2025-06-04
グラスも干したし明日も早い。向かいのビクトールのグラスはまだ半分ぐらい満たされているが、飲み干すのを待つのも面倒だ。先に寝ようかなと思ったその時だ。何かしら考え込んでいたビクトールが、意を決したように言った。
「キスしていいか」
「は?」
広くもない部屋に相応しい小さな椅子の粗末な背もたれに背中を預けるようにそっくり返った状態から勢いよく座りなおしたビクトールは、ゆっくりと頬杖をつく。
距離を詰めるでもないその仕草に、聞き間違えか何かだと思い込もうとして失敗する。ビクトールが同じ言葉を繰り返したからだ。
「だから、キスしていいかって」
思わず寄った眉間のしわを指先で伸ばす。
「なんで」
「なんでって。お前も俺のこと好きって言っただろ」
「……言ったけどさ」
数日前、今日みたいに本当に何にもない夜の事だ。今日のように先に寝ようかな、と立ち上がった俺にビクトールが言ったのだ。至極単純で、聞き間違えようのない言葉で、俺の事が好きだって。
どんなタイミングだ、と問い返すと、俺たちは明日死ぬかもしれない身の上だからなと返された。なるほど、それは道理だな。じゃあ俺は、と心の中をひっくり返しても、少なくとも拒絶は出てこなかった。俺も好きだよ。ただ、同じ温度では返せないな、とも思ったから、そのまま伝えた。
ビクトールが全部分かっていると言わんばかりに頷いて嬉し気に笑って俺の髪を撫でて、話はそれで終わった。
まるで夢か何かみたいだな、と翌朝思って、今も思っていた。
誰かに向かう思いが、あふれてしまうのは分かる。受け入れられるとかそう言うのよりも先に、出来れば知っておいてほしいという欲が出る。そういうものじゃなかったんだな。
「あれ、夢じゃなかったのか」
「現実ですぅ」
ビクトールは俺と話すときにはいつも浮かべているような、からかい混じりの笑みを唇にはいたままだ。何にも変わらない。少なくとも、表面上は。
「俺はお前のことが好きだよって言ったし、お前も好きだって言ってくれたし」
「はあ」
殆ど素面で聞いているのが堪えられなくなってきた。卓の上に置きっぱなしの酒瓶をひっつかんで傾けてもさしたる量は入っていないときたもんだ。俺の、醜態にビクトールが笑みを深める。
瓶とグラスを置きなおして、そのまま頬をこすった。熱くなっている気がする。子供じゃあるまいにな。
「好きだよ」
いつもと同じ声音、同じ響き。作っていないからこそ、ビクトールにとっては自明の事だと分かってしまう。
好意を伝えて、受け入れてもらえて。触れ合うことまで許されるなんて幸福の極み。
それは理解している。覚えもある。だが、そんなよろしいものをビクトールが自分に向けるという一点のみが分からない。
手に顔を埋めて、黙り込んだ。頬と言わず耳と言わず熱いから、まあさぞ真っ赤になっているんだろう恥ずかしい。いい大人が、好意を伝えられた程度でこの体たらくとは。
ビクトールが動いた気配がした。かさついた指先が、耳をなぞって髪の毛に差し込まれる。ほんのわずかに引き寄せられる感触があったが、それはとてもとても弱くて、まるで許されるのを待っているようだ。
いや、まるで、じゃなくて、事実待っているんだろう。
こわばった指を顔から離してみれば、ついぞないほど近くに見慣れた顔があった。
よく日に焼けて荒れた肌が上気している。
「お前、顔真っ赤だ」
自分のことを棚に上げて言えば、ビクトールは数度瞬きをして見せ、そしてにやりと笑った。
「好きな奴とキスできるかどうか、って瀬戸際で赤くならねえ奴がいるかよ」
自分は思いのほか狼狽えているようだった。ビクトールが俺を好きだって。だからキスしたいんだそうだ。
でも、だ。目の前の男も顔を赤くして、俺に触れたままじっとしている。いくらでも引き寄せられる大勢で、でも俺が許可をしないからこうして待っているようだ。
俺は狼狽えているし、ビクトールは我慢している。好きだといった理由が、明日も知れないからだと言ったのに。
ここで俺が拒絶したら、ビクトールはまた我慢するのかな。
明日死ぬかもしれない。自分たちはそういう生き物だからだ。
「ビクトール」
ここにいるのが誰で、触れているのが誰で、誰に望まれているかを確認するように名前を呼んだ。
見慣れた顔が軽く笑う。
「キスしていい?」
「お前、俺の事好きなんだろ」
「おう」
「じゃあしろよ」
後頭部に回った掌に力がこもって、引き寄せられる。嬉し気にほころんでいたビクトールの顔が、触れ合う瞬間にひどく真剣な色を帯びる。
こいつ、本気なんだな。触れ合うだけの口づけはまるで子供の遊びのようだが、初めて触れ合うかのような真剣さだと頭のどこかで他人事のように思った。