不可視の深淵「……寒い。無理だ耐えられねェ」
「……」
「おいロー?ロー!大丈夫か!寝るな!死ぬぞ!」
「絶対今月中に転職する。絶対にだ」
ごうごうと大きな音を立てて、殺人的な風が吹く。
深い雪の中、たった四人のパーティは細い尾根を一列になって、必死に上を目指していた。
『……お前達に、頼み事がある。海軍本部創設以来の大事件だ』
全ては、その一言から始まった。
海軍本部大将"仏"のセンゴクは、珍しく歯切れの悪い言い方で、そう切り出した。
「何が……海軍本部創設以来の大事件だ」
舞い上がる雪で妙に煙る視界を忌々しく思い、"准将"ドンキホーテ・ドフラミンゴは吐き捨てる。
結局、大将などという大層な肩書きは、傀儡の証に過ぎないと言うことだ。
『今回の任務は、雪男の捜索及び捕獲だ』
『……』
マリージョアに住まう、この世の神々はありとあらゆる欲望を口にする。
その、膨大な要望の中の一つ。
その一つのせいで、こんな、人類は生存を許されていないかのような極地に足を踏み入れる羽目になったのだ。
『雪男だえ!雪男を見たのだえ!捕まえてここに連れて来るえ!』
雪山に関する書籍に感化された一人の天竜人がグランドラインでも類を見ないこの高山を訪れたのが約一ヶ月前のことである。
ちなみに、登山の素人どころか殆ど自ら動く事のない天竜人を安全に、尚且つ疲労させることなく登山させる為に、国家予算規模の金を浪費し、三十名の死傷者が出た。
その大惨事の末に、帰還した彼の二の句がそれだった。
『次は、海軍本部で対応してくれ』
普段仲が良いとは決して言えない世界政府と海軍本部であるが、凍傷で指の欠けた足を引き摺りながら現れた政府高官の言葉を、現元帥は無碍にできなかった。
『と、いうことでだ。ドフラミンゴ。なんとかしてきてくれ』
『できるか』
弟分たちとランチタイムを楽しんでいたドフラミンゴの執務室に現れたセンゴクの一言で、こんな事態に陥るのだから縦割り社会は恐ろしい。
『おれも行くぞ』
『ローは危ないから、じいじと一緒におかきを食おうな』
『『とんでもねェ贔屓だな!』』
『いや、おれも行くよ。ドジって滑落するコラさんしか思いつかない』
『クハハハ!元気か愚民ども!会合前に准将殿の顔でも拝んでおこうかと思ってな』
『お!クロコダイル!いいところに来たな。貴様も参加しろ』
こうして、いつも通り勝手に部外者立入禁止の執務エリアまで侵入してきたクロコダイルと、兄貴分のドジを危惧した若干十六歳の少年ローを加えたパーティは、一週間後には既に、この世の中でも随分高い場所にいた。
「しかし、こうも一面雪だとイマイチ位置関係が分からんな……。一応、目的地には近付いているんだろうな」
「麓の街で聞いた通りに進んでる。もう見える筈だが……」
雪男を見つける為に、一行がまず向かったのは、麓の街で聞いたこの山の中腹に存在する村である。
本当に雪男なるものが存在するのであれば、何かしら情報を得られると思ったからだ。
『ダウラギリ。おれ達も名前しか知らない。ただ、たまにその集落に住んでいる奴らが降りてきて、食料やら燃料やらを買い込んで山に帰っていくんだ。防寒対策で殆ど顔も見えないから、どんな奴が住んでいるのかも知らない』
あまりにも怪しいが、ダウラギリという名の集落があるのは確からしい。
しかし、一年中雪に覆われたこの険しい山を、麓で補給した必要物資を担いで登るなど、人間業ではないとドフラミンゴは思っていた。
天竜人を抱えていたとはいえ、三十人もの政府関係者が実際に、登るだけで死傷しているのだ。
(これで嘘ならシャレにならん)
その集落をあてにして、殆ど中腹まで来てしまっている。
何も無いのならば、今すぐにでも引き返さなければ、日が暮れて身動きが取れなくなってしまう。
「ドフィ!見てみろよ!」
その時、後ろを歩いていたロシナンテとローが、ドフラミンゴとクロコダイルの背中に向かって言った。
尾根から少し張り出したようなスペースの上で、弟たちは地面を指差している。
「デカい足跡!雪に埋もれていないから、まだ新しい筈だ」
言葉の通り、その場所には足跡のような窪みが点々と続いていた。
この海で平均を取るのはひどく困難ではあるが、普通サイズの人間の足に比べれば、確かに倍程の大きさである。
「……全然分からん。グランドラインにゃァこのくらいの足のサイズの奴はたくさんいるしな」
「まあ、おれ達以外にも何かしらの生き物がいるって分かっただけでも幸運な気がする」
「おい、なんか、」
その時、クロコダイルは妙に沈むような感覚を覚え、疑問を唱えた。
パシ、パシ、と乾いた音が響き、ドフラミンゴも怪訝そうに顔を上げる。
「……なんだ」
「おいまさか、」
