君と兎と しんと静まり返った蘭室を前にして、藍景儀は柄にもなくとても緊張していた。今日は景儀にとって初めての座学だ。随分前に蘭室には遊びで入って良い場所ではないと叱られてからは一度も近寄っていないので、この建物に来ること自体、ちょっと尻込みしてしまう。
同じ年頃の藍家の子弟が中に入って行くのに続けて景儀もその静かな空間に足を踏み入れた。周囲を見回してみると、どうやら空いている席に座って良さそうだ。
こっそり息を吐いて、周囲を見回す。近くに誰か景儀が知っている友達がいると安心できるのだけれど来ているだろうか。そう思って既に座っていた隣の席の少年へと視線を向けた景儀は、視界に入ってきた横顔に思わず息を呑んだ。まるでお手本のように姿勢良く座っていた景儀と同じ白い藍氏の校服を身に纏った少年も、隣に誰かが座ったことに気付いたらしい。軽く横へ顔を向けたことで、景儀と顔を互いに合わせることになった。その顔を見て、景儀は思わず叫ばずにはいられなかった。
「お前! あーっ! あの、あの時のうさぎーーー!?」
思わず人差し指を向けながら大声を上げてしまった景儀の目に写ったのは、驚きに目を丸くした少年の表情だった。そして同時に、藍啓仁の雷のような怒りの声が頭上から降り注ぐことになった。
「そこ! 蘭室で大声を出すとは何事だ!」
「わーっ! すみません!!」
焦った景儀が思わず大声で謝ってしまうと、周りからくすくすという笑い声が響き、それに対しても藍啓仁の怒号が響くという散々な目に遭った。大声を出すなと言うのなら藍啓仁先生の大声も禁止にして欲しいなどとは口が裂けても言えないし、そもそも最初に騒いでしまったのは景儀なので余計に黙るしかない。
横に座る一度だけ会ったことのある少年は、衆目が集まったことに顔を赤くしていたのでそれは悪かったなと思う。申し訳なく思ってこっそり窺ってみれば、彼もこちらを見ていたらしく目が合った。ニコリと笑ったその顔に、景儀も思わず嬉しくなって微笑みを返した。少し前にうさぎ達のいる森の中で出会った時はびっくりしたけれど、これから一緒に学んでいくのならきっともっとずっと良い友達になれるに違いない。
そんな座学初日の思い出には、ひとつ付け加えておかねばならない後日談がある。
座学初日にして蘭室に藍啓仁の怒号が響き渡ったのは、かの悪名高い〝夷陵老祖〟こと魏無羨が蓮花塢から雲深不知処に座学にやって来て以来だと話題になっていた。そのことを、景儀は随分と後になってから知ったのだった。
サッサッと箒で掃き掃除をしている景儀の近くで、掃除の邪魔になるからとうさぎを抱えた藍思追が、毛並みを撫でながら腕の中のふわふわとした白い塊のような彼に話しかける。
「顔を合わせた瞬間、あんなに大きな声を出されるなんて思いもしなくて、本当に驚いたんだ」
しみじみと言う思追に、景儀が手を止めて大きな溜息を吐く。
「もう、そんな昔の話やめろよ、恥ずかしい」
景儀の初めての座学の日に隣に座っていたのは思追で、実のところ彼とはあの日の前にこの場所で出会っていた。一緒に座学を受けることになるとは知らず、名前を名乗り合うこともせず、ただ偶然出会ったまま一緒に遊んでいたのだ。
「ったく、誰だよ。俺があの〝夷陵老祖〟以来、初めて座学の初日に藍啓仁先生に怒鳴られたって魏先輩に教えたやつ」
「……」
景儀の嘆きを聞いていた思追は、懐に抱えたうさぎを地面に降ろし、景儀に向き合うとすまなそうにこうべを垂れた。
「ごめん、それ僕だ」
「えええっ、思追~! お前なぁ」
「少し前に魏先輩が座学をこっそり覗きに来た日があったんだけど、案の定覗き見してるのが藍啓仁先生に見つかって、邪魔をするなら出て行けって怒られてたんだ。その後に魏先輩とあの時の話になっちゃって……ごめん」
思追に謝られてしまうと、景儀にはもうそれ以上怒り続けることもできなくなってしまう。
「まぁ、別に良いよ。魏先輩から「お前もなかなかやるなぁ」ってニヤニヤしながら言われて何をしでかしたのかと不安になっちゃったよ」
「ごめんごめん。悪かった」
