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    林(りん)

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    林(りん)

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    基緑が基緑になるまでの時間の話

    #基緑
    rootGreen

    【基緑】遠雷「ヒロトってさあ、オレに甘くない?」
     問いかけのような、確認のような言葉に返されるセリフとして予想していたのは、正直「そうかな」とか「そんなことないと思うけど」とかそういう類いの言葉だった。
     ヒロトは緑川を見てほんの少しだけ驚いた顔をして、それからほんの少しだけ困ったような笑い方をする。
    「…………そりゃあ、そうだろ」

     ――そりゃあそうなの? と思わず子供みたいな声が口から出て行った。


    ◇ ◇ ◇


     〝友愛〟よりも〝家族愛〟だったのだと思う。

     ヒロトは自分と同じお日さま園で育った仲間達のことを「友人」というよりは「家族」のように思っていた。
     家族のように思っていた仲間達の中で、ヒロトは決して自分のことを「長男」だと思っていたわけではない。年齢でいえば年長者として砂木沼の存在もあったし、学年は一緒だとしてもヒロトよりも早く生まれた面々だって少なくはない。
     友人というよりも家族のように思っていた仲間達の中で、ヒロトは自分のことを「長男」のように思っていたわけではなかった。――けれど、ヒロトは「ヒロト」の名を与えられたから。
     いつからだろうか。
     実のところ、自身が宇宙人となる過程を経なくてもいつかはぶつかっていた問題なのだと思う。
     多分、きっと、ヒロトが「ヒロト」になった日から、いつかきっと、必ず。
     平凡な日々を過ごしていたとしてもおそらくいつかはぶつかるはずだった問題を、けれど宇宙人として地球人を脅かすという平凡には程遠い経験はヒロトに自分は〝そう〟なのだと思わせるまでの時間を随分と早めさせた。
     自分のことをお日さま園の「長男」だと思っていたわけじゃない。正直、誰が年上で、誰が年下で、なんてことも深い意味を持って考えたこともない。
     ヒロトは別に、自分のことを家族の中の長男だと思っていたわけじゃない。けど。

     ――「ヒロト」である自分のことは「ヒロト」として生きる責任があると思った。

     明確な時期はいつだったのだろう。自身が施設にやってきて新しく出来た「父」に「ヒロト」と呼ばれたことの意味を知ったとき、自分には「ヒロト」である責任があるのだと思った。
     重い、といえば重い。……と、思う。父に本当に求められた「ヒロト」ではない自分がそれでも「ヒロト」でい続けなければいけない事実は、重い、と。
     彼を嫌いになれたら基山ヒロトはもっと楽に生きられたのだと思う。彼のことを、父さんのことを、吉良ヒロトの父親のことを。
     血のつながりもない「姉」は血のつながりもない「弟」から中学卒業後の進路についての希望を聞いたとき、貴方が背負う必要はないのよ、と言ったけれど、オレがそうしたいんだと告げればどこか複雑そうなどこか難しい顔をして、けれどそれ以上ヒロトが口にした希望を否定はしなかった。
     「姉」はそれからも度々ヒロトに進路について確認して、何度もヒロトの希望を聞いて、その度にヒロトがこれがオレのしたいことなんだと言えば、やっぱりどこか複雑そうな難しい顔をして、そうして最後にはそれが貴方のしたいことなら応援するわと決してヒロトの言葉を否定はしなかった。

     自分の背負う「ヒロト」は重かった。
     けど、「ヒロト」である自分が「ヒロト」としての役目を全うすると決めたから決してその重さを手放すつもりはなかった。
     呼吸の苦しさを自覚してしまったのはほんの一秒でも肺が楽になる時間を知ってしまったからだ。


     緑川がヒロトと同じ高校を受験すると最初に言ったとき、正直、ヒロトからすれば家族の一人の進路希望がたまたま自分と一緒だったくらいの感情しかなかった。勿論、くらいの、とは言っても「じゃあ一緒に頑張ろう」と心から思ったし、緑川も頑張っているんだからオレも頑張ろうと一人で進路について考えていたときよりも受験勉強に対するモチベーションは随分と上がった。
     それだけだったんだよ。
     なあ緑川。それだけだったんだよ。

