華氏"僕はいつでも君の味方だ。いつも君を想っている。"
あの無骨な手のひらからは、想像もつかない美しい文字。
乾いた便箋から、いつも香るハニーサックルの清涼な匂い。
いつからか、"兄"の送る手紙は決まってこの香りがした。
「フフフッ。"妹"に送るにしては・・・情熱的過ぎやしねェか。」
慣れてしまった、波に揺れるランプ。船にぶつかる、海水の音。
ヌマンシアの中で船長室に籠もるドフラミンゴは、出港前に届いた手紙を、繊細な手付きで引き出しに仕舞った。
商談で僅かばかり留守にしたドレスローザまでは、あと少し。
やっと陸に上がれると、ドフラミンゴが大きく伸びをした瞬間、甲板で轟音がして、船が大きく揺れた。
『気をつけろ・・・!!』
『・・・海に落ちるなッ!!!』
続いて聞こえた悲鳴混じりの怒号を聞いて、ドフラミンゴはようやっと立ち上がる。
勝手知ったるドレスローザ近海といえども、ここは新世界。
トラブルが起きても不思議は無かった。
「・・・オイ、どうし、た、」
船室の扉を開けて、甲板に出たドフラミンゴの顔が、光を遮る"何か"によって陰る。
言葉を噤んだドフラミンゴが見上げた先には、胴体から分断された"海王類"の頭部が目の前に迫っていた。
「・・・ギャーッ!!!若・・・ッ!!!避け、」
胴体から、その巨大な頭を分断させた"張本人"のグラディウスが、突然現れたドフラミンゴの姿に悲鳴を上げるが、もう遅い。
落ちた海王類の頭に押し潰されて、へし折れたメインマストの残骸に、ドフラミンゴの姿は呆気なく、呑まれた。
######
『・・・"ドフィ"。』
『"愛称"で呼ぶと、まるで、"家族"みたいだろう。』
もやもやと、霧の中に居るような、不確かな空間で、自分を呼ぶ"誰か"は、そんな、馬鹿みたいな事を言って笑う。
(・・・ああ、最初に、そう呼んだのは、"誰"だった。)
その、家族紛いの"お遊び"を、始めたのは、誰だった。
結局、"愛称"で"呼び合った"事はあったのか。
呼ばれた覚えの有る"愛称"と、呼んだ覚えの無い"それ"の、終着点は、一体、どこだった。
『・・・若。』
ああ、煩い。
そう、呼ばなくても、大丈夫だ。
『・・・若!!!!』
さっきとは違う、その喧しい"呼び声"に、ドフラミンゴは辟易と瞳を開く。
「・・・若!!!!!」
パチパチと、眩しそうに瞬きを繰り返したドフラミンゴは、自分の顔の上で大きな声を上げた、マスクとゴーグルで殆ど顔の見えない男に、驚いたように瞬きを止めた。
随分と大きくて、寝心地の良いベッドから半身を起こすと、大小様々な男女が、心配そうな顔でこちらを見ている。
未だ、靄がかった思考の中でその状況を理解しようと努力はしたが、一度、顎を擦ったドフラミンゴは諦めたように口を開く。
「・・・お前ら・・・誰だ。」
######
「ハイ、責任取って死にまーッす!!!」
「グラディウス煩い。ちょっと黙ってて。若様?若様、自分の事は分かる?」
「・・・いや、えーと、」
「オイオイ、マジか。ドフィ、名前は言えるか?」
「・・・いや。」
「もう無理・・・死にます・・・。」
「今お前に構ってる暇無いから、ちょっと静かにしてような。」
ドレスローザへ帰る航路上で、大型の海王類に出くわし、駆除の段階で折れたマストと共に海へ落ちた"船長"を救出して、どうにかこうにか王宮まで帰り着いたのは、昨日の事だ。
一晩中、目を覚まさなかったドフラミンゴを、入れ代わり立ち代わり看病し、やっと起きたと思ったら、"これ"だ。
あの時、海王類の首を破裂させたグラディウスは、愛しの若の様子に既に虫の息である。
「若、何も思い出せねェか。」
