サンダーバード・ヒルズ「……あ、」
骨が折れたにしては、随分と可愛らしい。
硬いものが折れたような、パキリという乾いた音。
ヴェルゴは始めその音が何なのか、まったくもって見当もつかなかった。
殆ど反射神経だけで、振り抜かれたサーベルを避けたヴェルゴは、胸ポケットから零れ落ちた破片に思わず小さな声を上げる。
激戦の甲板。その板張りの床に散らばったのは、万年筆の破片達。
デスクのペン立てに入れている筈だったのに、安物のボールペンと間違えて、胸ポケットに挿してきてしまったようだ。
『任務に励め。おれの為にな』
僅かに力んだ手のひらの下で、木の床が割れる。
目の前に迫るサーベルを掴むと、その手のひらの方に刃物が負けた。
握り折られたサーベルの主に、恐怖の色が浮かんだ瞬間。既に、その竹竿は男の顔面を叩き割っていた。
「しまった……うっかりしていた」
最後の一人が甲板に倒れ、部下達が歓声を上げる。
近海を荒らす極悪海賊団の討伐任務は無事に終わった。その祝勝ムードから置いてけぼりにされているヴェルゴは、半分に折れてしまった万年筆を拾い上げ、自身の後頭部をガリガリと搔く。
(大切に……していたつもりだったが)
しかし、大切なものとはこうして壊れるものなのだ。
僅かな油断と、小さなミス。なかなかどうして、この海はそういった物によく鼻が利く。
海軍の入隊試験をパスした時に、未だ少年と呼べる年代の彼が寄越してきたそれは、ヴェルゴの数少ない所持品の中で最も大切な物だった。
もうその役目を継続できない破片を見下ろして、ヴェルゴは背後の喧騒に掻き消える程度のため息を吐く。
「すまない……ドフィ」
******
乾いた風が砂埃を巻き上げた。
大勢の人々が行き交う港に降り立ったドフラミンゴは、ゆっくりと視線を上げる。
赤土色の建物や石畳、入り組んだ細い路地、街中ではためく色とりどりのフラッグ。
スパイダーマイルズを出て数ヶ月、グランドラインに進出したばかりのドフラミンゴの瞳に、それらは随分と異国らしく映った。
「随分と賑やかだな。流石は、交易の島」
ディアマンテが久しぶりの陸地に嬉しそうな声を上げる。
マラケシュと呼ばれるこの王国は、各海の特産品や工芸品をグランドラインへ持ち込む為の中継地点として機能している。
その為、各地から集まった商人たちがひしめき合っていた。
「デカいマーケットもあるらしい。後で行ってみようぜ、若」
船番組と上陸組で別れ、上陸組のディアマンテとグラディウスとセニョールはドフラミンゴの後ろをついていく。
大通りは既に市場が開いていて、日用品から土産物まで様々な品が並び興味を引くが、彼らがこの島を訪れたのは、勿論、観光では無いのだ。
『ジョーカー!武器工場をどこかに造りたいと言っていたよな?安い労働力と広い土地があるぜ!』
はじめ、この話を持ってきたのは、ヒューマンショップを任せているディスコという男だった。
「安い労働力と、広い土地……」
ディスコの台詞を真に受けてはみたものの、目の前に広がる光景をドフラミンゴはなんとも言えない顔で見ていた。
賑やかな通りを抜け、バスを乗り継ぎ島の最西端へ。
カラフルな交易の街とは違う、色の無い街がその先に広がっていた。
有刺鉄線が巻き付く鉄のゲートと高い石壁に囲まれた、まるで監獄のような区域。
ウィングマン自治区と書かれたボードが、乱雑に引っ掛けられていた。
「何か用か」
入るのを躊躇っているその正面に、二挺の拳銃を腰に下げた青年が現れた。
長い前髪の隙間から、こちらを眺めている。
「アー、実は、この中に工場を作りたいんだが、空いている土地があるなら視察したいんだ。誰に頼めばいい」
こういう時は、素直に言った方が良い。
妙に現実的な処世術を持つドフラミンゴは、覇気を感じぬその青年に言うと、彼はしばらく黙った後ゆっくりと踵を返した。
その背中には小さな翼が生えていて、ディアマンテ達は興味深げに視線を向ける。
「ゲートは開いているから、出入りは自由だ。中を見たいなら勝手に見れば」
産業も、商売も、何も無いように見える灰色の世界。
等間隔で並ぶ長方形の建物が、そこを、街らしからぬ雰囲気に仕立てていた。
「無駄だと思うぜ。こんなところで、何かを産み出すなんてな」
「……お前、誰だ」
一応、案内してくれるらしい青年は振り返り、ドフラミンゴを見上げて口を開く。
「おれは、」
羽ばたく事を忘れた、白黒の世界で生きる有翼の人間達。
あまりにも複雑な世界へ足を踏み入れてしまったと、ドフラミンゴはその時初めて理解した。
「有翼商会、営業部の二挺拳銃」
******
「ウィングマン自治区の状況を、君は理解しているのか?」
二挺拳銃に連れられて、ゲートの中へ入ったドフラミンゴ達は石造りの殺風景な建物に招かれていた。
今にも落ちてきそうな看板には、WINGMAN COMPANYと色褪せた文字が踊っている。
「有翼収容施設は既に解体。マラケシュ王国との争いも終わり、今後は自立をしていかなきゃァならねェ。そうだろう?」
有翼商会の社長は、大柄な男だった。
二挺拳銃の青年よりも大きな翼を生やし、彼ならば、或いは、飛べるかもしれないと思う。
「それはそうだが……。今は時が悪いぞ」
知った風な口を利き、あまつさえ、この場所に武器工場を造りたいなどと宣う若造に、彼は困ったような顔で言った。
その意味を理解できないドフラミンゴは、思わず首を傾げる。
「ウィングマン自治区から、世界政府は手を引く事になりそうなんだ」
「ああ、その話は聞いてるぜ。だから、おれ達みたいな海賊が、ノコノコ商売をしにきたんだ」
ウィングマン自治区とは、元の名前をウィングマン収容施設といった。
それは半世紀程前、世界政府がルナーリア族の生き残り探しに執着を見せ、その存在を知らせるだけで一億ベリーの報奨金を支払うと公言した際にできた施設だった。
収容施設を作ったのは、ルナーリア族関連の報奨金と懸賞金に目が眩んだとある巨大海賊団。つまりは悪党で、勿論世界政府が意図したものではない。
噂程度の情報しかない中で、ルナーリア族かどうかを判断できないその海賊達はグランドライン中から翼を持つ人間を拉致してきてはこの収容施設へと送り込んだ。
その事に各国から非難が相次ぎ、事の発端である世界政府が収容施設を解体、海軍が首謀者一味を逮捕した時には既に、収容施設が造られてから十年が経過していた。
行く宛などとうに無くした有翼達がこの地に留まり、ウィングマン自治区という歪な国家が生まれたのだ。
「作物も育たない不毛の地で、ゼロから国を運営できるはずも無く、その時解放された有翼達はマラケシュ王国から肥沃な土地を奪う為に戦争を仕掛けた」
天地戦争と呼ばれるその戦争は半年程続き、結果的に世界政府の仲裁が入り停戦となるが、その後三十年同じ島に位置しながら両国は国交を断絶していた。
そして、両国の国交が回復したのはほんの十年前である。
それを、容易く統合できるなどと、世界政府が本気で思っているのかは不明なところだ。
「世界政府はウィングマン自治区の食料や物資の調達を支援し、政府案件の製造業務を一部回してくれていた。しかしその支援から手を引き、マラケシュ王国の一部とするよう、王国側へ働きかけている。きっと両国は揉める事になるだろう。前よりも、もっと大きな戦争になるかもしれない」
理解しているのか、とは、そういうことだったらしい。
そういう意味でいえば、状況を理解していなかったドフラミンゴは考えるように顎を擦った。
「……有翼商会ってのはなんだ。会社か?」
そして、殆ど関係ない方向へ話を逸らす。
そもそも、誰かの了解を得るつもりなど毛頭無いのだ。