     違うんだ。本当は少しだけあった。本当は少しだけ、「くらいの」じゃない気持ちがあった。

     ヒロトは緑川のことを気に掛けていた。大事な家族だから、以外の理由で。
     緑川が緑川リュウジの表情をするたびに、オレはこんな相手に「レーゼ」をさせていたんだなと心のどこかで罪悪感のようなものが仄かに存在を主張した。セカンドランクと位置付けた彼らを侵略者として世間の矢面に立たせて、不要になれば捨てた、あの頃のこと。
     その計画の裏に誰がいたかは関係がなかった。「ヒロト」としての責任を背負うと決めた以上、それら全ての責任も一緒に背負わなければいけなかった。重いと思うことすら許されない責任だった。
     本当はずっと抱えて持っていなければいけなかった心の中のそれを、少しずつ薄めていったのは緑川自身だ。当の本人にヒロトが持つそれを薄める意思があったのかはわからない。無かったんだろうなとも思うし、あったとしても緻密で綿密なものではなかったんだろうなと思う。
     ――同じチームになれて嬉しかったんだ。あの時ばかりは「家族だから」が理由じゃなかった。一度はランク分けされた自分達が同じ場所に立てることが嬉しかった。あの時のことだって決して忘れずに背負い続けなければいけないのに、だけど今の自分達が同じ場所に立っているという事実はあの時のランク分けなんかには何の意味もなかったと証明しているようで、嬉しかった。
     かつてレーゼだった彼と同じ目線で同じ場所に立てることが嬉しかった。同じ場所で奮闘できることが嬉しかった。――緑川と、友達同士のように笑えたことが嬉しかった。

     友愛よりも家族愛だった。お日さま園のみんながそうだった。ヒロトにとってはそうだった。
     どうしても「家族」になってしまうんだ。幼い頃から同じ場所で育ってきた仲間達だから、どうしても。少なくともお日さま園にいるときは普段以上にそちらの意識が大きくなる。
     友愛よりも家族愛だった。まだ今よりも小さい子供だった頃から同じ場所を自分達の家として育ってきたのだから。
     合宿所という「家」ではない場所で接する時間が長くなったからだろうか。考えてみれば単純な話だ。周りにいるのも「家族」ではなく友人やチームメイトばかりだし、所謂「第三者」の方が圧倒的に多い環境で、比率は違えど家族愛と友愛どちらも持ち合わせている相手と接していればその比率が変化したっておかしくはない。

     そう。だから。

     緑川がヒロトと同じ高校を受験すると言ったとき、家族の一人の進路希望がたまたま自分と一緒だった、という気持ちと一緒に、シンプルに、とても単純に、ほんの、ほんの少しだけ、……ほんの、少しだけ、……………………嬉しいと、思った。
     少しだけ、想像したよ。少しだけ想像してさ、緑川とまた同じ学校生活を送るなら、きっと、楽しいだろうな、って。

     「ヒロト」の自我が大きすぎて、駄目だと思った。

     結局、ヒロトも緑川も無事に志望校へと合格して、春からまた新しい生活が始まった。


    ◇ ◇ ◇


     もうただの家族ではない彼の前で、つい、本音がこぼれた。
    「……俺が基山ヒロトであることって、正直、邪魔なんだ」
     うっかりこぼしてしまった自分のそれに、少し間を空けてから――しまった、と思ったときにはもう、目の前の彼から絞り出すような「バカ」が飛んできた。


    ◇ ◇ ◇


     ――オレにはこんなことしてる時間はないのに。

     薄らぐ。薄れる。薄まってしまう。自分の中の緊張感が。自分の中の責任感が。だってオレは他でもない「ヒロト」なのに。
     家族でない緑川と過ごしていると、自分の中の「ヒロト」がどんどん薄れていく。
     まるで友達みたいな緑川と話していると、自分の中の「ヒロト」がどんどんどんどん顔を覗かせてくる。
     本当なら「ヒロト」でいるために緑川の存在なんて必要なかった。それどころか友人のように思ってしまう緑川の存在は「ヒロト」には不要なだけだった。
     「ヒロト」には多分、緑川が必要なんだと思う。家族じゃなくてただの友達の緑川が必要なんだと思う。
     緑川といると「ヒロト」として息をする時間が増えていく。
     緑川といると「ヒロト」として呼吸をしなければいけないことを忘れそうになる。
     「基山ヒロト」はあまりに重荷だった。「吉良ヒロト」の役割を果たす上で、自分が「基山ヒロト」であることはあまりにも重荷だった。
     緑川の前で、オレは「基山ヒロト」だった。俺がなりたいのは、なりたい、のは、基山ヒロト、じゃなくて。


