月に昇らじ 夜の風が竹林を通り抜ける囁くような音が聞こえてくる。風の音に藍忘機が琴を弾く手を止め、開け放たれた外へと視線を向けると、魏無羨は軒先から見上げた月の明かりに目を細めながら天子笑を呷っていた。
静室の奥に座る藍忘機がじっと魏無羨の顔を見つめていると、魏無羨が振り向いた。藍忘機の琴の音が止まったことが気になったらしい。
「藍湛、どうかしたのか?」
月明かりに照らされた魏無羨の陰影の濃い輪郭に見惚れながらも、藍忘機は前々から気になっていた疑問を口にした。
「好きなのか?」
「ん? 俺が酒を好きなのは見てれば分かるだろ? 酒ならいくらでも飲めるなぁ」
魏無羨の答えを聞かずとも、彼が酒を愛していていくらでも飲めることは良く知っている。
「月を、良く見上げている」
「んー、そうかな?」
藍忘機の疑問に首を傾げた魏無羨は、流れるようにもう一度空を見上げて酒を呷ってから、一拍遅れてぷっと吹きだした。
「どうした?」
「あははっ、言われるまで気にしたことも無かったけど、確かによく見上げてるのかもなと思って。自分じゃ全然気付かなかったなぁ。視界に月の明かりがあると、つい見上げちゃうな」
うんと頷くだけに留めた藍忘機が立ち上がり、魏無羨の側へと近づいてゆく。軒先へと出てみると、眩しさを感じる月明かりに目を細めることになった。太陽のように世界を照らすほどではないが、確かな存在を主張する真円の大きな月が闇夜に浮かんでいる。
「明るいな」
「そりゃあ、今日は満月だしな」
二人で肩を並べ、風が抜ける音だけが聞こえているのに耳を澄ませていると、何かを考えていそうな顔で丸い月を見上げていた魏無羨がおもむろに口を開いた。
「藍湛に言われて改めて考えてみたんだけど、この十六年の間のことは知らないことばっかりだけど、空に浮かぶ月のことは知ってるなって思いながら見上げていることもあるかもしれないなぁって。それに、何というか……」
言い淀んだ魏無羨に、藍忘機が横を向くと目が合った。
「何だ?」
続きを促すと、魏無羨はふっと口元を緩ませてから再び空へと視線を向けた。
「夜になるとまだ夢を見ているみたい、なんて思うこともあってさ。月って日によって形は変わるし、そりゃあ昔見ていた月とは全く同じじゃないんだろうけど、人も街も変わっても、空の月は変わってない気がして、見てるとちょっと安心するかも」
「……そうか」
昼の太陽が照らす明るい陽の光の下で笑う魏無羨を見ていると、幻ではないのかと疑う瞬間がある。明るい道を今度こそ歩いて欲しいと思う反面、もうどこにも行って欲しくなくて胸がざわつく。
藍忘機も魏無羨と同じように月を見上げてみて、こんな風にまじまじと月を見るのは久しぶりであることに気が付いた。少し前までは、そうでは無かったのに。
「雲深不知処にお前が来るまでは、私もよく月を見上げていた」
「へぇ、そうなのか?」
何度琴を弾いても答えることのない無音に、見上げた虚空に輝く月がいつも目に入った。太陽を射殺した男は、月になど行っていないはずなのに。この地上から消えてしまったのなら、どこか遠い場所に行ってしまったのかと思うまでそう時間はかからなかった。
「手が届かないところに行ってしまったと思っていた」
ずっと、後悔していた。
手を離したことを。
信じていると伝え切れなかったことを。
守り切れなかったことを。
ひとりで見上げた月に、どこにいるのかとずっと口に出さずに問い続けていた。
「琴の音の届かない遠くの……月にでもいるのかと思い始めていた」
藍忘機がポツリと言うと、途端に魏無羨が口に含んでいた酒を吹き出した。
「んん? 俺が、月に……?」
「そうだ」
頷いた藍忘機に、魏無羨は声を上げて笑う。
「あははっ、月に行っちゃうなんて俺は天女かはたまた嫦娥か? 二哥哥は随分と浪漫のある考えをしてたんだな?」
ニヤニヤと聞いてくる魏無羨に、何度も問霊をした日々を思い返して思わず目を伏せた。
「お前が、何度弾いても答えないから」
「そんなの俺だって聞こえてたらちゃんと答えるけど……って、あー! 悪かったって」
「謝る必要はない」
「じゃあそんな不機嫌そうな顔するなよ」
藍忘機は自分は今不機嫌な顔をしているのかと思いながら、魏無羨が口を尖らせているのを見ると罪悪感を覚えてしまう。
「すまない」
「「謝る必要はない」んだろ。藍湛も謝る必要はないって」
「……そうだな」
「まぁでも、藍湛が月を見上げている印象は無かったから、俺がいない間にそんなことを考えてたなんて思いもしなかったな」
月明かりの下で天子笑を呷りながら笑う魏無羨の顔に、初めて出会った夜を思う。
月を見上げているのかと聞いてきたのは魏無羨の方だった。けれど、魏無羨があの時のことを話す時はいつも割れてしまった天子笑のことばかりだ。藍忘機にとって忘れがたいその瞬間を、魏無羨が忘れていたとしても構わなかったけれど。
彼が忘れたとしても藍忘機が忘れることは無いし、出逢ってから十六年前のあの時までは、月を見上げることすら忘れていたことを、魏無羨は知らないかもしれない。
月明かりに照らされた魏無羨の横顔を見ていると、探し続けていた甲斐というのはあるものなのだなとしみじみと思う。月も綺麗なものではあるけれど、今はもうひとりで月を見上げる必要はないのだから。
「何だよ藍湛、俺ばっかり見て飽きないのか?」
首を傾げる魏無羨は訝しむが、答えは聞かれるまでも無い。
「飽きる日は来ない」
「ははっ、そりゃすごい自信だ。流石は含光君だ」
魏無羨の笑い声が風に乗って通り抜ける月夜に、静室には二人の影が映し出されていた。