さよならを超えたその先の 視界に広がるのは茶色がかった金色。少し乾燥した、背中まで伸びた髪。頬に当たるはねた髪がくすぐったい。首に回した腕が解けそうになり、慌てて手を組みなおした。
ちゃんとつかまって、とたしなめる声が飛ぶ。
「ほら、もう泣かないでよ。もう足痛くないでしょ?」
「痛くない…」
言い聞かせるように声をかけてくる少女にそう返す。
……嘘だ。本当は結構痛い。
首筋はしっとりと汗ばんでいた。ルークをおぶった小さな体は、一歩一歩踏みしめる様に前に進んでいく。
「ヒーロー、大丈夫…?重くない?」
「ルーク一人くらい背負えるって!それより博士への言い訳考えてよ。……木に登って落ちたって正直に言ったら……怒られるよね」
「まず研究所の外に行ったのがバレると思う……」
「うぐ……」
沈黙が流れる。
子どもだけで研究所の外に行ってはいけないというのが、遊ぶ時の約束の一つだった。決して治安が良いとは言えない街中。特に子どもにとっては命の危険と隣り合わせの危険な場所だったが――好奇心には勝てなかった。研究所の近くに小さな雑木林があった。雑木林といっても、木が少々生えた程度である。内戦が始まる前はそれなりに立派な公園だったらしいそこは、度重なる爆撃などで今はその体を成していない。唯一面影を残すその場所に二人はこっそりと向かい――結果はこのくじいた足首というわけだ。
「あー、だめだめ!いいこと考えよう、明日の予定とか!」
「そんなの考える気分じゃないよ……」
「こういう時だから考えるんだよ。少しは前向きになるだろ?」
ほら、と先を促される。
「えっと……じゃあ、この前の本の続きを読む、とか」
リカルドから持ってきた少ない荷物の中に、1冊の童話集があった。子ども向けのその本は、何回も読み返し赤い背表紙はボロボロになっていた。
外国の童話が珍しかったらしいヒーローはいたく気に入り、たまに一緒に読んでいた。既にあらすじを知っていたけれど、一緒に読むと何だか一人で黙って読んでいた時とは違っていて。これは何?もっとこうなれれば良いのにと話しながら読むのは楽しかった。
「いいね!あっ、じゃあさ……これも前の続き。文字の練習付き合ってよ」
「ヒーロー、もう大分書けるようになってたよね。もっと練習するの?」
「するの!大人みたいにさらさらーって書けるようになったらかっこいいじゃん!」
もしかして筆記体のことを言っているのだろうか。
「うん、やろう。じゃあ明日は朝からぼくの部屋に集合で」
「やった!約束だよ」
なんてことはない明日の約束。はしゃいだように笑う声に、この後の言い訳探しも忘れて頬を緩めた。
◇◇◇◇◇◇
黄昏時の空を黒煙が舞う。
「……う、あ……!」
力を失った少女の腕がだらりと前に垂れる。ルークの背にぐったりと身を預けた少女は浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
遠くに聞こえる銃声の音から逃れるように、必死に足を動かす。瓦礫が当たった背中が、足が痛い。どこかふわふわと現実感が無いまま研究所の門を潜る。炎の熱さはまだ無くならない。
燃え盛る研究所の周りは炎の音と爆音が鳴り響く。にも関わらず、一本道を超えてしまうだけでいつものまちの静けさが広がっていた。道を行く人は研究所の方角に視線を向けこそすれ、すぐに前に向き直って歩いていく。関わらない、というのがこの国で長生きする一番の秘訣であるというように。
「あ、の。病院はどこ?この子、怪我してて」
こちらを振り向いた中年の男は、やっかいなものを見たというように顔をしかめた。
「あるにはあるが……その子、孤児だろう?この辺の病院じゃあ無理だな。それに――」
頭から流れる血を見て、首を振る。