「何でも屋さ。停戦中、食料不足が深刻だった時にマラケシュの黒社会と繋がり食料を密輸したのが始まりだ。その後、国交が回復してからはマラケシュや世界政府から斡旋される仕事を国民に配分してる。海運業、傭兵、製造、内職、基本的になんでも受けるようにはしている」
「そうかい。そりゃァいい」
ゆっくりとソファから立ち上がったドフラミンゴに、男は二挺拳銃の彼の方へ視線をやる。
相変わらず覇気のないその青年は、それでも機敏に視線を上げた。
「まあ、そういう状況だが、視察をしたいならどうぞ。案内が必要なら、彼を。虚の手前は土地が余っているから、使えるなら有効活用した方が良い」
「……虚?」
聞き慣れない単語をドフラミンゴが反芻すると、男は親切そうな顔を再びドフラミンゴへ向ける。
「街の外れなんだが、何年も前から酷い霧が立ち込めて視界が悪い場所がある。その先は崖になっている筈だから、今は誰も近づかない。君たちも霧の中には入らない方が良い」
どうやら注意事項の多い国らしい。
ドフラミンゴは未だ考えるように生返事を返し、大股で扉へと向かった。
******
「王宮側への通告は済んでいる」
「……そうかい。何て言っていた」
暗い倉庫の中。開けたままのシャッターから入り込む月の明かりは、そこにいる者達の足元に長い影を落とした。
白装束の人間が三人、そして、この島において翼を持たない側の人間が一人。
「……何も」
サイファーポールの零番目。白い装束が裏付ける、歴史的大事件の予感。
それをおくびにも出さず、仮面の下でゲルニカは口を開いた。
「国王は何も言わなかった。ウィングマン自治区をマラケシュ王国に換算すれば、人口で算出される天上金の額は必然的に増える。しかし、国王は開口一番ノーとは言わなかった」
マッチを擦る音がして、やがて、煙草の匂いがする。
ゲルニカは目の前の男の顔が、マッチの虚弱な炎に照らされる様を眺めていた。
「国王家は代々、有翼擁護派だ。そもそも、海賊が自国の土地に収容施設を勝手に建設したにも関わらず異議すら唱えなかった腰抜け共だ。今回だって、どうせあんた達の要求を呑むに決まっている」
昇っていく紫煙すら、月光を受けて光る。
吐き捨てるように言った男は、まだ長いタバコを地面に放り投げた。
「我々政府も、立場は同じだ。あの海賊共が残した負の遺産を押し付けられているに過ぎない」
この海広しといえども、翼を持った人間達はこの島をおいて他には殆ど存在しない。
その重大さを理解できる程、あの自治区に感情移入できる人間はこの場にはいなかった。
「我々は何も、天上金の支払額を増やしたい訳ではない。あの自治区の支援の為に使われる莫大な費用が捻出できなくなっただけだ」
尤もらしい事を平然と言えば、それがもう真実になる。
ゲルニカは目の前の男の眼球に、確かに宿る憎悪に賭けた。
「利害の一致を有効に使え」
「アンチ・ウィングマンを、我々は支援する」
******
この島の気候は割と、過ごしやすいように思う。
ドフラミンゴは乾いた空気を吸い込み、広がる青空を見上げた。
件の、霧が立ち込めているという虚の手前の土地を視察し、申し分ない広さを確認したドンキホーテ・ファミリーは中心地へ戻ってきたところだった。
「何を組み立てているんだ」
収容施設として使われていたらしい、等間隔に並ぶ長方形の建物は現在住居や作業場、有翼商会の社屋として使用されている。
その一つの建物の窓を覗き、ドフラミンゴは二挺拳銃の青年を見下ろした。
「万年筆。大した量は作ってないけど、ラインが空くと困るから、仕事がない時は万年筆の組み立てをしてるんだ。マラケシュの市場で売って貰っている」
「……へェ。質は良いのか」
「良いよ。元々政府案件だったものを自主的に作り出したんだ。白金を使用したペン先に、チタンの軸で書き味も、耐久性も良い。海外にファンも多いんだ」
「……若?」
ズカズカと作業場に入っていったドフラミンゴは、老婆が組み立てた万年筆を覗き込む。
美しい金属の輝きは機能美を象徴し、何となく、あの男を脳裏に描いた。
「……一本欲しい」
「良いよ、金払うなら」
二挺拳銃はあっさり返して、木箱の中から一番出来が良い物を老婆に選ばせる。
それなりの値段を口にした彼に、ベリー札を抜いて渡した。
「名前を入れられるか」
「できるよ、こっちにおいで」
もう一つの質問には老婆が答えて、ゆっくりと手招きをする。
視線の先には印刷機があって、要望に応じて名入れも対応していると二挺拳銃の方が付け加えた。
「なんて入れるんだい」
「―――こ」
『コラソンは、おれだ。ドフィ』
その瞬間、目の前に血だらけの顔が現れた。
思わず息を吸い込んだ喉が、ヒュ、と小さな音を立てる。
あの日からずっと付きまとう弟は、まるで、呪いのようにドフラミンゴに話しかけ続けるのだ。
『コラソンは、お前が殺した』
心臓があった筈の空白。ツギハギをして、どうにか立っている。
(ああ、そうだ、おれが、)
「あ、馬鹿!」
その時、セニョールの大きな声がして、ドフラミンゴは視界が突然開けたように思う。
ドフラミンゴの背中を追おうとしたグラディウスの足が、積み重なった木箱を崩したのだ。
「気を付けてくれよ。空き箱だから良かったけど」
「いや、若が誰の名前を彫るかによっておれの今日のテンションが変わるから……」
「兄ちゃん、気にしないでくれ。おれ達もコイツが言ってる事、殆ど理解できねェんだ」
ディアマンテ達の声を聞いていると、ようやく呼吸の仕方を思い出す。
頬を流れた冷や汗を顎で拭ったドフラミンゴを、老婆が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「……なんでもない」
「彫って欲しい文字はこれに書いて。ごめんね、字が読めないから聞いただけじゃ打てないの」
「皆、そうなのか」
ドフラミンゴはサラサラと手帳に文字を書くと、それを破いて老婆へ渡しながら尋ねる。
そうだよ、と紙を受け取った老婆は何でも無いように言った。
「識字率が低いんだ。数を数えられない者も多い。そもそも、教育機関がないからな」
「……それでどうやって作業をしているんだ」
言いながら、ドフラミンゴは空き箱が木の板で十個の部屋に区切られているのを見る。
確かに、ここに一つずつ入れるように指導すれば、数を数える必要が無い。
「皆、子どもに勉強をさせたがらない。将来よりも、明日の飯を買う金のが大事だから、子どもは労働力として使いたがるんだ」
「……お前は?」
「おれは、少しなら読めるし数も分かる」
それっきり、黙り込んだドフラミンゴは考えるように顎を擦り、くるりと踵を返す。
名前を彫り終わった老婆が、その背中に声を掛けようとする横で、セニョールが代わりにそれを受け取った。
「……ナルホドな。ラッピングはできないのか?」
「誰だ?誰の名前だった」
「箱ならあるよ」
少し笑ったセニョールは、二挺拳銃から専用の小箱を貰い、グラディウスには見えないように蓋を閉める。
なおも見ようとしているグラディウスに、ディアマンテがひょいと小箱を掴んで蓋を少し開けて中を見た。
「あー、ハイハイハイハイ」
「おい見せろ、誰だ?もしおれだったら心の準備が要るんだ」
「いやお前ではないから大丈夫」
グラディウスに取られないよう、上に腕を伸ばしたディアマンテは流石に気の毒そうに言う。
そして、とっとと出て行ってしまったドフラミンゴの背中を追った。
「ディアマンテ」
「なんだよ」
作業場の外でもずっと顎に手をやっているドフラミンゴはその名前を呼ぶ。
そして、その思案の終着点だけをドフラミンゴは口にした。
「学校を作るぞ」
******
「ピーカ!Dをもっと大きくするざます!バランスが悪いざます!」
「……わかった」
翌日、現在使用されていない収容施設の一つが、誰の許可も受けないで勝手に姿を変えた。
