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    fujimura_k

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    23年8月発行『未明の森/薄暮の海』現パロ月鯉
    月島がとある理由から未だ幼い音之進を誘拐してひと夏を一緒に過ごす話し。
    後日談の本編である「未明の森」部分です。別記載の「薄暮の海」は本編の後にご覧ください。

    #やぶこい3
    #月鯉
    Tsukishima/Koito
    #月鯉Webオンリー

    未明の森覚えていて。 想い出して。

    どうか、わたしをー

    あの日々をー




    空港の到着ロビーに大きく掲げられた時計の針は、間も無く午前十時を示そうとしていた。
    事前に聞かされていた到着予定時刻は九時四五分。電光掲示板に遅延の案内は出ていない。定刻どおりに到着したのであれば、飛行機を降りた客たちが、手荷物を受取り、到着ロビーに出て来るのはもうそろそろだろうか。
    学校という学校が夏休みに入ったこの時期、いつも混雑している空港はひと際賑やかだ。
    家族か、恋人か、友人か。到着ロビーには、何処かから来る誰かを待っている人々がひしめきあっている。皆一様に落ち着かない様子で到着口を見守るその姿は、何処か滑稽だ。
    尤も、傍から見れば、俺もそうした一人のように見えているのだろうが。それも、見ている人が居れば、の話だ。恐らくは、この場に居る誰しも、待ち構えている誰かのこと以外は何も気にしては居ないだろう。
    その場に一人、目的の違う男が混じっていたとて気付きはしない。いいや、広義の意味では目的は同じと言えるか。
    自動ドアの開く音が聞こえると、俄かにざわめきが起こった。皆が待ち構えていたその人たちが、荷物を手に一斉にロビーに現れたのだ。駆け寄る者、手をあげる者、何処かの誰かの名を高らかに呼ぶ者。反応は様々だ。
    迎えられた人たちは皆笑顔で、或は、少し草臥れた顔をして、出迎えの面々と合流しては、ひとり、またひとりとロビーを去っていく。徐々に集まっていた人の姿が減っていく中で、俺は人混みの中に漸くその人を見付けた。
    その人。いいや『その子』と呼ぶのが適当だろう。
    周囲の大人に混じって、たった一人。小さな子供の姿が其処に在った。白いシャツに、黒のズボン。リュックを背負い、麦藁帽を被った褐色肌の男の子。
    聞いていたその通りの姿で到着ロビーに現れたその子は、小ぶりなカートを引き摺りながら自動ドアを出ると、ロビーをほんの数歩進んだ所でピタリと足を止めてしまった。
    目深に被られた帽子の所為で、その表情はよく見えない。けれども、帽子の下に見える少し尖ったその唇からは、明らかな不機嫌がうかがえた。
    誰かを探す素振りも見せず、小さなその子は独りきり、ただロビーに突っ立ったままだ。子供らしくはしゃいだ様子も無ければ、迎えの姿が見えなくて、狼狽えるでもなく、心細くて落ち着かないということも無い。当然に在る筈の迎えの姿が見えない事に少し怒っているだろうか。
    その迎えが来ないと知ったら、一体、どんな反応をするだろう。
    疎らになってきた人の合間を縫うようにして、ゆっくりとその子に近付いていく。
    間近で脚を止めると、近付いてきた俺に気付いたのだろう。その子は、ゆっくりと此方へ向き直り、帽子の下に隠れていたその顔をようやく見せてくれた。
    大きな丸い瞳が真直ぐに俺を捉える。
    子供らしからぬ、凛とした強さを持ったその瞳に捉えられた刹那、心臓が跳ねた。
    会ったばかりのその子に、その眼に、何もかも見透かされているような、全てを知られているような、そんな錯覚を覚えたのだ。そんな事など、或る筈も無いのに。
    「鯉登、音之進くんだね?」
    「おはんは?」
     動揺を抑えて、ゆっくり、確かめるように名を呼ぶと、その子…音之進は慌てることも無く、至って落ち着いた様子でそう問い返して来た。
     俺とは十三も歳が離れている筈だが、この落ち着きは何だろう。本当に、何もかも解っていて、騙されているのは俺の方なんじゃないだろうか。そんなことさえ考えてしまう。考えたところで何が解決するわけでもなく、今更後に退けるような話でもないのだけれど。
    気付かれないようそっと息を吐き、ゆっくりとその場にしゃがみ込んで、音之進と視線の高さを揃える。
    挑むように見据えて来る大きなその目を覗き込めば、紫がかる黒目の底には、負けん気の強さがうかがえた。
    けれども、この先の言葉を告げたら、どうだろうか。
    「誘拐犯」
     しっかりと目を合わせ、正面から。端的にそう告げると、音之進の大きな目を見開き、呆然と口を開いた。
    「…ゆう、かい?」
     小さく呟かれたその声に、こくりと頷いてみせる。
    「そう。俺は、君を、攫いに来た、誘拐犯」
     重ねて告げると、音之進の強い瞳がぐらりと揺れて、やっと、歳相応の、子供らしい顔が見えた。


    ***


    「本当に人騒がせな奴だな、お前は」
    呆れ交じりにそう零すと、真白な病室のベッドに横たわる友人…平之丞は、血色の良い健康そのものの顔をして笑ってみせた。
    つい先刻貰った『助けてくれ』というショートメールの悲壮感など欠片も無い。足に巻かれている包帯を見なければ、何処が悪くて入院しているのか解らないくらいだ。其れを見たところで、本当に入院が必要なのかと疑いたくなる程に。これ程元気なら、わざわざバイトを放り出してまで駆けつける必要などなかったのではないか。
    「悪いな。他に頼れる宛が無いんだ。許してくれ。」
     人の良さそうな顔をして、にこりと笑ってみせる平之丞のその言葉には溜息しか出ない。
    「俺なんかより、実家に連絡すればいいだろう」
    「そうなんだろうけどな」
    「そうなんだろう…って、なんだ?」
     聞こえた言葉に違和感を覚えて問い掛けると、平之丞は悪びれた様子も無く「連絡してないんだ」と言葉を続けた。
    「は!?」
    「する気はない。」
    「する気はないって…入院してるんだぞ!?」
    「だからお前を呼んだんだ」
     ニコニコと笑うその顔に絶句するしかない。
    「だから…って、お前なぁ」
    「ただの捻挫だ。入院といっても大した話じゃない。態々実家に連絡する程のことでもないだろう?」
    「だったら俺には尚更連絡する必要ないだろ」
     吐き捨てるようにそう言うと、平之丞は苦く笑って「そうつれない事を言うなよ」と零した。
    「俺には、お前しか頼れる友人は居ないんだ」
     淡い笑みをして続けられたそんな言葉に、どんな顔をしていいのか解らなくなる。
    其れを言うなら、頼れる友人が独りきりなのは俺の方ではないか。現状、俺が『友人』と呼べるのは、平之丞唯一人なのだから。

     平之丞…鯉登平之丞。俺と同い年で、鹿児島出身。名家の長男にして将来を期待される見目麗しい秀才。
    同い年という以外、俺とは全く共通点などない平之丞と知り合ったのは、大学へ入ってからのことだ。いいや、正確には、入試の時だったらしい。
    『らしい』というのは、入試の時のことは、正直なところあまり覚えていないからだ。
    平之丞曰く、試験のその日、消しゴムをホテルに置いて来てしまったという平之丞に、俺が消しゴムを半分にして渡したらしい。言われてみれば、そんな事をしたような気もするが、俺は試験に必死で、他のことなんてろくに覚えていなかったのだ。受験生なんてみんなそんなものだろう。だが、平之丞はいつかきっと礼をしようと律儀に覚えていたというのだから驚かされる。
     その時の試験に無事合格して、俺が佐渡の田舎を出たのは三年前の春のことだ。上京して、独りきりで居た俺に声を掛けてきたのが平之丞だった。
    友人を作る気などなかった。やっと窮屈な田舎を出られたのだから、二度と帰らずに済むよう、ちゃんと卒業して、真っ当な職に就いて、誰に頼らずともひとりで食えるだけにならなければ。考えていたのはそれだけだった。真面目に授業を受けて、バイトをして、アパートと、大学と、バイト先だけを往復する。其れだけの日々を過ごしていた。そんな調子でいる俺に、声を掛けてくる人間などいる筈も無かった。
    平之丞以外には。
    平之丞だけが俺に声を掛けてきた。如何にも好青年風の平之丞が、如何して俺のような人間に声を掛けて来るのか、少しもわからなかった。試験の時の話を聞いても、礼を言われるほどのことかと思ったくらいだ。正直、少し気味が悪いくらいに思っていた。けれども、どんなに避けようとしても、顔を合わせるたび親しげに話し掛けて来るモノだから、逃げるのも、毛嫌いするのも馬鹿らしくなって、いつしか学内で一緒に居るのが当たり前のようになった。よくよく話しをしてみれば、生まれも育ちもまるで正反対で、どう考えても合いそうにないのに、俺と平之丞は不思議と馬が合ったのだ。
    真面目な話も、下らない話も、山ほどした。
     今では、平之丞が居なければ、俺は大学生活をまともに続けられていただろうかとさえ思う。
     頼りにしているのは、俺の方なのだ。だから、そんな男に頼られては、断る事など出来る筈も無い。

