鬱陶しい程の恋聖マルタの回廊は複雑に入り組んでいて、慣れない者はきっと迷ってしまうだろう。
レイモンド・オマリーは亀の池を通り過ぎ真っ直ぐ目的地へと歩いていた。
控えめに扉をノックしたのは、聖マルタの家の教皇の執務室。
ドアが開かれ、若く面立ちの整った教皇が出迎えてくれた。
「さぁ入って」
「失礼致します」
この仕事をしていても、未だに教皇の執務室へ入るのは緊張する。故教皇は秘密主義で、秘書のヤヌシュ以外のモンシニョールすら執務室に出入りをしていなかった。
それだけ誰も信用していなかったのだろう。
だがインノケンティウス14世は違う。開かれた教会を目指す新教皇は、自分の方針に反対する者すら部屋に入れて主張を傾聴し意見を述べる。
故教皇と真っ向から対立し卑怯な手で貶めようとしていた、テデスコ・ゴッフレードですら彼のその手腕に感心している。勿論やるべき課題はまだまだ多い。だが、伝統を残しつつも 新しい方針を取り入れ改革を果たそうとする彼をいつしか誰もが慕うようになった。勿論その影にはトマス・ローレンスの功績が大きい。身体的特徴の秘密を自ら公表した時も矢面に立ったのはローレンスだったし、味方は多い方がいいとLGBT団体へコンタクトを取ったのもローレンスだ。
結果、インノケンティウス14世はその容姿も相俟って人気の教皇となった。
「聖下、頼まれていた報告書です」
書類の入ったファイルを差し出す。
インノケンティウス14世が教皇になってからレイは頻繁に出入りするようになった。聖職者による汚職が相次いだ為改めて108人分の枢機卿の過去の経歴と金の使い道を洗い直している所だ。勿論調査に協力的な枢機卿ばかりではない。トランブレとアデイエミの事があったから疑うのかと睨んできた者もいたし、こんな事をしても抑止力になどならないという意見もあった。だがレイはインノケンティウス14世が教会の悪しき体質を変革させる為の調査だと信じている。
ローレンスと同じ位、彼もまた秘密をなかった事に出来ないのだ。
「ありがとうございます、レイ。苦労をかけましたね」
シンプルな白い法衣を纏ったインノケンティウス14世が微笑む。
「いえ。てっきり私はディーンから『我々の仕事は粗探しではない』と咎められるかと」
レイは小さく肩を竦めた。枢機卿秘書団長であるレイはコンクラーベ後もトマス・ローレンスの右腕であり続けた。
レイが調査し、ローレンスが問題を芽の内に摘み取る。
いつしか彼らはバチカンのホームズとワトソンと噂されるようになった。
「ディーンはただ貴方の働きぶりを評価しているだけですよ。正直私はレイが羨ましい」
インノケンティウス14世は立ち上がると窓辺に近付きそこからサン・ピエトロ広場を見下ろした。
「その…羨ましい…とは?」
レイは戸惑った。自分の上司と新たな教皇が親密な仲である事をレイは知っている。コンクラーベ中の僅かな交流だけでそんな深い関係になるものなのかとレイは考えたが、不思議と嫌悪感は感じなかった。キリスト教の教義が何であれ喩え同性であっても愛し合う者同士が寄り添い合う事がどうして罪になろうか。
「――時折、トマスが私へ遠慮してるのではと思う時があります」
伏し目がちの横顔には明らかに表情に翳りが見えた。
「ディーンは真面目一徹ですからね。純潔の誓いを破る事に未だ躊躇いがあるのかも知れません」
レイはローレンス自身ではないので分からないがそう答えた。正義感が強く要らぬ苦労を背負いがちなローレンスの事を案じているのはレイも同じなのだ。
「本当にそれだけでしょうか」
インノケンティウス14世が深々と溜息を吐く。
これは彼の苦悩を聞き出すべきだ、とレイは冷静に判断した。
「ならば私が代わりに貴方の憂いをディーンに伝えましょう。インノケンティウス14世としてではなく、ヴィンセント・ベニテスとしての気持ちを」
途端に14億人の頂点に立つ神の代理人はただの人になる。
「トマスは本当に私を大事にしてくれます。それこそ壊れ物を扱うかのように。彼に大切にされてるのは嬉しいのです。でも、だからって二人きりの時に何もしてこないんですよ?互いに忙しい合間を縫って逢瀬を果たしてるというのに!」
ベニテスはくるりとレイの方へ向き直ると静かだった口調が次第にヒートアップし、やがて早口になってスペイン語で捲し立てた。あー、これは愚痴と言う名の惚気か~とレイは心の中で呟いたが流石に口にはしなかった(正直聞かされる方の身にもなって欲しいものだが)。
「それは本人に直接伝えるべきなのでは?」
レイの正論にベニテスはぐっと息を飲むとみるみる頬を染めた。
「そ、それは、恥ずかしいですし、私ばかりが恋に浮かれてるみたいではありませんか」
変な所で純粋なあたり、インノケンティウスの名に相応しい人だ。レイは小さく咳払いをした。
「お言葉ですが、ディーンも貴方と会う時は浮き足立ってるんですよ。傍から見れば分かりやすい程に」
レイの言葉にベニテスはぽかんとしていた。それもそうだろう。好いた人の前では格好をつけたくなるもの。
ベニテスの前ではそんな様子を一切見せてなかったに違いない。
「本当、ですか?」
「ですが、貴方が不満を覚えているのだとしたら、私が発破をかけるしかありませんね」
レイは眼鏡の蔓を持ち上げた。どうやらこのじれったい恋人達を進展させられるのは自分だけのようだ。
「レイ、一体何を」
「私を信じてお任せ下さい」
レイは踵を返して執務室を後にした。
そして、ベニテスの本音を一字一句漏らさずに伝える為ローレンスの自室へとレイは向かっていったのだった――。
……その後。
夜分遅く少し髪とカソックの乱れた姿で教皇の部屋から出てきたローレンスを見た話題がシスター達の間で持ちきりだったとか。