ジョーラの指揮の元、ピーカの能力で二階建てから一階建ての平屋に形状を変えた施設の屋根には、ドンキホーテ・アカデミーの文字。
「色もあった方が良いか?どう思う、ジョーラ」
「情操教育に関わりますからね。壁と屋根に明るい色を付けましょう、若様」
「若、机と椅子できました!」
「黒板だの備品だのは明日マラケシュの港に届くってよ。一応漏れが無いか確認してくれ」
「いや、何してんのマジで」
通勤途中の二挺拳銃が、困惑したような顔で近づいて来た。
長机を運び込んでいるドンキホーテ・ファミリーは、同じモーションで青年の顔へ視線を向ける。
「「「学校作ってる」」」
「一応聞けよ。他人の土地だぞ」
至極真っ当な主張を受けるが、こちとら悪党なのだ。
ドフラミンゴは悪びれもせずに「海賊だからな」と笑い声を上げる。
「数も数えられない、字も読めないで武器の製造ができるか。ここではまず工場で採用した工員に読み書き算盤を教える。校舎は今後タイミングを見て増やし、工員の中で優秀な者を教員として異動させ、いずれ十五歳以下の子ども向けの教育機関とする」
「なんだってそんな真似するんだ。それこそあんた、海賊だろう」
「おい煩いぞ貴様。若のやることにいちいち口を出すな。殺すぞ」
「フフフフッ!今後継続的にこの場所で工場を運営していくのなら、どうしたって労働力は必要だ。できるだけ優秀な人材を確保したいのは、経営者共通の課題だろう」
殆ど産業のないこの国では、最低賃金などあってないようなものだ。
ドンキホーテ・ファミリーは殆ど奴隷並みの人件費で雇える労働力と、二束三文で足りる土地を確保できる。
それは、ある程度この国のインフラや教育水準を整えても余りある成果だった。
「しかし若、今後は優秀な人間を教員にすれば良いが……取り急ぎはどうする?」
「あー、マラケシュで雇うか……考え中だ」
「まあ!とっても賑やか。お客様かしら」
その時、背後で明るい声がして、振り返るとアイボリーの長い髪が目に入る。
上品な服を纏う翼を持たないその女は、警戒心の無い表情で近づいてきた。
「客じゃない、海賊だ。現在進行形で土地を略奪されてる」
「まあ、怖い」
知り合いなのか、二挺拳銃が言った台詞にも鈴の音のように笑う。
根本から、生き方の違う人間だとドフラミンゴは何となく思った。
「誰だ」
「……マラケシュ王国の王女様」
「「「ハッ?!?!」」」
しかし、それはあまりにも予想外で、思わず全員が大きな声を出す。
それでもニコニコしている王女様は、ドフラミンゴを見上げて「大きな方ですわ」などと言っていた。
「なんだって王女サマがこんな汚ェとこまで来るんだよ。つーかなにかと揉めてんだろ、こことマラケシュは。大丈夫か」
「国際問題につながりかねない行動だけど、言っても聞きゃァしないんだ」
「子ども達に読み聞かせをしているんです。それがとっても楽しくて」
絵本を数冊入れたトートバッグの中を見せてくれた彼女を見下ろして、ドフラミンゴは黙り込む。
こんなにも、事が上手く運ぶものだろうか。
「教師、いるじゃねェか」
「いや、駄目だろ普通に。マラケシュの王女がウィングマン自治区で、海賊の経営する学校で働くなんて」
「フフフフッ!それならカタギのオーナーを見繕ってもいいが」
絶妙に価値観のズレた会話を繰り返す両者の間で、王女が「あ」と小さく声を漏らした。
視線の集まった先で彼女の顔がどんどん青くなっていく。
「もしかして……岩場に隠して停泊しているのは貴方達の船ですか」
「そうだが、なんだ」
「漁師さん達が見知らぬ海賊船があると騒いでいて……海軍に通報してしまったかもしれません!」
「いや容赦なしか」
突然崩れる平穏に、ファミリーは狼狽えたようにドフラミンゴの方を見るが、当の本人は何でも無いような顔をしていた。
元々、あわよくばなどと思っていたのだ。
「ほっとけ。どうせ、奴の海域だ」
奴、というのが誰なのか、幹部達は何となく察する。
やけに楽しそうなドフラミンゴに、まあ、良いかと全員が思った。
「オイ、お嬢ちゃん。ここに学校を建てるつもりなんだが、完成したら教師をしてくれねェか。期間限定でもいい」
状況が呑み込めていない彼女は未だ、あわあわとしているが、そんな事はお構いなしにドフラミンゴが言う。
突然呼ばれた王女は、戸惑うように声を上げたが、すぐにその意味を理解した。
「よ……喜んで!」
「オイオイ、よく考えろよ。反有翼団体が黙っちゃいない」
慌てたのは二挺拳銃の方で、彼女の返答に被せるように言う。
それでも、やはりニコニコ笑っている彼女は、随分と上にあるドフラミンゴの顔を見上げた。
「マラケシュ王国は、ウィングマン達に救われた国です。海賊達に敵わなかった私達は、ウィングマン達の不幸と引き換えに生き永らえてしまった。その恩を返していくのがこの時代の王宮の使命」
実際に、拉致されてきた者や天地戦争を戦った者は彼女達の祖父の代となる。
憎悪以外の感情を宿す新世代達は、この大きな商いで吉とでるのか、凶と出るのか、それこそドフラミンゴにも計り知れない。
(まあ、良い。邪魔ならば、消すのみだ)
『おれを、消したみたいに』
まただ、また、脳髄を滴らせた弟の顔面が目の前に現れた。
ドフラミンゴは目眩にも似た酩酊で、思わずその瞳を掌で覆う。
「……ドフィ」
その時、石の壁から伸びた手のひらが、よろめくドフラミンゴの背中を支えた。
ピーカの高い声に、ドフラミンゴは我に返る。
「……は、ハァ、フフフフッ!大丈夫だ、すまん」
「無理するな」
額に浮かぶ冷や汗を拭い、ドフラミンゴは意味のない笑い声を上げた。
ずっと、視界から消えない亡霊は、一体どうして欲しいのだろうか。
妙な沈黙が落ちる中、自力で立ったその背中に、誰も、何も言わなかった。
******
「……なんか騒がしいな」
「悪い、おれもう出勤しないとだから行くよ。配給が来ちまった。あれを配るのも有翼商会の仕事なんだ」
相変わらず乏しい表情で青年は言うと、学校作りに精を出すドンキホーテ・ファミリーに背中を向ける。
マラケシュとの国境を分けるゲート付近に、数台の荷車が停まっていた。
そして、その荷車の方からこちらに向かって一人の少女がかけてくる。
「ちょうど良かったわ!二挺拳銃!荷車が壊れてしまったの!有翼商会の方で荷車を回してくれないかしら」
「ああ、分かった。そこで待っていてくれ」
ブロンドの髪をポニーテールにした少女は、利発そうなつり目でドフラミンゴ達をマジマジと眺めた。
年の頃は、どう見ても十五か、六程に見える。
「ど、ドンキホーテ・ドフラミンゴ……?!どうして億超えのルーキーがこんな所で日曜大工をしているのよ!」
「フフフフッ!威勢の良いお嬢ちゃんが多いな、この国は」
「オイオイ、億超えだからってうちのお嬢を舐めてもらっちゃァ困るぜ兄ちゃん。一応海賊団の船長なんだ」
「ガルシアやめて。貴方から殺すわよ」
後ろから歩いてきた大柄な男が、言葉とは裏腹に少女の頭に入れ墨だらけの腕を乗せて言った。
それを聞いたドフラミンゴは、意外そうな顔で「海賊か」と聞き返す。
「一応、祖父の代から海賊だから、海賊と名乗っているだけよ。本業はマラケシュでビック・ディッパーというカジノをやっているの。良かったら遊びにきてね」
「ビック・ディッパーは有翼商会が出来た頃から、ウィングマン自治区に支援物資を供給してくれているんだ」
そういえば、戦後の食料不足の中黒社会と繋がり物資を密輸していたと聞いた。
その時からの繋がりであれば、ここも既に代替わりをいくつかしている筈だが、少女と青年は慣れたように物資の運搬について話している。
「ところで、アンチ・ウィングマン達の動きが活発化しているわ。恐らく、国王がウィングマン自治区を統合する動きを見せているからよ」
