2025-09-27
権力を持っていて、それに根付いた自信があり、これまでの経歴から自身を誇って憚らない。別にそれが悪い事とも思わないが、自身が絶対だと信じて他の人間をないがしろにするとなると気に入らなさが否が応でも跳ね上がる。
ましてやそれが、今現在、敵対しては面倒になるだけの人間ともなればなおさらだ。ミューズで傭兵隊を組織するとなると、いくら市長の後ろ盾があったとしても無視のできぬ相手というものはいる。
「お前も焼きが回ったな」
太く節くれだった指が華奢なステムをつまみあげた。ビクトールには味も値も理解できぬワインを味わうでもなく喉に流し込んだ館の主は下卑た笑いを浮かべ続ける。
「俺に一声掛けてくれりゃ、わざわざこんなガキみてえなの選ばなくても良かったのに」
いくらビクトールが言いつのってもも、主はフリックをまともには見ようとしない。
自身をここまで押し上げた力とそれに根ざした自信だけがこの男に取っては本物で、それ以外は偽物だ。男にとって図る価値など端から存在しない。
ビクトールは内心ため息をついた。そっと隣を伺えば、フリックはなんとも感情の読めない顔で高価いワインをちびちびと舐めている。その間も、男の演説は止まらない。
「ミューズに傭兵隊を作るのはいい。それに力を貸すことはやぶさかじゃねえ。ビクトール、お前が頭というのだってまったくもって不満はない。ただ、わざわざ俺に引き合わせる程の人間が、このずいぶんなやせっぽちなのが気に入らない。ただそれだけなんだ。それだけがなぜ理解できないのか、俺にはそれこそ分かんねえのよ」
男の言葉に迷いはなく、明確な悪意も存在しない。
だからこそ面倒なのだ。
ミューズの高級住宅街のど真ん中。この館の主から豪奢に飾り付けられた厭味ったらしいほどに大きな屋敷に招かれた時には嫌な予感しかしなかった。自分が値踏みされるのはまったくもって構いやしないが、問題はビクトール自身がトランから盗んできた男にある。
傭兵たちの中にあって悪目立ちをするほど痩せた体つきが、価値の分からぬ人間に取ってはあまりにも大きな痂疲に見えると言う事実を、ビクトールはこの数週間嫌というほどに味わってきた。
目の前の男とてそう。何なら、今まで引き合わせた中でも最大の権力者という点において最も厄介と言っていい。ビクトールは改めて口を開く。
「こいつを外す気はねえんだよ。でも、あんたの手を借りねえって相談も出来ねえ」
どちらかを取らねばならないとしたら、取るほうなど決まり切ってはいるがそれを見せる段階ではまだないはずだった。利は十分に示せているし、傭兵隊そのものに男はさほど関心を寄せている様子はなかった。
ただ、自分が価値を感じるビクトールという存在が、それ以外のものに価値を感じている様を訝しがっている。本当にそれだけ。それだけなのに、まるで世界の真理を知っている顔をしているのだから滑稽だ。
「分かってる分かってる。力は貸してやるさ。あの市長にも貸しが出来るってんだからそれも悪くねえ話だ」
広げた掌は分厚いし、ビクトールよりも十五は重ねた年を感じさせないほどに鍛え上がれた体を揺らして男は笑う。鷹揚に、力強く、深い湖面が揺れるよう。
「もしかして市長が押し付けてきたお目付け役か? ビクトール、あんたを信用出来ねえなんてアナベル市長もやっぱり女だな」
全部がこの男の中で完結していて、外からの情報は必要がない。
この男はそう言うものだ。それでここまで生きてきた。
ビクトールは使い込まれて濡れたように光る皮張りのソファに居心地悪く座りなおした。直接侮辱された隣の男が黙りこくっているのが、まさに導火線を火が巡っている爆弾に見えて仕方がない。
ふいに応接室のドアが開き、男の部下が音もなく入室してきた。耳打ちされた言葉に、男の眉が寄る。敵の多い男の事だ。いくらでも火急の要件は存在するに違いない。
「申し訳ないが、少し外させてくれ。すぐに戻る」
