官能小説家×ヌードモデル(水麿) ぺら、と紙の擦れる音。朝からあまり見たいものでもない内容の小説を捲るのも起きてから二冊目だ。今日中にあと三冊は読みたいと思うものの、課したノルマにため息が出る。
「水心子、僕そろそろ出るね」
「ああ」
かけられた声に顔を上げて、ずれた眼鏡を直す。この世の誰よりも綺麗な恋人は、ショルダーバッグを肩に持った。
「夕方まで帰ってこられないけれど、ちゃんとお昼食べるんだよ。君は食べなければ活動できないタイプなんだから」
こめかみを撫でられ、くすぐったさに目を細める。大丈夫だと頷くと、彼はそっと微笑んだ。
「……無理しないでね」
離れていく手を掴みたい衝動。必死に抑えて、ああ、と笑った。
恋人、清麿は最後まで心配を表情に宿していた。
水心子は官能小説家で、清麿はヌードモデルを職業にしている。
世間的にあまりいい顔をされない仕事をしている二人が郊外のこの一軒家に移り住んだのは、昨年のことだ。集落から少し離れていて、それが物件選びの決め手だった。二人とも、あまり近所付き合いに積極的ではなかったから。
都心に比べて移動時間がかかるようになったものの、それ以外は平和そのものだった。二人を起こすのが鳥のさえずりなのもいい。夏の夜は蛙の大合唱で眠れなくて、二人でベッドの中笑い合ったものだ。
自分が官能小説家になったのは、半ば成り行きだった。
大学までに目指していたのは純文学の作家だった。けれど発想力、ゼロから一を生み出す力が水心子には欠けていたらしい。とにかく発想が凡人だと評され続け落ち込んでいた時に、清麿が助言してくれた。
『官能小説、とかどうだろう。あれは発想力よりも他人の妄想を増幅する力を主に使うはずだから、息抜きにはなるんじゃないかな。ゼロから一を生み出すだけが力ではないよ。一を百にする力を、水心子はちゃんと持っているんだから』
認めてくれる言葉も、気遣いも、書くのを諦めろと言わない優しさもすべてが心に沁みて、なるほどと筆を執ったのが数年前。
そしてそれは結果とても評価をされた。今までになかったことだった。賞に入賞したことで、水心子は初めて小説の仕事を得た。
けれどそれを謝ったのも清麿だった。
『ごめんね。……君が本当に書きたいのは、こんな世界じゃないのに』
愛しかった。そんな心配、謝罪までしてくれる恋人が。己が余計なことを言ってしまったと思っているのだろう。そんなことがあるはずがないのに。水心子は彼の頬を撫でた。
『謝らないで。僕は、嬉しいんだ。初めて書いたものが評価してもらえた……それも清麿のおかげでなんて、最高だよ。……ありがとう、清麿』
抱き合った日を忘れない。あの日から、水心子は官能小説家の道を歩み始めた。
しかし近頃、どうもスランプ気味だ。担当からは、そもそもの経験値と知識が圧倒的に足りないのだと言われた。その通りだった。ぐうの音も出ないでいると、経験は仕方がないにしろ知識はいくらでもつけられる、先達の作品を読みなさいと命じられた。
それにより、今日はインプットの日だ。起きてすぐから担当おすすめの官能小説を読み込んでいる。
リビングの時計の音が書斎まで届いて、正午を知る。食事を摂れと言われたけれど、なんだか食欲がない。こんな本をずっと読み続けていれば当たり前だろうが。苦笑して、三冊目の後半に突入する。
清麿はちゃんと弁当を持っていっただろうか。確認しておけばよかったな、と遅まきすぎる後悔をした。
「水心子!」
はっと目を開けた時、やたら眩しい中に清麿の顔があって呆然とした。天使でも降りてきたのかと思った。
「水心子、大丈夫? 今、寝ていた訳じゃないだろう?」
「……え?」
肩に触れられて、やっと状況を理解する。眩しいのは電気をつけたからで、電気をつけたのは暗い時刻になったからだ。そして暗くなったから清麿も帰ってきて、そんな時間になった自覚がなかったのは、己が気を失っていたからだ。
「ごめ、ちょっと、頭が」
椅子の背もたれに寄りかかった身体を動かしたら、ひどい目眩がした。ひじ掛けにもたれてしまい、清麿に支えられる。
「身体が熱いよ、水心子……根を詰めすぎたんだ。官能小説を一日中読み込むなんて、疲れてしまって当然だよ……少し休もう? 寝室に行こう」
「でも……」
「インプットは大事だけれど、身体がついていかなかれば何事も無意味になってしまうよ。今は休んで、ね? お願い」
顔を覗き込まれる。彼の表情は心配で満ちていた。もちろんそんな顔をさせるのは本意ではない。大人しく従うことにして、彼に助けられながら寝室のベッドに乗った。眼鏡を外して放る。
「お夕飯、たまにはと思ってお惣菜買ってきたんだ。だから準備いらないから、食べられるようになるまで寝ていようね」
「ごめん……なさけない……」
「そんなことないよ。かっこいいよ、水心子は」
枕に乗せた頭、額を、清麿のつめたい手が撫でてくれる。見下ろされる彼の長い睫毛。
――先程まで読んでいた小説の中身が、ふいに蘇る。男の手で暴かれる女、快楽に酔いしれる描写。
首を動かして、手を振り払った。清麿がきょとんとする。
「水心子?」
「ごめん、……僕、今おかしい、全部そういうふうに見えちゃう。……清麿のことも」
ちゃんと切り替えられる器用な性格だったらよかったのだけれど、そんな性格だったら知恵熱で寝込んだりしないだろう。頭を埋めていた官能的な思考から、水心子はまだ抜け出せていない。それは読むだけならただの情報だったが、清麿を目にすると駄目だった。すべての欲が、彼に向いてしまう。
「清麿を見てたら、きっとなんかしちゃうから……だから、部屋を出てて……」
顔が熱い。目元を腕で覆い隠した。それでも察しのいい彼だ、きっと立ち去ってくれるだろう。
五秒、十秒、三十秒。……一分ほど。それでも気配は動かない。
「……きよまろ」
呼びかけても返事も返ってこない。存在を示すように、肩の傍、清麿が腰掛けた場所がかすかに音を立てた。
「お願いだから……」
声は掠れて寝室に響く。
動かない君を、僕は、いったいどうしてしまうのだろう。