薄暮の海その海ならば、溺れて、沈んでも構わない。その海ならば―
あの日から、間も無く十二年が経とうとしている。
八月二十八日。一緒に花火を見たあの公園で。
そう約束したあの時、十二年という月日は途方も無いように思えたが、過ぎてしまえばあっという間だった。
十二年。約束を忘れることは無かった。一日千秋の思いで待ち続けて、その日を目前に控えてふと気付いた。
日付と場所は確かだが、何時にとは約束しなかった。と。だから何時に行けばいいのか見当もつかなくて、それなら朝からずっと待っていればいいじゃないと開き直ったのは約束の十日前だった。
待合せには絶対に遅れなく無い。もしも擦れ違いになったりしたら。そう考えただけでゾッとして、遅れずに済むようにと、待合せ場所の近くに前日から泊ることにした。けれども宿は直ぐには見つからなかった。夏休みでホテルが満室、なのではなく、ホテルそのものがその一帯には殆どなかったのだ。どうにか見付けたのは、十二年前には花火が上がっていた、その港近くにある小さなビジネスホテルだった。
十二年前に見た花火は、記憶の中でも一際鮮やかだ。夜の藍色の浮かぶ花火も、買って貰ったばかりだった浴衣も、一緒に食べたかき氷のシロップの赤さえも。全て鮮やかに思い出せる。けれども、思い出の花火大会は、数年前に流行病の影響で中止になって以来、再開の目途が立っていないという。ホテルを探している時に、ネットで知ったその事実を少しばかり寂しく思った。
自宅からは距離のあるその街には列車で向かった。郊外線に揺られて暫く。漸くその街に降り立つと、微かに潮の香りがした。改札を潜り、海沿いまで続く道をゆっくりと歩く。街は随分と静かだった。
所々シャッターの降りた商店街には歩く人の姿も疎らで、降りたままのシャッターは海風の所為か、所々錆びている。十二年前には、こんなことは無かったと思う。
今と同じように、街を歩いたことは無いが、あの頃、車の窓から覗いた街は、もっと賑わっていた。
『港の辺りは混むらしいから、公園で見よう』
そう言って、あの人は…月島は、街中を走っていた車のハンドルを切って山手の公園に向かった。私はその時、月島に買って貰ったばかりの浴衣に浮かれていて、適当な返事をして車の外を眺めてばかりいたように思う。
あの夏を振り返ると、記憶の大半は車の助手席にある。ワンボックスカーの助手席に座って、いつも窓の外を見ていた。いいや、外の景色を見ていたのではない。
私は窓の外を見ているふりをして、窓に映る月島の横顔をずっと見ていた。月島が、何を考えていて、何を思って、私を攫ってくれたのか。それが知りたくて。月島のことが知りたくて、ずっと月島ばかりを見ていた。
そうだ。私は『攫ってくれた』と、思っていたのだ。
今思えば、何をそんなに拗ねていたのだろうと自身を不思議に思うくらいだが、あの頃の私は、随分と拗ねて、ひねくれていた。
優秀で聡明な兄があまりに立派で。『敵わない』と、子供心にも思ったのだろう。
兄のことは尊敬もしていたし、大好きだった筈なのに、兄に比べて、自分があまりにちっぽけで、惨めな風に思えていたのかもしれない。そんなつまらない自分など要らない。誰からも必要とされていない。そうに違いない。そう、思い込んでいた。
そんな心配など、微塵も必要無かったのに。
どうしてそんな妄想に囚われていたのかと不思議でならないが、その頃の私は、確かにそんな風に考えていた。
きっと、兄にはそんな私がよく見えていたのだろう。だから、兄は、私と月島を引き合わせることを思いついたのかも知れない。
誰も私の事を見てはくれない。と拗ねていた私は、月島と一緒に居る間、月島が私のことばかり気に掛けてくれるのが嬉しかった。攫って逃げているのだから、当然と言えば当然なのだが。それでも、子供だった私には、自分だけを見て、大事にしてくれる月島は『特別』だった。誘拐だろうと、なんだろうと、自分を、自分だけを見てくれる存在が、ただ、嬉しかったのだ。
