真夜中のペリドット ー第一印象はどうでした?
「覚えとらん」
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組長である零の右腕として動き回ることの多い簓ではあるが、その日は珍しく穏やかな日で柔らかな日が差し込むリビングのソファでうたた寝をしていた。他のところがどうだかはしらないが、仕事さえきっちりこなせば零は間抜けな寝顔晒しても何も言わない。
「俺の肉まんっ! んあっ?!」
「寝ても元気な奴だな」
飛び起きた簓に煙草を燻らせていた零が低く笑う。
だが、零の視線は手元のスマートフォンに向いたままだ。これは何か急な仕事でも入るのではなかろうかと少しずり落ちた姿勢を正した。
「何かありました?」
「簓」
「はい」
ゆるりと向けられた視線に思考回路を巡らす。
昨日までの案件は後処理も後ぐされなく終えたはず。気になることがあるとすれば川向こうで薬が出回っている噂があるぐらいだが、今のところ噂の域を出てはいない。
「部屋空いてたよな」
「……は?」
「部屋だよ、部屋」
「部屋? 俺の家の?」
一体どんな問題が発生したのかと巡らしていた思考は零の言葉に一気に弾け飛ぶ。
「空いてますけど……」
「鍵はついてんのか」
「ついとる……え、何?! 俺の家がなんなん?!」
この家も広く、盧笙を含め何人かが住んではいるが、簓自身は別に住まいを借りている。セキュリティを考えた結果、一人で住まうようなところではなくなったが、家賃に困窮することもなく良しとした家。寝に帰るのが基本で趣味もなければリビングと寝室以外は空き部屋となっている。
「ナゴヤのじいさんの孫娘預かることになった」
「はぁ」
「ここに住んでもいいと思ったが、どうやら事情があるらしい」
「それで俺の家に?」
「そうだ。必要経費はこれで足りない分は請求しろ」
どうやら簓に拒否権はないらしい。財布から取り出された諭吉を握らされる。
必要経費とはいうが、何がいるのだろうか。着替え程度は持ってくるだろう。クローゼットのついた部屋も余っていたような気がするから箪笥などは必要はなさそうだ。ならばベッドくらいか。それならホームセンターあたりに行って見繕えばいい。
「いつから預かるん?」
「今日だ」
「今日?!」
「今、盧笙が迎えに行ってる」
「通りで見かけんと思ったわ……」
簓と同じくして零の右腕たる盧笙。仕事がなく自室に引っ込んでいるだけだと思っていたが、あの盧笙が零がこの家にいて自室に引っ込むわけがないのだ。
考えれば分かるだろうことに気付かなかったということは、まだまだ自分が疲れているということか。肝心の時に使えないなどということがないようにしておきたいところだが、それは叶わない。
「ホンマに何もないんやけど」
「だから渡しただろ」
「こういうのは予め準備しといた方がええやろ」
「どうだろうな。あの年頃は好みでないものを使いたがらなさそうだ」
「……じいさんの孫娘言うたよな」
「あぁ」
「いくつやったっけ?」
「十七だ」
ぴたり、と自分の身体が固まったのを他人事のように感じた。
十七ということは六歳年下の、それも女の子。いうなれば女子高生だ。手を出しはしないが、手を出せば捕まるのは簓になるような子とこれから共に暮らすというのか。
「向こうは俺の家に住むこと知ってんの?」
「知っている」
「正気か?!」
「部下が信頼されていて俺は嬉しいねぇ」
にぃと唇に弧を描かせた零にため息を飲み込む。何を言っても決定事項が覆ることはない。
「ただいま戻りました」
「おう、おかえり。休みのとこ悪かったな」
タイミングを見計らったように帰ってきた盧笙の後ろから顔を覗かせた少女。彼女が件の孫娘だろう。零と簓に視線を向けた後、すっと頭を下げた。
「お世話になります」
「あぁ、といっても聞いてはいると思うがお前さんが住むのはここじゃなくて、こいつの家になる」
「聞いてます」
「あー、えっと、初めまして。白膠木簓です」
「……波羅夷空却です」
簓が声をかけた途端、空却は眉を寄せ表情を歪めた。他人の機微を見逃しては仕事にならない簓だからこそ見逃さなかったほどのほんの一瞬の話だ。話をしていた零と盧笙は気付いていない。
