BLACK BLACK BLACK「利害の話だ。こんなご時世で国家を維持するのは難しいだろう。昨日までの繁栄が今日も持続する保証などどこにも無い」
基本的にシンプルな海軍本部とは比べ物にならない豪華な部屋。
西の海の有名家具ブランドの特注品だというソファに腰掛けて、中将ドンキホーテ・ドフラミンゴは静かに言った。
相対しているのは、一人の老人。この国の王では無い。
本来であれば、国王が顔を出す筈の場に現れた側近を名乗る男である。
「……それは、莫大な天上金を支払い、加盟国入りをしても同じことじゃあないのかね。海兵さん」
唐突に、核心をつく男だ。ドフラミンゴはうんざりとため息を吐いて、ゆっくりとソファに沈み込む。
「確率の話だぜ。人攫いの連中は明確に加盟国を避ける傾向にある」
きっと、この男に何を言っても無駄だ。そんな事はここに来る前から承知していたドフラミンゴは次に用意してある策の方へと思考をシフトさせる。
(面倒事を押し付けられたもんだ)
ドフラミンゴが中将の座に着いてから未だ数ヶ月ではあるが、戦線での現場仕事よりも明らかに調整役や書類仕事が増えた。
こんな、グランドラインの端に位置する非加盟国を訪れたのも、海軍増強に必要な調整事をこなす為である。
「海軍本部にとって、この島が欠かせない補給地であることは知っている。それを踏まえて加盟国入りを拒んでいるのだ」
元より、足元を見られているのだ。ドフラミンゴは上への報告の建前上行わなければならない、この組織特有の無駄骨をこなしているに過ぎない。
(どう考えても、この国が加盟国となるメリットは無い)
今回、ドフラミンゴがこの国に持ち掛けた要求は一つ。
天上金を支払い、加盟国入りを果たす事だ。
そもそも、マリンフォードから南の海へ航海する際に欠かせない補給地であるこの国には、海軍専用の船着場があった。
さらに大量の物資の輸送や、倉庫の建設に海軍と世界政府が支援を行い、この国はその利で大層栄えている。
また一ヶ月ほど前、補給の為に停泊していた海兵数名が、酒に酔って暴力沙汰を起こした無名海賊団を捕らえるという出来事が発生し、事態は急速に動き出した。
非加盟国に海軍の加護無し、そんな、大きな声では言えないこの海の不文律を破る特権的国家に、とうとう政府側が痺れを切らしたと言っても過言ではなかった。
「フフフフッ!無理にとは言わねェよ。国家ごとに価値観が違うのは当然だ」
国王に断られたという大義名分を得たドフラミンゴはゆっくりと立ち上がる。
そもそも、ドフラミンゴは国王側に期待などしていなかった。
「理解があって助かるよ」
その時、応接室の扉が無遠慮に開く。
老人の方も予想外だったようで、怪訝そうに顔を顰めた。
「どうかなさいましたか?来客中ですよ」
扉から中を覗いていたのは、おさげ髪の幼い少女。
大きなスケッチブックを抱えた少女は、出会ったばかりのローよりも少し年下に見えた。
そんな事を考えていたドフラミンゴは、唐突に飛び込んできた老人の台詞に驚いたようにサングラスの下で瞳を開く。
「国王様」
聞き間違いか、それともそれが真実なのか。
ドフラミンゴの胸中などはからずに、老人は少女を扉の中へと招き入れた。
「国王様。海軍本部からの客人です。どうぞ、ご挨拶を」
聞き間違いでは無い。この国は、こんな幼い少女を国王の椅子に座らせているのだ。
ドフラミンゴはその異様な光景をただ、眺めていた。
「こんにちは。私、絵を描きたいの。もう行っても良い?」
「ええ、勿論」
何も、見ていないような丸い瞳はドフラミンゴを映す事なく踵を返す。
揺れるおさげを見ていたドフラミンゴの口元が緩慢に動いた。
「国王陛下殿。……お名前は」
何故、彼女の名前を聞きたかったのか、ドフラミンゴは自分でも分からなかった。
ただきっと、その瞳はこの男と同じ種類の世界を見ている。
ゆっくりと振り返った少女はそんな、当てずっぽうも甚だしい評価も知らず、ドフラミンゴを目だけで見上げた。
「マリアンヌ。よろしくね、海兵さん」
******
「利害の一致。そういう類のものが、一番信用できるとは思わんかね」
朱色の柱と、畳のグリーンが美しい。ラグジュアリーな旅館の一室。
出された酒を盃ごと砂にして、王下七武海サー・クロコダイルは言った。
