『バッドエンドは投げ捨てた6-1』【親しい友人に煽られる①】
山梨の工場から、真っ直ぐ東京へと戻ってきた。
特急列車の中では会話もほとんど交わすことはなくて、私と羽鳥さんは行きと同じように静かに席に座ったままでいた。
ただその沈黙の意味は訳アリ男女の逃避行のようだった昨日とは別のもので、法的な事件としての扱いが定かでない今回の件をどうやって食い止めれば良いのか、頭をいっぱいにした私に羽鳥さんが気を使ってくれていたのだと思う。
いや、思い出せば工場の件以前に、今朝ホテルを出てから乗ったタクシーの中でもこんな雰囲気だったような気もする。昨日、平然と私の手に重ねられた羽鳥さんの指が今は彼の太腿の上で気力なく組まれたままなのは、もしかしたら私の捜査のこととは別の理由もあるのかもしれなかった。
予定していた時間よりもだいぶ早くに乗った列車は、昼過ぎには新宿駅に到着した。
そのまま潜入先の会社に出社をするはずだったスケジュールは、羽鳥さんが私の仮の上司に『泉さんの体調が少し悪いようだから』と上手く電話で伝えてくれて、直帰することに変更した。
電話の向こうの上司がその意味をどう受け取ったかは、分からない。
明日出社した時に女子達の視線が痛いだろうなというのはもともと想定内のことだし、強い羨望の視線が四方八方から刺さる状況も、昨日も一昨日も変わらない。それについてはなんだかもう慣れてきているし、もっと重要な問題に直面している今となっては、明日のオフィスでどう上手く立ち回るかを考えるのは後回しで良い。
羽鳥さんは万が一駅で潜入先の営業マンなどに見られるようなことがあっても良いように、私を病人らしくエスコートして、自宅に帰ることを装いながら駅前の大通りでタクシーを拾ってくれた。
「俺は自分の会社に顔を出すから。ゆっくり休んでね。明日また、オフィスで」
私の返事も待たずに、羽鳥さんが歩道へ一歩下がる。同時に、自動で後部座席のドアが閉まった。
窓越しに、お互いに少しぎこちなく、小さく手を振る。今の今まで間近で私の目を見て微笑んでいた羽鳥さんは、上げた手も下り切らないうちに、その場を立ち去った。
「……」
たとえ演技の中でも別れ際を名残惜しむことをしないのは、羽鳥さんらしいと言えばそうなのかも知れない。会社に行くって言っていたけれど、あのまま別の女の人のところに行ったとしても周囲からはまあそうですよねと思われるだけ。そういうキャラクターを上手に使うのが羽鳥さんという人なのだということは、理解しているつもりだ。
分かっていても、あっさりしてたな、とも少し考えてしまった。
(これは、女の子達が勝手に執着するわけだ)
「お客さん?」
「あ、すみません」
「どちらまで行きますか?」
「九段下駅までお願いします」
『お国の取り締まりも、ごっこ遊びみたいなものですよ!』
つい今朝ほど聞いたばかりの工場長の嘲笑が、パソコンのスピーカーを通して捜査企画課内に響いた。
連絡はこまめに取っていたものの当庁自体は数日ぶりとなった私を迎えてくれた関さん達に挨拶を終えてすぐ、羽鳥さんのお陰で押収できた脱法ドラッグをテーブルに置いた。
そして、『成果はありましたが、まずはこちらを聴いて頂きたいです』と、捜査資料として工場に入るところからの全てを録音していた音声を流した。
脱法という名前の、限りなく違法に近い巧妙な行為。我流のドラッグ合法化論。堂々巡りを終えられない危険薬物規制への揶揄。
一通りを耳にして、一拍。夏目くんが呟いた。
「え。もしかして俺達喧嘩売られてる?」
「喧嘩というか、なんというか……」
羽鳥さんを味方に引き込むためとはいえ、出方を伺うだけにしては工場長の口の軽さは妙だった。
「憶測ではありますが、使用している危険ドラッグの影響が体内に残っていて、ハイになっていたのかもしれません。瞳孔の変化など典型的な薬物反応は外側からは分からなかったですが、工場長の饒舌さはちょっと異様な感じでした」
喧嘩を売るという行為を意識的に行えるほど冷静な判断ができる状態じゃなかったとしたら、工場長の証言自体の信憑性も薄くなってしまうけど……。
でも、捜査対象としていた危険ドラッグが工場現地から見つかったことと、工場長がそれを脱法薬物と認識して取り扱おうとしていることは、確認できた。その二点について、関さんは黙って頷いた。
輸入に関与している主要人物も明らかになったし、今はまだ仕入れを行っている段階で、一部使用者は居ても大量販売が実行に移されているわけではないらしいことも分かった。大きな収穫と言える。
夏目くんの言葉を受けて、青山さんが眉を顰めて、困った様子……以上に、辟易するように口を開いた。
「まあ、危険ドラッグは最初から存在そのものが俺達に喧嘩を売っているみたいなものだからな」
冷静な様子ではあっても、それだけじゃない。羽鳥さんがいなかったらスムーズに場をやり過ごせていたかも分からない未熟な私とはレベルの違うことだけれど、青山さんも、苛立ちも嫌悪も、たくさんのことを内側に膨らませているようだった。
