【基緑】薄夏「……あー…………あのさあ、…………あのさ、ヒロト」
「うん?」
大学に入って新しく出会った友人達との飲み会帰りの夜道、緑川の隣を歩いていたヒロトがその呼びかけに眼鏡のレンズ越しの視線を顔ごとそっと緑川に向ける。
「……黙ってるの、黙ったままなのは、なんか、狡い気がするから、ずるいと、思って、思ったから」
「酒」というものを覚えてまだ大した月日は経っていないけど、「酒」を飲むと思考力が多少なりとも低下することは覚えた。
アルコールが入って普段よりも支離滅裂になった緑川の言葉を、けれどヒロトは落ち着いた優しげな声色で、うん、と相槌を返しながらも決して遮らずに聞いている。
…………うん、とどこか頷くような感覚だった。手に力を込めるというよりは、それまでヒロトの横で不自然に固くなっていた身体の力を抜くように意を決した。
緑川が急に立ち止まったからだ。一歩だけ緑川の前に行ったヒロトが立ち止まった緑川の方を振り向く。
身体の力は抜けたのに、口元はなんだかまだ少し上手くは動かせなかった。
「…………オレ、ヒロトのこと好きなんだけど、それでも、こんなふうに好きなままでも、ヒロトの隣にいていい?」
視界が微かに滲むのは、アルコールが入っているとはいえ、思考力が多少なりとも低下しているとはいえ、自分の気持ちをヒロトに「告げている」という事実を残り少ない理性が理解しているからだろうか。
アルコールだけではやはりどうにもできなかった、緊張と、不安、がある。
ここまで歩いてきて、ここで己の感情をヒロトに伝えたことで、それは、やっぱり無理かも、とか言われたらどうしようとも思う。だってもう何年も前から、これが自分の意思ではあるとはいえ、これからもヒロトの側にいるぞっていう理由と動機だけで自分が歩く道を決めてきた。
ここまで歩いてきて、緑川がそうだとしたらやっぱり無理かもとか言われたら、ちょっと、どうしようかなとも思う。ここまで何のためにってくらい自分の今までの生き方がひっくり返ってしまう。でも、そういう気持ちがあることを隠して何にもないフリをしてヒロトの隣に居続けるのは、なんか、それも狡い……と、思って。
きっと自分達が少しずつ大人になっていく中で、ヒロトのことを好きだろう相手を何人も見てきたからだ。
なんかさ、今までのあれそれでちょっとは情とか湧いてくれてないかな、とか思うよ。温情とか恩情とかちょっとくらい無かったりしないかな。ヒロト、オレに甘いのは当たり前~とか言うんだから、こういうとこでも甘さを見せてくれないかな。
……だめかな。
ひろとはオレじゃあだめかな。
固まって、困ったような顔であやふやに口元だけ笑うヒロトに、ああ、これはもう、だめかなあ、困らせたなあ、って、おもった。
◇ ◇ ◇
いつかでいいから絆されてくれないかなと思ってた。
遠い先の未来でも、いくらでも待つから、いつか絆されてくれないだろうかと思ってた。
◇ ◇ ◇
「……俺が、こんなこと言ったら緑川を困らせると思うんだけど」
お前を困らせてるのはオレの方なのに、いったいお前の何がオレを困らせるんだよ。……という、こんなことを思ったらあまりに身勝手だけれど、なんだか不満に似た気持ちが沸いてきて胸の辺りがじわじわと落ち着かない感覚になる。
別に、たった一言「ムリ」だってオレは困らないよ。むりかあ、だめかあって思うけど、困ったりはしないよ。だってそれはお前の素直な気持ちだろ。
ヒロトから前置きのように与えられた言葉は緑川の「告白」に対するシンプルな返答ではなくて、緑川は無意識に薄く唇を尖らせながら続きを待っていた。
「……俺は、……なんていうか…………下心があって、緑川に優しくしてたよ」
「…………なに? なんのはなし?」
「だから、……俺がお前に甘いのは当然だろって言ったけど……下心があるんだから、当然だろ」
「…………あのさあ」
……そこまで言って緑川が半端に言葉を途切れさせると、緑川が見つめたヒロトの目はゆらりと僅かに泳いだ。
身体の横に放り投げていた腕を、浅く腕組みでもするように持ち上げて片方の手で自分の頬に触れた。じわりと熱いのは単純なアルコールのせいなのだと思う。単純な、単純に、さっきまでわいわいがやがやと楽しい雰囲気のなか摂取していたアルコールのせいなのだと思う。
この熱を冷ますには外の空気はじっとりと湿りすぎていた。
ねえ、それ、どういう意味? とか。酔った勢いを利用しようとしている人間が、可愛く首を傾げるような天然ものの可愛さを持ち合わせているわけがない。自分に与えられたその言葉の意味をほんの一ミリすらも察せない純粋さも持ち合わせていない。
どく、どく、と心臓の音がいやに大きく聞こえる。