満たされていた。と、思う。幸せだったのだ。
あの夏、私はそれまでの人生で、最もと言って良いほど、幸せだった。幸せだと思って過ごしていた。
誘拐されている。という意識はあったけれども。それでも。月島と過ごす夏が、永遠に続けばいいとさえ思っていた。
それが、兄の仕掛けだったときちんと説明を受けたのは、随分と後になってからだった。
厳密に言えば、私が『記憶』を取り戻してから、だ。
明治の、軍人であった自分の記憶を。月島と共に在った記憶を。私は、取り戻した。
取り戻して初めて、兄にも記憶がある事を知らされた。
あの夏、月島に記憶はあったろうか。明治の頃を、思い出していたろうか。兄にそれを訪ねても答えははぐらかされるばかりで、今日まで答えてくれることは無かった。
何度思い返しても、よく解らない。
思い出していたようにも、何も覚えていないようにも思えるけれども、私が二十歳になってからと約束をしたのは、記憶があったからだろうか。
月島と会えなくなってから、月島を想わないことはなかった。
空港で兄に引き渡されてから、私は何度も兄に月島の事を知っているのではないかと訊ねたが、兄は頑なに口を割らなかった。そんな男は知らない。お前が無事でよかった。と。あくまで月島が本物の誘拐犯であったかのような口ぶりだったものだから、私は子供心に月島が警察に捕まってしまうのではないかと、其れを恐れた。
月島が私に悪いことをしたとされれば、月島は誘拐犯として警察に捕まってしまう。約束の日にあの公園に来られなくなってしまう。月島に会えなくなってしまう。それが嫌で、嫌でたまらなくて、私は何度となく兄に月島は悪い大人では無かったと必死で訴えもした。
兄は黙ってそれを聞いていた。私を咎めるようなことは無く、繰返し『そうか』と頷いていた。
両親は、兄から何を何処まで聞いていたのか定かではない。ひと夏家を空けて、少しだけ、素直さを取り戻して帰ってきた私に、両親は以前にも増して愛情を注いでくれた。それは、兄にしても同じことだった。
当時、鹿児島に住んでいた私は東京の大学に通う兄とは別々に暮らしていたのだが、秋以降、兄が実家に連絡を寄越す回数は格段に増えた。少しでも休みがあれば帰省してきたし、何かと本を送ってくるようになった。
兄が寄越すのは、月島と過ごしていた山小屋でよく見たような明治から昭和にかけての書物ばかりだった。
当然、小学生の私には難し過ぎる内容ばかりだ。最初の内は兄に読めないと文句も言ったが、其れでも兄は本を送って来ることをやめなかった。読めていない本が積まれているのを眺めていると、月島と過ごした山小屋の書庫が思い出されて、次第に本を手に取るようになった。けれども、読んだところで理解が追いつかない。
最初の内は、本を開くのも億劫に感じたくらいだが、月島との夏の想い出を探るように、ゆっくりと、根気強く、丁寧に。縋るような思いで頁を捲り続けた。
捲る度、眠気に襲われて中々読み進めることは出来なかったが、少しずつ、少しずつ読める量は増えていった。
やがて、難なく読めるようになると、今度は兄から送られてくる本だけでは物足りず、図書館に行って本を読むようになった。知らぬ間に、もっと知りたいと明治から昭和にかけての記録を調べるようになっていた。
記憶を取り戻したのは両親の転勤で北海道に移ってからだった。
私は、函館の新居に移って三日目の晩に熱を出して倒れた。原因不明の熱に浮かされる私を、付きっきりで看病してくれたのは兄だった。その頃、兄はとっくに大学を卒業して既に仕事を始めていたが、有休を使って引っ越しを手伝いに来ていた。今になってみれば、それは、私が北海道という地で、記憶を取り戻すかも知れないと考えたからではなかったかと思う。
