ふつうのぼくとぼくだけのきみ(身長差水麿スピンオフ) ――だって酷いと思ったんだ。政府にいた頃数多の『水心子正秀』と『源清麿』が集められた場で、一人だけ飛び抜けて頭が高い位置にあった自分の同位体。
愕然とした。ああなれたら、どれだけ見える世界が違うだろう。自分の中でだってそう憧れたのに、隣にいた自分の親友が、かっこいいね、と笑ったものだから。
僕じゃ駄目なの、あれがいいの。自覚していた恋心がぐちゃぐちゃにうごめいた。胸を押さえて、そうだな、と呟いた。
背の高い同位体の横に寄り添っていた『源清麿』は、世界のすべてのしあわせを集めた笑顔をそれに向けていた。
天保江戸への経路が閉ざされた瞬間に、水心子の心も閉じた。迎えに行けなかった親友の柔らかな微笑み方だけを何度も反芻した。
ただひたすらに出陣と鍛錬に明け暮れるようになった自分を、周囲はとても心配した。霊力が不安定な審神者は自身を責め続け、会うたび申し訳なさそうに頭を下げてきた。
仲間の気持ちは有難い。再度あの地に行けなかった理由も分かっている。仕方のないことだ。――そう理解しているはずなのに、二人部屋になるはずだった一人の部屋が死にたくなるほどつらくって。
防音結界を入れて、何度も叫んだ。きよまろ。きよまろ。
好きだったんだ。君に恋をしていた。丁寧に包み込んで守りたかった。それなのに君は今傍にいない。その存在が保たれているのかすら危うい状況が、心を、鉄鉱石で殴りつけた。
清麿が欲しかった、狂おしいほどに。会いたくて、また笑って欲しくて、できればあの唇から、同じ愛を囁いてもらいたかった。
一人で潜る布団は冷たい。
演練会場で、あの同位体を目にした。
相変わらず体格がよく、まるで太刀のように力強く対戦相手を弾き飛ばす。自分の親友が今この場にいたら、あの日と同じようにかっこいいと笑うのだろうか。そう思ったら、うまく見ていられなかった。
視線を逸らした先、『源清麿』が戦っていた。しなやかに動き、あの細い体躯から信じられないくらいの打撃を叩き出す。殴るように斬る様子が傍にいない親友を思わせて、胸が締めつけられる。
その部隊は勝利を収めて、笑い合う男士たちの中、二人が駆け寄っていった。――同位体が嫌味なくらい長い両腕を広げ、『源清麿』が躊躇わず胸に飛び込む。抱き合い額を押し当てて笑い合う、その姿は、おそろしいほど鮮やかだった。
『源清麿』の幸せそうなこと。とろけそうな笑顔も、包み込まれて嬉しそうに目を細めるのも、酷く心を惹いた。
「彼、あんなに強いのに、回収されちゃうのかあ」
隣からそんな声が聞こえてきた。驚いて弾かれるようにそちらを向いたら、仲間の鯰尾がびくっと肩を跳ね上げた。
「回収? 回収、って、あの、あちらの私か?」
問いかけると鯰尾は複雑そうに唸った。うちにも今度視察が入るんですけどね、と紡がれる。
「政府が今、各本丸のバグ個体の回収を進めているんです。うちにはそういう人はいないんで、形式的に確認して帰るだけだろうけど…あそこは違うよね。あの水心子さんは目立つから、たぶんもう通達は行っているはずですよ。本人が知ってるかどうかは、あそこの審神者さんの判断次第ですけど」
――ぞっとした。背筋が凍った。置き去りにした親友の笑顔を思い出した。
自分がもっと器用なら、いい気味だ、なんて思えたのかもしれない。自分だけ失うのは不公平だ、お前も失ってしまえばいいと。けれどその思考はどうしたって訪れなかった。舞台を降りようとする二人を見る。
あの『源清麿』はあんなにも綺麗に笑っているのに、失うのか。彼もまた笑えなくなってしまうのか。一人の部屋で相手の名前を叫び泣く日々を送るのか。今の自分のように。
そんなのってない。あんまりだ。彼らが想い合っているのは数度見かけただけの自分でもわかる。あれほどまでに深く結びついた二人が、今更引き離されてしまうなんて。
助けられないのか。同位体はどうしようもないかもしれない。――でも、『きよまろ』だけなら。
「――鯰尾殿、近侍のあなたに、相談があるのだが」
相談内容はきっと前代未聞だっただろう。鯰尾も目を丸くしたし、聞いた審神者もそうだった。
それでも水心子は本気だった。なんとか受け入れてもらいたくて、真摯を心がけ言葉を紡ぐ。
「あの本丸の『源清麿』を、うちに招いて欲しい。本人の説得は私がする。あちらの審神者殿にどうか、交渉してくれ」