じんわりとした頬の熱さは単純なアルコールのせいなのだと思う。それ以外ないだろ。ないでしょ。……ないよね? ないよ。そんなの。
……いま、心臓から指の先へ、顔に、頭の上の方に上ってくるこの暑さの理由は何。
あつい。
……暑いね。ヒロト。
「…………おれ、よってる。むずかしいこといわれても、わかんない」
「何でちょっと片言なの」
「………………難しいこと言われたって、オレにはわかんないよ」
ほんの少し手を伸ばせばヒロトに余裕で届いた。
届くのに、たったの一歩未満を、わざわざたったの半歩を詰めて、……ぐり、とヒロトの胸元に頭を押し付ける。いつの間にかオレの身長追い越しやがって。何なら単純な背の高さだけじゃなくて体格でも追い越されてしまった。
少し下にあったお前の目をいつからか見上げるようになったとき、ちょっとだけ悔しいのと一緒にお前のかっこよさを改めて実感して更にちょっと悔しいと思ったし、それと一緒にちょっとドキドキしてそのことがまたなんか悔しい……とかいう、結局「悔しい」に収束する感情が浮かんだことを、そんな事実を、そんな記憶を、でも冷静によくよく考えたらなんか可愛らしい子供みたいな甘ったるい感情を告白したら、お前はどうするの。
いつかヒロトからの興味を向けてもらえたらって、あの頃はずっと思ってた。
その気持ちが少しずつ薄れ始めたのはヒロトからのそれを既に与えられていると実感し始めたからだ。
オレに甘いことを当たり前だって言うヒロトがオレになんの興味もないわけないじゃん。
お前の矢印がきちんとこっちに向いてることを今はちゃんとわかってるよ。そこに含まれた気持ちがオレと同じものかどうかはわからないけど。
今この瞬間もお前の目はちゃんとオレを見てるんだろうか。見てるとしたら、それはどんな目なんだろう。顔を埋めてしまってわからない。
「ヒロトの言う下心って、なに。えろいことしたいとか、そういうこと?」
「っ、そ」
「俺は、それでもいいけど。……オレは、それでもいいけどさ…………ひろとのそれは、オレの好きとは違うやつ?」
酔った勢いでお前の胸に飛び込んだ俺のこと、何も言わずに黙って抱きしめてくれたらいいのに。
それは、いやなの、ヒロトは。
そういうのはいやな下心なの、ヒロトのは。
オレの好きとは違うやつなの。
「俺のこと、きらい?」
「っ……そんなわけ……」
「じゃあ俺がこういうことしてもいいやつ?」
その言葉と共に顔を上げれば、当たり前だけど目の前にはヒロトの顔があった。
……ふ、と笑いのような息が自分の口から漏れる。
なにそれ、ヒロト。――ほんと、なにそれ。
両手を伸ばす。両手で、目の前の頬に触れる。
やっぱり暑いよね。
やっぱり、あつかったじゃん。ヒロトだって。あつかったんじゃん、ヒロトだって。
わざとらしいくらいにじっと目の前のヒロトの目を見つめた。
「……おれのは、こういう好きだよ」
――かつん、と眼鏡のフレームにも少しだけぶつかった。触れた瞬間。触れ合った瞬間。それが何となく可笑しくて、意を決した割に間抜けで、何だか力の抜けた自分の足下に、自分が思いのほか緊張してたことに気付いて、ふ、とまた少しだけ笑ってしまったような息が漏れた。
……ぐ、とヒロトの頬に添えていた手を掴まれた。反射的に少しだけ頬との隙間を空けると、手首の辺りに置かれたそれがするりと位置を変えて、一本ずつ指を絡めるように手の甲に重ねられる。
緑川の手を掴んだヒロトの目は紛れもなく緑川の目を見つめていた。
あのさ。
ヒロトの方がオレより大きいじゃん。手だってほら、そうだし、たぶん力だってヒロトの方が強いじゃん。ヒロトの方が色んな意味で頭もいいし、ヒロトの方がモテるのにも慣れてるじゃん。そういう相手のことしれっと躱すのもうまいじゃん。
避けたかったら避けたでしょ。予兆っぽい動作だってちゃんとゆっくりしてあげたじゃん。避ける時間も逃げる時間もちゃんとあっただろ。
なんで俺のこと、ヒロトは避けなかったんだろうな。慣れないことするから眼鏡にもぶつかってくるようなやつに。
なんでだろうね。
緑川の手を掴んだヒロトの目は、レンズの向こうで涼しさとは程遠い色で揺らめいている。
……ね。
なんでだろうね。
時間帯もあるのかそれとも少し奥に入った路地だからなのか、なんか笑っちゃうくらい都合よく人通りがないんだけど、でもどうしよう。単純に周りが見えてないだけだったら。
もう少しだけでいいから今ここに誰も通りかからないでほしい。
「――…………俺のだって、こういう好きだよ」
じゃあおれのと同じじゃん。
思ったことをきちんと素直にそのまま口にしたら、…………はああ、とヒロトが溜め息みたいな溜め息じゃない息を深く吐き出した。
二回目は、眼鏡にはぶつからなかった。