部下と小さく言葉を交わしながら主が部屋から姿を消すと、途端に空気が濃くなったような錯覚を覚えた。深く深くため息をつき、ビクトールは隣を見やる。
「……大丈夫かよ」
フリックは一瞬前までの静かな動作が嘘のように、勢いよくワイングラスを煽った。濡れた唇を指先で拭う。
「大丈夫、って言うと思ったか」
「思わねえよ」
卓の上におかれたワインボトルを取り上げ、空いたグラスに注いでやる。複雑な果実の匂いがそれだけで鼻をくすぐって、やっとこれの味が分かるような気がした。
「思わねえけどさ。お前が切れたらどうしようかとはおもってた」
フリックのプライドの高さなど今更言うまでもない。相性が最悪なのも引き合わせる前から知っていたから直前まで連れていくか悩んだのだ。ただ、わざわざ隠すような真似をするのも業腹ではあったし、何より何も分かっちゃいないあの男よりも、目の前で高価いワインを安酒と同じノリで煽る男の方がビクトールにとって圧倒的比重が重い。
決裂したら面倒ではある。だが面倒なだけだ。折れさせてまで得るべき利ではない。
ビクトールの思惑など知ってか知らずか、フリックはつまらなそうに眉を寄せる。ワイングラスを引き寄せる腕は長く寝付いたせいもあり、骨ばってビクトールの半分もないようにさえ見えた。
傭兵働きに支障がない事はビクトール自身がずっと見てきたから疑いようがない。それでもなお、心のうちのどこかで小さく庇護の欲がわくのはいつまでもどこか子供のような線の細さが残るからなのだろう。
フリックがそれを厭うていることは分かり切っているからビクトールが口に出すことはしないが、他者から向けられる視線のいくらかが侮りを含むのは今に始まったことではないはずだった。
「ああいう手合いはさ」
注いだワインがくるりと回る。
「下手にぶちのめすと逆恨みするんだよな」
「……経験がおありで」
フリックが自身よりも縦にも横にも奥行にも大きい人間に絡まれているのなど、数えるのが不可能な程に見てきた。だが、負けたところはついぞ見たことがない。
自身の力の根源を疑わない人間が横っ面を張り倒される。張り倒した人間にどんな目を向けるのか。
ビクトールは口を開きかけてやめ、自身のグラスに注がれたワインに口をつけた。そうしてまた口を開き、何を言うべきか見極められずに隣の男に目を向ける。館の主の出て行った方を眺めながら無造作にワインを舐める唇の薄さとか、首筋の細さ。ひとまとめに出来てしまいそうな両の手首の頼りの無さと言ったら。
「……こりゃあれだな」
「何」
ビクトールの中にはこれ以外の言葉が存在しない。
「心配してんだよ」
ものの価値の分からぬ人間に値踏みされ、存在を軽く扱われる。実力に裏打ちされたプライドと言う点では、この館の主と同じなのに顧みられない可能性。つかなくても良い傷を、フリックに与えてしまうとしたらそれは避けるべきなのでは、と具にもつかないことを考えている。
フリックはひとつ目を瞬かせると、いっそ困惑したように言葉を繰り返した。
「心配」
「……いや間違えたな。忘れてくれ」
これもまた侮辱だ。ビクトールよりもよほど丁寧に作られた生粋の剣士に何をそんな。ビクトールは肺の中を空にするほど息を吐き出す。自分ごときが気を回さなくても、こいつは自分で自分の世話を焼ける。
頼ってほしいとか、世話を焼きたいとか、そう言うものは向けられて気持ちのいい感情じゃあないだろう。なら、自分たちの間には不要なものだ。
何をいまさら。
フリックがそう言ったのと、館の主が扉を開け放ったのは殆ど同時だった。主が豪快に笑う。
「待たせたな。部屋を用意させたから今日は泊って行ってくれビクトール」
まったく変わらず、フリックには視線もむけない主が一瞬だけありがたかった。
自嘲を含ませ、だがビクトールをまっすぐに見つめて目を細める顔から伝わる親愛が、主の目にひとかけらでも映る事なんてあってはならないのだから。