    「…金はないぞ」
     呻くようにそう漏らすと、平之丞は笑って「知ってるよ」などというモノだから思わず眉間に皺が寄った。
    「そう拗ねるなよ」
    「拗ねてないだろ」
    「それならいいけど」
     くつくつと愉快そうに笑う平之丞が憎らしい。
    「で?貧乏人の俺に、一体何を助けろっていうんだ?」
    「貧乏人なんていうな」
     咎めるようにそう言って顔をしかめる平之丞に「間違っちゃないだろ?」と返すと、更なる苦言が聞こえてきそうな気配がして、俺は慌てて「それより、頼みはなんだ?」と、わざと声のトーンを替えて本題を切り出した。
    俺への説教を諦めたのか、平之丞は平聞けていた口を一度閉じると、徐に、此方も声を抑えて問いかけてきた。
    「引受けてくれるか?」
     俺を見詰める平之丞は、笑ってはいたが、その眼の奥は、しんと冷えているように見えた。
    「まぁ、病人の世話くらいなら…」
     大方、そんな所だろうと目星をつけて、なにもそんな深刻な顔をしなくても…と零した言葉は「それは必要ない。」という短い一言で即座に否定された。
    「俺はこの通りだし、ここは完全看護だ。入院も、長くても二週間程度だし、俺の世話なんて必要ないさ」
    「だったら何を頼むつもりだ?」
     笑みを崩さない平之丞に問い掛けると、平之丞はひとつ息を吐いてからゆっくりと口を開いた。
    「明後日、弟がこっちに来るんだ。」
    「弟?」
     話しに聞いたことはある。平之丞には、歳の離れた弟がいるのだ。確か、十三歳下だと言っていたか。今は小学生の筈だ。名前は何と言ったろうか。写真を見せて貰ったことはないが、弟の話をするその口ぶりから、平之丞が弟を溺愛と言っていいほど可愛がっていることは知っている。
    「夏の間、こっちで俺と過ごす予定だったんだが、この様だろう?」
     そう言って、平之丞は包帯の巻かれた脚を掲げてみせた。確かにこれでは子供の相手は難しいだろう。
    「お前が入院している間、みてやればいいのか?」
     そのくらいなら、なんとかなる。そんな軽い気持ちで答えた俺に、平之丞が続けて寄越した言葉は全く予想外のものだった。
    「出来れば、ずっとみてもらえないか?」
     笑みをしたまま、平之丞は確かにそう言った。
    「ずっと?」
     繰り返したその言葉に、笑みは一際深くなる。
    「あぁ、そうだ。夏の間、ずっと。音之進を連れて、逃げてくれないか?」
    「逃げ…なんだって?」
     聞えたその単語の意味が解らず、思わずそう問い返した俺に、平之丞は笑みを貼りつかせた顔をそのままに、恐ろしいことを口にした。
    「音之進を、誘拐してほしい」
     絶句する俺に、平之丞は笑っているばかりだった。
     全く、意味が解らなかった。


    それが、つい三日前の話だ。
    あまりの話に、俺は当然断ろうとした。
    だが、仮に俺が断ったら、平之丞は弟をどうするつもりなのかと怖くなった。誰か人を雇うだろうか。金で雇われた誰かは、平之丞の大事な弟をどんな風に扱うだろう。
    誘拐犯らしく、子供を粗暴に扱うのではないか。ドラマや映画の三杉かも知れないが、手足の自由を奪って、何処か、薄暗い部屋に閉じ込めてしまうのではないか。見も知らぬ平之丞の幼い弟を思うとゾッとした。
    それならば、いっそのこと、俺が引き受けた方がマシではないのか。そう考えて、渋々ながら頼みを引受けてやると答えると、平之丞は頬を緩めてホッとしたような顔を見せた。
    正直、わけが分からない。可愛がっている実の弟を誘拐してくれだなんて、何を考えているのかと理解に苦しむ。けれども、何かしら考えがあってのことだろう。
     俺の知っている鯉登平之丞という男は、短絡でもなければ暴力的でも無い。弟を無闇に傷つけるような真似を好むような男ではない筈だ。…俺が、そう思いたいだけなのかも知れないが。頼みを引受ければ、或は、平之丞の意図が知れるかもしれない。そうとも思った。引き受けたところで、何も解らないかもしれないのだが。誰かにこの役目を任せるくらいなら、と結局、俺は平之丞の頼みを引受けた。
    断れなかった。と言う方が正しいかもしれない。
     平之丞の頼みの概要はこうだ。
    誘拐とは言ってもこれは狂言である。(当たり前だ。)目隠しをして攫って牢のような所に監禁するわけでは無い。
    鹿児島から来る弟を、平之丞の代理だということは当然告げずに空港で出迎え、そのまま連れ去る。その先は何処へ行って何をするだとか、先の予定は一切明かさず、家族とも連絡の取れないようにして、本当に攫って逃げているように思わせる。
    それだけのことだ。と、平之丞はそう言った。
    それだけ、と言うには随分荷が重いのだが。
     そんな事をして何の意味があるのかと問うと、平之丞は曖昧な笑みを浮かべて「意味はある。或る筈だ。」と零すだけで、何とは、はっきり言わなかった。
     唯一、平之丞が俺に告げたのは「弟は、この所少し拗ねているから」という理由だった。
    「家族と離れてみれば、お前と過ごせば、何かが変わるかもしれないし。」と、そんな風にも言っていたが、見ず知らずの俺と過ごした処で余計に拗ねるだけではないのか?
     計画の全てを聞いても、困惑しか浮かんで来なかった俺に平之丞は「もし音之進が警戒して騒いだら、ネタ晴らしをして全部無かったことにしてくれ。」と告げて笑っていた。
     笑い事じゃないだろ。と、喉元まで出掛かった言葉は、声になる前に呑みこんで、代りに溜息を吐いた。

     実際、誘拐と聞いて、騒がない子供など居るものかと思っていた。けれども、音之進は少しも騒ぐことは無かった。
     平之丞は、それが解っていたのかもしれない。
    解っていたから、笑っていたのかもしれない。


    ***

    「オイを誘拐しても金にはならんぞ」
     大きな目を丸く見開いた音之進は、直後にその眼を細めてそんな事を口にした。
     助けを呼ぶでも、喚くでもなく。子供らしさの欠片も無い素振りで此方を見遣る音之進は、けれども「誘拐」という話を信じていない訳では無いように見えた。
    「おやっども、親戚連中も、兄さぁがおりゃよかで。オイを攫うたところで何の足しにもならん。」
     まるで、自分は要らない人間だとでもいわんばかりのその口振りに面喰ってしまう。
     平之丞は随分この弟を可愛がっている筈で、平之丞の話では、両親も忘れた頃に出来た次男を大事にしているという。その筈なのだが…
    「…じゃぁ、君が居なくなってもいいわけだ?」
     わざとそんな風に問い掛けると、音之進は傷ついたような顔を見せた。微かに眉根を寄せたその顔は、尖った言葉は強がりで、本心では無いという証だろう。
     こんな小さな子が、如何してそんな事を思って口にするようになってしまったのか…
    「だったら、俺と一緒に逃げてみればいい」
    「逃げる?」
     訝しげな顔をする音之進の瞳を覗き込み、皮肉を込めた笑みを作る。
    「本当に居なくなったら、大人たちも騒ぐかもしれないだろう?」
     そんなことにはならないのだが。なってしまったら俺は本物の『誘拐犯』だ。洒落にならない。そうなったら平之丞を恨むしかない。「それを確かめてみたらどうだ」と言葉を続けると、音之進は呻くように低く答えた。
    「…騒ぎになどならん」と。
     今にも泣きそうな顔をして、如何してそんな風に言うのか、俺には想像もつかない。けれども―
    「本当にそんな家族なら、君にも要らないだろ」
     静かにそう告げると、音之進はぎゅっと強く唇を噛んで俺を一瞥すると、さっと視線を逸らして俯いた。
     唇を閉じて、黙ったまま。音之進が立ち尽くしていたのはどれくらいの時間だったろうか。有無を言わさず、手を引いて連れ去ってしまうことも出来た。けれども、其れをするのはどうにも気が乗らなくて。俺は待った。
    音之進が口を開くのを、ただ、ただ、待っていた。
    「…よかよ。」
     長い沈黙の後、漸く聞こえたのはその一言だった。
    「攫われてやる。」
     伏せていた顔を上げた音之進は、真直ぐに俺を見詰めてきた。それこそ、挑むようなその眼にぞくりとする。
    「捕まらんよう、上手く逃げやんせ」
     さっきまでの泣きそうな顔は何処へ行ったのか。
    うっそりと笑ってみせた音之進は、そう言い切ると自ら俺の手を取った。
     俺の手を掴んだ小さなその手は、子供らしい温みを持っていた。


    ***


    「どこへ行くんだ?」
     平之丞が用意してくれた車に乗り込むと、音之進は子供らしい素直さでそう問いかけてきた。
    少し考えて「どこに行きたい?」と問い返すと大きな目がさらに大きく見開かれた。
    「誘拐犯が攫った子供にそれを聞くのか?」
     返ってきた答えは当然のモノだろう。
    俺が本物の誘拐犯なら、行先を訊ねてきた相手に返すのは「黙っていろ」だとか「さぁな」だとか。そうしたけん制の言葉だろう。
     然し偽物の俺には、そんな言葉を口にする理由が無いのだ。少しくらい、其れらしく振る舞えばいいのかしれないが、そんな茶番に意味があるとは思えなかった。とは言え、あっさりネタ晴らしをするのは平之丞の…ひいては、音之進の為にもならないのだろう。とはいえ、正直なところ、この先どうするか迷っている。いや、困っている。という方が適切かもしれない。それが本音だ。
    平之丞からざっくりとした指示は貰っているが、余りにざっくりし過ぎていて、この『誘拐』は、ほぼ無計画と言ってもいいくらいのものなのだ。
    「だめか?」
    短く問うと、音之進は小首を傾げて「変なの」と小さく呟いた。尤もな言い分だ。