「勿論です。食うか食われるかのこの海で、誰かと協力するには利害の一致が必要だ」
アラバスタでカジノをオープンする為の資金集めを名目に、各国を飛び回り支援者を集めていたクロコダイルを招待したのは、この街を仕切る領主である。
街、と言っても曹と呼ばれるこの街は豊富な鉱物資源を国内外に売り捌き、王宮のある中央より遥かに栄華を極めていた。
保有する資産も、人口も、領土も、一国家として見ても申し分の無い巨大都市である。
「しかし、非加盟国とはいえ海賊なんぞと取引をして良いのかね」
封建制を取るこの国は、国王から領主に土地と国民が分与される。
曹と同じように領主の収める都市があと二つ国内には存在し、王宮のある中央と合わせて四つの都市がこの国を作っていた。
国随一の繁栄を誇り、莫大な税金を中央に納めていたとしても、結局すべては国王に所有権がある筈だ。何かおかしなことをすれば土地も民も取り上げられてしまう制度の中で、わざわざ海賊に声を掛けたその真意を、クロコダイルはずっと疑っている。
「海賊といえども、貴方は王下七武海。政府公認となれば話は別だ」
「クハハハ!政府が認めているのは奪略行為だけでな。その人間性は保証していない」
輸出で儲けた金を、国内で回したい。クロコダイルを呼びつけた領主はそう口にした。
つまり、クロコダイルがアラバスタでカジノをオープンする資金を援助する代わりに、二号店をこの街に作って欲しいということである。
アラバスタにオープンするカジノは所詮、乗っ取り計画の為のフロント企業だ。
二号店などほぼほぼその道筋には無いが、とにかく資金が足りないクロコダイルは一旦、その上手い話に乗るつもりでいる。
「中央側は了承しているのか。国と揉めるのはごめんだぜ」
「ああ、それなら気にしなくて良い」
ゆっくりと立ち上がった領主は、襖を開けて部屋の中に光を入れた。
その時、太陽の光に照らされた眼球の中に、妙な灯りを見たような気がする。
「この国の中枢は……じきに腐り落ちるだろう。そうなれば、中央とはここの事になる」
何か、策があるのだろうか。
そうとしか思えない、確信を帯びた台詞を、クロコダイルは黙って聞いていた。
「あ!ロー!こっちだこっち!温泉って書いてある」
「コラさん!危ねェから前を見てくれ」
突然、ラグジュアリーな雰囲気に合わない、酷く、庶民的な声が飛び込んでくる。
開いた襖の先、庭園を挟んだ向かい側の廊下を歩く若者が二人。
私服姿は初めて見たが、どう見ても中将殿の弟君達である。
(奴もいるなら、面倒だ)
資金援助の実態を知れば、あの男は必ずその金の流れを調べるだろう。
後ろ暗い事などお互い様だが、明確に、彼らの立場は違うのだ。
クロコダイルに気付く事なく行ってしまった二人の背中をこっそりと眺めて瞳を細める。
「ところで、クロコダイルさん。この国にはいつまで滞在予定ですか」
「んあ?まあ、三日程の予定だが」
別のところに行っていた思考を、慌てて引き戻したクロコダイルは唐突に平穏を帯びた話題に返す。
領主の瞳の奥に妙な灯りはもう、見当たらなかった。
「そうですか。それなら大丈夫だ。この国は来週から一週間程ゴールデンウィークに入る」
「……ゴールデンウィーク?」
聞いたことの無い単語をクロコダイルが反芻すると、領主は穏やかに笑いながら振り返る。
「国王マリアンヌ様の誕生日から一週間、国民達は休暇に入る。店やホテルも全て休業だから、それまでにこの島を出たほうが良いだろう」
「そうか。それは羨ましいね」
国の文化にそう興味を持つ方ではないが、素直に、長期休暇があるのは良いことだと思った。
そして、話が済んだとクロコダイルも立ち上がる。
「お部屋を用意してありますが」
「いや、結構だ」
あの三馬鹿と鉢合わせるつもりなど毛頭ないクロコダイルが後ろ手に手を振りながら、さっさと部屋を後にする。
その背中を見送るその眼球に、再び妙な明かりが灯る瞬間を、あろうことかクロコダイルは見逃した。
******
「ねえ、海兵さんをモデルに絵を描きたいの」
「……」
王宮を出たドフラミンゴは賑やかな通りを抜けて、一人で駅へ向かっていた。
ちょうど、溜まった有給休暇を浪費していたローとロシナンテを連れてきている。
