゃうから。
このたんぽぽの蜜を知る蝶々は私だけがいいな、とさえ思う。
「伊之助たち、話し終わったみたいだけど、戻る?」
禰󠄀豆子が見上げると、蜂蜜色の瞳が愛おしそうに禰󠄀豆子を包んでいた。
「やだ。もう少しだけ」
おしまい