あの魏無羨に唐突に褒められるとは、きっと何か思いもよらないことに違いないとは思ったが、それがまさか己のあまりにも幼かった頃の話だったので、少しばかり恥ずかしい。
「それに、あの時の蘭室での話をしてたら、その前に景儀と初めて会ってた時のことも思い出して一緒に話してしまって……ごめん」
「だから良いって。初めて会った時のって、ここでのことか?」
「うん、そう」
足元で持ってきた人参を音を立てて食べるうさぎを思追が撫でながら答える。うさぎの方も思追に撫でられるのは満更でもないという顔をしているように見える。
「そういや、あの時は驚き過ぎて名前すら聞きそびれてたんだよな。うさぎと一緒に寝てるし、他で会わないから妖精か何かだったもしれないって後から思ったりしてさ」
「妖精って……、景儀はそんなこと考えてたの?」
「だって、それまで雲深不知処で思追に会った事が一度も無かったからさ。本当に小さい頃に雲深不知処にいなかったら会わないのも当然だろうけど……」
景儀が言い淀んでしまうのは思追のことを思ってのことだが、上手く言葉を紡げない。
藍思追の本来の生まれは藍家ではない。それを今は景儀も、もちろん思追自身も分かっていることだけれど、思追は雲深不知処に帰って来て、姑蘇藍氏の一員としてここにいる。
思追が立ち上がると、景儀に向かって大きくゆっくりと頷いた。
「……うん。だから、僕にとって初めての人間の友達は景儀だったんだ」
「人間のって、友達になるのに他に何があるんだ……?」
景儀が問うが、思追は微笑むばかりでその質問に答える気はないらしい。少なくとも確実なのは、景儀が思追と初めて出会って友達になった思い出深い場所は、今二人がいるこの場所だった。
まだ本格的な修練を始めていなかった当時の景儀にとって、雲深不知処は広大な遊び場だった。藍氏の家訓の全てを理解してはいないながら、立ち入ってはいけない場所があるのもわかっていたし、不用意に走れば大人に叱られもした。それでも何だかんだと同じ年頃の年少の同門の子ども達と日がな一日遊ぶのには困らなかった。
その日はたまたま、行ったことのなかった森に冒険をする気持ちで遊びに出てみた。背丈ほどの高さの草むらに分け入って森の中を一人で進んでいた。森の中を少し行くと、白い塊に長い耳のふわふわとした生き物が、ピョンと目の前で跳ねた。
「わっ、びっくりした」
驚いた拍子に景儀は後ろに倒れ、思わず尻餅をついてしまった。雲深不知処でうさぎを見たのはこの時が初めてだったのだが、絵ではない本物のうさぎを見たのもこの時が初めてで、あんな風にピョンピョンと跳ぶように走るとは知らなかった。ゆっくり立ち上がると、様子を窺うようにもう一匹のうさぎが景儀の前に現れた。驚いたのは景儀だけで、真っ白でふわふわのうさぎは景儀のことはさほど気にしていないらしい。景儀を一瞬見たように感じたものの、景儀のことなどお構いなしに口に含んだ草を咀嚼し続けていた。もしかしたらこのうさぎ達は人に慣れているのかもしれない。
立ち上がった景儀は恐る恐るうさぎ達の元へと近づいた。景儀がしゃがんでうさぎをよく見ようとすると、途端に二匹のうさぎは景儀の前から逃げるように走り出す。それを追いかけてまた近づくというのを繰り返していると、いつの間にか周囲にいるうさぎの数が増えていた。
「うわ、さっきより、もっとたくさんいる……って、あれ?」
数えることもできないくらい沢山のうさぎに囲まれて、何かうさぎ以外の物が見えている。遠目に見る限り、それは藍氏の白い校服の布のように見えた。近づいて行くと、それは景儀と同じ年頃の少年が倒れるように横になっている姿であることが分かって驚いた。
「だいじょうぶ!?」
慌てて肩を揺さぶると、彼のそばにいたうさぎ達は驚いたらしく一気に駆け出し草むらへと逃げてしまった。残された少年は眩しいのか片腕で顔を覆うようにしてからごろんと寝返りを打った。
「まさか、寝てるの? こんなところで?」
景儀が困惑している間に、少年も流石に目が覚めたらしい。
「ううん……?」
目を擦りながら起きた少年を前にして、どうしてか景儀は胸がドキドキしていた。雲深不知処にこんなにたくさんうさぎがいる場所があるなんてことは知らなかったし、そこで初めて会う人が特別でない訳が無い。
