ミノタウロス×忍者なジョチェ『……敵性勇者の反応消失を確認しました。お疲れ様でした』
「ありがとう、カーラ」
商店街とその路地裏をモチーフにしたカラクリだらけのダンジョンで、一人の忍者が呟いた。つい先程まで目の前に居た勇者一行は、レベルは適正値だったもののデバフと毒を駆使した素早い忍者の攻め手に翻弄されるまま、一人、また一人と膝をつき、ゲームオーバーとなったところだった。
「カーラ、全てのカラクリをリセットしてくれ。それと、侵入者のアラートも再起動だ」
『OK、マスター。指示を実行します』
指示の受諾音声と同時に、ダンジョンが再構築され始めた。魔法で焦げた壁、斧が叩き割った窓ガラス、仕組みを見破られて解除されたカラクリなどが、仄かに点滅した後瞬く間に元の姿に戻っていく。夜が近付いてきた夕焼けの中で見る光は、いっそ神々しさすらも感じられる。
忍者自身のプログラミングによって作り上げられたダンジョンは、これもまた忍者がプログラミングしたAIによってコントロールされている。再構築、崩壊、改変もAIへの指示一つで実行されるここは、クレイジーロックと名付けられたワールド屈指の難易度を誇る、迷路とカラクリで侵入者を惑わす商店街ダンジョンだ。
そこのボスである忍者、Cherryblossomこと桜屋敷薫は口布を下ろして一息つく。今回の勇者は手応えが無く、戦闘開始数分で呆気なく勝利してしまい薫は物足りなさを覚えた。
一つ前の町で「忍者はカラクリと毒に気をつけろ」と口を酸っぱくして忠告するNPCが居たというのに、解毒薬一つ持たずに乗り込んできた脳筋勇者の無謀っぷりは、薫を呆れさせた。
パワーのみで突き進む本日の勇者一行は回復役のレベルが最も低く、状態異常回復の魔法を覚えていながらもMPがすぐ枯渇してしまうという駄目っぷり。カラクリにも面白いほど引っかかったところは見ていて楽しかったが、明らかな準備不足はいっそ哀れだった。
一つのダンジョンでゲームオーバーになればすぐさま初期位置に戻され、勇者のステータスもレベルもすべてリセットされるのが、クレイジーロックの特徴だった。命が失われる訳では無いものの、掛けてきた時間が無為になる系統のワールドだ。
そのワールドを統べるのは魔王、愛抱夢。ラスボスながらその高いカリスマ性に惹かれるプレイヤーも少なくない。また、ラスボスに至るまでの道中で行く手を阻む、些か個性が強すぎる中ボス達にもそれぞれ人気があり、それがこのワールドが好まれている理由でもあるのだが、ゲーム世界の住人である薫は知る由もない。
このワールドでは、商店街ダンジョンに次の勇者が訪れるまでにはまだまだ時間が掛かる。
歯ごたえは無かったものの、それなりに戦闘をして汗をかいた薫は、湿度の高い肌に衣服が張り付く感覚に不快感を覚えた。ダンジョン再構築が完了するのを見届けながら、早く屋敷に帰ってシャワーを浴びたいとため息をつく。簡単すぎて楽しくもない戦闘では、気晴らしにもならなかった。
「あら。お疲れ様、忍者さん」
カーラから完了メッセージを受け取ってとっとと引き上げようとしていた薫に声が掛かる。
わざとらしい甘ったるさを含んだ歌うような声音に振り向けば、一人のハーピーが立っていた。
顔から胸下までが人間、胸下から足先までが鳥で、腕の代わりに翼が生えているのがハーピーという生き物だ。薫より小柄だが翼がある分存在感のある彼女に、薫は思わず眉を顰めた。
「何か用か?」
「別に。ただ通りがかったから声を掛けただけよ。勇者との戦闘終わり?」
「まあな」
薫と彼女達の世間話の話題は、専ら勇者を倒せたかどうか、のみだった。
中ボス配下のモンスター達がいる他のダンジョンとは違い、薫の商店街ダンジョンにはモンスターは一切いない。その代わりダンジョン中に張り巡らせたカラクリが勇者を相手にしているので、薫は手下モンスターの必要性を感じていなかった。