両親は、私が熱を出して倒れたことを新しい土地に慣れ無い所為ではないかと気を揉んでいたが、その熱は土地の所為などでは無かった筈だ。私が熱を出したのは、記憶を取り戻したからに違いなかった。或は、その熱の所為で記憶を取り戻したとも考えられなくはないが。
目覚めた其の時に、生きている兄が直ぐ傍に居てくれたものだから、そうだと気付くとそれこそ小さな子供のように声を上げて泣いてしまった。
『思い出したんじゃな』と、縋りつく私を宥めながら、静かに零れた兄の声はとても優しかった。
兄に、明治の記憶があると聞かされたのはその時だ。
兄の記憶は、明治期に兄が命を落とした二十一歳の歳を境に徐々に薄れているという。
今では三十もとうに過ぎた兄は、前世で生きられなかった分だと言って自由に生きている。近頃では、あまり明治の話はしなくなってきた。いよいよ、記憶は薄れているのだろう。その内、忘れてしまうのかも知れない。
記憶を取り戻して暫くしてから、あの夏、どうして私を月島に引き合わせたのかと、一度聞いたことがある。
けれども兄は笑うばかりで、はっきりとは答えなった。ただ『必要だと思ったからだ』と、其れだけを口にした。その『必要』というのが、拗ねた子供を見てくれる相手として、なのか、私に明治の記憶を取り戻させるため、なのかは定かでは無い。けれども、いずれにせよ、兄には感謝している。兄があの夏、月島に出逢わせてくれたから、私は記憶を取り戻すことが出来たのだ。
そうに違いないと、信じている。兄にその意図があったかは、定かではないけれど。
私の寝室には、あの夏、月島に買って貰ったぬいぐるみが今も大切に保管されている。揃いで買ったキーホルダーには部屋の鍵をつけていつも持ち歩いている。どちらも年月が経って、すっかりボロボロになってはいるけれど、捨てようと思ったことは一度も無い。
私が月島に渡したキーホルダーを、月島は大事に持ってくれているだろうか。明日にはそれが解るだろうか。
ホテルに着いても、よく眠れないまま、気付けば時刻は深夜を過ぎて明け方近くになっていた。
日付はとうに約束のその日になっている。
数時間後には…少なくとも、今日の内には、十二年ぶりに月島に会える。
其れを思うと、眠ろうと目を閉じても少しも眠気は訪れない。きっとこのまま、朝を向かるのだろうと眠ることを諦めてしまえば少し気が楽になった。
ベッドを降りて、海に面した窓際のカーテンを開けると、未だ夜の明けきらぬ外は水平線の彼方から、徐々に藍色が薄くなりかけていた。
窓から覗く海辺には、港へ向かうのだろうか。パラパラと人影が見えた。海辺の町は静かに朝を迎えようとしていた。
その日、ホテルを出たのはチェックアウトには随分余裕のある時間だった。
出る前に、公園までの道を尋ねると、歩いていくには大変な距離だとバスかタクシーを勧められた。バスは日に3本しか出ていないと聞いて、迷わずタクシーの手配を頼んだ。
タクシーを待つ間、ふと思いついて今夜の空室があるかと訊ねると、フロントマンは手元の端末を覗き込んで、ダブルなら空きがございますと微笑んだ。お戻りになられますか?と、訊ねられて、少し躊躇ってから結局その部屋を予約した。持っていた荷物をフロントに預けながら、ひとりで戻ることになっても、それならそれでいいような気がしていた。そう、思おうとしていただけかもしれないのだけれど。
程なくしてタクシーがホテルの前に横付けにされ、乗り込んだタクシーに目的地を告げると運転手に意外そうな顔をされた。昔は賑わっていたが、今では地元の人間も滅多に行かない。眺めはいいが何もないところだと言われて、途中でコンビニに寄って貰った。