     小一時間車を走らせて、辿り着いたのはカフェだった。
    カフェ、というか、喫茶店。という方が合っている風情のちいさな店だ。
    音之進が『いってみたい!』と口にしたのは都内の有名店だったが、調べてみると行列が出来ることで有名なのだと知れて流石にその案は却下した。
    「人に見られると不味いからか?」などと。もっともらしい質問をされて苦笑いするしかなかったが、そういうことにしておいた。単に、車で其処に行くのも、並ぶのも面倒だからというだけなのだが。
    「なんでこの店なんだ?」
     何か理由があるかと訊ねたら、音之進は少しだけ返答に躊躇ってから「パフェが食べたいから」と拗ねた物言いからは想像もつかなかったような、じつに可愛らしく、子供らしい理由を呟いた。
     その結果、の、今だ。
     ロードサイドの古めかしい店は、店内には其れなりに客の姿があり、程々の雑音が聞こえている。その賑やかな店内で、音之進はさっきから大人しくパフェを食べている。
     何を調べた訳でもなく、勘だけを頼りに店を選んだが、当りだったと言っていいだろう。
    種類は多くないが、スタンダードな喫茶店メニューの中には、音之進が食べたがっていたパフェもちゃんとあった。
    チョコレートパフェかフルーツパフェか。延々迷い続けるものだから両方頼んでやると音之進は驚いていた。
    「いいのか!?ふたつだぞ!?」
     身を乗り出してそう言う音之進に「食べきれなかったら俺が食べてやる」と告げると、音之進は「あいがと」と笑ってみせた。空港で見せた笑みとはまるで違う、ちゃんと子供らしいその笑顔に何故だかホッとした。
    「美味いか?」
     口元をクリームやチョコで汚しながら夢中でパフェを食べている音之進にそう問いかけると、音之進はこくりと頷いて、フルーツとクリームの乗ったアイスを掬ったひと匙を俺の方に突き出して来た。
    そのまま食べろという意味だろう。
     差し出されたスプーンをそのまま口にすると、ひんやりとした甘味が口に拡がる。
    「美味いだろう?」
     肯定の答えを期待するその眼差しに「美味いな」と答えると、音之進は嬉しそうに笑って、もうひと匙差出して来た。今度はナッツとチョコレートソースのかかったアイスだ。
    「こっちも美味いな」
    「だろう?もっと食べるか?どっちがいい?」
    「いいから、好きなだけ食べろ。」
    「いいのか?全部食べてしまうぞ?」
     見れば、キレイに飾り付けられていたパフェのグラスはどちらも半分程になっていた。
    「食べたかったんだろ?食べられるなら食べろ。」
     告げると、音之進は「本当に食べるからな」と宣言して、その宣言通りにグラスをカラにした。
    イイ食べっぷりに、思わず笑ってしまった。

    平之丞は、音之進が『拗ねている』と言っていたが、本当にそうだろうか。確かに、空港でのやり取りを思い出せば、そうした面は見受けられる。けれども、単純に『拗ねている』だけなのだろうか。
    子供の気持ちなど少しも解らない。自分も確かに子供だった筈だのに。今でも、まだ子供のままかもしれないのに。解らないものだ。
    尤も、子供に限らず、他人の気持ちなんて、解るようなモノでは無いのだろうけれど。

    「少し走るぞ」
    「今度はどこへ行くんだ?」
     助手席で聞き覚えのある言葉を口にした音之進をチラと見遣ると、どう答えるかと興味津々で此方の返事を待っているのがよく解った。
    「…内緒」と、短く答えると、音之進は「誘拐犯らしいな」と満足そうに笑ってシートに背中を預けた。
     年相応に子供らしいかと思えば、急に大人のような顔をしてみせたりもする。なんともアンバランスだ。
    自分が子供の時もそうだったかと振返ってみるが、兄弟も居なければ、親も片親で、父親しか居らず、おまけに親と不仲だった俺では条件が違い過ぎる。
    それに、思い出そうとしても、思い出せるような事は殆ど無いのだ。音之進と同じくらいの歳の頃、俺はどんな風に夏を過ごしていたろうか。
    地元に友人らしい友人は居なかった。独りきりで、海ばかり見て過ごしていた。
    残っているのはそんな記憶だけだ。
    「なぁ」
     不意に聞こえた声にハッとして助手席を見ると、音之進がシートベルトを掴んでじっと此方を見ていた。
    「なんだ?トイレか?」
    「ちがう。トイレならさっきの店で行った」
    「だったらなんだ?」
    「何て呼んだらいいんだ?」
     目の前の信号が点滅するのに気付いてブレーキを踏みこむと、車はゆっくり減速して赤いランプの前で停車した。
    「『誘拐犯』と呼ぶのはまずいだろう?」
     言われて気が付いた。そう言えば『誘拐犯』としか名乗っていない。外でそう呼ばれては体裁が悪いどころではない。直ぐにも通報されるだろう。
     では、何と名乗るべきか。
    「…月島だ。」
     迷って、結局本名をそのまま名乗ると、音之進は確かめるように「つきしま」と小さく呟いた。
     名乗ってから、若しや平之丞が俺の話をしていたら勘付かれるかと焦ったが「どんな字を書くんだ?」と聞いてきたその様子から、その心配は無用なようだと知れてホッとした。
    「漢字、解るのか?」
    「馬鹿にすっな!」
     ムッとして怒った顔を見せた音之進に「悪かったよ」とことわってから空中に指で『月島』の文字を書いてやると、音之進は「ふぅん」と小さく漏らした。
     赤のランプが緑に代わって、アクセルを踏み込む。
    「月島は、どうして私を攫うんだ?」
     緩やかに加速していく車の助手席で、音之進の声は静かに響いた。
    「聞いてどうする」
    「どうもしない。興味があるだけだ。」
    「興味?」
     横目で助手席を伺うと、音之進はシートベルトを握りしめたまま、じっと前を向いていた。
    「おいを攫うても何の得にもならんのに。何が目的だ?」
     お前の兄貴に頼まれたのだ。
    そう告げたら、音之進はどんな顔をするだろうか。一瞬、そんな考えが頭を過ったが、言える筈も無く。「さぁな」と曖昧な返事をすると、音之進の視線が頬に刺さった。
    俺の顔は、その眼にどんな風に映っているだろうか。などと、考えている内に、、聞こえてきたのは思いもかけない言葉だった。
    「いたずらをするのが目的か?」
    「いた………は!?」
     思わず助手席を振返ったら、冷静に「前向いて運転しやんせ」と言われてしまった。それはその通りだ。
    「驚くということは、その気はないということか?」
    「その気って…お前なぁ…」
    「子供にいたずらをするのが好きな大人も居るのだろう?そう聞いたぞ?」
    「何処でそんな話を聞くんだよ…」
     呆れ交じりにそう零すと「フミさんに聞いた」という。
    「フミさんって?」
    「お手伝いさんじゃ。」
    『お手伝いさん』なんてものが当たり前に存在する家庭が本当にあるのかと驚く俺に気付く様子も無く、音之進は、そのフミさんという人が両親や兄に代わって自分の世話をしてくれることもあるという話まで聞かせてくれた。
    「そういう大人も居るから、気をつけなさいって。かかどんにも、この前同じことを言われたじゃ。」
     かかどん。というのは、母親のことだろうか。ちゃんと母親にも目を掛けられているということか。それにも拘らず、こうして俺に攫われているのは何故だろうか。
    「月島は、そういう大人なのか?」
     疑問は尽きないが、今は誤解を解く方が先だろう。
    「安心しろ。今のところその気はない」
    「今のところ?」
    「今のところ」
     今のところも何も、元よりそんな趣味は無いのだが。
    脅しも込めてそう答えると、音之進は釈然としない顔をして「なんじゃ、それ」と呟いた。
    その上「身の危険を感じた方がいいのか?」なんて。あまりにも今更な事を聞くモノだから笑ってしまう。
    「それは、攫われて最初に感じるものだろう」
    今までも少しも感じなかったのか?と聞いたらどんな返事が返って来るだろうか。問いを呑みこんだまま様子を伺っていると、音之進は少し考えて「それもそうだな」と小さく呟くと、ひとりで何かを納得して助手席のシートに座り直した。一体何にどう納得したのか少しも解らない。けれども音之進はそれきり助手席で黙りこくってしまった。
    「トイレ行きたくなったら言えよ?」
    「うん」
     暫く車を走らせてからそう声を掛けると、返事はちゃんと返って来た。
    「眠くなったら寝てていいからな」
    「寝たら、いたずらするのか?」
    「するわけないだろ」
    「そうなのか?」
     そこはホッとする所じゃないのか?
    助手席を見れば、予想に反して音之進が落胆したような顔をしていたモノだからつい「なんでがっかりしてるんだよ」と言葉が口をついた。
    「べつに、がっかりなんてしてない」
    返ってきたその言葉は拗ねたような響きをしていた。
    いたずら、の、意味が本当にわかっているのだろうか?
    もしや、本当にただの悪戯だと思っているのだろうか。
    そうだとしたら、その反応もわからなくはない。それならば、それでいい。それがいい。悪い大人の、ろくでもない話なんて知らなくていい。
    ふい、と此方に背を向けて、窓の外を見始めた音之進がどんな顔をして、何を考えているか少しも解らなかった。
    エンジン音だけが聞こえる車内の静けさが心許なくて、流し始めたラジオからはやけに能天気な、如何にも夏らしい音楽が流れてきた。余りにも場違いなその音楽に、それでも、少しだけ救われたような気がした。

