(水麿家族パロ)あたりまえになる僥倖「ほんとよかった、つわりが落ち着いて……見てるだけしかできないの、気が気じゃなかったから」
心底ほっとした口調で、ハンドルを握った水心子が零す。車窓を眺めていた顔を彼のほうに向け、清麿もごめんねと笑った。
「でも、見ていただけ、なんてどの口で言うんだい。僕が潰れている時、家事のほとんどをしてくれたくせに」
「そんなの、当然だろ。清麿の苦しいのを見てるだけしかできなかったのはほんとだし、そういう時に代わるのは当たり前だよ」
そもそも家事全部が君の役割だなんてこともないんだから。そう続ける水心子は、本当に当たり前だと思っている顔だ。自分が清麿を助けることを疑っていない。……けれど。
「……当たり前、なのかな」
ほんとうに、と呟くと、水心子も少し黙った。
当たり前、なんてものではないと清麿は思う。こんなのはありえないくらいの僥倖だ。妊娠中とはいえ、清麿は今専業主夫だ。夫である水心子はやっともうすぐ大学を卒業するという時で、新生活に向けて大忙しなのだ。そんな相手が、疲れて帰ってきて、家事もしてくれる。……そんなありえないことをしてくれる人に選ばれたこと、本当に、己ごときが受けていい幸せなのだろうか。
赤信号に、車がゆっくり減速する。停まった時、水心子の手が清麿の手の甲にちょん、と触れた。
「当たり前だって、君に思ってもらえるようになるまで、僕は頑張るから」
思わず見つめた清麿に、笑った彼は走り出す前の一瞬だけその細めた目を向けてくれた。
「僕と一緒にいたら当たり前のことなんだって。そう覚えてよ」
──こんなのは、ありえない僥倖。滲む視界を瞼を下ろして閉ざし、だめだ、と清麿は笑った。
「これからお出かけなのに、今目を腫らすわけにはいかないね」
「あはは、そうだよ。この程度で泣いたりしないで」
『当たり前』なんだから。そう言って水心子はまっすぐ前を向いている。
この助手席に乗れることだって決して当たり前なんかではない。今はまだそう思ってしまう。……それでも、これを当たり前だと感じられる日が自分にも来るのだろうか。そうなるなら、僥倖の先の僥倖だ。それは言葉でなんと言い表せるのだろう。表現なんて、追いつきもしない幸せ。
レンタカーを操る水心子はとても格好良くて、横顔を眺められる助手席は特等席だ。今のところ金銭的な余裕がなくて車の購入なんて夢のまた夢だけれど、いつか貯金して車を買うのもいい。そうしたらこの水心子を見放題だ。
ああでも、そのころには僕は助手席には座らなくなっているかも。そう思って、腹部を撫でる。
ここにいる水心子との子供は、あと三か月ほどで産まれてきてくれる。
妊娠してからというもの、清麿はほとんど家を出ない生活を送っていた。
引っ越しの時にやっと少し動いたけれど、身重な人間がうろちょろするわけにもいかない。座っててと水心子に言いつけられて、じっとばかりしていたら、そのあとの診察で医師に『少しは動いたほうがいいよ』と言われてしまった。
家をまったく出ないのは精神的にもよくない。そう告げられた診察は水心子も一緒に受けてくれていて、なにか雷にでも打たれたような顔をしたのを清麿は見ていた。
それで、忙しい中に作った休日、一緒に久しぶりに街へ出ようという話になったのだ。
『歩かなくて大丈夫なように、レンタカー借りるから。ちょっと気が早いけど、赤ちゃんのものとか見に行くの、よくないか?』
その笑顔に頷き返す以外の選択肢なんて清麿にはない。楽しみに数日を過ごし、今日がその当日である。
真っ先にやってきたベビー用品店は、駐車場まで来てみれば思っていたよりも大きくて驚いた。ここに、赤子を育てるためのすべてが詰まっている。
「自分がここに来るの、なんか不思議な感じだ……」
入口を通る時、支えるように身を寄せてくれた水心子がそう零すのが面白くて、笑いながら『そうだね』と返した。
本当に小さな子供だったころに来たきりで、それ以降は自分が親の立場になるまで用はない。それがこういった店だろう。清麿はそもそもこういった店に来た記憶がないが、幼いころに連れられて訪れた記憶があるであろう水心子からしたら余計に不思議だと思うのかもしれない。
「わあ……」
棚の並びを見て、二人ため息が漏れる。
ベビー服、子供服、おむつやミルクに離乳食からおもちゃまで。揃えられた数々の品が、なんとも幸せそうな飾りでレイアウトされている。
出産も、育児も、正直不安なことが多くてあまり明るいイメージを持てていなかった清麿の目に、それらはとても前向きなイメージを持って飛び込んできた。店にいる他の客たちも皆幸せそうで、そうか自分が目指していくのはこういう世界なのだ、と妙に新鮮に胸に沁みた。