だから、目を覚ましたうさぎに囲まれていた少年に向かって、突拍子もないことを聞いてしまったのはきっと景儀が動転していたせいもあるに違いない。
「も、もしかして、君もうさぎなの?」
景儀の口から出てきた質問に、まどろみから目覚めたばかりの少年は目を瞬かせ首を傾げることになったのだった。
その日、藍思追は景儀と一緒にうさぎ達のいる森にやってきて、彼らに餌をやりながら、食べ残しなどを掃除するという作業をしていた。景儀と話をしているうちに、数日前に魏無羨に思追と景儀の初めての座学で起きた事件についてを話すことになってしまったことと、景儀とここで初めて会ったことも魏無羨に話したことを思い出した。
近付いてきたうさぎを再び抱きかかえた思追は、当時と同じように景儀を見上げながら首を傾げた。まだ小さかった思追がうさぎ達と遊んでうっかりそのまま眠ってしまい目を覚ますと、目の前には見知らぬ自分と同じくらいの少年がいたのだった。
「蘭室で景儀は驚いたって言うけど、僕の方こそ、あの時は、「君もうさぎなのか」なんて聞かれるとは思わなかったから驚いたよ」
あの時も確かにうさぎ達と同じ白い衣を着ていたけれど、それは景儀も同じだったのにと思い返しては笑いたくなってしまう。
「思追だって、すぐに否定しなかっただろ」
「そうだった?」
「そうじゃなかったら、蘭室で会った時にあんな大声出さないって」
すっかり箒で掃く作業を中断した景儀が胸を張って言うが、思追は当時景儀に何と答えたのかまでは思い出せなかった。
「それに、思追はうさぎと一緒に人参食べるって言ってただろ」
「それはまぁ、実際そういうこともあったから」
景儀にしてみればうさぎと一緒に人参を食べるというのは理解できないことらしいが、思追にとっては小さい頃の楽しかった思い出のひとつなのだ。
「人参は美味しいしね。君もそう思うよねぇ?」
思追はうさぎに同意を求めたが、うさぎは構わず口に入れた人参を咀嚼し続けていた。これは同意と受け取って良いだろうか。思追が今も人参が好きなのは、きっと楽しかった記憶と一緒だからだ。けれど、そんな思追を見る景儀の表情は少々複雑だ。
「俺は人参あんまり好きじゃないな」
「そう? 好き嫌いは良くないな」
「別に食べないとは言ってないだろ」
景儀が不満げにしていると、草むらがガサガサと大きく揺れた。大きな影に獣か何かではと二人で身構えるが、飛び出して来たのは黒い衣に身を包んだ人の姿だった。
「お? もしかして、お前らが餌あげてくれてんの?」
草むらから現れたのは、魏無羨だった。二人はホッと肩の力を抜いて、並んで魏無羨に向かって礼をした。
「魏先輩! はい、今日は景儀と二人で当番なんです」
「そうなのか。ありがとな」
思追が答えると満足そうに頷いた魏無羨は近場にいるうさぎを両手で抱え、鼻先まで顔を近づけた。
「うさちゃん達、元気だったか~?」
かの〝夷陵老祖〟こと魏無羨は、観音廟での騒動の後は江湖を遊歴していたらしい。しかし、思追が温家の弔いを済ませ雲深不知処に戻って来た頃に、彼もまた雲深不知処に身を寄せるようになった。
魏無羨の少し後ろから同じように草むらから現れた白い衣の姿に、思追は思わず笑みがこぼれた。
「含光君!」
挨拶に拱手をすると、後ろで景儀が慌てて箒を手から落としたらしい音が響いた。
「含光君! すみません!」
景儀の慌てぶりは見なくてもその声で伝わってくるので、思わず苦笑してしまう。
「構わないが、気を付けなさい」
「はい……」
藍忘機は頷くとうさぎと戯れる魏無羨の元へと向かったが、その様を眺めているだけで、自らはうさぎを抱きかかえるつもりはないようだった。魏無羨とうさぎを眺め、目を細めた藍忘機に、思追は景儀と顔を見合わせた。こんなに穏やかな表情を浮かべる含光君をこれまではあまり見たことがなかった。魏無羨も一時的にではなく、ずっと雲深不知処にいればいい。温寧との旅から戻って来た思追はそう思うのだけれども、それはきっと思追が口を出すべきことではないのだ。
そんな思追の思いを知る由もない魏無羨は、うさぎを抱えたまま景儀に向かって話しかけた。
