龍菟婚姻譚昔々ある所に、卯の國という所がございました。
そこは愛らしい兎の耳の生えた菟一族が住んでおり、彼等は平和に暮らしておりました。ですが、彼等には守らねばならない掟がございました。
神龍の一族の長に加護を受ける代わりに、贄として毎年若い兎を差し出さなければならなかったのです。
贄に捧げられた菟は誰ひとり卯の國へ戻って来る事はありませんでした。神龍に捧げられる供物……つまり喰われる為の贄だったのです。
今年も卯の集落に贄の献上を報せる白羽の矢が長の家の屋根へ立てられました。ですが、長は孫娘が贄に選ばれるなど耐えられぬ、あの子は未だ嫁入り前なのだと言って聞きませんでした。困り果てた菟一族の者達は、話し合いの結果ペッシという少年を贄にしようと思い立ったのです。
ペッシは、他の兎とは違って、白ではなく茶色い兎の垂れ耳に、白くふわふわとした髪質と違い緑色の髪で、脚の速さも劣っており、他の菟一族から虐げられていました。
贄に選ばれたと聞かされた時も、これ以上生きていても良い事などない、寧ろ神龍の供物になって喰われる事で卯の國が安定するのならば、と諦めにも似た境地だったのです。
死装束に似た白い着物を召されて、ペッシは龍の彫刻の施された美しい神輿へ乗せられました。
やがて竜の門と呼ばれる場所へと辿り着くと、担ぎ手はやれお役目が終わったと踵を返し帰ってしまいました。
去っていく同胞の後ろ姿にペッシは、矢張りオイラは要らない子なんだ。捨て子だったオイラを育てた義両親からすら、愛されてなかったのだと唇を噛みました。
ペッシがさめざめと泣いていると、門の向こうから人影が近付いて来るのが見えました。
ペッシはぐいっと涙を拭い地面へ膝を付き深々と平伏しました。躾で身に付いた訳ではなく、そうすれば嬲られる事もないと学んできたからです。
「問おう。お前が今年の贄か」
地を這うような低い声が鼓膜をびりびり震わせペッシは恐怖で身が竦みそうになりました。
「はっ…はい…お初にお目にかかりやす、ペッシと申します」
「顔を上げて、俺に見せろ」
ペッシは躊躇いそうになりました。美しく白い毛並みでもない、ましては周りから醜い容姿を揶揄されてきたペッシは、こんな見窄らしい兎を差し向けられて神龍の怒りを買ってしまうのでは、と今更不安になったのです。
「――別に取って喰らう訳ではない。それとも、頭を上げられない他の理由でもあるのか?」
有無を言わせない言葉の圧にペッシは震えながらもとうとう顔を上げました。
目の前には、長身で、金の髪を靡かせ、立派な角を持ち、青い瞳に硬い鱗に覆われた手と尾を持ち、煌びやかな衣を羽織った男が立っていました。
「あっ、あの、オイラっ、」
望んだ贄とは違う、と突き返されたりでもしなら、何て言おうかとペッシは必死に考えました。里に戻された所できっと居場所などない事は分かっていました。
「何をそんなに怯えている。俺がそんなに恐ろしいか?」
男は手を伸ばしてペッシの頬へ軽く触れてきました。
ひんやりとした感触にペッシは思わずびくりと肩を竦めてしまいます。
「だ、だってオイラは神龍への供物で、」
「……そうだったな。勝手に触れて悪かった」
男は鋭い爪のある手を引くと言葉を続けました。
「俺はプロシュート。神龍の一族の――末裔だ。神龍の屋敷へ案内しよう。来い」
プロシュートは一瞬で龍の姿に変身するとペッシへ頭へ乗るよう促してきました。言われるがまま頭に乗って角に捕まるとまるで風のように空へ昇っていきました。
どんなに高く跳ぼうとしても他の兎より劣っていたペッシは驚きと感動で目を輝かせました。しかし、その一方でオイラが醜いからこの神龍様は触れてきてはくれなかったのだ、と胸の内には悲しみが広がっておりました。
連れて来られたのは広くて大きな屋敷でした。長の家よりもずっと立派です。
プロシュートはあっという間に神龍から半身半獣の姿へ戻りました。
「ようこそいらっしゃい、此処に客人なんて久し振りだ」
出迎えてくれたのは、紫の髪で片目を隠した青年でした。
「メローネ。馳走の用意をしろと言った筈だぞ」