     姉さん。
     瞳子ねえさん。
     本当は、姉さんが言いたいことの意味は、言ってくれたことの意味は、わかってるんだ。
     誰も俺に「ヒロト」であることを望んでなんていないってわかっているんだ。
     わかってるんだ。
     今の父さんだってオレのことを「ヒロト」だときちんと理解している。オレを「ヒロト」の代わりになんてしていない。そもそも彼の大事な家族である「ヒロト」がそう易々と誰かで代用できるわけがない。だから少しずつ死期の迫りくる病室で彼はオレのことを「ヒロト」と呼んだ。大事な彼の代わりでなく、「ヒロト」と呼んだんだ。

     意地なんだ。
     嘘なんてついていなかった。
     俺が、そうしたいと心から思った。
     代用の「ヒロト」としてじゃなくて、オレに「ヒロト」という名前と居場所を与えてくれた父さんに少しでも恩を返したくて。
     ただの責任感じゃない。それだけは本当に、心から。


     緑川から与えられた「ばか」というシンプルな言葉に、そうか、オレはバカなんだなと喉に何の取っ掛かりもなく胃の奥まで落ちていく。
     自分が基山ヒロトであることを邪魔だとこぼしたあとで、なのにそんな自分の前から去っていった緑川に苦しいくらい感情を揺れ動かしたのは他でもない基山ヒロトだった。
     ああ、どうしよう、と思った。このまま緑川が戻ってこなかったらどうしようと思った。このまま嫌われて、もう二度と口をきいてくれなくなったらどうしようと思った。
     「ヒロト」でいるために家族ではない友人としての緑川の存在は必要なくて、何なら邪魔なくらいだったのに、オレは緑川という友人を失いたくないんだなと思った。

     必要なのは、友愛よりも家族愛だったのだと思う。「ヒロト」として生きるためには。父さんの息子である「吉良ヒロト」として生きるには。

     俺は、今更手放せないのだと悟った。自分が基山ヒロトであること。緑川っていう、家族でもある友達のこと。
     そうじゃなきゃ、緑川が教室に戻ってきたことに呼吸が止まるくらい安堵するはずがない。


    ◇ ◇ ◇


    「ヒロトってさあ、オレに甘くない?」
     緑川の言葉にヒロトは少しだけ困ってしまった。
    「…………そりゃあ、そうだろ」
     正直、緑川の言葉に「何を言っているんだろう」くらいの気持ちが浮かんだ。「そんなの当然だろ」「一体何を言っているんだ」くらいの気持ちが浮かんだ。
    「…………そりゃあそうなの?」
     何だか子供のような少し間の抜けた声を出した緑川に、二度目の「そりゃあそうだろ」が浮かぶ。
     そりゃあそうだろ。
     そりゃあ、そうだろ。
     緑川が戻ってきてくれた、あの時から。
     比喩表現でなく息が止まったことを誤魔化すために笑ったら緑川はその笑顔を「胡散臭い」と言った。
     ああそうかって思ったんだ。ああそうか、結局、俺は緑川の前でずっと基山ヒロトだったんだって。
     緑川が思ってるよりも俺は本当だった。だってオレは「ヒロト」を隠してでも「ヒロト」でいたかったのに、取り繕って作った「俺」の方を見て緑川は胡散臭いと眉を顰めた。

     あの時少しだけ、薄れてしまった。自分がヒロトでい続ける、自信が。
     自分の中の吉良ヒロト像を否定されて感じたのは安堵でも喜びでもない。嬉しさでもない。――自分への無力さばかり。
     背中にのしかかるものがどんなに重くてもヒロトの役割を果たそうとしたのは自分が「ヒロト」である責任感だけが理由じゃない。
     本当に、何の外連もなく「父」に対する感謝があったからだ。
     父さんは、間違ったのだと思う。息子を亡くした傷を癒す方法を間違ったのだと思う。
     だけど救われたんだ。間違いなく救われたんだ。居場所を与えられた。生きていていいんだと帰る場所を与えてくれた。その事実だけは地球が何度ひっくり返ったって変わらない。
     報いたかった。感謝があったからだ。恩を感じているから。それこそ、自分が基山ヒロトじゃなくなってもいいと思えるくらいには。
     なのに薄れてしまった。あの時少しだけ薄れてしまった。ほんの少しでも「吉良ヒロト」の役割を果たしたかった自分は、傍から見れば呆気ないくらい彼には成れていないのだと。