    目的も無く、ただ何となく車を走らせてどのくらいだったろうか。気付くと、いつの間にか音之進は助手席で寝息を立てていた。
    小さな体に合っていないシートベルトの所為で、眠っている音之進の頭はぐらぐら揺れて、時折窓にぶつかったりもしているが、痛くはないのか、眠い方が勝っているのか、目を覚ます気配も無い。
    信号で停車する合間に窺った瞼の降りたその寝顔は、起きている時よりも随分と幼く見える。兄の平之丞も整った顔をしているが、こうしてみると、よく似てはいるが少し雰囲気が違うようだ。成長すれば、もっと変わっていくのだろう。今の俺や平之丞の歳になる頃にはどんな顔になるだろうか。
    その頃には、俺の事など忘れているだろうか。
    それとも、こんな特異な夏のことは、大人になっても覚えているだろうか。
    コンビニの駐車場に車を停めてシートを倒してやると、音之進は身動いでシートの上で小さな身体を更に小さく丸めた。寝ているその姿は、幼子そのものだ。
    なんとなく気が向いて、眠っているその姿にスマートフォンのカメラを向けて写真を撮った。液晶画面に収まったその寝顔を確認して、平之丞に送っておく。メールの本文には、今のところ問題なし。とだけ記しておいた。
    そのまま車を出すのも気が引けて、一度車を降りてコンビニに立ち寄った。ぐるりと店内を回ってみても、特に気になるようなモノも無く。自分用の珈琲と、音之進のために麦茶のペットボトルを買って店を出た。
     車を離れたのはほんの数分の事だ。けれどもその数分の内に音之進は目を覚ましてしまったらしい。
     車に戻ると、音之進はシートを倒したままの助手席にぼんやりとした顔をして座り込んでいた。
    「なんだ。起きたのか?」
    ぼうっとしたままの音之進にそう声を掛けると、ぼんやりと空を見ていたその顔が、ぐしゃりと歪んで、泣きだしそうに見えた。
     その反応に、驚かなかった。といったら嘘だ。
    「なんで置いていったっ」
     責めるようなその声に、咄嗟に出たのは「悪かった」の一言だった。其れを言うのが、精一杯だった。
    「コンビニに行くならオイも起こせ」
     そう言葉を続けるその顔は、もう泣き出しそうな其れでは無い。けれども、何処か不安そうなその顔に、居た堪れなくなる。
    「悪かったって。よく寝てたから起こさなかったんだよ。ほら、これ飲め。」
     冷えた麦茶を差出すと、音之進は憮然とした顔をしたまま其れを受取り、キャップを開けて口をつけた。寝起きで、喉は乾いていたのだろう。ごくごくと、喉を鳴らしてボトルの三分の一ほどを飲み干すと、ようやく落ち着いたのか、ふぅ、と息を吐いて俺を見た。
    「麦茶よりアイスがいい」
     不遜な物言いに、ホッとするのもどうかと思うが、兎も角俺はホッとした。
    「さっきパフェ食べただろ」
    「子供を車に置去りにするのはよくないんだぞ」
     恨めしく睨み付ける音之進のその眼には「わかった」以外の返事は出来そうも無かった。


    ***


    無計画に車を走らせたその日、宿に選んだのは海沿いに在る小さな民宿だった。
    「ご兄弟、ですか?」
     受付で、そんな事を聞かれたが「親戚の子を、預かることになって」と言えば、人の良さそうな宿の女将さんは「それは大変ね」と笑って話を流してくれた。
    内心、ドキリとしたが、上手く誤魔化せたということだろう。この先も、こうした事が続くのだろうが、同じ答えを繰返すのが賢明だろうか。考えておかなければ。
    ぼんやりと、そんな事を考えながら案内された二階の角部屋に入る。小さな和室は、外から見て想像していたよりも随分と整っていた。少しばかり古びてはいるが、清潔に保たれた部屋の真ん中には、丸い卓袱台が置かれている。
    音之進には、それが珍しかったのだろう。部屋に飛び込むと、きょろきょろと辺りを見渡していた。
    「月島、海が見えるぞ!」
     つい今まで車で走っていた道沿いにもずっと見えていた筈だのに、窓から見えるとなると違うものなのか。音之進は嬉しげにそう言って窓から身を乗り出していた。
    「海が好きなのか?」
     外を熱心に眺めるその背中に問い掛けると、音之進は振り返らないまま「嫌いじゃなか」という返事を寄越した。
    「嫌いじゃなかが、ちょっとだけおじか…」
    「おじ…なんだって?」
    「怖いっちゅう意味じゃ」
     答えて振返った音之進は、瞬きをひとつして「月島」と俺を呼んだ。
    「月島は、海がおじかち思うたことはなかか?」
     逆光で、そう問いかけてきたその顔はよく見えなかった。問われるまで、深く考えた事など無かったが、音之進の言うことは解らなくも無い。
    「思ったことは無いが…そうだな。夜の海なんてのは、あんまり気味のイイもんじゃないかもな」
    「夜だけか?」
    「昼の海も、怖いのか?」
     問いに問いを返すと、音之進は窓の外の海を見遣った。窓の外には、夕陽に染まった海が拡がっているだろう。それも、音之進には恐ろしいモノにみえるのだろうか。
    背を向けたまま「いつもじゃなか」と小さく呟いた音之進は、「時々、そう思うだけじゃ」と言葉を続けた。
     俺の返事は、あまりお気に召さなかったろうか。
    音之進は暫く海を眺めていたが、ふと思い立ったように窓辺を離れると、卓袱台の前に座って、おもむろにリュックを開いた。
    リュックの中から取出されたのは、ノートと、筆箱だ。音之進は卓袱台の上にノートを拡げると、何かしら熱心に書き始めた。そっと手元を覗き込んでみると、ノートに見えたものはドリルのようなものだと知れた。
    「宿題か?」
    問い掛けると音之進は「うん。」とだけ答えて黙々と問題を解き始めた。出来ているのか、いないのかはわからない。『誘拐』されている状況で宿題を始める心理とは一体どんなものだろう。心理学の類でも専攻していたら、或はこんな時に心情を察してやることができただろうか。ロシア語一辺倒で来た俺には少しも解らない。
    解らないから、ただぼんやりと勉強をしている音之進を見ていると、不意に「なんじゃ?」と邪魔だと言わんばかりの声が聞こえてきた。どうやら視線が煩かったらしい。
    「いや、別に…」
    「誘拐されてるくせに勉強してたらおかしいか?」
    本当に、俺の眼は煩かったらしいとよく解る。
    「おかしくない。勉強はしておいて損はないからな。」
    「そういうものか?」
    「そういうもんだ」
     ガキの頃、もっと勉強しておけばよかったと思う今だからこそ、心からそう言えるのだが、きっと俺の言葉の切実さなど、半分も伝わってはいないだろう。
     音之進は「ふぅん」と、解ったような、解らなかったような、ふんわりとした言葉とも溜息ともとれるような声を漏らして再びノートに向き直った。
    「今日の分が終わったら、飯食いに行くぞ。」
    「ハンバーグがいい!」
     ノートに向かったまま、元気よく返されたその声に思わず吹き出しそうになった。
    込み上げて来る笑いをどうにか抑え込んで「わかった」と答えると、そっと部屋を出てフロントに向かう。階段を降りてフロントの辺りを覗いてみると、今日はもう予約している客もいないのか、さっき受付をしてくれた女将さんは退屈そうにロビーのテレビを見ていた。
    すいません、と声を掛けてこの近くで子供の喜ぶハンバーグの食べられる店は無いかと訊ねると、おかみさんは見ていたテレビを直ぐに消して、張り切ってアレもコレもとこの辺り一帯のお勧めを教えてくれた。どうやら、本当に暇だったらしい。そして本当に、人が良いのだろう。何だか申し訳ないような気になりながら、俺は延々と話を聞き続けた。そうするしかなかった。
     

    ***


     夏は日が長い。というのを実感したのは、島を離れてからだったように思う。時計の針だけ見れば夜というに相応しいような時間が迫っても、灯りを持たずとも楽に外を歩くことが出来る。もっとも、至る所に生活の灯りが溢れる街中では、夏でも冬でも然程変わりはしないのだが。
     暮れかかる街の中を音之進の手を引いて歩いていると、何故だか昔のことが思い出された。自分の子供の頃。島で独りきりで過ごしていた夏のことを思い出す。島を離れたきり、考えもしなかったその頃のことがやけに思い出されるのは、子供を連れている所為だろうか。
    「未だ歩くのか?」
    「もう少しだ。疲れたか?」
     隣を見遣ると片手で掴めそうな程小さな頭が見える。
     その小さな頭をふるふると横に振って「うんにゃ」と答えた音之進は、きゅ、と繋いだ俺の手を握り直した。
    女将さんに薦められた店は、宿からは少し離れていた。
    街の中にある小さな店で、車では路地を入っていけないが味は格別で価格も良心的。子供好きな夫婦が営む店だから、子供を連れて行くならその店がいいと太鼓判を押され、行くなら連絡をしておくとまで言われては、断ることなど出来る筈が無かった。
    歩く位なら車を走らせて何処か適当なファミレスでも探すかと思いもしたが、こんなことでも無ければ、知ることも、立ち寄ることも無かっただろう場所に行ってみるのも悪くないように思えた。結果、音之進はだいぶ腹を空かせているようだけれども。
    「嫌いなモノはあるか?」
     道中でそう訊ねると、音之進は「嫌いなモノ」と小さく呟いてから「桜島大根」ときっぱりそう言い切った。
    「桜島大根?大根が嫌いなのか?」
    「大根じゃなくて『桜島大根』が嫌いじゃ」
    「こだわりがあるんだな」
    「そうじゃ」
     ふん。と、唇を尖らせる仕草に笑ってしまう。
     何かよっぽどの謂れがあるのだろう。などと考えていたら「月島は?」と問いを返された。
    「俺は…特に無いな。ゲテモノくらいか?」
    「ゲテモノ?」
    「蛇とか蛙とか?食えなくはないかも知れないが」
     そう答えると、音之進はあからさまに顔をしかめて「そんなもん食べんでよか」と零した。もっともだと思う。
    「じゃぁ、好きなモノはなんだ?」
     嫌いなモノの話より、その方がいいだろうと問い掛けると、音之進はパッと顔を上向かせて此方を見た。
    「甘いのが好っじゃ。アイスとか、パフェとか。甘くて、美味しくて、キレイなモノが好っじゃ」
     大きな眼が、きらきらと輝いている。解りやすい。
    「今日もたくさん食べてたな」
    「まだ食べられるぞ?」
    「今日はもう駄目だ。身体を冷やすぞ」
     釘をさすようにそう言うと小さく「けち」という言葉が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。
    「甘いのなら、なんでも好きなのか?」
    「なんでも。大抵のもんは好っじゃ」
     当然と言わんばかりの返事に、そういうものか。と思う。
    「月島は?」
     聞こえた声に振り返ると、音之進の大きな眼が真直ぐに俺を見上げていた。
    「月島は、何が好きなんだ?」
    「………米」
    「こめ?」
     よくよく考えて、本当に好きなモノを答えたつもりだが、音之進はまるで理解できない。という顔をしていた。
    「米だけか?米だけを食べるのか?」
    「米だけでも食えるぞ」
     信じられないものを見る目を向けて来る音之進に笑っているうちに、目的の店が見え始めた。
    「ほら、着いたぞ。ハンバーグ食べるんだろ?」
     手を引いて問い掛けると、音之進は「うん」と元気よく答えて頷いた。