「残念だけど、もうその子は無理だ。――なるべく静かなところで、最期まで一緒にいた方がいい」
「―――そんな」
足早に立ち去る背中を呆然と見送り、ずり下がりそうになる身体を引き上げる。
力の入らない腕を掴む自分の手首が目に入り、父の言葉が蘇る。
「腕輪は、身分証明……」
通常のものではなく、渡航禁止国に入国する場合の特別な身分証。例えどんな大怪我を負っても中のIDのみで本人と認証できるようになっている。
――『ルーク・バーンズ』なら、これがあれば治療を受けられる。じゃあこれがあれば、ヒーローを、助けられる?……けど、流石に性別の違いに気付かれない訳はない。
でも、せめて。可能性があるなら、賭けたかった。
狭い路地に入り、ヒーローの身体を壁に寄りかからせる。力無く閉じた瞼はぴくりともせず、青白い顔の上を乱れた金糸が流れていた。
「…っ、ヒーロー、ごめんっ…」
道端に落ちていたガラス片の中から、できるだけ大きなものを手に取る。握りしめたガラスが手に食い込み、じわりと血がにじむ。
……痛い。けどヒーローはもっと痛いはずだ。
ぐったりと力を失った頭を肩にもたれさせ、背中に広がる茶金の髪を一つに束ねた。
ぬるりとした感触が手のひらに残る。頭皮に指を這わせると、傷口の裂け目が指に触れた。じわじわと溢れる血は生ぬるく指を伝う。傷に直に触れて相当の痛みが伴うはずなのに。呼吸はいつの間にか静かになっていた。
「う……ぐ…ッ」
…駄目だ、泣いている場合じゃない。ヒーローを助けなきゃ。
滲む涙を振り払う様に瞬きを繰り返す。震える手を必死に動かし、束ねた髪にガラスを当て押し込んだ。ざり、と鈍い音をたてて髪が切れ、切り離された髪が地面に落ちていく。
耳辺りまでに何とか切りそろえると、手に付いた細かい髪をはらった。きちんとした刃物で切らなかったため、出来上がりはそれは酷いものだった。長さはバラバラ、切り切れなかった髪が所々に長く残っている。勢い余って切れてしまったのだろう、首筋には薄っすらと赤い線が走っていた。
少年と変わらない服装の中で、唯一女の子らしく見える長く伸びた髪。
――大分長くなってきたんだよね、と毛先をいじりながら笑う少女に、どうして似合ってるの一言も言えなかったんだろう。
細かい髪の毛と、血が混じった手をシャツで拭う。巻いていた腕輪を外し、ヒーローの左手首に巻きなおした。
――時間が無い、急がなければ。
古い街並みを越えると、場違いなほど立派な建物――リカルド大使館が見えた。無機質なインターホンに向かって叫ぶ。
「……この子、リカルド人なんだ!名前は――『ルーク・バーンズ』……!」
男が息を呑むのが分かった。重苦しい音を立てて鉄門が開かれる。しばらくの後姿を現した職員らしき男は、ルークの手首にある腕輪を確認すると、肯いてルークの身体を抱き上げた。
「酷い怪我だ……。確認した、この子は責任もってリカルド大使館が保護しよう」
「君は、近所の子か?」
首を縦に振ると、男は少し声を和らげた。
「連れてきてくれてありがとう。……我々は今日、ここを動けなかったんだ」
大使館の入口の扉が閉まる。鉄門が閉じられる。
「ヒーロー……」
「早く、元気になってね……」
ぼたりと落ちた水滴が地面に吸い込まれていく。
ひとりにしないでという言葉は、誰に聞かれることなく薄暗闇に溶けていった。
祈るような気持ちで、閉まった鉄門をいつまでも見つめ続けた。けれど結局――ヒーローが、少女が再びその門から姿を現すことはないままだった。
◇◇◇◇◇◇
ふっと意識が浮上する。
柱に後ろ手に縛られた手。体中に走る鈍い痛みに息が詰まる。
段ボールが無造作にが積まれた棚。エリントン港の倉庫に拘束されて、どのくらいたった?