「・・・どうやら、そのようだ。」
「なんて事だ・・・ドフィ!お前にはこの海の王となる使命があるんだぞ!!!」
狼狽えるトレーボルの言葉にも、未だふわふわとした表情を見せるドフラミンゴは、その"使命"を理解できていないようだ。
「・・・想像以上にマズい事態だな。・・・どうする。」
「・・・・・・・・・・・・・こうなったら、"あの人"を召喚するぞ。」
「・・・あ?誰をだよ。」
途方に暮れる幹部達に相手をしてもらえず、部屋の隅で静かにしていたグラディウスが唐突に立ち上がる。
部屋の奥に大股で進み、勝手にドフラミンゴの所有する無数の電伝虫達の中から一つを選んで掴んだ。
「悔しいが・・・こういう時は若が一番信頼してる男を呼ぶべきだ。」
怪訝そうな顔をする幹部達を後目に、その背中に背負われた受話器を上げる。
「ハロー?!ハロー?!」
『・・・・・・・・・・グラディウスか?どうした。』
「"ヴェルゴ"さァァァん!!!!!大変だ!!!すぐに帰ってきてくれ!!!!!」
数度の呼び出し音の後に、低い声が響く。
名乗らずとも名前を呼んでくれた受話器の先に、グラディウスは思わず泣きついた。
『・・・?。何だ。何かあったのか?今日はG-5で新年会なんだ。帰るのは無理だぞ。』
「ハァアアア?!"上司"なんざ飲み会に居て欲しく無ェ生き物ナンバーワンだろうが!!!金だけ置いて速攻ドレスローザに向かってくれ!!!若が大変な事になってんだよ!!!」
『・・・なに?ドフィが?・・・分かった。すぐに帰る。』
一度難色を示したヴェルゴも、"若"の一言が出た瞬間、華麗に手のひらを返し、一方的に通信が絶たれた。
突然静かになった部屋で、未だ状況が理解できない"若様"だけが、ぼんやりとした顔で、その騒動を他人事のように眺めている。
(・・・"誰だ"、今のは。)
受話器から漏れた、いやに低いその声音が、ざわざわとドフラミンゴの胸の内を確かに揺らした。
この状況で呼ぶということは、親しい友人か何かだろう。
それなのに、再び点く気配の無い"記憶"の炎は、永遠燻ったままだ。
狼狽える、目の前の人間達に、些か申し訳無い気持ちが伴って、ドフラミンゴは手持ち無沙汰に首筋を掻く。
(・・・なんにも、思い出せねェなァ。)
######
「若・・・ッ!!最近若がハマってた紅茶淹れてきたぜ・・・!!!何か思い出すかも!!!」
「・・・あァ。ありがとう。」
トレーボルと名乗った男は、ひとしきり今までの事、ドフラミンゴの立場と、これから成し得るであろう"目的"を捲し立て、それでもぼんやりとしたままの"王"に、まるで幻滅したように部屋を出て行った。
それを皮切りに、一人、一人と持ち場に戻って行った幹部達がとうとう全員居なくなったと思った瞬間、騒々しい音を立てて、ゴーグルの男が再び現れる。
手にしたティーセットを危うい手付きでベッドサイドのミニテーブルまで持ってくると、小さな椅子に腰掛けた。
「・・・お前は、」
「グラディウス!!あんたが一番可愛がってる部下だぜ!!」
「・・・そうか。」
ここぞとばかりに刷り込みを行うグラディウスは、またしても危うい手付きでティーポットから紅茶を注いでくれる。
その、ヤマアラシのような髪型を眺めて、ドフラミンゴは小さく息を吐いた。
「・・・突然、"王様"だって言われてもなァ。・・・おれァ、そんなに、大層な男だったのか。」
「・・・勿論だぜ!!若は頭もキレるし、戦っても強ェ。王に相応しい男だ。」
カチャカチャと、陶器の擦れる音が喧しい。
そんな、派手な実績と経歴に、そう興味は沸かなかったし、できる事なら静かに今後の身の振り方を考えたかった。