「……知ってる」
「気を付けた方が良いわ。多分、戦争になる」
やはり、導火線に既に火は着いているようだ。
ドフラミンゴは二人の会話を盗み聞きしながら、その後の行動を思案する。
「本当に戦争が起こるなら、工場建設は一旦待つか?」
「そうだなァ……。しかし、安い労働力には不安定な情勢がつきものだ。毎回待ってちゃァ何もできん」
コソコソと後ろで言い合いながら、翼を持つ青年と、持たない少女を見比べた。
(この世は、あまりにも不可解だ)
まさか、その翼の有無でこうも運命が狂うとは思うまい。
ドフラミンゴは風に舞う一枚の羽根を目で追って、何故、自分がこの土地に執着しているのかを自覚した。
******
「……ドフィ」
「おう、来たか!フフフフッ!久しぶりじゃァねェか!」
久しぶりの再会だというのに、愛しの相棒は苦々しい顔をしていた。
ドンキホーテ・ファミリーが拠点として借りた建物は、収容施設時代主に有翼達が暮らしていた居住用で、六畳程の個室がいくつもある背の高い建物だった。
全盛期ではこの個室に五人程が閉じ込められていたとの事で、それは大変に悲惨であるが、こうして一人一つ個室が使えるのは随分とありがたい。
マラケシュの商人たちの多くがそうであるように、刺繍の入ったフード付きの外套を頭からすっぽりと被り、コソコソと現れたヴェルゴはドフラミンゴの部屋の扉を開けると同時にため息を吐く。
「通報が入った時は驚いたぞ……!ここはグランドラインで、お前は億超えルーキーなんだ。少しは弁えてくれ」
「フフフフッ!悪かった。一人か?」
「ああ、適当に誤魔化して一人で来た」
海軍本部からの斥候として現れたヴェルゴは、珍しく苦言を呈した。
それをいにも介さないドフラミンゴは、読んでいた本をベッドに置く。
「まァ、良いじゃねェか。こういう時の為にお前がいるんだ。通報のあった海賊船は、」
「既に姿を消しているが、念の為島に停泊し様子を見ると伝えてある」
「パーフェクトだ、ヴェルゴ」
半ば無理やり呼び付けられたヴェルゴは、それを理解しているようで、外套の中から酒瓶を二本取り出すと珍しく口角を上げた。
「マラケシュの市場で人気の酒らしい」
「フフフフッ!お前もその気じゃねェか!」
間違えないから、ドフラミンゴはこの男が好きだった。
ある種、予期出来ない人間達の感情の起伏に翻弄され続けてきたドフラミンゴがやっと手にした糸の先の人形。
「しかし、ドフィ。ウィングマン自治区は、じきに揉め事の中心地になるぞ」
「ああ、分かっちゃァいるが、政府が支援を打ち切れば、大勢の悪党共がこの場所を食い物にする。出遅れるくらいならフライングしておいた方が良い」
酒瓶をドフラミンゴに渡しながら、ヴェルゴはデスクから椅子を引き寄せて座った。
戦争の勃発は、既に海軍本部でも噂されている。
「何をしにここへ?」
「武器工場をいくつか作りたい。ディスコの野郎の紹介だ」
直接酒瓶に口をつけて飲む。
果実の香りを伴う液体が、喉元を通り過ぎた瞬間。
やっぱり、血だらけの弟は木製のドアの前に立ち、ヴェルゴの横顔を眺めていた。
「げほ、ッ……!」
「だ、大丈夫かドフィ!」
肺に入り込んだ赤い液体。咳き込むドフラミンゴの背中をヴェルゴの手のひらが撫でた。
ドフラミンゴは思わずその太い二の腕を掴む。
(確かめなければ、)
朦朧とした思考回路は、いつも、その欲求に支配される。
最高幹部達は、彼らは、ドフラミンゴがそうなるように仕向けた者達ではない。
その事実はミニオン島での一件を経たこの男に、妙な危機感を植え付けた。
「ドフィ……、」
突然顔を上げたドフラミンゴと、ヴェルゴの視線が暴力的に合う。
シャープな顎を伝って落ちる赤い液体に、ヴェルゴは唐突に、喉が渇くと思った。
「ヴェルゴ、お前は、おれを」
(裏切らないよな)
そんな、あまりにも無様な台詞を吐く前に、ヴェルゴがドフラミンゴの口元に噛み付いた。
たどたどしい厚い舌が入り込み、息をつく隙間もないその時、ドフラミンゴは何だか満たされたような気持ちを抱く。
「ドフィ……、」
ヴェルゴの手のひらがドフラミンゴの肩を押して、ベッドに押し倒そうとした瞬間、ドフラミンゴの頭が後ろへ大きく傾いた。
驚いたヴェルゴがその背中を抱き抱えると、あろうことか、ドフラミンゴは静かな寝息を立てて眠り込んでいる。
「な……何故、」
驚きのあまり、ヴェルゴは唸る。
ヴェルゴは知らないのだ。ミニオン島の一件以来、この男は殆どベッドに体を横たえていない。
眠ろうとすれば、必ずあの時殺した弟の亡霊が枕元に立つからだ。
(これは……相棒の距離感なのか)
多分きっと、そうではないと思うが、もう長いこと、この距離感で相棒を名乗っている。
ずっと、どこか空虚な、自分一人では埋められない空白を、二人で埋め合わせて生きてきた。
しかし、その距離的な違和感を、ヴェルゴは態々問いかけたりしない。
彼が望まないのなら、それは、ヴェルゴも望むところではないのだ。
『ヴェルゴ、お前は、おれを』
その後に、続く台詞を知っている。
この男の身体に残った、ヴェルゴには埋められない大きな空白。
(裏切らないさ、だから、)
深い眠りに落ちたドフラミンゴをシーツで包むと、その上からやわく抱きしめた。
自分だけを愛してほしいとも思わない。こっちを、見てほしいとも言わない。
(一つだけだ、一つだけ、)
サングラスを外してやると、目の下に酷いくまが落ちていた。
「あんな、男の事なんて、」
はやく、忘れてしまえ。
ヴェルゴはその悪夢を払うように、鼻先にキスを落とした。
******
「相変わらず、精が出るわね。これ、うちの店からの寄付よ」
「フフフフッ!なんだ、何を企んでやがる」
「優秀な人材が欲しいのはどこも一緒よ」
有翼商会の助けも得ながら、学校作りは殆ど終わった。
正午を少し過ぎた頃、細々と内装を修正していたドンキホーテ・ファミリーの元へ現れたのは、昨日出会ったビック・ディッパーの支配人の少女である。
鉛筆とノートの束を、昨日配給を運搬するのに使用していた荷車に乗せて、部下であろうガタイの良い男達に引かせていた。
「抜け目ねェ嬢ちゃんだ。フフフフッ!礼は言わねェぞ。ピンク!グラディウス!良いものを貰った!運んでくれ!」
入口から中へ、ドフラミンゴが大きな声で言うと一瞬でグラディウスが現れ、その後にセニョールがやってくる。
荷車の上と、聡明で勝ち気なそのブルーの瞳を見比べた。
「今日は随分と顔色がいいな」
そして、ノートの束が入った段ボール箱を軽々と持ち上げて、セニョールは言う。
ヴェルゴは、ドフラミンゴが目覚めた時には既に姿を消していた。
様子を見ると報告した手前、そうせざるを得ないのだろう。
しかし、セニョール達は常に不在のその右腕が現れた事を、どうやら知っているようだった。
「まあな。久しぶりによく眠れた」
「そうかい。そりゃァ、傷つくね」
「……?」
笑い半分、冗談半分の様相で言ったセニョールの言葉を、ドフラミンゴはよく理解していない。
それを説明する気も無いセニョールは、両手が塞がっているにも関わらず、器用にくわえタバコの煙を吐き出した。
「……!」
その時、少女とドフラミンゴの間に、空から何かが落ちてくる。
あまりにも唐突で、驚いた両者が僅かに息を呑んだ。
視線の先の地面には、黒いボストンバッグが転がっている。
「……あ」
その時、わずかに開いていたボストンバッグのファスナーの裂け目を眺めて、少女の青い瞳が年相応に揺れた。
つられたように、視線を落としたドフラミンゴの瞳に映ったのは、入れ墨だらけの腕。
「……ガルシア」
少女の唇が小さく震え、その腕の持ち主の名を呟いた。