バスは昼の便に乗り過ごすと夕方までないから、必要なら呼んでくれ。と、丁寧に名刺を寄越した運転手を見送った。そうして一人取り残された公園を見渡せば、運転手の言う通り、其処には本当に何もなかった。
自動販売機がひとつと、今時珍しい電話ボックスがひとつ。使えるのだろうかとボックスの中を覗いてみると、災害用なのか、使えるようにはしてあるらしかった。
記憶を辿りながら公園の中をぐるりと歩いてみる。
子供の頃とは視線の高さが違う所為か、訪ねた時間が違う所為か、その両方か。記憶の中の公園と、今居る場所は本当に同じ場所かと少しばかり不安になった。
それでも、この場所には違いない筈だ。所々、記憶と重なる景色もある。日が暮れれば、もっとはっきりするだろう。其れまでに、月島が来てくれたら、その景色を一緒に見ればいい。月島と一緒なら、きっと、直ぐにここがあの場所だと確信が持てるはずだ。月島と、一緒なら。
そう思いながら、待ち続けた公園で本当に夜まで待つことになるとは思わなかった。
昼を過ぎ、日が傾きかけても月島は現れなかった。
月島どころか、公園を訊ねる人もなく、私は何もない公園で延々と月島を待ち続けた。途方に暮れる、とは、このことだろうか。いつ訪れるとも知れない人を待ち続ける虚しさと焦燥といったらなかった。
十二年だ。
月島が、私や兄と同じように、明治の記憶を取り戻しているとは限らない。思い出しても、兄のように記憶が薄れて行くこともある。ならばこの十二年という月日が、月島にどう作用したかはわからないのだ。
今を生きる月島は、何も思い出さず、ひと夏を過ごしただけの子供のことなど忘れてしまったのかも知れない。
その可能性だって充分過ぎる程にある。寧ろ、そう考える方が自然なのだ。
水平線に燈色が沈んで行くのをぼんやりと見詰めながら、ふと、諦めよう。と、思った。
丸一日待ったのだ。潮時だろう。
そう思えば、不思議と涙は出なかった。寂しく思わないでは無い。どうして、と、虚しく思わなくも無い。けれども、今は明治では無いのだ。例え思い出したとて、月島が、違う路を選ぶならそれも仕方のない事だ。
仕方のない事なのだ。そう、自分に言い聞かせて、最後にもう一度だけ、と、ゆっくり公園の中を歩いた。
あの日、たくさんの屋台が並び、人が溢れかえっていた公園に、今は何もない。広々とした、何もない公園を吹く風は、海から夜気を運んで来て、ひやりと頬を撫でた。
泣くものか。
遠く、暗く広がる海を見ながら思う。
気持ちの整理をつけなければ。そう思う内、ふと、ひとの気配に振り返ってみると、道の先に、小さな男の影が見えた。誰だか、直ぐに解った。
沈んだ夕陽に照らされて、ぽつねんと佇むその姿に、涙が込み上げて来る。ぐっと堪えて眼を凝らすと、道の先に居るのは、確かにその男だと確信が持てた。其処に居るのは、待って、待って、待ち続けた、その男だ。
私の唯一の男。
「月島ぁ!」
月島基に違いない。
「待ち兼ねたぞ!」
路の先に向かって叫ぶと、呆然としていた月島が、ぐしゃりと顔を崩した。
「っそれは、俺の台詞です」
聞えたのは、そんな一言だった。
「…覚えていて…いいや、思い出して下さったんですね」
そう零しながら、ゆっくりと近付いて来る。
「…忘れるものか。」
漸く、目の前に現れた月島は、私の愛した、月島基は、泣き出しそうな顔をしていた。
「…待たせたな…つきしま…」
泣きたいのを耐えて、どうにかそう声にした私は、上手く笑えていただろうか。
告げたら、月島の腕が伸びてきて、柔らかく私を抱き締めた。
微かに、海の匂いがした。
月島の匂いだ、と、思った。
***
ひとりでタクシーに乗ってきた道を、月島の助手席に乗ってふたりで戻る。