トレーボルは何やら必死に見えたが、この状態で国を納めるなど、到底無理だろう。
「・・・トレーボルさんはああ言っていたが、若。」
まるで、心の中を読まれたようなタイミングで、口を開いたグラディウスは、存外静かに言った。
湯気の立つカップをドフラミンゴの方に置くと、ゴーグルの奥で瞳を細める。
「安心してくれ。若がこのまま、王様も辞めて、日がな一日、本でも読んで過ごしてェと思うなら、おれは、毎日、若が好きそうな本を買ってくる係をやるぜ。」
元国王を引き摺り下ろして手に入れた"王位"。"神聖"な"出生"。"覇王色"。
この、目の前の男は、一体どれに惹かれて、そんな事を言うのだろうか。
そんな、卑屈な考えを流石に口にはせず、ドフラミンゴはカップを持った。
「"最高幹部"は若を王にする為に、沢山"投資"をしてきた。だから、王の席から降ろさないように必死なんだ。・・・だけど、おれは"違う"。
・・・おれは、若に貰ってばっかりだったから、別にもう、何にも要らねェんだ。」
「若はおれを、一人にはしなかった。・・・だから、おれも、若を一人にはしねェんだ。」
(・・・凄ェ、口説き文句だ。)
心酔にも似たその感情を躊躇無く向けて来る男に、ドフラミンゴは呆れたように笑って、カップの中身を一口啜る。
この男が酩酊したのは、自分の持ち得る中のどれなのか、冴えない思考のドフラミンゴには到底理解は出来なかった。
「・・・美味ェな。」
「・・・だろーッ?!あんたコレばっか飲んでたんだぜ?!」
初めて、随分と幼い顔で笑ったその部下を、ドフラミンゴは"確かに、可愛い奴だ"と、何の意図も無く、思った。
「・・・ドフィ!!!」
「いやはえーよ。あんた本当にG-5に居たのか。」
日も傾き始めた頃。
グラディウスが床にドレスローザの地図を広げ、ドフラミンゴがお気に入りだった場所に丸を付けたり、一緒に行った事のある場所を説明したりしていると、勢い良くその扉が開いた。
流石に、来るのは翌日だろうと踏んでいた"相棒"の登場に、思わずグラディウスが呟く。
「速攻来いと言ったのはお前だろう。・・・ドフィ、何があった。」
「・・・アー、それがな、ヴェルゴさん。」
「・・・あんたが、おれの、"相棒"か。」
目立った外傷が無いドフラミンゴに、一度息を吐いたヴェルゴは、その相棒が吐いた台詞と、妙に光の無い双眸に瞳を細めた。
グラディウスは気まずそうに髪を掻いてから立ち上がる。
「航海中に事故って・・・記憶喪失って奴だ。何にも、覚えて無いらしい。」
「・・・そうか。」
どこかぼんやりとした表情のドフラミンゴと、グラディウスの言葉が一致して、それでもヴェルゴは静かに言った。
ベッドに腰掛けたドフラミンゴへ近付くと、確かめるようにその顔を覗き込む。
「・・・おれの事も、忘れてしまったか。お前の"相棒"の、ヴェルゴだ。」
掛けていたサングラスを上にずらして、言ったヴェルゴにドフラミンゴの瞳が僅かに揺れた。
その顕になった瞳も、声も、燻る記憶に作用はしないのに、何かがしきりに、耳元でがなりだす。
写真が散らばるように、断片的に脳裏を過ぎたのは、便箋と、封筒だった。
「・・・あんたの、"匂い"は、"懐かしい"な。」
一度も思考を挟まずに、するりと滑り出た言葉を聞いて、ヴェルゴは一瞬だけ、切ない表情で笑う。
サングラスをすぐに掛け直して、ゆっくりとドフラミンゴから離れると、複雑そうな顔をしたグラディウスに向いた。
「・・・トレーボルと話がしたい。・・・案内してくれ。グラディウス。」
######
「・・・"匂い"ってなんだ?あんた何かつけてんのか。」