「きよまろきよまろ、あっち、ベビー服すごいかわいい」
ベビー服コーナーを指差す水心子が興奮した子供のように話しかけてきて、いやかわいいのは君のほうだな、と思いつつその場所へ歩んでいく。
水心子も霞むのではというほどの愛らしい洋服たちが並んでいて、ほあ、と変な声が漏れた。
「……なにこれ、かわいい……!」
「すごい種類がある! えっ、かわいい……のに、そんなに高くない!」
「うわあ本当……ええ……ファッション業界の頂点の場なの……?」
二人大興奮で凝視していると、傍にいた家族連れがおかしそうに笑うのが聞こえてきて慌てて声をひそめた。そうだ、こんな素人丸出しはさすがに恥ずかしい。
「……よく考えたら、大人の服の生地面積に比べればそんなお安くはないよね……?」
「そ、そうだよね、それにすぐに買い替えなければならないものだし」
「そうだよな、まずい……トラップにかかるところだった……」
通路の隅で二人息を整える。どうやらきらきらとしすぎている空間は正常な判断力を奪うようだ。必要なものだけ買おう、と目を見合わせ囁き合って、もう一度そのコーナーに戻る。
しかし、冷静に見てもかわいらしい服ばかりだ。着せられる期間は限られているから、これは着せるたびスマートフォンのカメラ機能が火を吹くかもしれない。そんなことを考えながら、ひとまず絶対に必要そうなものを選びカートに乗せていく。
「ベビー用品はここまでかな? この先はもっと上の子たち用だよね?」
「そうだな……疲れてもだめだし、そろそろ会計する?」
水心子の言葉に頷きかけた目が、一点に引き留められる。不思議そうに清麿の視線を辿った水心子が、あ、と小さく呟いた。
「……シルクのパジャマ。子供服でもあるんだな」
「ね。僕らが着ているやつに似ているなって思って……」
吸い寄せられるようにパジャマに近づく。それはもう自力で歩き回れる年頃の子供用のシルク素材の品だった。
水心子と清麿は、結婚の記念に揃いのパジャマを買って着ている。それもこれに似たデザインのシルクのものだ。これを購入すれば、いつか産まれてくる子供と一緒に着られる日が来るだろう。
「……でも、このサイズだと着られる期間は限られているし……すぐに着られなくなってしまって、逆に寂しい思いをさせてしまうかなあ……」
パジャマを見つめて唸る清麿をじっと見ていた水心子が、ふいにその商品を手に取った。そして、カートの籠に入れてしまう。
「え、水心子」
「欲しいんだろ? 買おうよ」
「で……でも」
「……すぐに着られなくなる。っていうのはそうかもしれないけど、そうなるころにはこのパジャマには思い出がたくさん詰まってるよ。だから、僕と、君と、大きくなったその子で、その思い出を一緒に取り出しながらパジャマを見て話をしたらいい」
──そうしたらまた、家族の時間を作るきっかけになるよ。
ありえない、僥倖だ。清麿はまたそう思った。水心子をずっとすごいやつだと思い続けてきたけれど、彼は本当にいつまで経っても新鮮にすごいやつで。
この心は、毎秒繰り返し恋に落ちて。
泣き出してしまいそうなくらい眩しい未来を想い、清麿も頷く。いつか大きくなったら着ようね。そう腹の中の子に話しかけると、水心子が微笑んでくれた。
「ママ、『おもいでパジャマ』だして!」
「ああ、……ふふふ、まひろはあれが大好きだね」
箪笥の中に大事にしまってある、『思い出パジャマ』と名付けられたちいさなシルクのパジャマを取り出すと、もう五歳まで成長したまひろはそれをソファにいる父親のもとまで持っていってしまった。
そうして彼女は母を呼ぶ。ここにすわって、と水心子の隣に座った自分の横を叩いて、言う通り腰を下ろした清麿に向けて満面の笑みを向ける。
「むかしのおはなし、しよー! わたしこれかったときのパパとママのおはなしききたい! あれだいすき!!」
「はは、もう何度も話してるのに」
「なんどでもたのしいの! パパわかってない~!」
脇腹を小突かれて、水心子がくすぐったそうに笑う。
今もまだ、僥倖だと思うよ。けれど、あのころよりありえなくはなくなった。少しずつ沁み込んできている、水心子の言う『当たり前』。
僕はきっとこの世の誰よりも幸せ者で、でもこの先があるって思ったら怖くなってしまうけれど、それもいつか当たり前だと言えるのだろう。
それってきっと、やっぱり、僥倖なんだ。
いたちごっこをするような不思議な幸せ。ずっと、ずっと長く続いていってほしい。続かせるために日々を頑張ろう。
思い出を語る輪の中で、あの日と同じように、君が笑った。