今頃呑気に宿で温泉にでも浸かっているであろう弟達と合流し、ランチにでもしようと思っていた。
曹という隣街までは列車が通っていて、それを使うのが一番早い。普段は使わない公共交通機関を目指して歩いていたドフラミンゴに声を掛けてきたのは、なんと、国王陛下その人だった。
「ねえ、良いでしょう。私突然人物を描きたくなったのだけど、海兵さんが良いって思ったの。スタイルもいいし。だから慌てて追いかけてきたの」
「……陛下殿」
シンプルに、至極面倒臭い。街ゆく人々は本物のマリアンヌ様か、否か、ヒソヒソし出していた。
「お願い」
「残念だが、陛下殿。仕事の約束があり、急ぎ曹へ向かわにゃァならねェ。また王宮に行くから、」
その時、嘘八百を並べていたドフラミンゴの口元が唐突に動きを止める。
それに反して、マリアンヌの唇が嬉しそうに弧を描いた。
「……お願い、海兵さん」
「……」
突然、光を無くしたドフラミンゴの双眸が何もない一点だけを見つめる。
ゆっくりと膝を折ったその大きな体がマリアンヌの足元に跪いた。
今、この少女はこの男にとっての大罪を犯したのだ。
「仰せのままに」
行き交う人々が息をのむ程に、絵になる様だった。
ドフラミンゴは服従を口走り、その小さな手の甲にキスをする。
それを、当たり前のように見ていたマリアンヌの瞳の中には、子どもの持つ無邪気しか無かった。
******
(……どうしてこうなった)
柔らかい芝生が広がる、平和な公園。
心地よい風を受け、ドフラミンゴは思う。
(あのガキ、何をしやがった)
駅でマリアンヌに会い、モデルになって欲しいと言われ、断った筈が、何故か、その後その指示に従ってしまった。
(一体、)
その時、ドフラミンゴは視界に入った自分の手のひらを不思議そうに見る。
覚えはないが、手のひらに絵の具のようなものが付着していた。
ベンチと擦れてほとんど落ちているが、何か、模様のようなものがあったような気がする。
(これは、)
「……あ?」
「え」
マリアンヌの方に視線を向けようと顔を上げたドフラミンゴは、ちょうどその目の前を通り抜けようとしていた男と目が合った。
艶やかな黒髪。顔の中心を走る傷跡。黄金の鉤爪。
良くも悪くも目立つその男の登場に、ドフラミンゴは思わず間抜けな声を上げた。
「な……なんでてめえが!」
思わず立ち上がったドフラミンゴを、酷く面倒臭そうに見ていた男は、王下七武海サー・クロコダイル。
予期せぬ役者が増えた事に、ドフラミンゴは大きな声を上げた。
「これはこれは。准将……ああ、昇進したらしいな。おめでとう、中将殿」
態とらしく拍手までして見せたクロコダイルに、ドフラミンゴは「一体なんの悪巧みだ」と思う。
優等生と英雄の顔を見せ続けるこの男の背後だって、きっと明るくはないのだろうと知っていた。
「どなた?」
クロコダイルに気を取られていると、今度はマリアンヌが足元まで歩み寄り、乏しい表情で言う。
この状況を説明しがたいドフラミンゴは面倒そうにその少女を見下ろした。
「おれの部下」
「殺すぞフラミンゴ野郎」
「そうなの。まあ良いわ、おじさんもそこに座って。そう、いい感じ」
突然の事に面食らったクロコダイルは、何故か少女の言う通りにベンチに座る。
それにつられてドフラミンゴもマリアンヌに手を引かれるまま、その隣に腰掛けた。
「そのままよ。じっとしていて」
どこまで言ってもマイペースな彼女の言いなりになっている二人は、未だ状況が飲み込めないような顔で、狭いベンチにぎゅうぎゅうで座る。
ようやっと、口を開いたのはクロコダイルの方だった。
「なんだ、あのガキ」
「オイオイ、口には気をつけろよ。国王様だぞ」
ドフラミンゴの台詞を、驚いたように反芻したクロコダイルは説明を求めるようにドフラミンゴに視線を向ける。
この、異様にも見える国家の事情を、ドフラミンゴもそう詳しく知っている訳では無かったが、大体想像はできた。
「よくある話だろ。フフフフッ!王権が世襲制である以上、権力を握る為に必要なのは王族の血だ。そこに割り込むなァ容易じゃァねェ。そうなりゃァ、その血を持たねェ人間が権力を手にする方法は一つだろう」
自然死なのか、そうではないのか、真実を知りはしないが、マリアンヌの両親はすでに他界しているらしい。
