2025-05-31
見えるのは荒涼とした砂と岩と星空と前を行く男の姿だけだ。己の足取りはいまだに重く、歩幅もせまくて嫌になる。腹の傷は塞がっているけれど、だからと言って負傷前のように動けるようになったわけでもない。
ただ、トラン側からジョウストン側へ抜けた時よりは何倍もマシだ。あの頃は本当に思考が定まらなかった。生きているだけで、足を動かすだけで精一杯。一歩踏み出すことしか考えられなかった。
今は違う。歩きづらい道を、傷をかばう事を考えて歩かずにすむし、思考の半ばを痛みで埋めずとも済む。
だからずっと考えている。自分のこれからの事と、これまでの事。オデッサを失ってからの数年間の事を思い返している。そうして、気づいた。
解放戦争は自分にとって、葬儀に似ていた。
一つ息をつき、下がっていた顔を上げた。風もなく、生き物の気配の薄い砂漠の空はきんと冷えていて、星が砂粒を反射したようにきらめいている。見事なものだな。これも、先の砂漠越えでは気づかなかった事だ。
隊商が作った道を、二人きりで歩いている。足音のリズムが変わったことに気づいたビクトールが、わずかに進んだ先で立ち止まって振り返る。きっちりと首元に巻かれたスカーフと使い込まれた外套がその動きだけで揺れた。
「大丈夫か」
死にかけた、と言うと大げさだが真っ当に自分の足で砂漠を渡れなかった俺にビクトールが向ける視線はまるで子供に対するようだ。世話を焼く相手であり庇護の対象。あの頃については反論できないが、今もってその態度のままなのはやや不満だ。
「ちょっと考え事をしてて」
少しの距離を追いつき、追い越そうとしてビクトールもまた歩き出した。風もないのだから、盾になって歩く必要もない。
「今度はなんだ」
いつだったか。俺の考え事は無意味だとビクトールが言ったことがある。過ぎた事を悔やんでばかり。過去をかえようとしているみたいだって。
こいつに言われたくはないが、まあ言わんとすることは分からなくもない。何があってもオデッサは生き返らない。俺が彼女を助けられる日は来ない。それは飲み込んだ。あの戦争の間に、いつの間にか、あんなに飲み込みづらかった事実は俺の腹の中に収まってしまっている。
考え事なら頭の中じゃなくて、俺に話せ、とビクトールは言った。俺には何も言わないくせにこちらにばかり開示をもとめるのはフェアではないが、一人で考えていても堂々巡りをするのも事実。それはあまりにも愚かしい。
星明りだけでも随分と明るい砂と岩だけの世界を二人で横切りながら、口を開く。
「俺はずっとオデッサの葬儀をしていたのかもしれないと思った」
誰かに伝えるためではなくて、自分の思考を一つの形にとどめるために吐き出しているだけだ。それでいいとビクトールが言った。甘えだ。だがそれの何が悪いと言うのだ。
「葬儀か」
ビクトールの曖昧な相槌を受けて、俺も頷く。
「悲しいのに、やるべきことが良く見えて、次から次へと片づける。頭の中を悲しいって言葉だけで埋めつくすなんて出来やしなかった」
聞こえるのは俺の声と、二人分の足音だけだ。オデッサが死んだことは悲しい。でも、最初に彼女の死を知った時に比べたら、ずっと抱えやすいものになってしまっている。時間がたったからだ。その時間を、俺は戦争で稼ぎきった。
もし戦争がなければ、俺と彼女の関係が、ただの恋人同士だったとしたら、この時間はきっともっと穏やかに、だがあわただしい葬儀という形をとったはずだ。決めることは数多く、やるべきことは無数にある時間。いとしい人の死がなければ、存在しなかった忙しなさ。
オデッサは死んでしまった。だから葬儀を行った。実に分かりやすい。
「オデッサが死んだこと、どこかで信じ切ってないんだよな」
ビクトールの一歩がわずかにブレる。砂で滑っただけだと思い込むことにした。
「でも死んだんだと納得はしている。分かるだろ」
ビクトールの過去になにがあったかを話してもらえるとは思っていない。こいつが言わないという選択をしているのだから、俺だって遠慮はしないつもりだった。
ビクトールは俺を見て、真っ黒な目で俺を見て、見つめ返されて居心地悪げに目を逸らす。
「……分かる」
絞り出された声音は、多分オデッサの事じゃない。でもそんなこと知ったことか。
「必要なのは時間と、多分思考を埋める何かだ。こんな砂漠じゃなくて、山積みの仕事とか向かってくる敵、立てるべき戦術、向かうべき勝利」
その全てがあの戦争の中にあった。だからあれは俺のためのオデッサの葬儀だ。
などと思った。
全部を聞いたビクトールは、肯定するでも否定するでも、笑い飛ばすでも重々しく頷くでもない。ただ一言だけ言った。
「お前はそう思うのか」
そうだよ、お前がどうかは知らねえけどな。