「・・・何年か前に、モネからお下がりを貰ったんだが・・・"華氏"を意味する香水だ。それは、確かにいつもつけているな。」
『"温度"にまつわる香水なんて・・・わたしからしたら、随分素敵だと思ったのだけれど。
香りがあまりわたしには合わないと思って、使っていないの。良かったらどうぞ。』
そう言って、あの"冷たい"女がくれた香水を割と気に入り、自分でも買っては付けていた。
王宮の長い廊下を並んで歩くグラディウスに言うと、へー、と、大して興味も無さそうに相槌を打つ。
「この香水を"ブリキの玩具"に振りかけると、人間の心が生まれるそうだ。」
「・・・何だよ。人間に成りたくなったのか。」
「それは、そうだろう。」
完全に、落ちてしまった太陽に代わり、月明かりがヴェルゴの顔を照らした。
深い意味も無い、グラディウスの返答に、ヴェルゴは笑って口を開く。
「"信仰"は、人間にだけ許された特権だ。」
月の明かりに、雲でも掛かったか。
徐々に蝕まれた、真っ暗な闇の中で、足を止めたグラディウスは、気配だけでその背中を捉えた。
「・・・あんたが、"信仰"してるのは、"若"か?それとも、"王様"か?」
再び、月明かりが照らした時に初めて、向かい合っていたとグラディウスは気が付く。
何も言わないヴェルゴに、ため息を吐いた。
「トレーボルさんは、若の記憶が戻らなくても、王位を継続させる気満々だ。だけど、そんなの無理だろうし、若も望んでなさそうだぜ。
・・・そうなっても、あんたは若の相棒で居てくれるよな。」
この男は、些か"屈折"している。
誰よりも、ドフラミンゴに心酔している割に、驚く程、ドフラミンゴの幸福への道筋に、自分がいるかどうかを問わないのだ。
そんな、自分と同じ"価値観"に、ヴェルゴは同族嫌悪にも似た感情を抱く。
「若は、あんたの事が大好きだろ。あんたも若が大好きだ。だったら、最後まで付き合えよ。」
ただ一つ、この男とヴェルゴを別つ大きな壁の正体を、ヴェルゴはちゃんと知っていた。
ギラギラと、月明かりで光るその双眸に、グラディウスは怯えるように息を呑む。
「・・・ドフィが、おれを、愛する必要なんて無いだろう。」
(・・・ああ、)
難儀な男だと、グラディウスはいつも思う。
"人間"の、幸福の"仕組み"を知らない、気の毒な男。
与える事を幸福だと思うのは、ドフラミンゴも同じだと、永遠気が付かないのだ。
「・・・あんたいつまでそうやって、"あの人"の足元に居るつもりだ。」
受け取られる事も無く、屑籠に積み重なった行き場の無い愛情に、この男は気が付かない程、馬鹿なのか。
覗いたヴェルゴの双眸は、サングラスに遮られて、よく見えなかった。
「・・・死ぬまで、ずっとさ。・・・全て、今更なんだ。」
######
「若様・・・わたし達の事、思い出してくれるかしら。」
「どんな手を使っても、思い出させるさ。」
王宮地下の交易港で、夜通し働くおもちゃ達を見下ろすと、シュガーがぽつりと呟いた。
無くなってしまった、"若様"の記憶。
忘れ去られてしまった自分達は、それでもこの、"歪な城"を守り続けている。
「もし、記憶が戻らなかったら、貴方はどうするの。」
幼く見えるその大きな瞳が見上げてくるのを、トレーボルはゆっくりと見下ろした。
「べへへへへ。戻らないなんて現実は無い。ドフィは、王になる男だぞー?。お前こそ、もしそうなったら、どうする?んねー?どうするー?」
大きく腰を屈めて、覗き込んでくる男の"感情"を、シュガーはこれまでに一度も、掴めた事は無い。
知りたくも無いその腹の底を、見透かすように、大きな瞳が一度、ギラリと光を放った。