    ***


     音之進が静かに寝息を立て始めた深夜、ひとり部屋を抜出した。物音を立てないように、ひっそりと。暗い廊下を進み、猫のような慎重な足取りで階段を降りて外へ出ると、ようやくひと心地着いたような気がした。
     こんな夜更けに、一体何をしているんだ。などと、此処で冷静になってしまったら負けだろう。
     スマホを取出して、平之丞の番号を呼ぶと、ワンコールで、耳馴染のある声が聞こえた。
    『お疲れ』というその声には、労いと、少しの笑いが混じっている。
    「本当にな」と、厭味半分に返すと『悪いな。本当に感謝してる』と短い言葉が返ってきた。そう言われると、何も言えなくなってしまう。
    『初日は、どうだった?』
    「今の所は順調…と言えるのか…」
    『怪しまれたか?』
    「いいや。どっちかというと、懐かれている方だと思う」
     答えると、電話口に平之丞の笑い声が聞こえてきた。『そうなると思っていた』と平之丞は言うが、誘拐犯としてそれでいいのか。もっと凶悪犯らしくするべきかと問い掛けたら『無理をする必要はないさ』と平之丞はまた笑った。
     平之丞が、何を考えて、何を目論んでいるのかも、正直なところよく解らない。単に弟のお守りを任せるというなら、こんな手の込んだことをする必要も無いように思うのだが。夏が終わる頃には、思惑を明かしてくれるだろうか。
    『音之進は、寝てるのか?』
    「そうじゃなきゃ電話は出来ないだろ」
    『それもそうだな』
     小さく笑う平之丞は随分と機嫌が良さそうだ。
    「なぁ、平之丞」
    『なんだ』
    「あの子…音之進は、溺れたりしたことがあるのか?」
    『…何か、言っていたか?』
    「海が、怖いと思うことがあるんだと言っていた」
     そう報せると、平之丞は暫くの沈黙の後『やっぱり、月島に任せて正解だった』と零した。
    「正解?何がだ?」
    『こっちの話だ。気にしなくていい。』
     気にするだろ。と、思いながら、それを聞いてはいけないのだろうとは察しがついた。少なくとも、今は。それを聞いたところで、平之丞に応える気はないだろう。
    『世話を掛けてすまないな。』
    「…退院したら飯おごれよ」
     電話口で笑いながら『勿論だ』と答えた平之丞は、一頻り笑った後『音の事、頼むな』と兄らしい声音でそう告げた。

     通話を切って辺りを見渡すと、道路を隔てた先には部屋からも見えた海が一面に拡がっていた。
    『月島は、海がおじかち思うたことはなかか?』
     夕方に聞いた、音之進のその声が耳に蘇る。
    「…なにが、怖いんだろうな…」
     ポツリと漏れたその声は、道路を横切ったトラックの騒音にかき消された。


    ***


    翌日も、よく晴れていた。
    今朝、宿を出る前に見た天気予報によれば、この夏は猛暑で雨の降る見込みは少ないという。週間天気予報には晴れマークが並び、気象予報士は渇水と熱中症の心配をしていた。暑さの所為か、車の冷房の効きもイマイチだ。
     そんな気候でも、子供にはあまり関係ないのだろうか。
    「今日はどこへ向かってるんだ?」
     助手席で、昨日から数度目になるその問いを投げてきた音之進は至って涼しい顔をしている。
    「内緒」
    「うふふ。誘拐犯らしいな。」
     この会話も、はや数度目だ。
    「攫われている身分だのに、随分呑気だな」
    「泣き喚いたらよかか?」
    「そしたら直ぐに捕まるだろうな」
     此方を伺って来る言葉にそう呟くと、音之進は少しの間をおいて「それではつまらんな」と零した。本当に、つまらなそうに響いたその声に驚く。
    「今、月島が捕まったら、オイは直ぐに鹿児島に帰されるんじゃろうな。」
     音之進は、助手席でぶらぶらと足を揺らしながら、何もない空を見詰めてそう零すと「…そいでは、つまらん」と言葉を重ねた。帰りたくない事情でもあるのかと、聞いてしまいたくなるような、そんな寂しい声音だった。
    「俺と逃げるのは楽しいか?」
     何故、そんな言葉が口をついたろう。
     無意識に零れたひと言に、音之進は、すい、と、顔を上げ、俺から微かに視線を逸らして「そうだな」と零した。
    「今のところ、退屈はしていない」
     宛も無く、走り続けるだけの一日だった筈だが、それでも、音之進には家族の元に帰るよりイイというのだろうか。
    「…じゃぁ、精々捕まらないよう、大人しくしいてくれ。」
     告げた言葉に返事はなく、音之進はふいと顔を逸らすと、窓の外を見始めた。
    流れる車窓には、海が拡がっていた。何処までも、何処までも、拡がっていた。


    ***


    『あのくらいの歳の子なら、きっと喜ぶはずよ!』
     という女将さんの言葉を信じたのは間違いだったろうか。そう思ってしまう程、音之進のテンションは低いままだ。
     宿から車を走らせて小一時間。音之進を連れてきたのは、所謂『遊園地』という場所だ。昨日と同じように、一日中車を走らせ続けるのは間が持たない。何れ何処かに落ち着くとして、其れまではせめて『夏休み』らしいことをしてやろうなどと思ったのが間違いだったろうか。
    勧められた遊園地は然程知名度のあるところではないが、其れなりのモノは確り揃っている。もう少し大きくなっていればこれでは物足りないと言いそうなところだが、音之進くらいの歳なら充分に思えるのだが、何が不服なのか。
    「好みじゃなかったか?」
    「好み以前に、わいは誘拐犯じゃろう?オイを連れ出したままでいいのか?」
    「監禁されたいか?」
     もっともらしい問いに、問いを投げ返すと、音之進はふるふると首を横に振った。
    「窮屈なのは嫌じゃ」
    「だったらいいだろ。遊園地は気が乗らないか?」
     しゃがんで視線を合わせると、音之進は少し俯いて、上目に俺を見ながら「遊園地には、あんまり、来たこっが無か」と小さく呟いた。
    「遊び方がようわからん」
     拗ねたような、困ったような、その物言いから、本当に遊園地で遊んだ経験があまりないのだろうと察しは付いた。
    意外に思ったが、過保護な所為だろうか。斯く言う俺も、遊園地で遊ばせて貰えるような子供時代は送っては来なかったのだが。
    「乗り物に乗る、とか?」
    「…ふぅん」
     きょろきょろと園内を見渡している辺り、興味が無いわけではないのだろう。
    「試しに、何か、乗ってみるか?」
    「…アレがいい」
     そう言って、音之進が指差したのは園内の奥に見える大きな観覧車だった。
     ご要望にお応えして観覧車の乗り場まで来てみれば、遠目で見るより遥かに巨大なそれはこの遊園地の名物だという。
     乗り込んだゴンドラがゆっくりと上昇して、一番高い所に辿り着く頃には、音之進は子供らしく窓に貼りつき、遠くに見える海や山や、遥か下に小さく見える園内を行き交う人にはしゃいでいた。
    「見ろ!月島!人があんなに小さく見えるぞ!」
    「見てるよ。それより、あんまり暴れるなよ」
     飛び跳ねんばかりの勢いで左右の窓を行き来する音之進にそう告げると、音之進は悪戯っぽく笑って「怖いのか?」などと聞いてきた。
    「危ないだろ。それだけだ。」
     努めて冷静にそう答えると、音之進は神妙な顔をして座席に座り直した。
    「安心しろ。飛び跳ねたりはせん。」
    「当たり前だ」
     呆れ半分にそう口にすると、音之進は「これでもう怖くないだろう?」と笑ってみせた。笑って、はしゃいでいるのに、音之進が何処か寂しそうにみえるのは、何故だろうか。
    「…降りたら、次は何にのりたい?」
    「なんでもいい」
    「なんでもいいって…」
    「月島が乗りたいヤツがいい」
     ニコリと笑ってみせる音之進に言葉が詰まった。
    「月島も一緒だろう?」
     どうやら、ひとりで乗る選択はないらしい。冗談じゃない。と、言いたい所だが、不思議とその言葉は口に上らなかった。代わりに出たのは「そうだな」という肯定の返事と「気になるもの、全部言ってみろ」という言葉だった。