「簓」
「なに?」
「帰りに布団やら買いに行くんやったら送るけど」
「あー、せやな。頼むわ」
盧笙に声を掛けられて外した視線を向けた時には、飄々とした顔をしていた。
表情の意味を問うタイミングを逃したと思ったが、わざわざ詮索することもないことだ。空却が敵か味方か判断を迷うなら兎も角、ナゴヤの人間がわざわざ零に喧嘩を仕掛けるような真似はしないだろう。元々西の人間ではないのに、今や名を知らぬ者が居なくなったような男を敵に回すことなどただ自分の首を絞めるだけだ。
手に握ったままだったお金を財布へと仕舞い、立ち上がる。仕事がないのなら帰っても問題ないだろうし、何より今や空却のことが簓にとっての仕事と言えよう。
「ほな、行こか」
こくりと頷いた空却と共に家を後にした。
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「ホンマにベッドにせんでよかったん?」
「家でも布団だったんで」
帰りがけによったホームセンターで空却がいると言ったのはローテーブルと本棚だけだった。零が必要経費は出すといっているのだから、遠慮しなくてもいいとは言ったが、空却はそれ以上を欲しがらなかった。
車と部屋を二度往復するだけで増えた家具程度ではまだ殺風景さを拭えない。赤と橙のストライプ柄のカーテンが掛かる窓付近だけが唯一部屋を華やかにしている。
「増やしたいもんができたら言うて」
「分かりました」
「知らん男の家に住むことになって不安やと思うんやけど、この部屋は鍵かかるし、俺は入らんようにするし、風呂とかは…何か対策考えとくわ」
「……白膠木さんは」
「簓でええよ。敬語とかも使わんでも。…あ、俺使うた方が良かったんか」
「別にいいよ。簓は嫌じゃないの?」
「何が?」
「折角の広い部屋に一人暮らししてたとこに、知らないやつが住むようになって」
「折角言うても、セキュリティとか考えただけやし、この家には寝泊まりにしか使うとらんも同然やから別に気にしとらんよ」
休みでも今日のように組の方へ行っていることが多い簓にとってこの家は眠るだけの部屋でしかない。部屋としても使われる方が本望だろう。
気にすることはないという簓にやはり空却は一瞬表情を曇らせる。
「……わかった。改めて、お世話になります」
空却が住むようになったといえど、簓の生活は変わらない。引き出しに仕舞い込んでいた合鍵を渡せば簓がいなくとも空却は部屋に出入り出来る。これが普通のマンションならばもう少し気にかけてやるべきだと誰かが言ったかもしれないが、簓の部屋では誰も何も言わない。
最も簓に意見出来る者もそういないということもあったかもしれない。
「ただいま」
どっぷりと日も暮れて、日付を回ろうとする時間に簓はようやく帰宅した。玄関ポーチの隅にぽつんと置かれた靴に一瞬帰宅で緩んだ頭が引き締まるも、すぐに空却のものだと気付いて小さく息を吐き出した。
気にすることはないとはいったが、久しく人と暮らしておらず、それどころか命を狙われるのも珍しくない立場になってしまい、プライベートの空間に自分以外の人間がいると緊張する。
空却の態度に時折気になるところがあるのもその原因の一端かもしれない。だが、空却が簓の命を狙うとも思えないし、そもそもそういうものではない。では何かといわれても答えが出ずに一人考え込む羽目になっていた。
空却に聞こうとも簓が帰宅するような時間には既に寝ており、そういえば出会った日からまともに会話をしていないことも今更気付くような事態だ。これ以上は何を考えても堂々巡り。さっさと酒飲んで寝てしまおうと冷蔵庫を開けた手がぴたりと止まる。
「……なんこれ」
いや、何かは分かるのだ。酒のためにあるような冷蔵庫の正面にぽつんと置かれた皿には見覚えがある。零が引越し祝いだなんだといってくれたものだ。使うこともなく仕舞われていた皿にはパスタが盛られてラップが掛けられていた。
確かに冷蔵庫の中身がないから買い足していいかという連絡はもらっていた。好きに使ってと返した記憶もある。簓は家で食べることが殆どないからすっかり頭から抜けていたなぁと笑っていたら、盧笙に呆れられた。