今薫の目の前にいる彼女は薫の手下ではなく、隣のダンジョンのモンスターだ。
「それで、勝てたの?」
「当たり前だ」
「あぁ、よかった!じゃあもうちょっとのんびりできるわ!」
嬉しそうに翼を震わせる彼女に対し、薫は相槌すら返さなかった。
「じゃあ頑張ってくれた貴方に、これプレゼントしちゃう」
「……変なものは入れてないだろうな」
「貴方の毒より変なものは無いわよ?でもまあ安心して。そこの自販機でついさっき買ったものだから、おすそ分け」
翼で器用に掴んで差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを、薫は渋々受け取る。本音かどうかは知らないが労ってくれているのは確かで、顔馴染み程度だが知り合いである以上、受け取らないのも気が引けた。
彼女はもう一本のペットボトルを抱えたまま、薫の様子など気にもせずご機嫌で続ける。
「でも本当によかったわ。貴方が負けちゃったら、次はうちのダンジョンが忙しくなる番だもの。これからパーティなのに、そんなの冷めちゃう」
「それは良かったな。俺も、」
「あっ、ジョー!!」
「げっ」
世間話を切り上げるための会話を繋げようとしたところで、ハーピーが黄色い声をあげた。
"隣のダンジョンでパーティをする"という話に嫌な予感がしていた薫は、逃げるのが間に合わなかったとより一層顔を顰める。
「おー、今日は君が一番乗りだ!」
商店街ダンジョンの隣、レストランと地下倉庫が一体となったダンジョンを管理するミノタウロスが、のしのしと近付いてくる。巨躯の影が夕陽で伸び、ハーピーと薫の足元まで近寄ってくる。それが薫の全身を覆う頃には、ミノタウロスのジョーこと南城虎次郎の腕に、ミネラルウォーターを譲ってくれた彼女がしなだれかかり頬を緩ませていた。
「ジョーに会えると思ったら、早く来すぎちゃった」
「そう言ってもらえると、パーティを主催する側としては光栄だな」
人目を気にせず、目の前でベタベタとイチャつきだした二人を見るのがどうにも苦痛で、薫はさっさと逃げるべく踵を返そうとする。
「薫も来る?」
だが、目敏い虎次郎に気付かれてしまった。ここで無視して立ち去れば引き留められて面倒くさいことになりそうで、仕方なく振り返る。薫の顔にはゴリラでもわかるように「不満だ」と伝えるための不機嫌な表情を張り付けていた。
「誰が行くか」
「その様子だと、さっきまで勇者連中を相手にしてたんだろ?腹減ってねえ?」
「減ってない。減ってたとしても誰がお前のダンジョンになんか行くか」
「先週うちの店来てただろ」
「忘れたな」
「先週のことをもう忘れたとか、年取ったなお前」
「同い年だということすら忘れたか鳥頭ゴリラ」
「お前に言われたくねーんだよひょろひょろ忍者!」
火花を散らして睨み合う二人だったが、ハーピーは面白そうにくすくす笑うだけだ。
忍者のチェリーとミノタウロスのジョーの犬猿の仲はワールド内でも有名であり、漫才にも似た、妙にテンポの良い口喧嘩を娯楽にしているモンスター達も多い。時折、タイミング悪く訪れてしまった勇者が二人の喧嘩に巻き込まれてゲームオーバーになることもあり、その場に運よく居合わせたモンスター達の酒の肴にされることもあった。
「何度言われても行かんからさっさと帰れウスノロ」
「あーそうですか、帰ってやるから泣いてありがたがれよトンチキ忍者」
シッシッ、と手で払う仕草で虎次郎を追い払う薫は、今度こそ踵を返して自分のダンジョンの奥深くへ帰っていく。虎次郎も喧嘩の名残で鼻息荒くレストランへと戻った。
虎次郎の店には、既に何人かの手下モンスターが集って準備を始めていた。ハーピー、セイレーン、ニンフ、ウィッチなど、虎次郎の配下にはとにかく女性型モンスターしかいないのが特徴だった。虎次郎にとっては皆可愛いシニョリーナなのだが、薫は基本人混みを嫌っている。混雑し始めた店に近寄りたくないと主張するのは当然のことで、虎次郎もよく知っていた。薫が虎次郎の店に来るのは、いつも決まって閉店直後なのだから。
