焔つなぐ 少し前からもしかしたらと思うことは幾度もあった。己が一体どこの家に生まれ、父母亡き後に一体誰と一緒にいたのか。
思追は幼き日のことを覚えていなかった。けれどそれは忘れていただけだったのだ。もう会うことは叶わないはずだった人に出会ってから、忘れ去られていた記憶は少しずつ断片的に焔が灯るように蘇っていた。真っ暗な夜空に散らばっていた小さな灯りは、輝く星が互いに繋がり星座を描くように、段々とその全容を理解することができるようになっていた。
観音廟の外に出ると、思追は駆けつけた他の子弟達に囲まれ、無事を喜ばれながらも観音廟での事の顛末を聞かせてくれとせがまれた。温寧を追いかけて辿り着いてからのことだけでも、思追が説明することは難しい。ましてや金光瑶がどのような人物であったのかを語ることもできそうにない。十六年前に起きたことについても同様だ。それでも、この目で見たことや感じたことはしっかりと覚えておきたいと思った。だからこそ、今はまず不確かな己の過去と向き合いたかった。
各家の仙師達が入り乱れる観音廟で、思追が魏無羨と藍忘機に話をしようとした時には二人の姿は見当たらなかった。
「景儀、魏先輩と含光君は?」
「魏先輩と含光君なら林檎ちゃんを見に行くからと観音廟を出て行ったよ」
このまま二人が遠くに行ってしまったら、また自分は置いていかれる小さな子どもになってしまう気がして胸がざわめいた。
観音廟を飛び出した思追の懐には草編みの蝶が二つある。ひとつは夜市の玩具屋で見つけ、景儀達に訝しまれながらもどうしてか懐かしさに買ってしまったもの。そしてもうひとつは、鬼将軍こと温寧が蓮花塢へと向かう道すがら、思追へと渡してくれたものだ。
今なら分かる。温寧が言っていた思追に似ている「親戚の子」というのは、きっと……思追自身のことに違いないのだ。
走り続けて見つけた黒くて大きな後ろ姿に、思追は大声で呼びかけた。
「温……、温叔父さん!」
振り返った温寧の表情は、あまり大きく動かない。それでも、驚いて足を止めたように思追には見えた。
「思追……? 一人でどうしたんだ」
「私、思い出したんです!」
思わず温寧に向かって駆け出すとその大きな体に思いっきり抱きついていた。温寧は突然のことに体を強張らせてしまった。
「もしかして……阿苑?」
「はい……僕は阿苑です、温叔父さん!」
抱きついたまま思追は顔を上げると、温寧はぎゅうと力強く思追を抱きしめた。
「阿苑……本当に阿苑なんだな」
温寧は小さかった阿苑にとってとても大きくて優しい人だった。今もそれは変わらないけれど、大きくて大木のように感じた大きなその背中に、伸ばした手を回すことができるようになっている。
「阿苑……生きていてくれてありがとう。私はそれだけで嬉しかった」
その言葉に思追は涙が出そうになった。思追は記憶にある限り、藍家で同じ同門の子弟に囲まれて、含光君を父や兄のように思いながら育ってきた。藍家が自分の家であることに変わりは無いけれど、失ってしまったはずの幼き日の家族に再び会える日が来るなんて、こんなに嬉しいことは無かった。
「……叔父さんは私のことを知っていたんですか?」
「いや、知らなかった。あの時に名前を聞くまでまさかとは思っていた。良い名前をもらっていたんだね」
「はい……ずっと、とても良くしていただきました」
皆が温家討伐を掲げていた中で、いくら子どもとはいえ匿うというのは並大抵のことでは無かっただろう。
「思追が阿苑だって知ったら、魏公子もきっと喜ぶ」
温寧のぎこちない笑顔に、思追は満面の笑みで頷いた。思追はツンとした鼻を啜りながら、抱きついていた腕を解いた。
「温叔父さん、聞いて欲しいことがあるんです」
「何だい?」
温寧はまるでまだ思追が三歳くらいであるかのように、頭を撫でた。
「私は温家のみんなを弔いたいです」
記憶の断片に出てくる温家の他のみんなの顔を、再び見ることはできない。温おばあさんも、温情叔母さんも十六年前にこの世界からいなくなってしまった。その大きな喪失の悲しみはまだ受け取り切れる自信は無かったけれど、だからこそせめて彼らのことを思い出した自分がやれることはあるように思う。
「……分かった。一緒に塚を作ろう。魏公子と藍二公子に報告をしないと」
「はい! 急いで追いかけないとですね」
二人で走りながら、思追は早く魏無羨と藍忘機の顔を見たくて堪らなくなっていた。大好きだった二人に阿苑としてもう一度再び出会う為に向かう道は、希望へと続く明るい日向のような道に思えた。