    結局、その日は、一日中、遊園地で過ごすことになった。勿論、音之進が乗るほとんどの乗り物に一緒に乗せられたし、音之進がひとりで乗る時には、ずっと傍に控えて居た。
    途中、音之進にアイスを買ってやるために売店に立ち寄ると「お父さんも大変ですね」などといわれる始末だ。
    せめてそこは「お兄さん」と言ってほしかったが、そんなことはどうでもよくなっていた。
    「こんなに遊んだのは初めてじゃ」
     満面の笑みでそう言う音之進の額には、汗で前髪が貼りついていた。タオルでそれを拭ってやると「あいがと」と嬉しそうに笑ってみせる顔は愛らしい。
    「親っどは歳じゃで、こういう処には来たがらん」
    「兄貴がいるんだろ?」
    「いつもは一緒におらん、それに…」
    「それに?」
    「兄さぁと遊びたい人は、いっぱいおっで…オイに構っとる時間なんかなかじゃ…」
     そんな事はない、と、言い掛けた言葉は喉元で留めた。
    この子は、音之進は、拗ねているのではなくて…ただ、寂しいだけなんじゃないか。
    その寂しさを、誰にも言えずにいるのではないか。ふと、そんな風に思えて。
    そう思ってしまったら、目の前の子供が、音之進が、痛ましく…それ以上に、愛おしく思えた。


    ***


    よく遊んだせいだろう、その晩、音之進はよく眠った。
    遊園地から程近いビジネスホテルを今日の宿に決めると、着いて早々、音之進は汗を流したいとバスルームに飛び込んだ。そこから出てくると、直ぐにベッドに転がって「疲れた」と声を上げたかと思うと、髪も乾かさずにそのまま眠ってしまった。
    昨日はやっていた宿題も、今日は手つかずだ。せめて髪を乾かせと一度は起こしたが、余程疲れているのかぐずるばかりで起きる気配も無く、俺は早々に起こすのを諦めた。
     眠っているその顔は穏やかなものだ。昼間遊んでいても、いかにも子供らしく元気そのものに見える。けれどもその発言や、仕草、視線からは寂しさが伺える。ような気がする。子供の気持ちなど解らない。単に、俺がこの子をそんな風に見ようとしているだけかも知れない。
    けれども、この子が、音之進が本当に『寂しい』と思っているのなら、俺では無くて、平之丞が傍にいてやるべきではなかったか。
     その平之丞は、俺に任せてよかったと言っていたが、果たしてそうだろうか。そうなのだとしたら、俺に一体何が出来ているというのだろう。どうしたら、音之進の寂しさを失くしてやれるだろう。全てを失くすのが無理だとしても、少しは和らげてやることが出来るだろうか。
     毎日遊園地に連れてくわけにもいかないし。明日から、どう過ごせばいい?どうすれば、音之進に、寂しいなどと思わせずに済むだろうか。どうすれば…
     考えるうちに、ふとベッドの上で音之進が身動ぎをした。目を覚ましたかと様子を伺ってみるが、音之進の眼は確りと閉じられたままだった。閉じられてはいたが、その閉じた隙間から、じわりと涙が滲み、目尻から静かに零れた。
    「…あにさぁ…」
     ポツリと漏れたひと言は、寝言なのだろう。閉じた瞼の裏には、平之丞の姿が浮かんでいるのだろうか。
     目尻を濡らした涙を指先で拭って、そっと髪を撫でてやると、強張っていた音之進の顔が穏やかになって、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。
     なんとなく。なんとなく、傍を離れがたくて。その晩、俺は音之進の隣に並んで横になった。
     規則的に聞こえる音之進の寝息が、波の音のようだと思った。


    ***


    翌日から、宛の無い旅が始まった。
    音之進を空港で迎えてから、既に始まっていたと言えばそうなのだけれども。
    何処へ行って、何をすればいいか。俺にも解らない。元から目的などないのだ。宛ても無く、その日の朝、思いついた方向に適当に車を走らせて、時々車を停める。
    音之進に食事をとらせて、少し休憩をして、また車を走らせる。車の中ではラジオをかけたりもしていたが、ニュースの類が流れそうになると、意図的にラジオを切った。
    聞いたところで何の不都合も無いのだが『行方不明になっている何処かの子供のニュースが流れたりしたら不都合だ』という呈を保つためのポーズだ。テレビや新聞も、極力、音之進の眼に触れないように気を付けた。音之進は、其れに気付いている様子だったが、その事に関して、何かを口にする事は無かった。

    ホテルや民宿を転々として、夜は音之進の勉強を見てやるような生活が暫く続いた。
    一緒に過ごしてみると、音之進は、少しだけ我儘で、それ以上に素直で。好奇心旺盛な、とても賢い子供だった。
    車を走らせていると、道沿いに面白い看板があったとか犬が居た、猫が居ただとか。何かを見付けてはしょっちゅう車を停めさせた。
    その要望を無視すると、拗ねたり怒ったりもするものだから、日に何度も車を停めることになる。とは言え、目的のある道中ではないのだから、俺は言われるままに車を停めては音之進の気が済むのを待った。
    三日、四日と日が経つにつれ、音之進は俺によく懐いているように思えた。誘拐されているという自覚はあるのだろうかと疑う程に。
    そして、不思議なくらい、家族のことを話さないのだ。夜にひっそりと涙を流すことはあっても、昼間にはその気配すらみせはしない。
    『寂しい』とも『帰りたい』とも言わないけれど、宿題はきっちりやっていたりするところは律儀と言うのだろうか。根は真面目なのだろう。本心では、この状況をどう思っているのだろうかと考えるが、少しも解らない。
    その日暮らしで、まるでままごとの延長のような旅を、ただ、続けていた。
    後になって考えてみれば、俺は『誘拐犯』を、音之進は『かどわかされた子供』を、お互い、上手く演じ続けていただけなのかも知れない。勿論、その時には、その可能性を考えはしなかったのだが。…いいや、浮かんだその可能性を、気付かないふりをしていただけかもしれないのだが。どちらにせよ、俺は音之進との旅を、続けたかったのだろう。
    そして、音之進も。同じ気持ちだったのだ。
    恐らく。きっと。


    ***

    その日は何もかもタイミングが悪かった。
    朝から車の調子が悪く、点検に寄ったガソリンスタンドで足止めをくらったり、やっと出発しても事故の影響だという渋滞に巻き込まれたり。目的地を変更してみても、道に迷ったり。危うく山の中で一夜を過ごすことになるかと思ったが、どうにか街に出ることは出来た。
    「今日は散々だな」とは、音之進の言だが、その通りだ。
     だが、街に出たところで今度は宿の確保が出来なかった。小さな街には泊まれるところ自体が少ないようで、何とか見付けたのはラブホテルだった。流石に、子供を連れてそこに入るわけにはいかない。こうなってくると、最早溜息しか出てこなかった。
    「今日は、車で寝ることになるかもしれないが、それでもいいか?」
     助手席を振返ってそう問い掛けると、音之進は嫌がるどころか目を輝かせて「いいぞ!車で朝まで寝るなんて初めてだ」と面白がっているようだったが「でもお風呂には入りたい」と言われて苦笑いが浮かんだ。その辺りは、お坊ちゃんなのだろう、と、しみじみ思う。
     
     音之進の要望を受けて、車を走らせて向かったのはスーパー銭湯だった。辿り着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、二十四時間営業という看板に救われた。
     こうした場所も、音之進には珍しいのだろう。受付をしている間にも、音之進は施設の彼方此方が気になるようで、ずっと落ち着かない様子だった。
    「月島、銭湯ってスゴいな?漫画もあるぞ?」
     音之進に言われて中を見てみれば、確かに一般的な銭湯より施設は充実しているようだ。仮眠をとっている人の姿も見える。
    「みんな風呂に入りに来てるんだから、あんまりはしゃぐなよ?」
     少し声のトーンを落としてそう告げると、音之進はハッとした顔をして「わかっちょ」と小さく答えて頷いた。こういう処は、本当に賢い、素直な子供だ。


    ***


    「痛くないのか?」
     気遣わし気なその声が聞こえたのは、音之進と並んで湯船に浸かっている時だった。音之進の視線を辿れば、その眼が俺の首元に向けられているのだと解る。
     恐らく、その眼には赤いケロイドのような痣に似た模様が見えているだろう。
    「傷みたいに見えるか?」
     問い掛けると、音之進は神妙な顔をしてこくりと頷いた。
    「大丈夫だ、こいつは傷じゃない。昔から、時々出るんだが、それだけだ。なんてことない。」
     告げた通り、その痣のようなものは、いつからか俺の身体に浮かぶようになったものだ。産まれた時からだったのか、何かを切欠に出るようになったのかはわからない。最初に指摘されたのは子供の頃だったか。だが、浮かんでは消えるその模様は、唯其れだけのモノでしかなかった。其れに、何かの意味があるだとか、そんなことは考えたことも無かった。
    「ふぅん。オイと一緒じゃな。」
    「一緒?」
     聞こえた言葉に問い返すと、いつの間に、音之進の頬にも見たことのない傷が浮かんでいた。
    「!?顔に…っ」
     慌てて頬に触れると、それが傷では無いと直ぐに解った。
    「時々出る。月島と一緒じゃ。オイにもよぉわからん」
     子供の頬は柔い。余りに頼りないその感触に、怖くなってそっと手を離すと、浮かんでいた傷はもう消えていた。
    「…消えた…」
    「消えたか?」
     うふふ。と、愉快そうに音之進は笑う。
    「なんじゃろうな?でも、月島と同じなのは嬉しいぞ。」
     嬉しい。その言葉に、胸を突かれたような気になって「なんだろうな」と返した言葉は、酷く曖昧な響きになった。