「・・・若様が"要らない"なら、わたしも、わたしなんて"要らない"わ。」
怪しい眼光に、トレーボルは満足そうに口元を歪める。
(・・・そうだ。)
それでこそ、"家族"だ。
"そうなる"ように、仕組んだ"幸福"。その強固な"城"は、簡単には崩せない。
『シュガー!トレーボル!!大変だ!!ドフィが・・・!!』
交易港の片隅で、ギシギシと軋む小さな"ブリキのおもちゃ"が一つ。
昨晩この地下に落とされて、あの緑髪の少女に触れられてから、こんな、随分と平和じみた姿になってしまった。
あの時、あの少女は突然割り込んだディアマンテに気を取られ、自分と"契約"を結ぶ前にこの交易港に落とした。
結果、"支配"されないブリキのおもちゃが生まれたのである。
『もし、記憶が戻らなかったら、貴方はどうするの。』
明らかな、緊急事態の予感を感じた"ブリキのおもちゃ"は、冷たい体でそのトラブルに、希望を見出した。
傍らの箱から、売り物であろうマスケット銃をそっと掴む。
この国の、暗い背後を、照らせる時が来た。
(・・・ドフラミンゴを、討つチャンスだ。)
######
「お前は・・・とても聡明で、その行動はいつもおれを驚かせた。・・・雲に"糸"を引っ掛けて、まさか飛べるなんて、普通思わないだろう。」
「フフフッ。それは、確かにそうだ。」
カラン、と、グラスの中で氷が音を立てる。
支部には"妹の病状が芳しく無い"と伝え、暫く休暇を貰った。
ドフラミンゴの部屋でテーブルを挟んでソファに座ったヴェルゴは、アルバムを捲るように、昔の話を低い声で話して聞かせる。
確かにあった、その、"痕跡"を、彼が取り戻すのは、明日かもしれないし、今際の際かも知れないと、医者には言われていた。
「あんたは・・・あんまり、思い出せとは言わないんだな。」
「・・・他の皆は言うのかい。」
「・・・グラディウスはドレスローザ中におれを引っ張り回して、ここがどうとか、あそこがどうだとか、ずっと言ってる。」
「それ多分お前と出掛けたいだけだぞ。純度100%の下心だ。」
「フッフッフッ・・・!そうか。まァ、可愛い奴だよ。」
再び、グラスの中で氷が溶けて、美しい音を立てた。
余りに穏やかな空間に、ヴェルゴは身を焼くような焦燥を感じる。
『・・・あんたいつまでそうやって、"あの人"の足元に居るつもりだ。』
"今更"だと、思っている。
この男の"足元"に跪く為に、全てを"仕立てた"筈だった。
"神聖"な身の上、"覇王色の覇気"、"破壊衝動"。
この男の持つ"カリスマ"は、このゴミ溜めのような世界の破壊を"肩代わり"し、夢を見せてくれる筈だと、全て"押し付けた"のだ。
その、"観客面"を、今更覆すのは不可能だろう。
(・・・なのに、)
こんな"好機"が、転がり込んで来てしまった。
彼の中で、全てが"ゼロ"に戻ってしまった。
このまま、全てを"無かった"事にして、彼を"舞台"から降ろせる口実が、出来てしまった。
そうなれば、自分は、"観客面"を呆気なく捨てて、彼に、自分だけを愛するように乞うだろう。
「・・・ドフィ。おれは、」
(記憶が戻らなくても、良いと思っている。)
結局、出ては行かなかったその台詞は、余りにも酷い。
突然黙ってしまった相棒に、ドフラミンゴは相変わらず光の無い瞳で首を傾げた。
そして、ゆっくりと両目を細める。
その、鋭く見える"懐かしい"双眸に、ヴェルゴはドキリと心臓が高鳴った。
「あんた、もしかして、」
「・・・酒が足りないな。持って来よう。」
居たたまれなくなったヴェルゴが、ドフラミンゴを遮って立ち上がる。