あの大きな男か、とドフラミンゴが思った時には既に、少女は狼狽える部下達にカジノへ戻るよう指示をする。
「手を貸そうか。ノートと、鉛筆の分だ」
「……いらないわ」
「フフフフッ……!お前みたいな子どもに、何ができる」
振り返らない少女は、小さな声で言った。
こんな、豪傑達の蔓延る海で、その背中は随分と細い。
しかし、首だけで振り返ったその瞳は、確かに悪党のそれだった。
「子どもでも、人を殺せる。その為に銃があるのよ」
あっという間に走り去る小さな背中へ、大の男達がついていく。
ドフラミンゴはそれを見送り、バッファローを呼んだ。
「身体、探すのを手伝ってやれ」
「了解だすやん!」
この男の悪性は、人間の選別である。
その、神紛いの傲慢は時に、受け手によっては善性と映るのだ。
「……おい、どうした」
学校の中で壁紙を貼っていた二挺拳銃が顔を出して、ドフラミンゴを見上げた。
しゃがみ込んだドフラミンゴが、ボストンバッグの中から切り落とされた入れ墨だらけの腕を取り出す。
驚いたように瞳を開いた二挺拳銃は、それが誰なのか、やはりすぐに気付いたようだった。
「あのガキ、ウィングマン寄りだよな。反有翼ってのがいるんだろう。そいつらの仕業か」
「……」
言葉を、選ぶように青年の眼球が泳ぐ。
その様子を、怪訝に思ったドフラミンゴは腕から視線を上げて、覇気のないその顔を見た。
「あいつの祖父は……ウィングマン収容施設を作った海賊団の船長だ。あいつの両親を殺したのも……ウィングマンなんだ」
些か予想外だったドフラミンゴは、サングラスの下で瞳を開く。
そうなれば、ウィングマン側にも彼女を恨む道理があるのだ。
「……おーい!社長が一旦全員本社に集まれと言っている!」
今日は随分と騒がしい。
今度は有翼商会のブルゾンを着た若い男が、学校作りを手伝う社員達に向けて言った。
「マラケシュで……ウィングマンの死体が出た!」
「!!」
明らかに、雲行きが怪しくなっている。
二挺拳銃は慣れたように銃を抜いて、装弾数を確認し、ドフラミンゴに視線を向けた。
「はやく、ウィングマン自治区を出た方が良い。反有翼達に囲まれて封鎖されれば、翼の無いあんた達でも出るのは不可能だぞ」
それだけ言って踵を返した有翼達は、同じ方向へ走っていく。
それを見送る部外者達は、どうしたものかと船長を見上げるだけだ。
******
「海兵さん!」
「……?」
海軍本部へ伝えた通りに、マラケシュの街を巡回していたヴェルゴを呼び止める声がした。
鈴の音のような女の声に、ヴェルゴはゆっくりと振り返る。
「どうかしましたか、お嬢さん」
「もしかして、昨日通報があった海賊船を探していますか……?」
アイボリーの長い髪。まったくもって、住む場所が違うであろう、平和そうな女。
「あ、えっと、あの海賊船は……あ、そうだ、もう出航してしまいました!だから、探さなくても大丈夫なんです!」
明らかに、嘘をついている彼女を見下ろして、ヴェルゴは一体何を企んでいるのかと思う。
それでも、長年の海兵生活で培った、人の良さそうな顔でニコリと笑った。
「そうですか。それは親切に、どうもありがとう。それならば、本部に戻るとしましょう」
「ええ!それがいいですわ!」
その瞬間、ヴェルゴと向かい合う女の頭上に、ぽっかりと大穴が開く。
呆気に取られたヴェルゴの目の前で、その穴から腕が伸び、女の体を掬い上げた。
「……か、海兵さん!」
反射的に、女の伸ばした手のひらに、自身のそれを伸ばすが、間一髪で空振る。
長年の海兵生活で作り上げた空虚な正義に従って、ヴェルゴは閉じゆく大穴の縁を掴み、中へと飛び込んだ。
「……霧が、」
穴はすぐに閉じ、ヴェルゴは冷たい土の上に落ちる。
酷い霧で、視界は無いに等しかった。
「げ!なんだお前!!」
その時、ヴェルゴは濃い霧の中で揺れる影を見る。
その影は甲高い声を上げて、イレギュラーであるヴェルゴを咎めた。
******
「一時ビック・ディッパーと有翼商会の社屋に避難所を設置する!誘導と護衛を頼むぞ!」
有翼商会社屋は、騒がしさを増している。
本日午後過ぎ、ウィングマンの死体が三つ上がった。どれも、綺麗に首を刎ねられている。
犯人は未だ不明であるが、天地戦争中に使用された反有翼の旗印が死体に掛かっていたらしい。
その後も有翼が襲撃される事件が相次ぎ、夕方には有翼商会とビック・ディッパーが中心となり避難所を設置する事態となった。
「オイ、ちょっと待て。この状態で一処に集めるのか?奴らの目的が殲滅だったら、ひとたまりもないぞ」
そのまま引き下がるつもりもなかったドンキホーテ・ファミリーは、有翼商会で避難誘導を手伝っている。
本部である社屋の会議室で、ドフラミンゴはこの場を仕切る社長に言った。
「あくまで反有翼達の要求は、ウィングマン自治区をマラケシュ国内に統合する事への反対の筈だ……。そこまでの事態にはならないだろう」
それを、楽観的だと評する程、ドフラミンゴはこの地の情勢に明るくは無い。
少しの引っ掛かりを腹に据えるが、何も言わなかった。
「いや、ドフラミンゴさんの言う通りだろ」
その時、異議を唱えたのは二挺拳銃の彼だった。
覇気のない瞳を前髪で隠し、淡々と言う。
「奴ら、ウィングマン達を何人も殺してる。何の声明も出さずにだ。不安に駆られたおれ達が一処に避難するのを待って、叩くつもりだろう」
「しかし、少人数でいるのもそれは危険だ」
「……避難するのを待っているなら、少し余裕があるだろう。何かしら行動を起こすつもりなら、必ずどこかに拠点がある筈だ。それを見つけて先に叩けば良いじゃねェか」
ドフラミンゴが口を挟むと、判断しきれず誰もが口を噤んだ。
その沈黙を破ったのは、意外にも、まったく知らない声。
「ウィングマン達よ、少し時間をくれんか」
現れたのは、初老の男だった。
後ろに兵隊を従えたその男を、ドフラミンゴは知っている。
「……国王様」
突然現れたのは、マラケシュ王国の国王その人で、ドフラミンゴは思わず「王族のガードが緩い」と呟いた。
「すまない……私が世界政府から持ちかけられた統合の話に曖昧な返答をしたからこんな事になっているのだ。統合はしない、しかし、支援は続ける。その方向で反有翼達を説得する時間をくれ」
聡明そうな国王の瞳を眺めて、ドフラミンゴはそんな事は無意味だと思う。
世界政府が自治区などという曖昧な物を一度でも認めてしまえば、他の加盟国もそれにならい、人口によって決まる天上金を引き下げる為に、沢山の自治区を作るだろう。
滅亡か、統合か、それ以外の道を、あの魑魅魍魎共が認める筈が無いのだ。
「こ、国王様!」
その時、勢いよく扉が開いて、一人の兵士が飛び込んでくる。
全ての視線を集めた若者は、一瞬たじろぎ、それでも口を開いた。
「王女様が……反有翼に拉致されました……!」
全員が息を呑む中で、ドフラミンゴはあのアイボリーの髪を思い浮かべる。
事態はもう、争いを避けられないところまできているのだ。
「要求は何だ」
「ウィングマン達の……国外追放です!さもなくば、王女を殺すと……!」
静まり返る場内で、ウィングマン達は手にした銃に弾丸を込める。
無翼の人間に狂わされた生涯か。前進しない毎日か。絶えることの無い暴力か、それとも、それに伴う痛みか。
正体の知れない何かが、そこにいる有翼達の怒りへと引火するのだ。
「あいつには、私から国の為に死ねと聞かせる。武器を収めてくれんか」
その時放たれた国王の台詞に、弾丸を込める音さえ止んだ。
無音の中で動いたのは、意外にもあの二挺拳銃だった。
「あんた……それ、本気で言ってんのか!!」
「おい馬鹿やめろ……!」
「ちょ、イテテテ!おおお落ち着け!」
社員たちに止められながら、国王の胸倉を掴んだ青年は珍しくも大きな声で怒鳴る。
