お嬢とじいじ④二人の間に暫くの間沈黙が下りた。運転手は一言も口をさしはさまないまま、車は峠を下り始めている。
「何考えてんだよ、お前」
漸く口を開いたのは佐川の方であった。
「そんな馬鹿な条件飲みやがって──わからねぇのか?出来るわけねぇことばっかり並べ立てて、嶋野はお前がいずれ泣きついてくんのを待ってんだよ。金が払えねぇ、嫌がらせを受けて近所で噂になる、そんなことにカタギの女が耐えられると思うか?おまけに何だ、子供だと?どうしてそんなこと…せめて、──ああ、畜生」
佐川はやがて何もかも手遅れであることに気が付いて後の言葉を全て飲み込み項垂れた。
「…そない心配してくれるやなんて意外やのう」
しかし真島の方は落ち着いて佐川を可笑し気に眺めている。
「俺のことなんかもうとっくに忘れた思うてたのに。面会かて手紙かてそうやけど」
「誰がお前の面会なんか受けるかよ。今更俺に何の用があるってんだ、え?まさかこんな馬鹿みてぇな話になってやがるとはさすがに思わねぇ。ったく、何でまた兄弟は俺の命をお前になんか」
「そらあんたの言葉を借りれば出来るわけないから、やろな」
佐川は本気で腹が立ってきた。この十年間、感情を抑え込んで凪のように穏やかな心地で生きて行くことを信条とはしていたが、元来その中身は武闘派世代の極道だ。口より先に拳が出て、拳よりも先に鉛玉が飛んでくるようなホンモノの時代を生き抜いてきたヤクザなのだ。既に彼の腹の中のゲージは振り切れていた。昔だったら既に真島は肋骨の二、三本は持っていかれている。だがこの十年という時間はなかなか偉いもので、佐川司に今まで持っていたことのなかった新たな能力を授けていた。『我慢』である。
「俺のことどうやって守るつもり?そんな下らねぇ契り交わしやがって」
「とっておきの方法を考えとるんや」
「んだよ」
真島はにぱっと疲れた顔に微笑みを浮かべて言った。
「今日からあんたは、俺らの家で暮らしてもらうねん」
十年分の我慢も、遂に限界が来た。
「このお人よしが」
佐川はこのカタギさんの頬をしたたかに殴りつけたのだった。
***
何事もなく買い物から帰って寝室を確認すると、真島は可愛さの余りにか赤ん坊の頭にぱくりとかじりついていた。赤ん坊は「ぶう」と口を尖らせながらぺちぺちと父親の顎を叩いている。
──平和すぎる。
間違いなくシャッターチャンスだったので二、三枚、間抜けな父親面を写真に収めてから佐川はさっさと台所へ行き、お嬢のお望み通りうどんを湯がいた。彼女が喉を詰めぬようにちょきちょきとうどんを短く切っていると真島が娘を連れて居間にやってくる。
「お、生きとるやないか」
大きな欠伸をしながら真島は冗談めかして言った。
「んだよ死んで欲しいのかよ」
にやりと微笑みながら、ちょき、ちょき。
夜の帝王は汗ばんだ背を乱暴にかきむしり終わるとやがて赤ん坊のおしめを取り換え始めた。手慣れた手つきでひょいひょいと娘の身体を拭いている。
「すっかりうまくなったモンだねぇ親父さん」
「パパ、や」
ぎろりと睨みながら親父は小言を吐く。赤ん坊は綺麗にしてもらってすっかりご機嫌になると父親の首にまとわりついて彼の耳を齧り始めた。
「なぁ、佐川はん。この子はいつになったら便所に行けるようになんねやろ?」
耳たぶを散々にもてあそばれながら父親は尋ねる。
「あ?二つか三つくらいにはならねぇと無理だろうよ。──え、何。そんなことも知らねぇで子育てしてんの?お前ら」
ちょき、ちょき。
「…おん──んな顔すなや。しゃあないやろ、教えてくれる人もいてへんねんから…」
気まずそうに拗ねているが、確かにそれもそうだと佐川は天を仰ぐ。佐川がここにやって来るまでこの二人には本当に頼るべきものが誰もいなかったのだ。まさか佐川が子育てにおいてこんなに戦力になるとは三人とも予想だにしていなかったが、漸くこの生活も板についてきたところだった。
「お嬢も大変だな。…にしちゃすくすく育ってらぁ」
「ありがたいことやわ。病気もせんと、好き嫌いもせんと」
すり、すり、と真島が無骨な指で愛娘の赤い頬を撫でる。また写真を撮りたかったが、手元のうどんの方が大事だった。畜生、ちょっと写真を撮りすぎだ、と内心思う。
「ったく仕方ねぇ奴だな。だが乗りかかった船だ。俺が生きてるうちは教えてやるよ、人間の子供ってやつをさ」
フン、と小さく鼻を鳴らして真島は応ずる。
「何や、あんたなんか殺したって死なへんねやろ。近江かてきっとそない思うて諦めとるんや、もうだぁれも狙ってけぇへんわ」
「お?人をバケモンみてぇに。何だ、試してみるか?」
「ええな!…いや、やっぱりあかん。加減間違うて殺してしもたら偉いことや」
「つまんねぇの。お前ほんとつまんなくなったなぁ」
「つまらんでええわい。俺はもう父親やねんから。な」
腕の中の娘はきゃきゃ、と笑う。ちなみに耳たぶはもう救いようがなくなっていた。
「もういいや。さ、うどん食いな。食って働け、このカタギ野郎」
「はいはい」