「す、水心子正秀。刀剣男士の本丸間の移動なんて認められていません。あなたが源清麿に会いたい気持ちは分かりますが」
「分かるなら助けてくれ!」
絶叫に近い声が出た。そんなつもりはなかったのに声を張ってしまって、審神者がびくりと肩を跳ねさせる。
息を整えながら、顔が歪んだ。すまないと漏らす。
「……無理を言っているのは承知だ。それでも、それでも私を哀れだと思ってくれるなら、あの『源清麿』を迎えさせてくれ。このままでは彼も番を失うんだ。失くしたものどうしなら……舐め合える傷もあるかもしれないだろう……?」
自嘲して言葉が先細る。審神者が目を伏せた。そうしてしまえば弱々しい小柄な少女でしかない主は、あなたが本人を説得してくれるなら、と返してくれた。
「源清麿、またきっと会おう。その時、返事を聞かせて。……君がもしこちらに来てくれたら、僕、絶対だいじにするから!」
本丸へ戻り、布団に収まった。今夜も冷たい布団。
あの『源清麿』は、どうしているだろう。きっと彼らは今日も同衾するのだ。分かっていた、きっと願いは叶わない。あの彼が番以外を選ぶ訳などない。
それでもあの笑顔が失われるのを黙って見てはいられなかった。もしもこちらに来てくれたらだいじにする。その言葉に偽りはない。
――とても、だいじなことを忘れようとしている自覚はある。けれどそれが何なのか、何故なのかを考えたくない。もう思い出したくないんだ、僕は、なにひとつ。
意識が眠りの縁に落ちていく。足を踏み外し奈落の底へ。この感覚がずっと嫌いだった。
そう言って眠るのを避けようとした自分に、昔温かいココアを淹れてくれたのは誰だっただろうか。
審神者が緊張に震えながら口を開いた。『演練で、あなたの切望する彼の部隊と当たります』
そうか、とだけ頷いた水心子に、彼女はぽかんとしたようだった。
「そうか…だけ、ですか? も、もう迎える意思がなくなった?」
「いや、そのままだ。意思はある、強く。……ただ」
こてんと首を傾げる主は、まだ幼いくらいの年齢で、病により世を去った親から引き継ぎ審神者の職についた少女だった。そんな彼女もまた病気がちで、それでも少ない霊力を男士たちに回すためいつも顔色を悪くしている。
知っている。自分を取り巻くものたちが、優しいものでしかないこと。
……だから。
「我が儘は、これで最後にしようと思っただけだ」
『源清麿』はやはり綺麗だった。その顔を見るとついほっとしてしまう。この胸の奥でかすかにくすぶる種火の正体からは目を逸らしたまま。
向こうの同位体が、酷く殺気立った表情をしている。まあそうだろう、水心子が彼の番を欲しいと言ったのは聞いただろうし、だからこそこの演練に参加してきたのだろうから。
陣形を作る中、鯰尾が声を張った。
「水心子さん、道は、俺らで作りますから! ――心を晴らして!」
――ああ、そうか、分かってしまっているのだ。脇差の偵察値を侮ってはいけなかった。それでもなお自分のために動こうとしてくれている、そしてそれは、鯰尾だけではない。浮かびそうな涙を必死に堪えた。
開戦の合図とともに、同位体に向けて突っ込んでいく。
勝てないことなんて分かっている。だって僕はいつも駄目だった、政府施設での模擬戦闘の時も、何度『――』に助けられたか知れない。
それでも必死に刀を振るった。同位体の攻撃は重たくて、そのうえ肥前忠広まで参戦してきたものだから、対抗できる訳もなかった。
でも、僕だって、『――』と一緒ならやれるんだ。僕の癖は全部知ってくれている。僕も『――』の癖は知ってる、どう戦ったら強いかもぜんぶ。だから、だから、僕に――。
『源清麿』に倒れた頭を撫でられた時、涙を堪えきることができなかった。知っているのに知らない手だった。
「ねえ……君の僕は、今でも天保江戸で君を待っている。君に触れたいと思っている。……そんな僕がいるのに、僕が君のところへ行ってしまったら、待っている僕は誰のところへ行ったらいいの? 僕に習合させてしまうの?」
あ、と掠れた声が漏れた。
天保江戸。触れたいと思ってくれている。待っている。
――習合、なんて。
「寂しいのは、心細いのは、君の僕だって同じだよ。……ね、僕を、諦めないであげて……?」
僕の、君。『――』。
――……僕の想い人の、源清麿。
「……ごめん、」