    ***


    「早起きは得意か?」
     風呂上がりに買ってやったフルーツ牛乳を大事そうに両手で持って飲んでいる音之進に問い掛けると、音之進は、ごくん、と口に含んでいた分を飲み下してから「得意と言う程では無い」と正直な答えを寄越した。確かに、起こせば起きるが、毎朝早起きをしているわけではないと思い当たる。
    「何でそんな事聞くんだ?」
    「ここで仮眠をとらせて貰えるらしい」
    「かみん?」
    「横になって、しばらく休んでてもいいってことだ」
    「?泊まれるのか!?」
    「泊まるというか、明け方には起きてここを出なきゃいけなくなるけど、車の中で一晩中寝ずには済むな。」
     どうする?とは聞くまでも無い顔をしている音之進に「それでいいか?」と問うと、音之進は、にかりと笑って「月島が起こしてくれるじゃろ?」と言ってのけた。
     そうだな。と、苦笑いして答える俺の返事をちゃんと聞いているのか、いないのか。音之進は、持っていた瓶の残りを飲み干すと、何処で寝るんだ?寝る前に本を読んでもいいか?と矢継ぎ早に質問を寄越した。
     施設の中に、仮眠スペースは幾つかあった。きちんとしたホテルの一室のように整えられている部屋もあれば、簡易ベッドの並んだ部屋、畳の広い部屋もある。
    音之進が気に入ったのはカプセルホテルのような部屋だった。独りで其処に寝るつもりかと思ったら、当然のように俺に隣で寝るように言って来たものだから笑ってしまった。
     相手が子供とは言え、ふたりで入るには少し窮屈に感じたが、音之進はその方が安心するのか、ぴったりと俺にくっついて、離れようとしなかった。
     子供の体温は高いモノだと、手を繋いだ時にも実感したが、くっついていられるとそれがよく解る。
    「寝にくくないか?」
    「平気じゃ。月島は、寝にくいか?」
     大丈夫だ。と答えると、音之進は小さく笑って俺の首元に触れてきた。さっき痣の浮かんでいた、その辺りだ。
    「傷みたいの、わからんごたなったな」
     不思議そうに、そう呟いて俺の首を撫でる音之進の小さな手は温かい。
    「ずっと撫でちょったら、もう出んなるじゃろか?」
    ポツリと漏れ聞こえたその声に「さぁな」と答えると、程なくして間近に静かな寝息が聞こえ始めた。直ぐ傍にある音之進の頬にも、さっき見えた傷のような痕はもう見えない。
    撫でて、傷が浮かんでこなくなるのなら…と、頬に触れかけた指は、触れる直前にその柔い感触を思い出して空を掻いた。触れたら、起こしてしまうかも知れない。そう思って、頬では無くて、小さく丸い頭を撫でた。乾いた音之進の髪は、さらさらと指の間をすり抜けていった。

     陽も未だ昇らないその時間。そろそろ出なければいけないと、音之進に声を掛けると、予想通り、音之進はぐずるばかりで起きる様子はなかった。
     一応、起きはした。眼は開いていなかったが。身体を起こすには起こして、俺を「兄さぁ」と呼んだのは寝惚けている証だろう。未だ眠いという音之進に寝ていていいぞと声を掛けて抱き上げると、音之進は無意識なのか、ぎゅう、と俺にしがみついてきた。
     そのまま車に戻り、後部座席に音之進を下ろそうとして、気が付いた。音之進が、俺のシャツをしっかり掴んでいる。放して貰おうと指に手を掛けたが、余りに強く握っているモノだから放させるのも酷な気がして、結局俺はシャツを脱ぐことを選んだ。俺の脱いだシャツを大事そうに抱えて眠る音之進は、目を覚ます様子も無く健やかな寝息を立てている。
     起きて、自分が何を抱えているか気付いたらどんな顔をするだろうか。其れを見るのは少し楽しみなような気がした。

    音之進を起こさないよう、ゆっくり車を走らせて近くのコンビニまで来てからスマホを取出した。
    この時間に電話に出られるかはわからないが、一か八か。
    呼び出したその番号の主は、予想外に直ぐに電話に出た。
    「起きてたのか?」
    『たまたま、な』
     声を潜めているのは、病室の中だからだろうか。
    『どうしたんだ?こんな時間に』
     そう聞いて来るのは、当然だろう。宿がとれなくて、スーパー戦闘で仮眠をとったのだと事情を話したら平之丞は驚いていた。
    『音之進は嫌がらなかったか?』
    「面白がってるように見えたぞ」
     ありのまま、一緒に風呂に入ったこと、カプセルホテルの様な部屋でくっ付いて眠ったことも報告すると、平之丞は『意外だ』と口にした。
    『音は潔癖な所があって、プールだとか、外で遊ぶのもあまり喜んだりしないんだが…月島となら平気なんだな』
     感心したような口ぶりの平之丞だったが、終いには『近頃じゃ俺とも一緒に寝てくれなくなってたのに』と恨めしそうな声を漏らした。其れなら尚更、一緒に過ごしてやれば良かったじゃないか。今からでも連れて帰ってやろうか。と、頭に浮かんだその言葉は、声にはならずに胎の底に落ちた。チラと車の中を見ると、音之進は俺のシャツを掴んだままだ。
    『他に変わったことはないか?』
     問われて浮かんだのは、頬に浮かぶ痣のことだ。ふと、其れを聞いてみようとして、何故だか、聞くのを躊躇った。
    「…変わりはないが、相変わらず、家族の話をしないのが気にはなるな…」
     代りに出たのはそんな言葉だ。平之丞は、それに静かに『そうか』と答えただけだった。
     両親には、このことをどう話しているだろうか。そもそも、何の説明もしていないのかもしれないが。もしも俺が、音之進を連れたまま事故に遭ったりしたらどうするつもりでいるのだろう。などと。聞けば平之丞を困らせるだろうか。
    「…なぁ、平之丞」
    『なんだ?』
    「彼方此方転々とするのも限界がある。何処か落ち着ける場所は無いか?」
     何処かに落ち着いていれば、明日は如何すると頭を悩ませる必要も無い。事故に遭う危険も少しは減るだろう。金は平之丞が出すとはいえ、その方が負担も少ないのではないか。
     あれこれ考えて投げたひと言に、平之丞は『そうだな…』と静かに零すと『後で連絡する』と言って通話を切った。
    心当たりでもあるのだろうか?
    唐突な会話の終わりに困惑するうちに、平之丞からのメールは地図付きで届いた。
     地図の示す場所は、今居るところからは少しばかり離れていた。休みなしに走ればその日の内に行けなくはないが、音之進が居ることを考えれば、間で一度休んでから向かう方がいいだろうか。
    文面には、地図に示されている山小屋は、元々、平之丞が音之進と過ごすつもりで借りたものだと書かれていた。
    『鍵は玄関脇のポストの中。ポストの暗証番号は音之進の誕生日。1223。期限は八月末まで。最低限生活に必要なモノは揃っている筈だが、食糧は調達して行ってくれ』
     そんな場所があるなら早く言ってくれ。と、漏れた独り言は平之丞に届けたい所だが、今は取り敢えず感謝だけしておくことにした。

     駐車場を借りたコンビニで珈琲と水を買って車に戻ると、後部座席で物音がした。
    「起きたか?」
     振り返って声を掛けると「ここは?」と、まだ寝惚けたままの音之進が目をこすりながらそう言った。
    「さぁ、どこだろうな?」
    「起こしてくれたらよかったじゃ…」
    「起こしても起きなかったんだよ」
     不服そうな物言いにそう答えると、こすっていた目を開いた音之進は自分が掴んだままでいるものが何か気付いたようだった。気付いてしまったら、恥ずかしくなったのか、余計にむくれて黙りこくってしまった。
    「起きたんなら、飯、食いに行くか?」
    ご機嫌取りに投げた問いには、たっぷり間を取ってから「…うん」という控えめな返事が返ってきた。
    「着いたら、今度は起こすから。其れまでまだ寝ていていいからな」
     言いながら、車を出しかけると「月島」と呼ぶ声がした。
    「なんだ?」
    「助手席、行ってよかか?」
    「いいけど、寝にくいだろ?」
    「起きる」
     きっぱりとそう言うと、音之進は後部座席からシートの合間を通って助手席に移動してきた。子供というモノは、みんなこんな風に器用なモノだろうか。
    「寝てていいのに」
    「起きてたら邪魔か?」
    「…いいや。」
     答えると、音之進は嬉しそうに笑った。ように見えた。
    「月島」
    「今度はなんだ?」
     助手席に座って、シートベルトをきっちり締めて。
    「窓、開けてもいいか?」
    「身を乗り出して落ちたりするなよ?」
    「わかっちょ」
     答えた音之進は、助手席の窓を全開にして外を見始めた。
    ゆっくりと車を発進させると、開いた窓から風が入って来る。早朝の空気は、未だ夜の名残を残していて、ひんやりと心地良い。
    「いい風が入って来るな」と零したら、音之進は此方を振り返って「気持ちよかね」と笑った。


    ****


     すっかり陽が昇り、開いていた窓を閉じて冷房を効かせた車を走らせて数時間。ようやく、その日目的地に選んだ場所に辿り着いた。
    「水族館…」
     そう零して入口の看板を見詰める音之進の眼は輝いている。連れてきたのは正解だったということだろう。
     山小屋に籠る前に、何処か寄れるところは無いだろうかと探して見つかったのが此処だった。
    「今日は此処で遊んでいいのか!?」
    「はしゃいで迷子になるなよ?」
     目を爛々と輝かせている音之進に釘を刺すと、音之進は「うん」と素直に答えて俺の手を取った。繋いでおけ、ということなのだろう。
    「月島、はよ!」
     ぐいと引かれた手を繋ぎ直して隣に並んでやると、音之進は満足そうに俺を見上げた。