(パーティ終わったら、余り物でも持って行ってやるか……)
一流の料理人としてダンジョン内のレストランを経営するだけでなく、時には戦闘時の回復手段として料理コマンドを選択することもある虎次郎だった。腹を空かせたモンスターを見分けるのも得意な方であり、その虎次郎の目には先程まで空腹を隠す忍者の姿を捉えていた。
残飯処理か、なんて文句をつけられることも想定済みで脳内シミュレーションをする。
虎次郎はシニョリーナも大好きなミノタウロスだったが、実は気が合う忍者と馬鹿な話をしながら静かに酒を飲むのも好きな男だった。
現在、クレイジーロックでは期間限定のワールド内イベントが開催されていた。
このイベントは勇者プレイヤーの人気投票を元に構築される。用意されたのはイベント初心者向けの夕焼けスケートパークダンジョン、勇者育成素材が豊富に得られるチューリップダンジョンに、ベテラン勇者が腕試しに挑戦する高難易度ステージとなったレストランダンジョン等。
このイベント用ダンジョンの最終ボス役として、忍者とミノタウロスは二人セットで配置されている。
デバフ・毒を扱い素早い攻撃の手数で勇者のHPを削る忍者と、鍛え上げた筋肉から繰り出す重い打撃攻撃に得意の料理で味方を一気に回復するミノタウロスの組み合わせは妙に連携が取れていた。
戦闘開始と同時に忍者が大量のデバフをばら撒いて、ステータスが一時的に落ちた勇者をミノタウロスが一人ずつ仕留める。
デバフを解除しても回避力が高い忍者は時々攻撃を避け、隙を突いて勇者の懐に潜り込む。
忍者のHPが半分を切ったところでミノタウロスの料理によって回復し、耐久戦に持ち込む。
長期戦になればなるほど勇者が不利になるこの高難易度ステージで、如何に早く勝ちを掴むか。それが勇者達の闘争心に火をつけていた。
「さっきの勇者、歯ごたえ無かったな」
「弱すぎる」
「だよな。折角鍋準備したところだったのによ」
「弱いというのはお前のことだが?」
「んだとこのひょろ忍者!」
負ければ一からやり直しの高難易度に挑むスリルとは別に、戦闘中の忍者とミノタウロスの掛け合い台詞も人気があった。
大抵は常と変わらない口の悪い応酬が「ボケナス」「スカタン」「脳筋ゴリラ」「腹黒狸」と続く。
長い時にはメッセージ欄を埋めつくしてもなお止まらず、ゲームログには画面いっぱいの口喧嘩が表示された。中にはそれを見るために高難易度に挑戦する勇者もいた。
イベント用のダンジョンはミノタウロスの戦い方もあって、レストランダンジョンが元になっている。愛しのカーラと組み上げたカラクリを使うことができないイベントで、忍者の機嫌は基本的に悪かった。
高難易度の敵役としての仕事はしているものの、たまには隣の腹立たしいゴリラの邪魔をしてもいいではないか、と魔が差すことが稀によくある。勇者にデバフを付与するついでにミノタウロスにもデバフを掛けてみたり、足払いをしてみたり。
そこまでちょっかいを掛けられると黙っていられないミノタウロスも、尻尾で忍者の背中を叩いたり、勇者の攻撃の盾にしようとしたりと応戦する。
ヒートアップした時には二人が勝手に自滅して、運良く高難易度ステージをクリアする勇者もいた。
「お、次の勇者が来たみたいだぜ」
「休む間もないな……」
「もうちょっと体力つけろよひょろ忍者」
「ぬかせ鈍足ゴリラ」
「はいはい。次の料理はいつもよりちょっと早めに作ってやるよ」
「いらん」
レストランの入口。新たに現れた複数の影が、次第に近付いてくる。戦闘の度に二人のHPとステータスはリセットされるが、精神的疲労までは取り払いきれない。
料理人としての側面もある虎次郎は、相手の胃袋を掴むのにも長けていた。長い間、ダンジョンが隣同士の中ボス二人として過ごしている内に、薫の食の好みもすっかり把握してしまっている。