プロシュートの冷ややかな口調にメローネと呼ばれた青年は肩を竦めます。
「全く、相変わらず蛇使いが荒いんだから」
メローネはそのまましゅるしゅると蛇の姿となってどこかへと行ってしまいました。ペッシがぽかんとしていると、プロシュートが口を開きました。
「アイツはメローネ。蛇神で俺の使用人」
「あっ、あの、召使いならオイラだって、」
ペッシはつい癖でそう提案してしまいました。家では家事をやらされていたし、ペッシにとってはそれが当たり前だったのです。
「お前は客人なんだ、大人しく持て成されてろ」
小さく溜息を吐くプロシュートに、ペッシはやはり此処でもオイラは必要とされてないんだと酷く落ち込みました。
そのせいか、出された馳走にもあまり食が進んでいませんでした。
「どうした。口に合わんか」
向かい側に座るプロシュートの視線が痛くてペッシはとうとう本音を口にします。
「だって、どうせオイラ生きたまま喰われるんだろ?」
「……何?」
プロシュートの片眉がぴくりと吊り上がりましたが、ペッシは小さく笑って続けました。
「前の年もその前の年も、贄に選ばれた兎は帰って来なかった、だから」
するとプロシュートはくつくつと低く笑い始めました。
「それは違う。菟一族の仕来りと称して『間引いてる』んだよ。知恵遅れだったり、体が弱かったり、異形の子とかをな。信じられねぇなら、この屋敷で生涯を終え天寿を全うした贄の子達の墓でも見るか?」
プロシュートの語る真実にペッシは到底信じられる気持ちになれませんでした。嘘だ。卯の國の繁栄の裏にはそんな闇深い歴史があったなんて。
「我々神龍一族は菟一族よりずっと長く生きている。だがその代償なのかそれとも呪いなのか――結局俺が最後の末裔になった。皮肉な話だな。菟は子孫繁栄が約束され、龍は滅びゆく運命だなんてな」
プロシュートは御神酒の入った盃を傾けました。
「それじゃあ、オイラもやっぱり『間引かれた』んだね」
腑に落ちたペッシは項垂れるように俯くしかありません。
「……すまない。お前を傷付けるつもりでは決して、」
プロシュートは罰が悪そうに瞳を伏せました。
長い睫毛が綺麗だな、とペッシは意味もなく見蕩れてしまいそうになったものです。
「あの、ご飯を食べ終えたら贄の子達のお墓に案内してくれねぇか?」
「構わん。時間なら幾らでもあるからな」
幾分か態度を和らげたプロシュートにペッシはほっと安堵します。
こうして、プロシュートはペッシを連れ立って屋敷の離れにある墓へお参りへ行きました。
墓石のひとつひとつに名が刻まれており、きちんとこまめに手入れをしているようでした。
「あの、ありがとうございやす。オイラの我儘を聞いてくれて」
「俺にとっては個々で余生を過ごした贄達は皆家族みてぇな存在だった。それでも俺よりずっと早く生涯を終えてしまうがな」
プロシュートはほんの少しだけ遠い眼差しになっていました。召使い以外に親しい者も話し相手も居なかった彼にとっては、きっと菟との交流が唯一の楽しみだったのでしょう。
きっと、オイラと同じで孤独でひとりぼっちだったんだ、とあんなに畏れてしまった事を恥じました。
「それに、あんな怯えた態度をしちまってごめんなさい」
「生憎だが俺は殺生は趣味じゃない」
ふっ、と笑うプロシュートにペッシはどきりとしてしまいました。こんなにどぎまぎしてしまうなんてきっと神サマだからだ、と己に言い聞かせ、ペッシはゆらゆらと揺れる尻尾をただ眺めるしかありませんでした。
「この屋敷の中では自由に過ごせ。退屈しのぎになる古今東西の書物なら書物の間にある。困り事があればこの蛇寄せの笛を吹くといい。メローネが来てくれる筈だ」
「えっ、でも、プロシュートさんは、」
「余所余所しい呼び方は嫌いだ。兄貴とでも呼んでくれ。俺は番を探す為に毎晩夜空を飛んでいる。邪魔立てするなよ」
プロシュートはそう言うとペッシの方へ省みる事なく長い廊下を歩いて行ってしまいました。
残されたペッシはしょんぼりするしかありませんでした。