「我々は、」
しかし、国王の顔を視界に収めた彼の動きがピタリと止まった。
そして、泣き出す前の子どものような表情を見せる。
「国王家は、収容施設の建設も、戦争も、反有翼達の憎悪も全て止める事はできなかった。どの時代の節目でも、子どもは親を亡くし、親は子どもを亡くしてきた。私にはとても、自分の娘だけ助けてくれとは言えん……!」
既に翼の有無で敵が判断できる程、事はシンプルでは無くなっている。
それでも、ドフラミンゴはある一つの結末を思い描いていた。
「ここで……王女を見殺しにして、一体それがどれ程の時間稼ぎになる」
群衆の輪の中に躍り出ると、その人混みの中に血だらけの弟を見たような気がする。
その亡霊を振り払うように、ドフラミンゴは一度瞳を閉じた。
「世界政府は自治区などという曖昧な物を絶対に認めんだろう。そんな事をすれば他国が天上金を免れる為に追随するからな。反有翼達を黙らせ国を統合するか、はたまた、ウィングマンの方を葬るのか。政府の要求は、二つに一つだ」
結局、生命の選別は既に始まっているのだ。
今までにも、それを、当たり前のように行ってきたドフラミンゴには、最もマシな結末が見えている。
「武器を持て。怒りを鎮めるな」
この海では、全員がその生命を全うできるとは限らない。
被害者のままだった父親は死んだ。弟もそうだ。
加害者になれば、こうやって生き延びることができたのに。
「この海で生き延びる為には、同じ姿形の生き物に牙を剥けるかどうかが重要だ。向こうは……既にその覚悟をしたようだ……!或いは、お前達はどうだ……?!」
ドフラミンゴに集まる眼球の全てに、同じ類いの火炎が宿る。
人間が、人間に向ける残虐の類。
それを、抱ける事が、この海で生存する為の条件だ。
『人間ですよ、はじめから』
『MC・01746』
『お前がこの先、生み出す惨劇を止める為』
奴らはそれを、放棄したから敗者なのだ。
それなのに、
(何を、未練たらしく現れやがる)
「お前らが……違う意見をねじ伏せるのならば、おれはこの島をナワバリにする。億超えのナワバリに、政府は容易く手を出さない。今後、ごちゃごちゃと横槍を入れてくる事は無ェだろう。おれに、」
咎めるように現れる、あの日、撃ち殺した弟。
彼らが、自分を担ぎ上げた理由。二人だけで埋め合わせてきた空白。
違う意見との共存など、他でもないこの男が、許せる筈がないのだ。
「おれに従うのなら、お前達は勝者だ……!」
******
「ハァ、ハァ!は、」
「す……すみません……!私が足手まといに……!」
「いや、これも海兵の勤めさ」
一方、ヴェルゴは霧の中を走っていた。
動きを止めれば、この場所に移動させられたあの能力に捕まってしまう。
一緒に捕まった女を抱えて走るヴェルゴは、未だ海兵の仮面を被っていた。
「そういえば、君は……」
「マラケシュ王国の王女です!」
「王族なら……護衛をつけた方がいい」
「すみません……」
まさか、やんごとなき身分の者だとは知らなかったヴェルゴが流石に呆れたように言う。
ヴェルゴの腕の中で彼女は素直にしょんぼりとしていた。
「王女を離せバーカ!!!」
その時、ヴェルゴの頭上に大穴が開き銃口が覗く。
まだ若い、ボブヘアの女が穴の中でピストルを構えていた。
銃声と共に体を捻るが、一発脇腹に貰う。
転がったヴェルゴは霧の中で必死に遮蔽物を探した。
「海兵さん……!」
「ハァ、は、伏せろ。この視界じゃァ向こうも狙いは曖昧になる」
「海兵さん、血が……」
「いや、大丈夫だ」
遮蔽物など、この霧の中で探すのは不可能だと思ったヴェルゴはゆっくりと立ち上がり、竹竿を握る。
真っ赤な液体が、ボタボタと地面に流れていくのを、王女は身も凍るような気持ちで見ていた。
「動いたら死んでしまうわ……」
「いいや、死なないさ」
竹竿が、その凶暴を喰うように赤黒く染まる。
その暴力的な眼球に、王女はこの男が正義の使者では無い事を何処かで悟った。
「死に場所は……決めているからな。そこ以外では死なない」
あの男の為に死ぬ。それだけを目指して生きていた。
そうすれば、無価値だった自分の人生に余りある価値がつくのだ。
(だから、ドフィ、)
あの男には、ただ、振り返らずに走って欲しいだけだ。
自分にも、他人にも、囚われる事などなく。
「……!」
空間に穴が開く瞬間を、獣のような勘で察知する。
殆ど反射神経だけで振り抜いた竹竿は、穴から出てきた小銃を弾き飛ばした。
「げ!!」
ボブヘアの女は慌てて穴を閉じようとするが、ヴェルゴがその前に竹竿を振り上げる。
ボタボタと流れ続ける血液に、わずかに視界が霞んだ瞬間。
「お前は出てけよ!!」
誤算は、一つしか穴は開かないと思い込んでいた事だった。
ヴェルゴは足元に開いた穴に、吸い込まれるように落ちる。
「クソ!」
霧の中に王女を残し、地面に空いた穴はヴェルゴを飲み込むと跡形もなく消えた。
******
「拠点候補地を思いつく限り全て出せ。向こうの方が頭数が少ないのなら、必ずこちらの戦力の分散を計る筈だ。出来るだけ少なく絞り込むぞ」
有翼達は、結局ドフラミンゴに全てを委ねる決断をした。
王女奪還と、反有翼の鎮圧を目標とし、島の地図を見ながら反有翼の拠点と思しき場所にバツ印を記入する。
「拠点を、」
「なんだ、煩いぞ。今若が喋って」
その時、部屋のドアを乱暴にノックする音がして、一番近くにいたグラディウスが軽い扉を開けた。
開く扉に寄りかかっていたらしい人体が、ゆっくりとその支えを無くして部屋の中へと倒れ込む。
「……!」
それが、海兵の格好をしたヴェルゴで、白い制服の殆どが血に染まっている事をグラディウスは最もはやく察知した。
脇腹を押さえる血だらけの手のひらと、通ってきた道に残る血の跡を見て、グラディウスはしなければならない他人のフリを思わずすっ飛ばす。
「若を悲しませたら殺すぞ!!!」
「どういう意味だ!!!」
怒鳴ったせいで貧血を起こしたヴェルゴが青い顔で床に頭を付けた。
戸惑う有翼達を掻き分けて、ドフラミンゴがその頭の上に立つ。
「痛そうだなァ、海兵さんよォ。どうかしたか」
「ハァ、は、反有翼に、移動系の能力者がいる。……おれと、王女は霧の中に一度連れ去られたが、おれだけ逃れた」
「霧の中……。虚か」
ドフラミンゴは背後で二挺拳銃の呟きを聞きながら、脇腹を押さえるヴェルゴの手のひらを退ける。
血に溺れた銃痕を眺めて、彼にしか見えないように肩を竦めた。
突然降ってきたボストンバッグを思い起こし、ゲリラ的攻撃を仕掛けられれば厄介だと思う。
「あの場所は……いつから霧が立ち込めている」
「二、三年前だ、多分」
「意外と、用意周到に進めていたのかもな。おい、消毒と包帯あるか」
ドフラミンゴの指先から糸が伸びて、ヴェルゴの脇腹の銃痕を縫い合わせていく。
ドフラミンゴの言葉に何人かの有翼が弾かれたように部屋を出て行った。
「霧の中はどうなっている?崖があると言っていたよな」
「崖の下は海岸だ。五メートルくらいの崖だったと思うが……。霧で視界は殆どないから落ちれば助からない」
「……」
ドフラミンゴは考えるように顎を擦ると、ゆっくりと立ち上がる。
救急セットを抱えてきた有翼達に、縫合は済んでいる、とだけ伝えた。
「虚へは、おれが行く。グラディウス、お前も来い。ヴェルゴ大佐、あんたも立てるなら来てほしいが」
「ああ、行ける」
矢継ぎ早に言ったドフラミンゴに、青い顔でヴェルゴが言う。
突然動き出した状況に、有翼達はあたふたするだけだ。
「……おれも、行く」
その中で、やっぱり口を開いたのは二挺拳銃で、長い前髪の隙間からドフラミンゴを見ている。
何となく、彼の行動の理由を察して、ドフラミンゴは小さく息を吐いた。