いらない、と告げたのにも関わらず、厨房の食料棚からパスタの束を用意し始めた虎次郎に、薫は舌打ちした。
次の勇者は、かなりの猛者だった。
イベントの常連であり、ランキングでも上位に並ぶ勇者達だ。
薫が仕掛けたデバフは即座に打ち消されるだけに留まらず、半分は跳ね返されてしまい、逆に薫自身にデバフを掛けることになってしまう。
動きが鈍った薫を集中狙いで倒す作戦をとった勇者一行に、二人は押され気味だった。
これはまずいと判断した虎次郎が、常より早く厨房に駆け込んで大きな鍋を持ってくる。
使い勝手の良さよりも、ゲームらしい見栄えを重視した大鍋には、瞬く間に湯が湧いてグツグツ沸騰する。虎次郎はそこに準備してあったパスタを放り込んだ。
いつもであれば、そのまま茹でていれば不思議な力で完成した、薫の好物であるカルボナーラが鍋から飛び出してくる。だがそんな味気ない調理方法をあまり好まない虎次郎は、せめてトッピングだけでも贅沢にしようと厨房へ慌ただしく駆け戻った。
調理中、虎次郎は勇者に一切攻撃できないが、勇者も虎次郎に手を出すことはできない。
その間、全ての攻撃を引き受けるのは薫しかいなかった。重い身体をなんとか動かして防戦する薫のHPは徐々に削れていく。
虎次郎が厨房に戻った隙に、後衛の勇者が懐から小瓶を取り出すのが薫の視界に入った。
だが止めるまもなく、別の勇者からすぐさま放たれた弓矢を打ち払い、攻める薫。
しばらくすると、その耳に、ぽちゃん、と水が跳ねる音が届いた。
嫌な予感がして音の方向に振り返れば、大鍋から異様な煙が上がっている。
勇者が放り投げたのは、弱いモンスターを近寄らせない聖水だった。
薫も虎次郎も、聖水の効果は受けないのだが、今日に限っては公式には発表されていない日替わりの隠しコマンドが存在していた。
それはイベント期間中の忍者・ミノタウロス戦で、ミノタウロスが料理をしている間に限り、聖水の使用対象に「ミノタウロスの大鍋」が追加されるというものだ。
聖水使用が成功すれば、出来上がった料理を食べた二人にはデバフ効果二倍のステータスが永続付与される。
もうもう立ち上る湯気が落ち着いた頃、ポップな電子音と共に完成したカルボナーラが飛び出し、ふわりとカウンターに着地する。
白い皿に乗ったパスタはつやつやと室内の照明を反射して、黄金色のソースからはコク深いチーズの香りが鼻先を擽った。食欲を刺激されて空腹を覚える薫だったが、同時に冷や汗が止まらなかった。
今回の隠しコマンドについては二人に事前連絡があったのだが、誰も見破れないだろうと高を括っていた。
「ここに温玉乗せて……完成!」
何も知らないまま厨房から戻ってきた虎次郎は、盛り付けられたカルボナーラの中央へ卵を丁寧に割落とす。ふるん、と揺れた温泉卵。そこにフォークを入れて、とろりと流れる半熟の黄身をパスタに絡めるのが薫の好む食べ方だったが、今は卵だけ取り分けて食べたくて堪らなかった。
「これお前の分な」
ずいっ、と差し出された皿。無色の聖水だったので色には何の変化も無いが、真相を知る薫の目にはおぞましい物として映る。
二人の食事中にも手は出せない勇者達は、そわそわと様子を伺っていた。
「間違えて聖水使っちゃったんだけど、大鍋に入っちゃった……」
「あれってもしかして今回の隠しコマンド?」
ひそひそと聞こえてくる勇者の声はくぐもっていて、一部始終を知る薫にはなんとか聞き取れたが、何も知らない虎次郎にはほとんど聞こえていない。
「ほら、食べろよ。腹減ってんだろ?」
「いや、これは」
「こんな時に意地張ったってしょうがねえだろ。とっとと食って、イライラはあっちにぶつけてくれよ」
「今これにあいつらが、」
「早く食わねえと伸びちまうぞ」
歯切れが悪い薫の様子は短気から来るものと判断した虎次郎は、待ちくたびれた様子でフォークを薫に押し付けた。そのままどっかりと椅子に座って麺をフォークに巻いていく虎次郎。