加害者と正面から向き合ったとしても、向こうのペースに飲まれたらいけない。精神面ではどこまでも平常心で、捜査官であり続けなければいけない。
そんな姿勢を、最も身近に居る尊敬すべき先輩に見たように思った。
「規制を緩和して一部薬物を国の管理下に置いても、他の危険薬物が社会からなくなるわけではありませんしね。それどころか、使用上の問題も加わりますし」
いつも通り穏やかだけど、感情が伴わないトーンで今大路さんが加えた。
「合法化による税収が薬物乱用防止政策に充てられていたり、依存者の回復プログラムに使用されていたりする矛盾も日本ではあまり知られていませんね」
「そうですね……」
工場長の言うような海外に影響を受けた一部薬物の合法化論は、どんなにそれっぽく語られても、薬物を肯定したい意識から限定的な見方で論じられているばかりだ。
もっと広い視野で見えてくる危険性や、取り除くことのできない問題については目を向けていないか、見ないようにしている場合がほとんどだ。
そんな状態で、一部麻薬や類似する脱法成分を肯定するようなことはあまりにも軽率だ。
けれど、海外の表面的な動きを真に受けて、大麻や大麻に近い、あるいはそれ以上に心身に影響を及ぼす脱法ドラッグは確かに蔓延している。
そんな社会の現状を象徴し、助長しようとしているのが、今回の案件だ。
「まずは、泉が探ってくれたこの情報をどうするか、そのことを考えよう」
関さんはいつもの優しげな表情を消して、現場で指示を出す時のようにあまり抑揚のない声で言って、これまでのことを整理した。
まず、潜入先で働く男性社員が輸入し山梨のアパートで保管している、大量の危険ドラッグについて。
サイバー課との協力によって、青山さんと今大路さんが同じ輸入元からひとつ現物を押さえていて、由井さんの成分解析も済んでいる。
私が今回持って帰ってきた同じパッケージの危険ドラッグが同一と証明されれば、工場長が自ら明かした大量販売計画の裏付けになる。
問題はここからだ。
その、今はまだ違法ではない危険ドラッグを、どうやって回収するか。
そして、工場長や、男性社員、関与が濃厚となっている社長を、どのように取り締まるか。
押収した脱法ドラッグが今後取り締まり対象となるように、すでに申請はしている。けれど、精査を挟んで許可が出る過程を経る都合上、どうしても実際の公布まで多少なりとも時間がかかるし、公布の周知から施行までも期間が空く。
今はまだこの脱法ドラッグを使用しているのは輸入者達本人や、居たとしてもそれに近い人物だけで、販売準備が整っていないことが救いだ。けれど、そう悠長に構えてはいられない。
羽鳥さんが危険ドラッグ事業に協力をするかどうか判断を先延ばしにして時間稼ぎをしてくれる予定ではあるものの、あまり長くは向こうも待たないはずだ。
工場長の余裕を見れば、羽鳥さんではない別の人物を巻き込んでドラッグを流通させる、代替案は持っていると考えた方がいい。
僅かな思案のあと、関さんが結論を出した。
「含有する成分が指定薬物として申請済みであることを理由に、会社側に警告を出して、取り扱い禁止命令を出す。今取れる手段はこれしかないだろう」
「はい」
ここからはスピード勝負だ。
工場長が言っていた通りに、イタチごっこのように根本的な解決にはならないかも知れない。関わっている人達に刑罰もない。けれど、もともと、私達の目的の根幹は、誰かを検挙することじゃない。
今進行しつつある危険を止めることと、抜本的解決への対策は別物だと思った方がいい。
私達捜査官は、目の前で起ころうとしていることを見逃すことはできないのだ。
け、ど。
(あれ?)
冷静に今後の方向を定めた関さんが、僅かに眉間に皺を寄せていた。その表情がなぜか悲しげにも見えて戸惑う。
関さんの内側から滲み出た感情が、犯罪に近い行為を検挙できない悔しさや、イタチごっこの苛立ちからくるものではないと、はっきりと分かった。
だからこそ、いったい何が関さんにそんな表情をさせているのかが、分からなかった。
「今回のドラッグを没収しても、工場長は別のドラッグにまた手を出します、かね」
なんだか口を閉じたままでいられなくて、これから脱法ドラッグを取り締まろうというところでとても配慮がなくて場違いなことだと分かっていたのに、そんなことを口走ってしまって心の底から後悔をした。
「……申し訳ありません」
少しだけ驚いたように目を見開いた関さんは、そして、苦笑した。
悩んでいるように見えたのは関さんなのに、優しい上司の目はどうしてか、私の方を労わっているようだった。
青山さんも何も言わない。夏目くんはよく分からなかったけれど、どちらかというと私と同じように、場を掴めていないように見えた。
「そうか。泉はこれだけの規模の危険ドラッグに関わるのは初めてだね」
「……? はい」
今、取れる手段はこれしかない。
関さんは改めてそう言って、覚悟を決めるように、捜査方針の決断を下した。