そうだ。僕が会いたかったただ一人の相手。
政府施設でのあの日、君が僕の同位体をかっこいいと言ったのをあんなに僕は妬いたのに、今度は僕が君の同位体を求めていたんだ。…なんでだろう、ばかだな。
君じゃなきゃだめに決まってるのに。
「きよまろ……」
やけに久しぶりに呼ぶ名前は、そのくせ口にしっかり馴染み心地よく響いた。
受けたのは本来ならば破壊されるような攻撃だったと思う。それでも演練の場の傷はすぐに癒える。どうしてかそれをなんとなく惜しいと思いながら本丸に戻ると、血色のいい顔をした審神者が迎えてくれた。
「我が主……、……すまない、あの話は」
「どうせだめでしたよね! それよりすごいお話があるんです!」
水心子は目を丸くした。どうせだめでしたよね。それで片付く話ではない。水心子が自身の刀解さえ申し出るべき案件だ。なのに審神者はひどく興奮しきった様子で、こちらの手を掴んで詰め寄る。
「聞いてください! 特命調査天保江戸が、もう一度行われます。あの地への経路が、また開くんですよ!」
「そ、れって!」
鯰尾が慌てて身を乗り出す。喜びすぎて泣き出しそうな審神者が、すごいよねええと珍しくも崩れた口調で叫んだ。
「水心子正秀、これであなたの源清麿を」
そこまで言って彼女は止まった。どうして口を噤んでしまうのだろう。水心子は別に泣いていない。泣きそうなのはあなたのほうだ。そう思っていると、彼女はそれに反して笑った。
初めて見る明るい笑顔だった。
「今回は、行けます。大丈夫。私が必ずあなたを天保江戸へ送ります。迎えに行きましょう。あなたの大切な親友を」
見紛う訳のない淡い藤色。華奢な体躯。そんな儚い見た目を持っていても、彼がそればかりの刀ではないことは知っていた。
「水心子。よかった、また会えたね」
合流した清麿は、そう言ってとろりと笑んだ。
「……すま、ない、」
帽子を取り頭を下げる。何から口にしていいのか分からない。清麿は浅い傷を無数に負っていた。外套はとうになく、白い肌の色と血の赤が切り裂かれたところから覗いていた。
「…迎えに来れなくてすまない。君がどんな目に遭っているのか、わかって、わかっていた、けれど、なのに、私たちは、」
「謝るよりも、言って欲しいことがあるなあ」
間延びした声が届いて、そろそろと顔を持ち上げる。彼は微笑んでいた。
「……僕、頑張っただろう、水心子」
血の滲んだ衣服。ベルトの金具が赤黒く錆びかけていた。それなのに清麿は笑うのだ、小首を傾げて、水心子の言葉を待つ。
彼は、そうすれば自身の望む言葉がかけられると知っている。自分たちが、互いの親友の水心子と清麿であることを、分かっているから――。
「……よくやった、清麿、ありがとう。……清麿は、強い刀だな」
滲む視界で、そう言って彼の肩に触れた。彼は嬉しそうに目を細め、そして、安心したように目を閉じもたれかかってきた。
「ごめん、……言ってもらったら、なんだか……」
「……大丈夫だ、それでいいんだ……私たちが、……私が守るから、あとは、休んでて。きよまろ」
彼が、うん、とか細い声を返す。抱き止めて、その身体の熱さに、きつく目を瞑った。
任務は無事に終わった。本丸へやってきた清麿は、すぐに手入れを受けた。ほとんど意識を失った状態で運ばれて、水心子はそれを見送るしかできなかった。
ずっと手入れ部屋の前で待ち続けた。カウントダウンがもうすぐ終わる。――本当に大丈夫なのだろうか。この戸の向こう、彼は本当にそこにいるのだろうか。離れていた時間が長すぎて、なんだか現実味がない。
カウントが、ゼロ、になった瞬間に、襖がすらりと開いた。
「あれ、水心子。待っていてくれたの?」
「あ、ああ……、清麿、大丈夫か? 治ったのか」
「大丈夫、完全に治ってしまったよ。久しぶりに身体が軽いや……この手入れのシステムが本丸でも実装されているのはすごいね、噂には聞いていたけれど」
そう言って彼は周囲をくるくる見回す。そうだ、清麿にとっては何もかもはじめての場所なのだ。教えてやれることも、きっとたくさんある。
「明日にでも、本丸を案内しよう。今夜はひとまず部屋…私たちの部屋へ」
「えっ、二人部屋なのかい!」
「そうだ」
清麿はぱあっと顔色を明るくした。
「わあ、それは嬉しいな……! だって憶えているかい、僕ら政府にいた頃、本丸へ配属されたら一緒の部屋がいいねって話していただろう」