番を探すのはきっと当然の事なのでしょう。一族の子を残さねば神龍の血は完全に途絶えてしまいます。ですが、触れようとして手を引いた時のようにわざと避けられている気がして胸がずきずきと痛むのでした。
「やっぱりオイラがこんな見てくれだからなんだろうな……」
――それから、プロシュートは時折ペッシの様子を見る名目で時折ペッシの元へやって来るようにはなりましたが、相も変わらず距離感を保ったままでした。それでも、プロシュートが話して聞かせてくれる龍の話はとても面白いものでした。
かつては聖獣として崇められてい事。
時には厄災の象徴とされ畏怖されたりまたある時は願いを叶える存在として君臨していた事。
プロシュートはペッシへ触れはしなかったものの、膝へ少年を乗せて語り掛けるのがいつしか日課になりました。
やがてペッシも読書だけで過ごすのも気が滅入ると料理を作るのを手伝ったり田畑を耕すようにもなりました。
プロシュートはいつもその様子を傍で見守ってくれました。
そんなある日の事です。
ペッシはとうとう聞かずにはいられなくなり、プロシュートへと問い掛けました。
「ねぇ兄貴、どうして兄貴はオイラに触れてくれないんだい?」
「……何故そんな事を訊く」
あからさまに不機嫌そうになったプロシュートに、ペッシは焦りました。プロシュートに見限られこのまま追い出されでもしたら。きっとオイラは生きていけない、と。
ペッシにとってこの屋敷は唯一の居場所でした。
蛇神のメローネ、彼だけではなく時折遊びにやって来る鼠族のホルマジオ、丑神のイルーゾォ、寅のリゾット、馬神のギアッチョ、羊族のジェラートが芸として見せてくれる猿のソルベ、屋敷の周りを飛ぶ鳥、迷い込んだ子戌、畑の野菜を奪おうとする猪。
どの動物もペッシの良き友人で隣人でありましたが、彼らとの交流でもペッシの心は満たされる事はありませんてした。
「ごめんなさい。でもオイラ、他の菟族と違って可愛らしい訳でも愛嬌がいい訳でもねぇし――」
するとプロシュートの美しい青い瞳がみるみる深い海の底のように暗くなっていきました。
「……ないからだ」
「え?」
「お前を傷付けたくないからだ」
じりじりと行灯の炎が燃える音がやけに大きく聞こえました。
ペッシは心の中でプロシュートの言葉を幾度も反芻しようやく彼の言葉の意味を理解したものです。
「えええええええっ!?」
プロシュートは朱に染まった頬を手で覆い隠すように続けました。
「見ての通り俺の手は竜の鱗で覆われて硬く爪だって鋭い。迂闊に触れて愛いお前を傷付けてしまうのではないかと畏れたのだ」
ペッシは、目の前の神龍の末裔が途端に愛おしくなりました。
「でも兄貴は番を探す為に毎晩夜になると屋敷を離れてるって――」
「無防備に眠るお前の寝顔を見て見境もなく欲を向けてしまいそうになったから、口から出任せを……悪かったよ」
プロシュートは初めてほんの少しだけ砕けた口調へ変わりました。神龍故に尊大に振舞おうと必死に振舞っていたのでしょう。そんなプロシュートが、自分にだけこんな風に心を開いてくれた事がペッシはとても嬉しくなりました。
「兄貴、オイラ、兄貴が考えてる程ヤワじゃねぇよ。そりゃ最初は兄貴の事怖いって思ったし贄のオイラを喰う恐ろしい存在だって警戒していたけど、今は違う。オイラは、兄貴に触れたいし、兄貴にも触れて欲しいんだ」
勇気を振り絞った一世一代の告白にプロシュートは戸惑いの表情を浮かべました。
ペッシは、えいやっとその手を取ると、自分の頬へ触れさせました。
「ほら、オイラ、どこも怪我なんてしてませんぜ」
プロシュートは天を仰ぐとようやくペッシへ向き直りそしてこう言いました。
「ここにやって来た贄の子の中でも、お前は一段と変わってやがる」
そしてプロシュートはペッシへこつんと額を擦り合わせました。
「本当はな、お前を一目見た時から気に入っていた。種族なんて関係ない。俺はお前に惚れている。だから、番にならねぇか。お前が天寿を全うして死ぬまででいい」
「へへっ、じゃあ少しでも長生き出来るようにしねぇとな」
こうして、神龍のプロシュートと菟のペッシは祝言を挙げ、幸せに暮らしましたとさ。 おしまい。