その、聡い双眸は、ヴェルゴの逡巡を見透かしていた。
(まるで、思い出して欲しく無いみたいだ。)
出て行ってしまったその扉を眺めたまま、ドフラミンゴは思って、首筋を撫でた。
######
ガチャン、ガチャンと、妙な金属音が響く。
王宮の長い廊下の先を、こちらに向かって歩く、小さな"ブリキのおもちゃ"。
ヴェルゴはそのおもちゃが抱える長い銃身に、思わず眉を顰めた。
ゆらりと、緩慢な仕草で止まった"おもちゃ"は、まるで、血の巡りがあるかのような憎悪を持って、ヴェルゴの瞳を射抜く。
「・・・ドレスローザから・・・出て行け・・・!!!」
明らかな"意思"を持つおもちゃに、獣の本性が危機を告げる。
前を向いた銃口が、月の明かりを反射した瞬間、生存本能だけが体を動かした。
響き渡った銃声と、耳元でがなる誰かの声に引かれるように、ヴェルゴは低く腰を落として床を蹴る。
瞬きをする度に近付く弾丸は、僅かにその頬を食い千切って、後方の花瓶を砕いた。
「・・・出て行くも何も、この国は"あいつ"の物だ。」
瞬時に瞳が獰猛を宿し、その眼光は赤い軌道を描く。
蹴った床が大きく軋み、一足でその小さなおもちゃと距離を詰めた。
「・・・ヴェルゴ?」
「・・・出てくるな!!ドフィ!!!」
その瞬間、ヴェルゴは視界の端で揺れる、愛しい金髪を捉えた。
吐きそうな程の嫌な予感に取り憑かれ、思わず怒鳴り声を上げる。
月光を受けて光る銃身、58口径、別人のように牙を剥く、"相棒"と聞かされた男。
どこまでも聡いドフラミンゴの思考は、この状況を、すぐに理解するだろう。
(・・・"理解"したら、"今の"ドフィは、)
忘れ去った、"王"の素質と野心、"破壊衝動"。
この海で、誰かの上に立つという事を理解しないその男は、愚かな算段にたどり着いてしまう。
ヴェルゴの頭を過ぎった、その、恐ろしい"妄想"は、哀しくも当たりを引いて、ドフラミンゴはヴェルゴを銃口から庇うように、その腕を伸ばした。
「・・・おれの、」
ああ、崩れてしまう。揺らいでしまう。"王様"が、自分の"隣"に、降りてきてしまう。
"それ"を、一度でも許してしまえば、もう、手放せないのだ。
その、魅惑的な絶望に、噛み締めた奥歯がギリ、と音を立てる。
「おれの、"盾"になるな・・・!!!」
######
『おれの、"盾"になるな・・・!!!』
危ないと思った。
突然響いた銃声を聞いて、思わず部屋を飛び出したドフラミンゴに気を取られた"相棒"へ、小さなおもちゃは銃口を向けていた。
その弾道上から避難させなければならないと、えらく回転の良い頭は指令を出して、ドフラミンゴはヴェルゴの腕を引こうと手を伸ばしたのである。
その時、自分に向けられた台詞に、頭の中で火花が爆ぜた。
バチバチとショートするように弾けて、次々と引火する。
膨大な量の写真が、バラバラと頭の中に散らばっていくような感覚に、ドフラミンゴの体がグラリと傾いた。
(・・・"忘れたかった"のは、)
"溢れて"しまった屑籠の中。合わないベクトル。"捨駒"になりたがる"相棒"と、孤高を強いた"家族"の"負い目"。
目の前で、パッと明るく火が着いた瞬間、随分と下の方で照準を定めたマスケット銃が目に入る。
チカチカと目の前が明るくて、割れそうに頭が痛い。
思わず目を覆ったドフラミンゴが右腕を振ると、マスケット銃が真っ二つに割れた。
『若はおれを、一人にはしなかった。・・・だから、おれも、若を一人にはしねェんだ。』
『・・・ドフィ。おれは、』
「フ、フフフフッ・・・!!!」
酩酊したように、足元が覚束ない。