「なぁ、景儀。思追のことを「うさちゃん」って呼んだのって本当なのか?」
「うさちゃんとは言ってません! おい、思追。また魏先輩に余計なこと言っただろ」
「小さい頃の話をしただけだよ」
「それが余計だって」
思追と景儀が肩を軽くぶつけ合って言い合っていると、魏無羨が呆れて仲裁に入った。
「まぁまぁ、そう喧嘩するなって」
魏無羨の声に、思追は景儀と顔を見合わせてふっと笑い合ってしまった。
「景儀とはいつもこんな風なんです」
思追が言えば、魏無羨が先ほど含光君が魏無羨を見ていたように柔らかく目を細めて思追を見た。
「そうか。思追はこれまでこんな風に過ごしてきたんだな」
「はい。色々ありましたけど、でも雲深不知処で皆さんに良くしていただきました」
そう答えると、魏無羨はうさぎを撫でるように、思追の頭を柔らかく撫でた。その優しい手つきに、かつて魏無羨や温家の皆と過ごした辛くも楽しかった日々と、雲深不知処で景儀達や含光君と過ごした日々のどちらもが思い出されて、思追は急に目頭が熱くなってしまった。
初めて景儀にここで会った時、まどろみから目覚めた幼かった思追は、興味津々の景儀から質問攻めにあった。
「君は、ずっとここにいるの?」
「ずっと、という訳じゃないけど、いることも多いかな?」
「お母さんとお父さんは?」
「お母さんとお父さんは、いないんだ。死んじゃったから」
「そうなんだ……ごめん」
悪いことを聞いたとばかりにしゅんとした顔をした彼を前にして、こんな風に悲しんでくれる人がいるのかと思追は少し驚いていた。気が付いた時には父も母もいなかったから、悲しいことだとも思うことすらなかった。ただずっと、少しだけ寂しかった。そんな時に良くここのうさぎ達に会いに来ていた。
「でも、含光君が色々教えてくださるから」
「含光君が!? そうなのかぁ。すごいな」
「すごいのかな?」
「すごいよ! たぶん。それと、君に友達はいる?」
「友達……? うさぎとは友達なのかな?」
確か他にも友達がいた気がしたけれど、ぼんやりとして思い出せなかった。けれど、その〝友達〟も景儀が言う同じ年頃の子どもではなかったような気もする。もしかしたら、ここにいるうさぎ達のような存在が、以前もいたのかもしれない。
景儀は思追が言った言葉を聞いてから少し悩んでいたようだけれど、突然思追の両手を掴んで言った。
「じゃあ、俺が今日から友達だからな!」
「君が……?」
「そう! それなら寂しくないだろ?」
そう言ってくれた彼は思追の両手を力強く掴んでいた。その手を握り返した時が、思追がこの雲深不知処で初めて対等に一緒に遊べる友達を手に入れた瞬間だった。
景儀とは名前を名乗るのもお互いに忘れていたのに、初めて会ったその日から変わらずにずっと良い友達だ。
思い出せることが急に増えて、忘れてしまっていた頃のことに向き合うのは未だに少し慣れない。胸がいっぱいになって、このままだとまた泣くなと言われてしまうと涙を我慢して顔を上げると、魏無羨の柔らかに目を細めた顔が視界に入った。
「魏先輩も気に掛けてくださってありがとうございます」
「どういたしまして。って、俺より藍湛のがお前のことはよく見てきたろうけどさ。なぁ藍湛」
魏無羨が藍忘機に同意を求めるが、藍忘機は微笑みを返しただけだった。
そんな思追達をよそに、景儀は取り落としてしまっていた箒を手に持ち立ち上がったところだった。
「景儀もありがとう」
「ん? 何が?」
景儀は魏無羨との会話は丁度聞いていなかったのだろう。景儀は思追が唐突に礼を言ったように聞こえたらしい。
「今まで、その、色々と。景儀がいてくれて良かった」
「うん? よく分からないけど、どういたしまして?」
莫家荘から始まる一連の事件で仙門各家は大きな打撃を受けたが、思追自身も己の出自と向き合い、これまでの人生を揺さぶられるような心地になった。それでも以前と変わらず、思追が今もここ雲深不知処にいるのは、いつも思い切りの良い景儀のお陰もあるのかもしれなかったから。
あの時、うさぎ達の中から景儀に見つけてもらえて良かったと思う。