「移動能力持ちなら、おれ達が行動していない今の時点で戦力を個別配置していない筈だ。どうせ、能力で任意の配置にすぐに送れるんだからな。きっと全員、霧の中にいる。霧と、移動能力の方はおれ達がどうにかするから、霧が晴れたら二挺拳銃は王女を探せ。他の有翼は待機している反有翼を一網打尽にする」
ドフラミンゴはこの時一つ、普段はしない判断をしている。
それは、重症者であるヴェルゴを現場に引っ張り出した事だ。
その判断は、後にこの男を救う事となるが、この時そんな事は勿論知らない。
ただ、ドフラミンゴは恐れていたのだ。
(お前は、こいつまで、)
長く、ドフラミンゴは亡霊を見続けている。それが、ただの幻覚なのか、それとも、後悔の表出なのか、ドフラミンゴ自身にも分からなかった。
しかし、この時、その亡霊は寄りによって、ヴェルゴの腕を引いていたのだ。
あの、珀鉛病の少年を連れ去ったように、また、同胞を連れ去るつもりなのだという思考に、ドフラミンゴは支配されている。
(ああ、気が、狂いそうだ)
既にそうなっているのかも知れない恐怖感をねじ伏せ、ドフラミンゴは額に流れた冷や汗を拭った。
視界がずっと、朦朧としている。
それでも、この男を止めるものはこの現世には居ないのだ。
******
深い霧が、もやもやと視界を遮る。
数年前から突如として霧に覆われたこの場所を、有翼達は虚と呼んで恐れていた。
「霧の手前にある民家から、二キロ先が崖だったらしい。地形に変化が無ければ十五分程歩けば崖に到達する筈だ」
霧の中をコンパスを頼りに歩くドフラミンゴは、後ろのヴェルゴに言う。
虚の中へ踏み入った二人は、敵陣地にも関わらずそれなりに呑気だった。
「そろそろ崖か……?気を付けろ」
「ああ、多分あと、数メートル……」
その時、ちょうど先に伸ばしていた糸が消え失せた地面を察知する。
早足で進むと、予定通り垂直に切り立った崖が現れた。
濃い霧の中で、下の方は殆ど見えない。
「おれが先に降りるぞ」
反有翼の拠点があるとすれば、この先だ。
ドフラミンゴはスルスルと糸を伸ばし、背中から身を投げようとヴェルゴの方を振り返る。
「……どうした、痛むか」
「いや、」
その時、ヴェルゴの顔が奇妙に歪み、ドフラミンゴは思わず縫い合わせた脇腹に視線を落とした。
我に返ったように、言葉を濁したヴェルゴは、ドフラミンゴに何も言わない。
「少し様子を見て戻る。何も見つからなかったら、あれを試すぞ」
「ああ」
言って、ドフラミンゴは背中から後ろへ倒れていく。
支えを無くしたその身体が、霧の中へ呑まれる瞬間。
その瞬間、背後から血だらけの手のひらがドフラミンゴの身体に絡みついた。
『兄上』
思わず、息を呑んで振り返ると、自分と同じ金色の髪が頬に当たる。
ああ、ずっと、こうして、この男は自分を責め続けるのだろうか。
(この、糸を、切ったら)
或いは、もうこの亡霊と対峙する事はないのかもしれない。
ドフラミンゴは悪魔の様に魅力的なその算段に取り憑かれ、まるで、その意思に沿うように、一本ずつ身体を支えていた糸が切れていく。
(これで、満足か、ロシー)
死人に口が無いと、言ったのは一体誰だった。
殺せば、それでいつも、終わりだった筈なのに。
「ドフィ……!」
その時、ドフラミンゴの腕を掴んだ第三者の手のひら。
血の繋がりという、一種の呪の外にいる、部外者の男は、どうしてか、彼の腕を握りしめていた。
******
「わ、若から連絡だすやん。その、反有翼の拠点を見つけ出して、全面抗争に持ち込むらしいだすやん」
時を少し戻した、マラケシュ国内。
カジノ"ビック・ディッパー"社長室。
ソファに横たえた、腕の無い死体の足元で蹲る少女に、バッファローは控えめな声で伝えた。
遺体を発見したのは、バッファローではなくこの少女だった。やはり、反有翼の旗が掲げられ、路地裏に捨てられていた。
自分と同じくらいの年齢に見える少女は、バッファローの言葉に「そう」とだけ返して、ゆっくりと立ち上がる。
「お前ら、どうするだすやん」
「ビック・ディッパーは、ウィングマン自治区の繁栄を保障する義務がある」
有翼達に殺された両親。諸悪の根源である祖父。反有翼とウィングマン達。
彼女だけが、この歪な国家の中で理解しているのだ。
(問題は、翼の有無ではない)
恨むべきは翼の有無で判断できない。
それを、この幼い瞳は知っていた。
「ビック・ディッパー全勢力は、ドンキホーテ・ファミリー及びウィングマン自治区に加勢するわ」
******
「ドフィ……!」
「ヴェルゴ」
ドフラミンゴが落ちて行く瞬間、奇妙な幻覚を見た。
半分に折れてしまった、大切だった万年筆の破片。ドフラミンゴを取り巻く、あまりにも禍々しい無数の腕。
その中に、見知った金色の髪を見たような気がして、ヴェルゴは思わずその腕を伸ばしたのだ。
「やっぱり、おれも行く」
「あ?何で、」
その意に反したのは、これが初めてだった。
少し、驚いたようなドフラミンゴは、年相応の顔で疑問を呈し、ヴェルゴの顔を宙ぶらりんのまま見上げている。
「心配だからだ……!」
取り繕う言葉を持たないヴェルゴは、ただの本心でそう言った。
しかし、反射的に吐き出されたその台詞は、責任感が強く、尚且つプライドの高いドフラミンゴには、大きなダメージを与えるのだ。
「……すまん」
「あ、いや、その、」
予想外の台詞に、面食らったドフラミンゴは思わず謝罪を口にする。
しかし、その時、あの日から揺らいでいた自我の置き場が、船長という肩書に収まるのを悟った。
「ふ、フフフフッ……!敵わねェなァ……!」
「……?」
突然笑い出したドフラミンゴを不思議そうな顔で見つめるが、その無言の疑問にこの男が答える事は無い。
さらに、追い討ちをかけるように、その頭上に大きな穴が出現したのだ。
「こんなとこまで入ってきたのか!」
目つきの悪いボブヘアの女が再び現れ、穴の中でドフラミンゴに銃口を向ける。
ドフラミンゴと目配せをしたヴェルゴは、その手のひらを離した。
「げ!」
落ちるドフラミンゴの指先から放たれた糸が、女の身体に絡まって穴からその体を引きずり出す。
一緒に降下していく女を思い切り下に投げて、その反動でドフラミンゴは上に飛んだ。
「クソ!変なサングラスしやがって!!!」
自ら呼び出した穴に落ちた女は、一瞬でヴェルゴとドフラミンゴの頭上の穴から再び出てくる。
それを読んでいたヴェルゴの竹竿が、そのピストルを弾いた。
「おいもっと霧を濃くしろ!ブッコロしてやる!!」
その時、閉じゆく穴に消えた女の台詞を聞いて、ドフラミンゴはゆっくりと口角を上げる。
言葉通り、霧は更に濃くなって、自分の手のひらさえ見えない程だった。
しかし、これで、全てが計画通りに進むと確信する。
「フフフフッ!何だ、お前、ズブの素人か」
そして、まるで霧に話しかけるように言った。
あの言い振りでは、この霧がロギアの能力である事は明白なのである。
「覇気の達人に、体積を増やすロギアの攻撃は逆効果だぜ」
その時、濃い霧の中でも分かる、あまりにも巨大な暴力の気配。
バチ、バチ、とまるで稲妻が走るような音がする。
「……え?あれれ」
どこからともなく、その異変に恐怖するような声が響くが、その男は既に、凶器を振りかざしていた。
「腹いっぱい食っていけ、おれの、」
振り抜いた竹竿は、あまりにも凶暴な覇気を纏い、その実態を掴む。
フルスイングを受けて、確かな実態を表した濃霧は崖の向こうへ吹き飛んだ。
「おれの、とっておきだ」
******
「あれ?!おい!!霧が晴れてくぞ!何でだ!!」
ドフラミンゴ達から一旦距離を取ったボブヘアの女は、晴れていく霧に驚き、穴から外を覗き込んだ。
「何だって奴ら……ハネツキの味方なんかするんだよ!!意味わかんねェな!!」