年の功か、最年長のクロコダイルは何かに気付いたように言葉を発し、ドフラミンゴ達の背中を押した。
その焦りを、理解しない三人にクロコダイルは大きく舌を打つ。
「とっととさっきの尾根に戻れ!……雪庇だ!」
尾根から張り出したそのスペースに、地面がないことを悟ったクロコダイルが怒鳴った。
風に吹かれて張り出したように雪が凍り、まるで地面があるように見せていたその場所は、ドフラミンゴ達が踵を返した瞬間、呆気なく崩落を始める。
突然足場の無くなった四人は、その無知を悔いながら滑落することとなる。
「ロー!お前、何人までだ?!」
「ふ、二人がやっとだ!」
「「……」」
気が合う、とは、到底言えない。
仲が良いとも思ってはいなかった。
それでも、この二人は、妙なところで同じ選択を見せる。
「……わ、」
崩落しつつある足場の上で、ドフラミンゴとクロコダイルの手のひらが、まるでローに押し付けるように、ロシナンテの背中を押した。
「ロシーを頼むぞ。麓の街で待て」
「ドフィ!クロコダイルさん!」
「お、お前らどうすんだよ!」
生きるか、死ぬかのラインの上を歩いた事のあるその少年の、生命の選択ははやい。
ドフラミンゴはそれを、好ましいと思っていた。
落ちていく、ドフラミンゴとクロコダイルはゆっくりと振り返り、やっぱりそこで奇跡的な合致を見せる。
「「自分でどうにかできる」」
その瞬間、ローの手のひらが開き半透明のサークルが広がった。
他でもない、彼自身の生命を救うために齎された能力は、着実に成長をしている。
「ROOM」
そのデタラメな能力の行使を見守って、ドフラミンゴの口角がゆっくりと上がった。
その真意など、誰も知らない。
「……シャンブルズ」
消えた弟二人を見送った数秒後、足場は完全に崩壊し、氷の欠片が破裂するように飛び散った。
「おい、フラミンゴ野郎。お前どうするつもりだ」
超低温の中で金属は危険だ。鉤爪を外してこの地に来ていたクロコダイルは、いつもより少しだけ威厳を失ったように見える。
ドフラミンゴはそんな失礼な事を思いながら、クロコダイルの方に顔を向けた。
「糸で登るか。登ったところで集落が無いならこのまま下った方が良いのか考えている」
「そうだな。ちなみにおれは雪で結構濡れたから砂にはなれん。お前がどうにかしろ」
「フフフフッ!自分でどうにかできてねェじゃねェかよ……!」
その時、視認してはいないのに、何かが動く気配がする。
落ちていくクロコダイルとドフラミンゴのすぐ近くに、何かがいるような気がした。
「……!」
思わず振りかぶったドフラミンゴの手のひらが、まるで、散りゆく花のように消えていく。
痛みはない、手のひらの感覚もあった。まるで、透明になっていくようなその不思議な現象を、ドフラミンゴは凝視した。
「大丈夫。落ち着いてください」
相変わらず視界の中には何もない。
それなのに聞こえた女の声を、ドフラミンゴも、クロコダイルも怪訝そうに聞いていた。
その瞬間、あまりにも儚く、二人の体は散るようにその場から消えた。
******
『天竜人の一家だーッ!』
『殺すな……ずっと、生かして苦しめろ!』
『人間ですよ、昔から』
随分と、恐ろしい夢を見ている。
バチバチと明滅を繰り返す視界の中で、クロコダイルは断片的に他人の夢を見ていた。
(誰だ)
金髪の丸い後頭部。天竜人の子どもが二人。
怒り狂う群衆と、全ての悪事の責任を取らされた一家。
『お前の首で……聖地へ戻る!』
体に合わない大きな銃を構えた少年に、どこか、知った面影を見る。
『ドフラミンゴ、ロシナンテ』
その時突然、知った名前を聞いて少なからず驚いた。
今見せられている物が、一体どういう類いのものなのか、クロコダイルには到底理解ができない。
ただ、その目の前で、その少年は引き金を引く。
『私が父親で、』
「やーん!ごめんなさーい!ちょっと混じっちゃった!大丈夫ですか?」
「……あ?」
その瞬間、意識が一気に現実に戻り、クロコダイルはいつの間にか閉じていた瞼を開いた。
滑落した筈の体は再び雪の上に戻っていて、ドフラミンゴも不思議そうに顔を顰めている。
そして、目の前の見知らぬ女に視線を向けた。
「誰だてめェ」
「え?えーと、私は」
防寒対策か、頭から爪先まで何かしらで覆った彼女の姿はほとんど伺えない。
大きな背負子に沢山の荷物を積んだ女は、ゆっくりと顔半分を覆うゴーグルを上げた。
「この先にある村の者です。あなた達こそ、なぜこんなところに?」
やはり、妙な合致を見せるドフラミンゴとクロコダイルは、揃って頭の中で助かったと思う。
気が抜けたように息を吐く大きな男を見上げ、今度は彼女が不思議そうな顔をした。
CONTINUE