月島が空港で慌てて借りたというレンタカーは小型のモノで、助手席に乗り込むと直ぐ近くに月島を感じられた。子供の頃もそうだったろうかと考えてみるが、自分の身体の小ささと、車種の違いもあるのだろう。あの頃は、こんなに近くに感じることは無かったように思う。
公園からホテルまでの道には外灯も乏しく、街へ降りても人通りは殆ど見られない。
話したいことは幾らもある筈だのに、どうしてだか、上手く言葉にならず、奇妙な沈黙が車中に沈む内、あっさりと今朝部屋を取り直したそのホテルに帰り付いた。
月島を車で待たせたまま、フロントに事情を話すと、フロントマンは狭い部屋で良ければ、別にもう一部屋用意出来なくも無いと提案してから、少し考える仕草をして、今朝予約した部屋は元々ダブルだからお二人で使って頂いても結構ですよ。と告げてにこりと笑ってみせた。「如何なさいますか?」と問われた私は、少しばかり考えるふりをして、それから「同室でいい。」と答えた。「承知いたしました」と答えたフロントマンは、私にロビーで少し待つように言って、客室係へだろうか、忙しそうに何処かへ連絡を入れていた。その様子を傍目に見ながら、車で待っている月島の元へ戻る。
「ダブルの部屋がとれた」
そう告げると、月島は一瞬驚いた顔をして、それから「そうですか」と静かに漏らした。
「嫌だったか?」
少し棘のある言い方をしてしまって、ちらと月島を伺うと、月島は怒ったような顔をして「嫌なわけないでしょう」と低く呟いた。
***
キーを渡された部屋は五階の角部屋だった。海側に面した窓辺に立つと、夜の海がよく見える。
子供の頃、時折『怖い』と感じていた海は、今でも、そんなに得意ではない。兄も、父も健在だというのに、どうにも、沁みついたものは中々拭えないのだろう。
「今でも、怖いですか?」
聞こえた声に振り返ると直ぐ傍に月島が居た。
「…時々、怖い」と零してから「けど」と言葉を繋ぐ。
「月島が居てくれたら、怖くない」
告げると、月島はふと微笑んで私をそっと抱き締めてくれた。
「…お前が居れば、平気だ」
重ねて告げると、月島は抱き締めていた腕に力を増して、その武骨な手で私の背を撫でた。
震えていたのは、私の身体だろうか。それとも、月島の手だろうか。判然としないまま、私はゆっくりと目を閉じた。
***
柔らかに、ベッドに押し付けられながら、知っている筈だのに、知らないその感覚に惑わされる。
半世紀ぶりに…いいや、それ以上だろうか。肌を這い、髪を撫でる月島のその手の感触を、確かに覚えている筈だのに、知っている筈だのに、この身体に触れられるのは初めてだからだろうか。羞恥と、僅かな恐れに身体は勝手に震えていた。
「無理、してませんか?」
私の顔を覗き込む、月島の声は柔い。
「…してない」
「今さら、焦らなくても…」
「お前は、シたくないのか?」
尋ねたら「それは」と言ったきり黙ってしまった月島に、少し笑って緊張が解けた。
「いいから、続けろ」
「イイんですか?本当に?」
退く気も無いくせに、しつこく食い下がる月島にそろりと手を伸ばしてその頬に触れる。触れた頬は、思の他強張っていた。月島も、緊張しているのだ。そうだと知れれば、安堵が胸に拡がった。
「何度も聞くな」
「…しかし」
「どれだけ待ったと思ってる」
目を見てそう告げると、月島は虚を突かれたような顔をして、其れから少し笑って「だから、それは俺の台詞だと言ったでしょう」と漏らした。
「だったら、遠慮などするな」
告げた後に振ってきた口付けは酷く優しいモノだった。
「十二年前の事、覚えていますか?」
唇に、頬に、口付けて、ゆるく私の肌に触れながら、静かに問うてくる月島の声に「覚えている」と答えてから、シャツを脱がされる合間に問い掛ける。
「あの時、月島は昔のことを思い出していたのか?」と。
少し掠れた其の問いの答えはシャツを剥ぎ取られた首筋に「はい」と小さく聞こえた。