停戦中、相次いだのは食料不足に喘いだ有翼達の強盗事件。
翼の生えた男達が食料を抱えて逃げる途中、小さな子どもを蹴飛ばしたのを見たその瞬間、あんな生き物はこの場所にいない方が良いと思った。
それなのに、国も、政府も、あのハネツキ共の肩を持つのだ。
「……お前から見て北西に二キロ」
その時、どこからともなく甲高い声がして、彼女はハッと上を見る。
石のようなものでできた大きな顔が、霧が晴れた虚全体を見下ろして、顔に似合わないソプラノボイスで何かをブツブツ言っていた。
「なにを、」
その瞬間、鋭い銃声がしてボブヘアの頭が大きく仰け反る。
痛みなど、もう感じる事は無い中で、その眼球だけが発射元を探した。
「何で、どこから……」
しかし、それを見つける事は無く、細い体は消えた穴の入口から落下する。
その視界が閉じる刹那、はるか遠くの時計台の上で、光る何かを確かに感じた。
「若の邪魔をするからだ、クソアマ……!」
虚から二キロ離れた時計台の上で、電伝虫が伝えた標的を寸分違わず撃ち抜いたグラディウスは、忌々しげに呟いた。
この海には、あの男の邪魔をする者が多い。
それを全て排除すると決めた男は、スナイパーライフルを担いで立ち上がる。
「はやく……若に褒めてもらおう……!」
******
「そういえば、ヴェルゴ」
「何だ、ドフィ」
霧は晴れた。眼下で繰り広げられる、翼を持つものと持たない者の闘争は、数的有利で有翼達に軍配が上がるだろう。
こうして、ウィングマン自治区は全ての敵を排除しながら繁栄する道を歩むことになるのだ。
それを、崖の上から見下ろしていたドフラミンゴは、思い出したように懐から長方形の箱を取り出す。
「アイツらがいるとうるせェからなァ。フフフフッ!誕生日おめでとう」
「……!」
たまに、この男は意図せぬところで他人の心を掴む瞬間があるのだ。
ヴェルゴは箱の中から出てきた名前入りの万年筆に、驚いたように瞬きを繰り返す。
「何だよ、お気に召さなかったか」
「ドフィ、」
『任務に励め。おれの為にな』
『一兵卒にいちいち贈り物をするのか』
『フフフフッ!ヴェルゴは馬鹿だなァ、分からねェのか』
あの時貰った万年筆が大切だったのは、
『ヴェルゴの事が好きだからやるんだ。離れていても、おれを忘れるな』
無価値だった自分の人生に、価値がついた瞬間。
この男の為に死ぬ。その為だけに生きているのだ。
「ドフィ、おれも、お前の事が好きだ」
子どものようにドフラミンゴを抱き寄せて、ヴェルゴは言う。
驚いたように黙り込んだドフラミンゴは、照れたようにため息を吐いてその長い腕をゆっくりと回した。
今後、その言葉はこの男にもう一つの呪いをかける事となるが、明日の事を考えられる程、恵まれた場所に立ってはいない。
その日を境に、あの亡霊はドフラミンゴの目の前から姿を消した。
******
翼を持つものと、持たない者達の闘争は十日で決着が着いた。
ウィングマン自治区は王女奪還と反有翼団体の壊滅を実行し、その土地に居座る権利を主張する。
その足元は、バックに付いたドフラミンゴが王下七武海入りを果たす事でさらに強固なものとなるのだ。
「これは、喜ぶべきことなのかしら。貴方は……どう思う」
有翼商会の社屋を開放し、戦勝を祝う宴会が一日中続いている。
その明かりも、喧騒も遠い場所に二人の男女が立っていた。
突然首を突っ込んできた海賊達が作った学校の前で、静かに向かい合っている。
「おれ達は……喜ぶ。でも、お前にそれを強要はしない」
ビック・ディッパーの職員達が、荷車に酒を載せてやってくるのが見えた。
ただ、その中にあの利発そうなポニーテールの少女はいない。
「ただ、」
腰に下げた二挺拳銃が、僅かに耳障りな音を立てた。
停戦中、翼を持たない者達に両親は殺されてしまった。
その犯人を、この二挺の拳銃で撃ち殺した。
ずっと、もう、こりごりだと思っていたのだ。
それなのに、まだここで、息をしている。
「殺すのも、殺されるのも嫌だ。皆、そう思っている。それを忘れないうちは、きっと、平和なんだろう」
美しい、アイボリーの髪が暗闇で靡く。
細い腕が青年の首に掛かった。
「生きて帰ってきてくれて、良かった……!」
翼の有無が、隔てるものは多くある。
それを、飛び越えられる要因は、いくつかあった。
「いつか、翼の有無が……なんの問題でもなくなったら」
長い前髪の隙間で、アイボリーの髪を眺めた青年はその細い背中に腕を回す。
彼女を見ていると、こんな、大きな拳銃を二挺も保有する必要なんて無いのではないかと思えて救われるのだ。
「おれと……結婚してくれ」
「言った!!!言ったぞ!!!おいドフィ!!聞いたか!!」
「聞いたよ……。何でそんなにテンション高いんだ、ディアマンテ」
「バッファロー!ビール掛け行くぞ!」
「了解だすやん!!!!」
「王女相手によくやるな……信じられん」
「……いや何してんの、マジで」
突然、校舎の窓から顔を出したドンキホーテ・ファミリーに、若い二人は驚いたように顔を向ける。
当事者達の宴会に水を差す事もないだろうと、勝手に建設途中の校舎で飲んでいたのだ。
「これが……恋ですね!若様……!」
「え?あ、ああ……そうかもな」
謎のテンションで瞳を輝かせたベビー5に、ドフラミンゴは一応返す。
『ドフィ、おれも、お前の事が好きだ』
これが、恋なら、あれも、そうだろうか。
そんな事をふと思い出し、既にこの島を離れたあの男を思い描いた。
相棒か、恋人か、はたまた糸の先の人形か。
その肩書を、一つ選ぶとしたら一体、どれを選ぶべきか。
「そうだな……これが……恋じゃな……」
「ウオオ!びっくりした!あんたなんでこんなところにいるんだよ!!」
突然同じ校舎内に、フラリと予期せぬ人影が現れた。
月明かりに照らされたのは、あの初老の国王だった。
「……って、あんた何持ってんだ!あぶねーだろ!」
「けしからんけしからん!パパはまだそんなの許しておらんぞ!!」
「おおお落ち着けよお父さん!大丈夫だってあいついいヤツだから!」
「そうだぞお父さん!こういう時は娘の意思を尊重してやれ!」
「おい暗いところで刃物を振り回すな!若に当たる!」
何故か、サーベル片手に現れた国王を、ドンキホーテ・ファミリーが必死に止める。
その様子をチラリと見た青年は、やっぱり覇気の無い瞳をしていた。
「「「あ」」」
ヒョイ、と王女を抱き抱えた青年は、校舎に背中を向けて走り出す。
殆ど酔っ払いのファミリーは、嬉しそうに手を叩いて囃し立てた。
「お父さーん!娘さん僕が貰いまーす!!」
「百年早いわ!!!!」
「ウハハハ!逃げろ逃げろ!」
面白がったディアマンテ達も、校舎の窓から飛び出して、その背中に向かってビールを掛ける。
楽しそうな笑い声が響く中で、残された国王とドフラミンゴは妙な沈黙を築いていた。
「まあ、気持ちは分かるぜ」
「やかましい!!」
ドフラミンゴが差し出した酒瓶を奪い取り、サーベルを置いた国王はその善悪を、決めあぐねている。
それを、何となく察しているドフラミンゴは、特に懐柔策を取るつもりもなかった。
「何故……助けた」
最もな疑問だった。この男は、億超えの懸賞金を掛けられた大悪党なのだ。
少し、考えるような仕草で顎を擦り、一口酒を飲んだドフラミンゴは、ゆっくりと口を開く。
「どこにも……行けないってのァ、気の毒だと思った」
そして、そんな事を言う。
人間の持つ悪性と善性の複雑さを、象徴するような男なのだ。
それ故に、きっと、一生苛まれる。
遠ざかった筈の亡霊は、今も尚、その横顔を眺めていた。
---------------------------あとがき
ビックディッパーとは新橋にあるパチスロ屋の名前である(ドンッ)