簓の生活スタイルは分かっているだろうし、てっきり空却一人が食べるためのものだと思っていたのだ。だが、空却は簓のためにも用意した。用意してくれたものは食べなければ申し訳ない。食べ物を粗末にする趣味はない。
電子レンジに放り込み、出来上がるのを待つ間、本来の目的である缶ビールのプルタブを持ち上げる。
空却に悪意はないと分かっているからだろうか。組での食事のようにその場にいる人間のためにではなく、簓のために用意された食事に少しだけ浮かれている自分に、小さく笑って、そういえばフォークはこの家にあったのだろうかとキッチンを探った。
「おんなじ麺やんかっ……、あれ?」
「おはよう」
「はよぉ」
丁度夢から覚めたのか、自分の大きな声で覚めたのか。どちらが先なのか分からないが、簓はソファから飛び起きた。皿を片付けた記憶はギリギリあるが、その後もこない眠気につまらない深夜番組を眺めながら、追加の酒を煽っていた後の記憶はない。現状から察するにそのままソファで寝こけていたようだ。
明らかに帰ってきてそのまま寝落ちた簓に何の一言もなく、空却はゆっくりとお茶を飲んでいる。
「パスタ、ありがと」
「食べたんだ」
「食べるよ、そりゃ。ごちそうさまでした」
「口にあったのなら良かった」
ふっと微笑んだ空却に、簓は内心首を傾げる。
簓の言動にどちらかといえばマイナスな表情を向けることがある空却の真逆な反応。嫌われてのことかと思っていたが、完全に嫌われているわけではないらしい。
これは空却と話すきっかけになるのではなかろうか。
「今日学校は?」
「今日土曜」
「あぁ、休みか。ほな、ちょっと出掛けん?」
「いく」
「おっしゃ。風呂入ってくるから待っといて。そしたら出掛けよ」
昨日は汚れてはいないけれど、流石に寝落ちたままでは出掛けられない。シャワーを軽く浴びて、乾燥機付き洗濯機のスイッチを入れる。いつもの癖で回してしまったが、一緒にして良かったのだろうか。そこを含めて確認しないといけない。
あまりに人と暮らしていなさすぎて、他人と暮らすということを忘れてしまっている。いや、そもそも記憶が曖昧だ。どちらかといえば空却と擦り合わせる方がいいのかもしれない。
「出掛けられる?」
「ん」
「ちなみにどっか行きたいとこある?」
「よく知らないから任せる」
「そしたら駅前んとこのカフェでも行こか。カツサンドが美味いんやって」
「カフェなのに?」
「おもろいやろ」
「じゃあそこで」
簓にしては早い時間に動いているつもりだったが、世間はもっと早く動いているらしい。土曜の午前というのに店内は混み合っており、少し待ってようやく案内された。よくよく考えたら朝からカツサンドは重たくなかろうかと思ったが、空却は気にした様子もなくカツサンドと緑茶を注文した。
「こういうところってよく来るの?」
「一人では来んなぁ」
「盧笙と来るの?」
「盧笙?! なんで盧笙?」
「付き合ってそうだから」
「ない」
「ないんだ?」
確かにこのカフェを教えてくれたのは盧笙だが、盧笙と二人で出掛けるということはない。あったとしても仕事ぐらいで、プライベートに二人になることはない。
唐突な話題に簓が頭上に疑問符を浮かべるのをよそに、空却は小さく息を吐き出してグラスの水を飲み干した。
「そんな気になる?」
「付き合ってそうだったから意外だっただけ」
「今もう意外って思う奴おらんから新鮮やな。なぁ、俺も気になること聞いてもええ?」
「なに?」
「なんでオオサカ来たん?」
「聞いてないの?」
「聞いてない」
空却が来た日に来ることを知らされたぐらいだ。その後も立て込む仕事に詳細を聞く暇もなかった。もっとも、簓にそこまで聞かなければならないという意識がなかったともいえる。今こうして聞くのも、そういえば聞いてなかったなと時間が出来ただけだ。気になることは多々あれど、わざわざ時間を作ってとまでは思っていなかった。
「簓に会えるかもしれないと思ったから」
「なんで?」
「考えてみたら? 参謀なんでしょ」
にっこりと、空却はひどく楽しそうに笑ってみせる。
あぁこんな顔もするんだと、十七歳の少女の年相応の表情に安心するかたわら、その口から飛び出した言葉に、簓の思考回路は停止した。