それでも、笑い出したこの男は、一体、"誰だ"。
(何を、"喜んでいた"。)
全て、そうなるように、"仕組んだ"張本人が、何を、喜んでいたのか。
(ああ、そうだ。)
あのまま、全て忘れられたら、それは、余りにも"幸福"だ。
その"幸福"を、自分自身さえ、許さない。
(・・・そりゃァ、そうだ。)
マスケット銃の残骸を、祈るように抱えた"おもちゃ"と目が合った。
その、憎悪しか入っていない、冷たい金属は、がらんどうの瞳でドフラミンゴを眺めている。
(・・・ありとあらゆる"幸福"よりも、)
振り上げたその手のひらの先で、細い糸が月光を反射した。
「"憎悪"の方が、おれ達にとっちゃァ、大事だからなァ・・・!」
光の入った眼球が、一際強く、輝く瞬間。
視線の先で、ブリキのおもちゃの首が飛んで、耳障りな金属音と共に床に落ちた。
「・・・ドフィ、記憶が、」
「あァ、"残念ながら"。・・・惜しかったなァ、相棒。」
ゆっくりと振り返るドフラミンゴの頭に、後悔とも呼べる"安堵"を感じてヴェルゴは声を絞り出す。
恐ろしくシニカルな笑みを見せたドフラミンゴは、壊れてしまった足元のおもちゃを軽く蹴った。
「・・・そんなこと無いさ。記憶が戻って良かった。」
吐いた嘘を、見透かすようにドフラミンゴはヴェルゴの瞳を覗き込む。
また、"降りる"チャンスを、逃してしまった。
「すべて、忘れれば、お前はおれに、愛されてくれると思ったんだが。・・・惜しい事をした。」
「・・・お前が、そう言うのなら、おれは、お前に愛されるよ、ドフィ。」
打ち出した苦肉の策にドフラミンゴは笑って、もう一度、ブリキの塊を蹴りつけた。
(・・・人間に、)
人間に、成り下がれば、この男を、愛する事ができるのか。
そんな、選べぬ選択を、ドフラミンゴの冴えた頭は諦める。
「・・・本当、"潔癖"な男だぜ。」
######
「・・・若、香水変えた????」
「・・・なんで一瞬で分かるの。キモい。死んで。」
気持ちの良い朝日が差し込む王宮の、ダイニングスペースに入ってきたドフラミンゴは、スーツに、ピンクのファーコートを引っ掛けていた。
今日は数ヶ月に一度の、基地長との密談の日である。
幹部達が囲む、朝食の並んだテーブルで、グラディウスが開口一番に言った。
あの騒動の後、支部に戻った"相棒"は、何を思ったか、新品の香水を一本、送り付けてきた。
"華氏"の意味を持つ、"人間"の"心"が生まれる香り。
その、"免罪符"で、溢れた屑籠の中身は少し、減るのだろうか。
「いつもと違う匂いだが、それも似合ってるぜ、若!」
冷めた目をするシュガーの頭を、大きな手のひらで一度撫でたドフラミンゴは口元だけで笑みを見せる。
「明後日まで留守にする、ここは頼むぞ。」
「ああ。勿論だ。任せてくれ!」
元気いっぱい応答したグラディウスに、ドフラミンゴは喉の奥で笑いを押し殺しながらチラリと視線を向けた。
自分の仕立てた、可愛い可愛いブリキのおもちゃ。その頭を、シュガーにやったように撫でる。
「期待してるぞ。・・・なんせ、お前はおれが"一番可愛がってる部下"だもんな。」
瞬間、能面のように表情が消えた後、グラディウスの体がグラリと倒れた。
そのまま、床に派手な音を立てて転がる。
「若。あんまりこいつに刺激を与えるな。面倒臭い。」
「フフフフッ。悪かったよ。じゃァ、頼んだぞ。」
床の上で"おれは今死にたい"と呟いているグラディウスを跨いで、ドフラミンゴは颯爽と部屋を出た。
押し付けてきた"免罪符"を、奴が、一体どう使うつもりなのか。
あまり期待はせず、ドフラミンゴは廊下の窓から、音もなく飛び立った。