「途中で、思い出したんです」
ぽつりとそう告げて、間近に私を見上げてきた月島の眼はゆらゆらと欲に濡れていた。
「あなただって、思い出してしまったら、気が狂いそうだった」
告げる月島の吐く息が熱い。
「まだ子供のあなたに、悪さをしてしまいそうになる自分にゾッとしましたよ」
自嘲気味に零されたその言葉は、冗談というわけでもないのだろう。月島の眼の奥が暗く揺らめいている。
「…してもよかったのに」
「犯罪ですよ」
冗談めかして、本気でそう告げたのに、月島は強い口調ではっきりとそう切り捨てた。
「…それに、あなたのことは大事にしたいんです。」
続いた、その声は一転して甘い。
「…丁寧に、愛したいんです…」
真正面からそんなことを言って来るモノだから、思わず、耐え切れずに目を逸らした。
「っ…恥かしいことを言うな」
「恥かしくないですよ」
「私が恥ずかしいんだっ」
顔を逸らしたまま叫ぶようにそう言うと、耳元でくつくつと笑う月島の声が聞こえた。
「…かわいい」と、耳元でぼそりと零されたその声に、背筋が泡立つ。
「…名前、何て呼んだらいいですか?」
二の句が継げずにいると、そんな問いが聞こえてきた。
「なまえ?」
言われて、ふと思い出す。子供の頃は『音之進』と呼んでくれていた。明治のあの頃は、どうだったか。殆どが階級で呼ばれるばかりで、私の名前そのものを呼ばれることは稀では無かったか。
「…鯉登、さん?…音之進?」
黙ったままでいると、探るように月島が問い掛ける。
「…好きに、呼べばいい」
そう零すと、月島が微かに息を呑んだ。
「…もう軍人ではない。上官でも部下でもないのだ…」
言いながら、そろ、と、月島の顔を伺う。
「…お前の好きに、呼んでくれ…」
泣き出しそうな、笑い出しそうな。色んな感情の綯交ぜになった顔をして。月島は唇を戦慄かせると、すぅ、とひとつ息を吸って、それから漸く口を開いた。
「…音之進」
響いたその声に、泣きたくなるのは何故だろうか。
「月…」いつも通り呼ぼうとした名を呑みこみ、その代わりに、確かめるように、愛しい男の、その名を呼ぶ。
「…はじめ」
呼びつけないその響きに、月島は驚いたのだろう。薄く開きかけた口をそのままに、ぎくりと固まった。
「嫌か?」
問い掛けると、月島はハッとなって「いえ」と直ぐに否定の声を漏らした。
「いえ。決して、そんなことは…ただ…」
「ただ?」
「…ちょっと、刺激が強すぎて…」
「なんじゃ。それ」
苦く笑って、思春期の子供みたいなことを言い出すものだから思わず吹き出してしまったら、月島は苦く笑って、それからゆっくりと私を抱き寄せた。
重なって来る、月島の肌はサラリと乾いている。そっと触れたその肌には、明治の頃のような傷はない。
眼前に曝された首元には、嘗て、浮かんでは消えていた傷に似た痣があった。
それは唯一の明治の名残かしれなかったが、今はその痣も浮かんでくる気配すらない。
あの傷は、あの痣は、遥か昔に樺太の地で月島が私を庇った証に違いなかった。
それが其処に無い事に、少し落胆して、それ以上に安堵しながら傷の無い首元に額を預ける。
「…本当に、いいんですか?」
「…何度も聞くなと言った」
「もう、上官でも部下でもない。俺は十三も歳上の、ただのおっさんですよ?」
「三十半ばでおっさんなどと言うな」
兄さぁも同い年じゃ。と続けたら、月島は「そうですけど」と笑い交じりに零した。
「…前世がどうでも、他に幾らだって選択肢はあります。思い出したからといって前世をなぞる必要はない。」
それでも、淡々と言葉を重ねる月島に「そうだな」と返すと、月島はふわりと腕をといて私の顔を覗き込んだ。
月島の眼は、深い海の色をしている。深い、深い、碧の海が、ゆらゆらと揺れて私を見下ろしてくる。揺らぎながら、穏やかに見詰めてくるその眼に、いっそ沈んでしまえたら…。月島…お前に伝わるだろうか。この想いが。