そして残された年端もいかぬ少女は、王に足る血液を持っていた。
「王の側近達は、あの小娘を傀儡にして実権を握っている」
「海兵さーん」
その時、マリアンヌとは別の、子どもの声がする。
薄汚れた衣服を纏う、汚い子ども数名がドフラミンゴとクロコダイルの足元に群がった。
「靴を磨かせてください!」
「お願いします!」
「綺麗にします!」
この海に、不幸な子どもは多い。
比較的、儲けている筈のこの国も例外では無いのだ。
儲けた金が等しく国民に分配される事はなく、持つ者は一生その地位を守り、持たざる者もそれに然りである。
「……そりゃァいい。フフフフッ!最近昇格してな、身だしなみに気を使う暇も無ェんだ」
汚れて、塊になっている髪の毛を、大きな手のひらが撫でた。
ドフラミンゴは懐からマネークリップを取り出すと、ベリー札を全て抜いて小さな手のひらに握らせる。
子ども達すら驚いたように現金とドフラミンゴを見比べて、慌ててその靴を磨き出した。
「海兵の鑑だな」
「フフフフッ!分かるのさ」
何が分かるのか、そう思ったがクロコダイルは聞き返しはしない。
悪人でありながら、他者に共感できるこの男を、クロコダイルはずっと薄気味悪く思っていた。
きっと、クロコダイルとドフラミンゴが相互に理解し合う事は、この先一生ないのだ。
「夜泣きの理由が、か?」
孤児たちに靴を磨かせているドフラミンゴは、クロコダイルの台詞に思わず顔を上げる。
その言葉の真意を、ドフラミンゴは理解してなどいなかった。
ただ、夜にまつわる自身の不幸に、心当たりはある。
「ダウラギリで……」
珍しくも、考える前に口をついた。
ドフラミンゴは自分の靴を磨く丸い後頭部をひたすらに見つめている。
「ダウラギリで、おれが、気を失った事があったろ」
数年前に訪れた雪山。殆どおぼろげな記憶の中で、消えないまま残っているのは、自分の頬を撫でた指先。
それと、
「あの時、生まれて初めて悪夢を見なかった気がする。鰐野郎、お前、何かしたか」
この男が持つ悪性の一つは、人間の選別である。
従う勝者と従わない敗者に選別し足場を固めてきたこの男にとって、イレギュラーとも言えるクロコダイルを、どこで受け入れれば良いのか分からない。
未だ、名前を付けていないその感情を、持て余すように言ったドフラミンゴに視線をやって、クロコダイルはため息を吐いた。
(得体が知れると、執着が出るんだ)
だから、嫌だったのに。こうやって、長く関わる事自体。
そうやって執着すると、未来を、その先を欲しがるようになるのは分かっていた。
過去も、未来も無い。まるで死人のような存在。それで、良かったのに。
(お前が、)
上手く隠さないから、こうして、面倒な事になる。
クロコダイルは後戻りできない事実を嘆き、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「あまりにも夜泣きが酷いから、あやしてやったんだ」
ドフラミンゴの丸い後頭部に手のひらを回し、クロコダイルはその顔を覗き込む。
何となく、その場所にするのが一番適していると思った。
「こうやってな」
「……!」
いつかと同じように、ドフラミンゴの額にキスをしたクロコダイルは、サラサラと足からその形状が崩れていく。
ポカンとする子どもたちとドフラミンゴを満足そうに眺めて、最後にマリアンヌを見た。
「国王陛下殿、またいずれ」
あっという間に風に巻き上げられてしまったその体を、追うことなど既にできない。
取り残されたドフラミンゴは、何となく暑いような気がしてネクタイを緩めた。
「あのオジサンのこと好きなの?」
「好きじゃねーよ」
靴磨きの孤児たちが、耐えきれないように言うのを一応否定して、ドフラミンゴはゆっくりと額を撫でる。
一部始終を眺めていたマリアンヌも、流石に絵を描く手を止めた。
「……好きなの?」
「好きじゃねーよ!」
同じ問答を繰り返して、ドフラミンゴは大袈裟に息を吐き出すと、広くなったベンチに深くもたれる。
従う訳ではないあの男の立ち位置が、さらに不明になってしまったのだ。
(意外と、直球に弱いのか)
一方クロコダイルは、珍しい顔が見れたと上機嫌で葉巻を吹かしていた。