視界が滲んだ。無邪気に彼が想起したのは、確かに自分たちの思い出だ。ここにいる水心子と清麿にしか分からない、知らない、共有できない記憶。
それを、今、彼が笑って話している。
今すぐに抱き締めたい気持ちを必死に堪えて、涙を拭った。清麿に笑いかける。
「……ともかく、部屋へ行こう。君は、今夜はゆっくり休まなくては」
清麿は頷きながら、どこか不満げな顔をした。
「水心子は」
自室に着くなり、清麿がそう強張る声をかけてきた。
「誰か好きな子でもできたの?」
「な」
問われた言葉に目を白黒させて振り返る。清麿は、じっと見つめてきていた。
「そん、……なわけ、ない! 変なことを言うな」
「変なことじゃないだろう。これが変なことなら、」
そこで彼は数秒言葉を切った。伏し目がちになった瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「……僕が水心子を好きだってことも、変なことだと思ってしまうのかい?」
目を、見開く。意味が分からない、理解が追いつかない。
ずっとひとりで使っていたこの部屋に、ずっと求めていた清麿がいることがまず信じられないくらいなのに、今その彼から言われていることは、何だ?
「す……き? 君が?」
「そうだよ。僕はもうずっと、政府にいた頃から、君を好きだった」
清麿がまたこちらに視線を投げてくる。微かに顰められた顔。
「会えたらきっと、また笑って、誰より近いところで話せるって、それだけを思って戦っていたのに……水心子はそうじゃなかったんだよね?」
「なん」
踏み込んでその肩を掴まえた。
「なんでそうなるんだ! 僕だって、僕が、どれだけ!」
「あ」
酷く強い力を込めて握っている自覚はあった。よくよく考えれば今ここにいるのは練度が上限に達した自分と一になった彼だ。そんな差のある相手に対して使っていい力ではなかったはずだ。
それなのに彼が浮かべた表情は、漏らした声は、明るく希望に満ちたものだった。
「……やっと、自分のこと、『僕』って言ってくれた」
息を飲んだ。とろっと笑んで、清麿は言葉を紡ぐ。
「水心子、ずっと、『私』ってしか言わないんだもの。いつも僕の前では、『僕』って言って柔らかい口調で話してくれていたのに」
「な、そ、……それで、なんで、好きな人ができたなんてことになるんだ」
「その誰かの前で『僕』って言っているんだって思ったから」
「そんな訳ないだろう、きよまろだけだよ!」
清麿が嫣然とする。
「……それって、そういうことだと思ってもいいの?」
あ、と漏れた声を飲み込み、ぶんぶん首を振った。その行動をどう受け取ったのやら、一転悲しそうな顔になった清麿の肩を掴み直した。――違うんだ、そういう意味じゃない。
丁寧に包み込んで守りたかった。それが今なら叶う。手の力を添えるだけのものにして、それでも、抜きすぎることなく。
そのマゼンタを見つめて。
「…ちゃんと、言わせてくれ。……君が好きだ」
『私』を崩せなかったのは、馬鹿みたいに緊張して、君に格好をつけたいと思っていたからだ。今更だったな。格好悪いところだって、君はとうに、知ってしまっていたのに。
清麿が、瞳を潤ませる。ああ涙を見るのは初めてだな。そう思ったのに、先に泣いてしまったのは水心子のほうだった。零れた雫を追って、彼が指を頬に添えてくれる。
「……江戸の街にいる間、ずっと水心子のことを考えていたよ。きっと今も頑張っているんだって。…僕は、もうだめだって思う時、たくさんあったけれど、…でも、ここで折れたら、君に会えなくなってしまうんだって思ったから、だから踏ん張れて」
「ありがとう。きよまろ、頑張ってくれて、本当にありがとう」
迎えに行けなかったことは、謝るべきことではないのだ。やっと気づいた。誰もが一生懸命に戦った結果だった。あの審神者になったばかりの少女が、霊力を安定させる講習を熱心に受けていたのを知っている。
その主の努力を、決してもう謝らない。けれど、だから、言うべきことは、別にあるのだ。
「僕、……ひどい、裏切りを、君に犯そうとしたんだ。よその本丸の君の同位体を欲しがった」
目を丸くした清麿に、必死になって視線を合わせる。