薫も観念して、その隣に腰掛けた。自分は日頃から毒を使い、毒に耐性がある忍者だと言い聞かせる。目の前にあるカルボナーラは確かに自分の好物なのに、食べるのが怖い。
だがシステムがそれを許さない。
薫が望む望まないに関わらず、フォークが勝手に麺を巻きとって口元へ運んでくる。
「いただきまーす!」
よく通る声で言い放った虎次郎が、大きな口でパスタを一口頬張った。
「……いただきます」
観念して、薫も手を合わせる。
二人には「食べる」以外のコマンドが用意されていなかった。
酷い目にあった、と二人は本日分のイベント終了と同時に床へ座り込んだ。
聖水という隠しコマンドが明らかになり弱体化してしまった二人を見事に倒した勇者達が、SNSを通してイベント参加者に情報を広げた。
件の勇者達はこのワールドの攻略サイトを運営するメンバーでもあり、サイトのアカウントから発信された情報は信ぴょう性が高いものとして瞬く間に共有され、次々と大鍋へ聖水を放り込まれたのだ。
隠しコマンドの効果は「デバフ効果二倍のステータス永続付与」だけで、二人がデバフにさえ掛からなければなんの問題もない。レベル不足あるいは育成不足の勇者達は、聖水を放り込んだだけで手も足も出ず返り討ちにされたが、ある程度やり込んでそれなりに手持ちが揃った勇者達は簡単に攻略し終えてしまった。
すべての勇者に倒されたという訳では無いが、聖水が入っているかもしれない料理を食べなければならないという不安が二人の精神を摩耗させた。
聖水が投げ込まれるのは大抵虎次郎が目を離した時だったが、その間も攻撃を続ける薫は聖水が投げ込まれる瞬間を何度も目撃している。現場を見ていない虎次郎でも、料理の皿を前にした薫が青ざめているのを見て、事実を後追いで知ることとなった。
「なんであんな隠しコマンドに気が付くんだ……」
「本当にな……まあ、見た目と味が悪くならなかったのは救いだけど」
「何が救いだ……」
「毒々しい紫色の不味いカルボナーラとか、食う気しないだろ……」
疲労困憊でへたり込む薫と虎次郎は、気怠そうにしながらも互いを小突くことを忘れなかった。弱々しい蹴りがポスンと腹を叩き、お返しの拳はヘロヘロと肩を叩く。
脚を投げ出してぐったりとカウンターに凭れる薫は、疲労からくる眠気が靄となり脳内に立ち込めているのを感じていた。
「夜食でも食うか?」
「しばらくはお前の料理は見たくもない……」
「失礼な。俺の料理のせいじゃないだろ」
重い腰をなんとか上げた虎次郎は、疲労の浮かんだ顔で未だ座り込む薫をそのままにして、厨房へと向かう。
イベント期間中、虎次郎配下のモンスターは別のダンジョンに出張しており、レストランダンジョンには二人以外に誰もいなかった。
人混みを好まない薫には丁度よい静けさだった。
開けていることすら怠くなってきた瞼を閉じていた薫の耳に、コンロに火を入れる音が入り込む。
いらないと言ったはずなのに、お節介にも夜食を作り始めたことに、薫は深くため息をついた。
このまま寝てしまえば、食べずに済むだろう。
沈み行く意識に抗わぬまま、薫は全身から力を抜いてうたた寝を始める。
うたた寝のつもりが本格的に寝入り始めてしまうのを、薫は微かに覚醒した意識の片隅で自覚した。
出汁の香りが満ちる店内で深く息を吸えば、肺にまで入り込んでくる。
システム上、戦闘中での料理スキルであれば何度でも食べられる仕組みだったが、何回もカルボナーラを食べればしばらくパスタとチーズは目にしたくもない。薫は言葉にしていないはずなのに、正しく汲み取った虎次郎が作っているのは胃に優しい和食だった。
イタリアンレストランに鰹節の香り。
あんなに食べたはずなのにまた空腹を訴える身体は、忍者としては失格だ。身軽に動くために食事は最低限に抑えるべき、というのが薫の信条の一つだった。
今ならまだ間に合う、と薫は開きかけていた瞼をもう一度閉じる。