いつかはこういう日が来ることはきっとどこかで理解していた。
U-17W杯。日本代表は今日予選リーグを突破し、決勝トーナメントへの進出を決めたばかりだ。
「日吉。これから付き合え」
言葉少なに跡部にそう告げられて、日吉はラケット片手に従う。普段なら口をつく憎まれ口は言葉にしなかった。太陽は残り少ない今日の出番を良いことに空を紅く染めはじめ、残り火にしてはやたら眩しく自らの存在を主張している。
所狭しと人でひしめき合っていたテニスコートも、決勝トーナメントを控えるのみとなった今は空いているコートを探しやすくなった。それなのに跡部は殊更人気のないコートに着くまで足を止めようとしない。日吉も特に何も口を挟まなかった。
大会会場の喧騒から逃れるようなひっそりとした静けさのあるコートに着いた頃には日はもう暮れかかっていた。跡部は立ち止まり日吉を振り向いてただ頷く。日吉も頷き返すことしかできない。ただ黙って、ネットを挟んで跡部と相対する。日吉の準備が出来たのを見ながら跡部はもう一度頷いて、ベースラインの後ろについた。どうやら跡部からサーブをするらしい。
(なんだっていい)
この人とこうしてテニスが出来るのならなんだって。テニスをはじめた時からいつだって変わらない。ただ身体の中の血が騒ぐ。ぶるりと身体の奥から震えるのは抑えきれない興奮を宥めるためだ。
下剋上だ。
この気持ちははじめてこの人のテニスを観た時からずっと変わらない。
「……少し休憩するか」
「……そうですね」
夕暮れに紅く影を落としていたテニスコートはいつの間にか雲がかった月明かりと煌々と明るい照明に照らされていた。正確にはわからないが二十分は打ち合っていただろうか。ボトルを手にしながらすっかり星に染まった空を見上げる。今夜は三日月だ。僅かの雲であってもその光はすぐになりを潜める。柔らかく吹く風はどこか生温いから、もしかしたらこれから一雨来るのかもしれなかった。
くっくと喉を潤して、汗をタオルで拭う。それから隣で同じように息を吐いている跡部を見つめた。跡部は日吉の視線を知ってか知らずか心持ち日吉に背を向ける。すうと、頭が冷える気がした。
「跡部さん」
「……どうした、日吉」
「これから俺と試合してください」
跡部の背中がぴくりと動いて、それから日吉の方を振り向いた。自分を捉えた瞳を離す気はない。じいと強く見つめて、跡部が再び目を逸らしそうになるその瞬間に日吉は言葉を投げる。
「跡部さんは、プロに進まないんですね」
跡部の目が大きく見開かれた。跡部が口を開くまで日吉は待つと思っていたのだろうか。生憎と日吉はそこまでお人好しではないし気が長いわけではない。今日このタイミングで呼び出された段階で、もう察しはついていた。
「……この大会が最後、なんでしょう?」
日吉は続ける。目だけは逸らさずに。しばらく見つめ合って、均衡を破ったのは跡部だった。ふ、と小さく息を吐いて目尻をそっと下げながら。
「……そうだな」
柔らかくさえある響きを伴った言葉。そこに諦めは含まれていない。あるのは、確かな決意だけ。その決意を、日吉はこの時はじめて跡部から聞き出した。
知っていた。彼が留学のために準備を進めていることも。その留学はテニスの為ではなく、将来自らの会社を背負って立つ為のものだということも。分かりきっていた。傲岸不遜なこの人は結局、自らの為により多くの人を牽引する為に最適な道を選ぶのだと。そのあまりに高く険しい道を進むのに絵空事を実行できる年齢ではもうないということ。
知っていた。分かりきっていた。それでも。それだからこそ。
(……今更)
きゅ、と拳に力を入れる。日吉は跡部に尋ねられなかった。跡部も日吉には何も言わなかった。お互い何となく気が付いていながら今日この日まで触れられなかった。そこに横たわる時間に後悔するのはあまりにも馬鹿らしい。もう時間は幾ばくも残されてはいないのだから。
「だから、俺と試合してください」
日吉にはもう、そう伝える他に道はないのだ。