「回収されるかもしれない、バグ個体の僕の番だった…どちらも失うなら、こちらに迎えられればって思ったんだ。でも、彼に言われた、寂しいのも心細いのも僕の清麿だって同じだって……諦めるな、って……」
言い出してみれば情けない。ただ我慢ができない子供だっただけだ。言葉を見失った時、清麿がかけてくれた言葉は『ありがとう』だった。
顔を上げると、彼は涙の中で微笑んでいた。
「……僕を、恋しいって思ってくれたんだよね。それも、謝ることではないよ」
「でも……!」
「ねえ、そういう話、もっと聞かせて」
彼の手が服の裾を握ってくる。くっ、と引かれた。
「僕が知れなかった水心子の話、たくさん聞いて、一緒じゃなかった時間を埋めていきたいよ……」
伏せられる睫毛に踊る雫。
――もう、耐えなくていいよね? だってここに君はいる。もうこの部屋は一人のものじゃない。僕はもう、……君を、我慢できない。
きつく、抱き締めた。腕の中に収まる体温。心音が二人分、二重になって全身に響く。
「……寝かせられなくなる」
「熱烈だね」
「変な意味じゃないぞ!」
「僕はそちらでもいいのだけどなあ」
あんな怪我と疲労を負っていた身体で何を言うのか。彼は自分を大事にしないから心配は尽きない。……でも、これからは、僕が傍にいる。
耳元に囁きかけた。
「……そういうのは、今度道具を買ってきてからするよ」
びくっと跳ねる身体が愛しい。可笑しくなって笑ってしまう。誘うようなことを言おうが、何を試してこようが、清麿の人の身の経験値は自分と一緒だ。
――これからもずっとそうだよね。それが酷く誇らしい。清麿の拳が肩を抗議するように叩いてから、背中に回された。
その日、布団は初めて温かかった。
「水心子正秀。……あなたは、我が儘は最後にすると言いましたが」
水心子一人を呼び出した審神者は、咳き込みながらそう言った。
「我が儘なんてね、いくら言ったっていいんですよ」
目を見張れば、彼女はふふふと笑う。
また咳を挟むけれど、それでも特命調査後の疲労としてはかなり軽くなったほうなのだ。病気の治療も、霊力の安定も、すべて彼女の努力が実り始め、いい方向へ向かって行っている。
「ここにいるのは、私の家族です。血の繋がりがなくとも家族にはなれます。夫婦だって、元々は他人でしかないのだから。心さえあればそれは家族です。……そして、家族には、いくら我が儘を言ったっていいのよ」
少女はどこで、そんな優しい言葉を憶えたのだろう。亡くなった彼女の親、先代の審神者だろうか。水心子は会ったことがないので分からないが。
視界が滲んでいく。軍帽を深く被って隠すと、彼女の手がぽん、とその上を撫でた。
「あなたの家族を、迎えられてうれしいです」
夫婦だって元々は他人でしかない。心さえあれば家族。その言葉が意味するもの。
この主は何をどれだけ知っているのだろうか。あんなに弱かった少女が、審神者なんてものになれた理由が、今はよく分かる。
「感謝する……我が主……」
誉ぽんです、と、涙に濡れた嬉しそうな声。
おかえり、とこちらの気配だけで振り向く清麿の手元には淹れかけのココア。懐かしく、くすぐったく思いながら、そっと声をかける。
「これから万屋街に出ないか?」
「万屋?」
きょとんとする彼へ向けて、少し笑った。
「道具を買わなきゃって、言っただろう?」
一瞬間の抜けた顔をしたあと、彼は意味を理解した様子で顔を真っ赤に沸騰させた。なんだか可愛らしくて笑うと、彼の表情がどんどん不機嫌になっていく。
「……水心子、やっぱりここに来てから変わった。余裕があるよ……どういうことなの……」
「はは、まあ、君より先に人の生活に馴染んだからね」
「ずるい……一緒がいいのに……」
だからなんだってそんな可愛いことを言ってしまうんだろうなあ。笑んだまま困って後頭部を掻き、水心子は口を開けた。
「これから、同じになっていくから、心配いらないよ」
清麿の大きな目が見つめてくる。また少し拗ねた色を宿して眇められて。
「……する前に、……キスくらい、済ませたほうがいいんじゃないのかな?」
あっ、と声を上げた水心子を、彼は楽しそうに笑った。
今まで空いていた距離が縮まって、ゼロになって、そこから交わりマイナスになっていく。
それがこんなにも心地いいのも僕の君だからなのだと、お互いに離れたところで求め合っていた時間をひとつずつ潰していくように深く抱き合いながら、水心子は考えていた。