「ひよ里」
覆い被さられ両腕を抑え付けられる。だからといって、今更体格差が気になるような関係ではない。腹が立つままにいつものように蹴ったぐってやればいい。それなのに、足を動かす前にその顔を見てしまった。息を呑む。力を入れかけた足がへなりと床にへばり付いた。冷たく鋭い視線はひよ里の瞳に注がれたままだ。
「……わかっとんのか」
「は、」
上手く喋れない。声は喉元に張り付いてしまったようだ。
「蹴ったぐるでも頭突きするでも、逃げるやろ。いつもなら」
生唾を飲み下す。そんなことは分かっている。分かっていて、身体が動かない。床に縛り付けられた腕でさえ、容易に振り解けるような力しかかけられていないのに。
動けない。目の前の男の、良く知っているはずの男の、知りたくないところまで知っているはずの男の知らない顔に身が竦んでいる。眉間に皺が寄ったまま、真子は顔を近づけてきた。吐息がかかる距離に思わず目を瞑る。数秒の沈黙を破ったのは、真子の巨大なため息であった。
「アホ」
自分に落とされた影が薄くなったかと思うと、ぐいと身体を起こされた。
「え」
目を開けるとひよ里に覆い被さっていたはずの真子はすでにひよ里に背を向けていた。満月の月明かりはやたらと眩しい。真子の背中は影に紛れて見え辛い。
「……お前はホンマにアホや」
ぼつりと放たれた呟きは聞かせるつもりがあったのかはわからなかったが、ひよ里の耳には僅かに届いた。先ほどまでより一層低い声。それから、もう一度ため息を吐いて部屋を出て行こうとする着物の裾がひらりと揺れ、そして再び止まる。
「……何のつもりや、ひよ里」
「え、……あ、」
真子が足を止めたのはひよ里が着物に伸ばした腕のせいだった。膝の辺りで薄手の生地に僅かに皺がよっている。無意識だった。
「もう別のとこで寝るつもりやねんけど」
真子の声は変わらず普段より低いままだ。それでもひよ里はその手を離さない。ぎゅうと握りしめると着物の皺が深くなる。
「シンジの部屋はここやろ」
「流石にこの時間にオマエを外に出すわけいかんやろ」
「うちも別に出ていかん」
「はあ?」
真子が再びひよ里の方に顔だけ向ける。着物から手を離してやれば、身体ごと振り向いた。ただでさて逆光なのに座ったままでは余計に顔が見えないためひよ里は立ち上がって真子を見上げる。
「こないな時間に、別の部屋なんて、行く必要ないやろ」
「ひよ里、」
「意味は、分かっとる!」
勢いをつけたは良いものの、顔は見れずに今度は真子の着物に顔を埋める。すると良く知る香りがつんと鼻腔をくすぐって、ぶわりと、何かがひよ里の中を駆け巡るような。
「わけわからん、ホンマ腹立つしわけわからん。ホンマなんでや。けど、」
再び握りしめた着物の裾をぎゅうと掴む。
「シンジがおらんくなるのは、イヤや」