昼夜問わず続けられる尋問と暴力。身に覚えのない問いに答えは返せず。人質に取られた姉――アラナの現状を聞かされるたびに苛立ちと焦りが脳内を埋め尽くした。画面越しに見せられるたびに憔悴していく姉をどうすることもできず、執拗に繰り返される意味の無い問答に耐え続けた。
今、この部屋には自分以外誰もいないようだった。ここで拘束を破ってアラナを探すか?いや、逃亡がバレたらアラナがどうなるのかは火を見るより明らかだ。この手の連中の考える事なんてロクでもないに決まっている。殺されるなんてまだマシだ。健康な女はそれだけで価値がある。商品として売られるか、仲間内で遊びに使われるか――。死よりも酷い結末を、自分は腐るほど見て来た。ぎり、と歯を食いしばる。どうする、考えろ――。
――コツリ、と靴音が響く。
近づいてくる足音は軽い。さっきまでここにいた奴らとは違う足音。目を閉じたまま気配を探る。こちらの姿が目に入ったのだろう、足音が止まった。
「……っ!大丈夫!?」
声と共に足音が早まり、こちらに近づいてくる気配。
自分のリーチに入った瞬間、目を開いた。足の拘束を千切り、左足の仕込み刃を相手の眼前に突き付ける。
ガタンと椅子が倒れる音倉庫の壁に反響する。息を飲む声。同時に相手も身を引き、銃をこちらに向けていた。
女だ。
歳は――自分と同年代くらいだろう。見開かれた翡翠の瞳が、真っすぐにこちらを射抜いている。黒いスーツに身を包んだ細身の肩が呼吸のたびに揺れる。初めて見る顔だ。だがこの倉庫にいる以上は、奴らの仲間なのだろう。
「撃てや…できるもんならな…。トリガーを引く前に手首ごとぶった切ってやる!」
暗闇の中に見える瞳には、驚きと戸惑いが滲む。その間も、構えられた銃身はブレることはない。一般人でないことは明らかだった。
「君……ひどいケガだ」
こちらを気遣うような声に苛立ちが募る。女を使えば絆されるとでも思ったのか?甘く見られたもんだ。
「……白々しい。皮肉のつもりか?それともそういう作戦か」
「何度聞かれたって持ってねえモンは持ってねえんだよ!汚い手口で脅しやがって……」
「言え、アラナはどこだ!今すぐあいつを開放しろ!」
女は、アラナ、と繰り返す様に小さく呟くとしばし沈黙し、口を開いた。
「君も、動画の女性と同じ……被害者なの?」
……あくまでシラを切る気らしい。
「「ヒガイシャ」か。その呼び名、テメエのほうが似合うと思うぜ……!」
「……落ち着いて、私は君の敵じゃない!」
「ああ?くだらねえ芝居は――」
「…っ待って!」
こちらの言葉を遮るように叫んだ女は、構えた銃をそのままに左手を懐に手を入れる。アーロンはトリガーにかかった指に視線を集中させた。この距離なら――避けられる。
目の前の獣を落ち着かせるかのように、女は取り出したものを目の前に、ゆっくりと掲げた。
二つ折りの警察手帳。手帳の下部分に張り付いたバッジの輝きは、本物の様に見えた。視線が滑り、それを持った左手を見て思考が止まる。
「――……っ『ルーク』……!?」
黒手袋とスーツの間の肌に巻き付いた、細身の時計と――見覚えのある腕輪。
そんなはずない。オレの『ヒーロー』はもうどこにもいない。
諦めきれずうろうろと大使館の前を彷徨っていたのは最初の内だけで、後は生き延びるために必死になって。『ヒーロー』なんて忘れてただ目的を果たそうと、自分に言い聞かせて来た。
ヒーローは帰ってこなかった。当然だ。ハスマリーは幼い少女が生き抜くには過酷すぎる場所。好き好んでそんな所に帰ってくるはずがない。怪我が治ったとしても、きっとリカルドに残る方を選ぶだろう。
……どんな形であれ生きていてくれたら、いつか。いつか会える日が来るかもしれない。
あれから20年近く経つ。本当は自分でも分かっていたのかもしれない。調べればすぐわかるような性別の違い。間違いが明らかになれば、ヒーローはきっとハスマリーに――自分の元に帰ってくるだろうと、そう思っていた。
でも、そうはならなかった。なぜ?溢れ出た血、冷たくなっていく身体。あの日大使館にヒーローを渡したとき、既に――――。
……じゃあ目の前にある腕輪は、腕輪を付けたコイツは誰だ?
理解を拒むように頭が真っ白になる。手から零れた金色、握ったガラスの痛み、大使館までの長い道のり――あの日離した手の温もりが、一瞬のうちに脳裏を駆ける。
反応が鈍い相手を不審に思ったのか、手に持った手帳をよく見せようと、女は一歩踏み出す。
黒いスーツ、青いストライプのシャツに身を包んだ女。強ばった表情ながらも真っすぐにこちらを見つめている。遠い記憶と同じ色の瞳が光る。
胸元まで伸びた髪が肩口でたわむ。
写真の下に走った、流れるような筆跡の署名。ルーク・ウィリアムズ。――ルーク。
まだオレの名を、持っている。
天井から吹きさらしの冷たい風が吹き込む。
月光に照らされ、淡く光る金色の髪が揺らいでいた。