    「俺、大学もヒロトと同じところ行っていい?」

     だから緑川が自分に向けるその言葉に「ヒロト」の柄にもなく動揺した。
     緑川、言っただろ。大学も俺と同じところに行きたいって言っただろ。それから、もし大人になっても、って、言っただろ。
     あの時、確実に薄れてしまったんだ。吉良ヒロトの役割を果たす自信が。果たせる自信が。
     だけど緑川が、まるで、その先の未来にも居てくれるようなことを言うから。
     期待を、してしまうだろ。期待を、してしまった。俺は吉良ヒロトの役目を立派に果たせないのに、果たせないけど、もしかしたらオレが基山ヒロトのままでも緑川はこの先の未来に一緒にいてくれるのかもしれないって。

     できることなら一緒にいてほしいと思った。
     ずっとそばにいてほしいと思った。
     ずっと、俺の隣にいてほしいと思った。
     基山ヒロトである俺の隣に、どうか、これからもずっと、って。
     そんなのは「友達」に向けるにはあまりにも重すぎる願いだから、言えないけど。


     結局、学部は違えど本当に同じ大学の学生同士になった緑川に、軽めの昔話でもするような感覚で話を続ける。
    「何年か前に、俺が基山ヒロトであることが邪魔なんだ、みたいなことを言ったと思うけど」
    「ああ……うん」
    「あの頃はさ、父さんのやってきた仕事を俺が引き継げたらとは思ってたけど、今思えばかなり漠然とした展望でさ、それこそ何をしたらいいかも曖昧で、……俺が『吉良ヒロト』になるのが一番確実で、近道だと思ったんだ」
    「…………うん」
    「だから実際、自分の中にある俺らしい……基山ヒロトらしい部分って本当に邪魔だと思ってて。……勿論あの頃はだよ。今はそんなことないけど」
    「……うん」
    「でも緑川は俺の基山ヒロトの部分を見て、大学も、それからその先もって言ってくれただろ。そのおかげで俺は基山ヒロトのままで進んでいってもいいんだって思えたから。……そりゃあ、そんな相手には甘くもなるだろ」
    「…………」
    「……緑川?」
     黙り込んだ緑川に声を掛けると、緑川は微かに頬を赤くしながら小さく唸り声をあげる。
    「……今思うとオレけっこうだいぶ恥ずかしいこと言ってる気がする」
    「そうかな」
    「そうだよ。……そうだよ!」
     普段よりも空いている学食の隣の席で一人でばたばたし始めた緑川に、……でも俺のはそれとは比べ物にならないくらい重いから大丈夫だよ、と思って、勿論何も言わなかった。
     なるべく自然に話を少しだけ逸らすために、笑い混じりに問いかけてみる。
    「じゃああの頃の自分のセリフ、後悔してる?」
    「……してない!」
    「はは。ならよかった」
    「っ、ていうか、それが俺に甘い理由になるのもよくわかんないし」
    「そうかな。俺からしたら至極当然って感じだけど」
    「だって俺は最初からヒロトが目指してた吉良ヒロトのことなんか知らないし。……オレが見てたのはずっと基山ヒロトで、オレはずっと自分が見てた基山ヒロトのことが好きだよ」

     だから例えお前の名前がこれから「吉良ヒロト」に変わったとしても、お前はずっとオレの好きな「基山ヒロト」のままだよ。


     そりゃあ、甘くもなるだろと思う。
     どくり、と心臓がさっきよりも少しだけ速くなる。
     ……そりゃあ、甘くもなるだろうと思う。
     あの頃みたいに呼吸の仕方を忘れたりはしない。そんなわかりやすい素振りは見せない。たとえ息の仕方を忘れても、緑川には決して悟られないように息を止める。

     重くて言えない、の重さの理由が、年々重くなっていく。

     自分の在り方に迷走していたときもお前にとってのオレはずっと基山ヒロトでいられたのだとしたら、お前もずっとオレにとっての緑川リュウジだった。
     友愛のふりをしてお前を甘やかしている。
     友愛のふりをして、お前を甘やかしているふりをして、本当は何より俺が緑川に甘えている。
     いつか絆されてくれないだろうか。都合よく流されてくれないだろうか。オレでいいやって、ヒロトでいいやってなってくれないだろうか。

     重くて言えない、の重さの理由が年々重くなっていく。
     俺のは重いから緑川には言えないよ。あの頃だってそうだったのに、今は、なおさら。
     遠い未来でもいいからいつかオレで妥協してくれないだろうか。
     オレはもう緑川じゃなきゃダメだよ。
     緑川じゃないと、駄目だよ。
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