「…それでも、いいんですか?」
静かなその問いに、瞬きをひとつして、すぅ、と息を吸い込む。
「いい。」
答えは、決まっている。
「月島がいい」
他の答えなど、或る筈が無い。
「私の男は、月島基だけでいい」
痣の浮かんでいた、その首を撫で、海を思わせる月島の瞳を覗き込む。
「お前はどうだ?」
深い、深い、碧の海を覗き込むと、奥底が何かに反射して、きらりと光ったように見えた。
「貴方がいいです。」
月島の声は、静かに降ってきた。
「貴方がいい。」
繰返す、その唇は笑んでいる。
「貴方だけでいい」
三度繰り返された答えに「うん。」と笑みをして答えると、月島の唇が重なった。
触れたその唇は少し乾いて、震えているようだった。
触れるだけの口付けを、二度、三度と繰返す。啄ばむような口付けを繰返しながら、どちらとなく舌を差出し、絡めあう。夜の藍色の沈んだ室内に、濡れた舌と唾液の混ざり合う水音が響いて、甘やかに思考を溶かしていく。
「っ…はじ、め…っ」
唇の離れた僅かの間に、切なく名を呼べば、月島はその大きく武骨な手で、私の髪を弄り、耳をなぞり、胸を、脇腹を、下肢を撫ぜた。
まるでガラス細工でも触るように、丁寧に、慎重に、もどかしいくらいの繊細さで、月島の指が、舌が、私の身体を暴いていく。
あの頃も、こんな風に抱かれていたろうか。思い出そうとする度、触れられた肌の至る所に火が点いて、正常な思考が燃え落ちていく。何も考えられなくなっていく。
月島のこと以外、何も。
愛しい、かわいい、私の男のこと以外、何も。
考えられなくなって、考えたくなくて。
目を閉じて、縋りついてしまえば、後は堕ちていくだけだった。深い、深い、碧の海に堕ちていく、だけだった。
***
明け方、目を覚ますと、月島は身を起こしていた。
「っすいません、起こしましたか?」
言いながら、何かを手に隠した月島は、薄らと髭を濃くしたその顔に気遣わし気な表情を浮かべ、此方を覗き込んできた。「いや」と答え「何を見ていたんだ」と訊ねたその声は掠れていた。
「っ…水、飲みますか?声が…」
聞こえた声に驚いたのだろう。慌ててそう問うてくる月島にゆるく首を横に振ると、月島はそっと息を吐いて「これ、覚えていますか?」と手に隠した何かを掲げてみせた。それは、揃いで買ったキーホルダーだった。月島も持っていてくれたのか。と、嬉しくなって微笑むと、月島はそれを肯定と取ったのだろう。嬉し気に笑って「ずっと大事にしてたんですよ」と言いながら、労わるように私の髪を撫でた。二度、三度、髪を撫でたその手は、そのままするりと頬を撫ぜてシーツに落ちた。
月島が撫でた頬に傷はない。痣が浮かんで来ることも、恐らくは、もうないのだろう。
ベッドの上に身体を起こすと、支えるように月島の手が腰に回った。
「身体、平気ですか?」
「…怠い」
正直に答えると「すいません」と聞こえたものだから「謝ったりするな」と告げたら、月島は「はい」と答えて私を抱き寄せた。
裸のまま、触れあう肌には昨夜の熱の名残がある。
その名残に微睡みながら、ぼんやりと窓の方を見ていると、カーテンの向う側が、じんわりと明るさを増していく様が見えた。
「もう直ぐ、夜が明けます…」
呟いた月島の視線の先には、カーテンの向うの海が見えているようだった。
カーテンの隙間から微かに漏れる陽に、室内がゆっくりと染められていく。
朝の穏やかな燈色に染まる月島の頬を、その瞳の凪いだ緑の海を、私はただ眺めていた。
もう、海が怖いと思うことはないのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
月島が居れば。月島さえ、居てくれれば。
なにも、怖くはない。
なにも。