     水族館の中で、音之進はずっと上機嫌だった。確り手は繋いだまま、順に展示を見て歩く。
    「魚が好きなのか?」
    「うん。魚も、動物も好きだ。」
     それなら、この前も遊園地より動物園にでも連れて行けばよかっただろうか。あれはあれで楽しかったと言えばそうなのだが。体力の削られ方は随分違ったろう。
     そんな事をぼんやり考えていると、音之進が不意に手を離して駆け出した。一瞬のことだった。
     何が起こったか解らず、呆然として小さな背中を見送ってから我に返った。
    「音之進っっ」
     気付いたら、叫んでいた。
    「ひとりで行くなっ」
     叫んで、駆け出した刹那、視界が霞み何かが過った。
    「月島ぁ!」
     呼ばれたその声に顔を上げると、直ぐそこに音之進の姿が見えた。けれども、其処に居た音之進は、幼い子供の姿では無かった。
    俺と変わらないくらいの、青年が其処に居た。見ず知らずの青年であるはずなのに、彼が、音之進に違いないと思うのは何故なのか。
     これは、何だ?俺は、一体何を見ている?そこにいるのは、本当に音之進か?
    「月島!はよぉ!」
     再び呼ばれたその声にハッとなって目を擦ると、今度は、確かによく見知った音之進の姿が其処に在った。目の前の音之進は、小さな子供の、その姿に違いなかった。愕然とする俺を、音之進は大きく手を振って呼び続けていた。
    人混みを掻き分け、慌てて駆け寄ると、音之進はいつもと変わらない様子で「早くしないと行ってしまうぞ」と唇を尖らせ、通路の先を指し示した。
    見れば、ペンギンが列を作って館内を散歩している姿が見えた。どうやら、音之進はこれを見付けて走ったらしい。
    「むぜかね。」
    「むぜ?」
    「『かわいい』いう意味じゃ」
    「むぜ、ね」
     確かめるように呟くと、音之進は満足そうに笑って、また何処かへ走り出そうとする。寸での所で腕を掴んで抱き留めると、音之進は驚いた顔をして俺を見上げた。
    「駄目だ。ひとりで行くな。」
     知らず、低くなった声に、音之進は瞬きをひとつして「…逃げたりはせん」と静かに呟いた。
    「そういうことじゃない。転んで怪我をするかもしれないだろ。それに、迷子になったらどうするんだ」
     諭すように告げると、音之進はじっと俺を見詰めながら小さく口を開いた。
    「…困るのか?」
     聞こえたのは、そんな言葉だ。
    「…月島は、オイが居なくなったら、困るか?」
     期待と、不安と、焦燥と…その眼に浮かんでいたその感情を、どう言い表したらいいだろう。
    「…困る」
     端的に、そうとだけ答えると、音之進の瞳はぐらりとゆらいで「そうか」と「わかった」という、短い返事が聞こえてきた。「もう走ったりせん」と続けて聞こえたその声に、そっと腕をといてやると、音之進は自ら俺の手を取った。
     この手を繋いでおけば、大丈夫だということなのだろう。
    「何処に行こうとしていたんだ?」
     ペンギンの次は何を見たいのかと問うてみれば、音之進は黙って通路の先を指さした。その先にあったのは『アシカショー』の看板だった。日に何度かあるらしいそのショーの開始時刻は、間も無くに迫っていた。
    「もう直ぐ始まるから…」
     走って行こうと思ったのだろう。そうと察した俺は、すぐさま音之進を抱え上げた。
    「!?月島!?」
    「急げば間に合う」
     宣言して駆け出すと、音之進が嬉しげに笑うその声が耳元で聞こえた。
    「急げ、月島!もう直ぐだぞ!」
     わかってる。と叫ぶように答えながら、俺は必死に走っていた。
    何をそんなに必死になっているのか、自分でも解らなかった。少しも、解らなかった。


    ***


    夕方、水族館を出た音之進の腕には、子供の腕には余るくらいの大きなぬいぐるみが抱えられていた。
    帰りがけに、売店で見掛けて音之進が欲しがったモノだ。余りに熱心に見ているものだから「欲しいのか?」と聞いたら、音之進は慌てた様子で「兄さぁに似ちょっで、みよっただけじゃ」と口にした。
    真白で、ずんぐりとした形のアザラシのぬいぐるみは優しげな顔をしている。平之丞に似ているかと問われたら疑問の残るところだが、似ているというのも解らなくはない。実の弟がそう言うのだから、まぁ、似ているのだろう。平之丞にそれを伝えたらどんな顔をするかは気になるところだが。
    「どれがいいんだ?」
     笑いを噛み殺してそう聞いてやると、音之進は「え」と小さく零して驚いた顔をした。買って貰えるとは思っていなかったのだろう。
    「欲しいんだろ?」
    「いいのか?」
    「一個だけな」
    「あいがと!」
     言うが早いか、音之進はパッと顔を輝かせると、ぬいぐるみの山の中からお気に入りのひとつを選び始めた。
     そうして選ばれたのが、今、音之進が大事そうに抱えているものだ。
    「こいつが一番兄さぁに似ちょっ」
     そう言って、両手で平之丞似だというアザラシのぬいぐるみを抱えている姿は平之丞に見せてやりたいくらいだ。平之丞がどんな反応をするのかは見ものだろう。
     ぬいぐるみを手にして以来、ずっと上機嫌の音之進は、車を走らせ始めると「月島」と俺を呼んだ。
    「今日も銭湯へ行くのか?今日こそ車で寝るか?」
     聞こえてきたのは、ほんの少し不安そうな声だった。
    「いいや、今日は宿がとれた。ちゃんとベッドで寝れるぞ」
     銭湯で寝るのはやはり不本意だったか。そう思っての答えだったが、質問の意図は違ったらしい。
    「こいつも連れて行っていいか?」
     こいつ、というのは、ぬいぐるみのことだ。ぎゅう、と、抱き締めて放し難そうにしているその姿に「好きにしろ」と答えると、音之進はホッとしたような笑みをみせた。よっぽど、気に入っているらしい。

    その晩、当然のように宿にぬいぐるみを持ち込んだ音之進は、眠るときもそのぬいぐるみを抱えて放さなかった。
    健やかに寝息を漏らす寝顔は、いかにも子供らしい。
    平之丞に写真を送ってやろうとカメラを向けると、ふと、昼間見た幻が脳裏を過った。アレは一体なんだったろうか。
    一瞬。ほんの一瞬、音之進が青年のように見えた。
    いいや、アレは本当に音之進だったろうか。見た時は、確かにそれが音之進だと思ったが、果たしてそう思ったことが正しいのかわからない。俺が見たモノは、なんだったのか。
    カメラをずらして直に寝顔を見ると、其処に居るのは幼い音之進に違いなかった。当たり前の話だが、その事実にホッとして寝顔を撮ると、いつかと同じように平之丞に送った。
    写真に添えて、お前に似ていると言って欲しがったぬいぐるみを抱いて寝ているのだと報せたら、程なくして平之丞から返信が来た。
    『どこが似てるんだ?』という端的な質問に笑いそうになる。色白で、優しそうな顔をしているところだろうかと思ったが、其れは敢えて報せずに「俺も聞きたい。」と返しておいた。意地が悪かったかもしれない。


    ***


     宿を出て、その日最初に向かったのは大型のホームセンターだった。山小屋には粗方のモノは揃っているが、買っておいたほうが良いと平之丞から送られてきたリストに従って、必要なモノを籠に放り込んでいく。
     ホームセンターを出た後は、少し先へ進んで、目的地に程近い場所に在るスーパーに立ち寄り、当面の食料を買い込んだ。荷物を全部詰め込むと、車の中は買い込んだもので溢れて窮屈に感じる程になった。
    「何処かに籠るのか?」
    「…どうだろうな」
     わざとはぐらかすようにそう答えると、音之進は怯えるどころか肩をすくめて笑ってみせた。
    「いよいよ誘拐っぽいな」
     挙句、出てきた台詞がそんな一言だったものだからさすがに呆れてしまう。
    「…お前、愉しんでるだろ?」
     溜息交じりにそう問いかけると、音之進は口の端を上げて「哀しむ方がいいか?」と問い返してきた。
    当然に「…いいや」と答えると、音之進は益々楽しげに笑って「そうだろう?」と答えると「籠るのなら、その前にアイスが食べたい」と宣った。逞しい子供だ、と感心するしかない。

    平之丞が手配してくれた山小屋は、森の中にぽつねんと佇むログハウス風の一軒家だった。
    地図では把握していたが、隣近所と呼べるような所に家はなく、一番近い民家でも車で五分程度はかかりそうな場所だ。車を走らせれば十分少々で買い物には行けるが、森に囲まれた家は、其処だけ、世間から切り離されているような気さえした。中へ入る前に、ぐるりと家の周りを見てみると、家の裏手には形ばかりの庭があり、その向こうには森が拡がっている。水の音が聞こえるから、近くに川があるのかもしれない。平屋づくりの山小屋には、其れなりの経年がみてとれたが、庭に面した部分作られているウッドデッキは、後から増築したのか、其処だけやけに真新しかった。

    表に回り、平之丞に言われた通りにポストのロックを外し中から鍵を取出す。ドアを開けると、人の住んでいない家特有の黴臭さは欠片も無くて、代わりに、木の匂いがした。
    そう広くはないが、子供と二人で過ごすには充分な広さだろう。リビングにキッチン、寝室の他に書庫もある。風呂は檜なのか、ゆったりとつくられていて二人でも入れそうな広さだった。
    電気も、水道も、ガスも通っている。携帯の電波は少し入り辛いようだけれど、平之丞と連絡を取るくらいは問題無さそうだ。
    「ここで暮らすのか?」
     家の中をきょろきょろと見て回っていた音之進のその声に「暫くはな」と短く答える。
    「食糧が無くなったら、買い物には行く。それ以外は、ここで二人きりだ」
     言葉を足して、音之進を振り返ると、音之進は「そうか」と零して「わかった」と呟いた。
     落ち着いているように見えるが、ぬいぐるみを抱えるその手には力が籠っていた。
    「…怖いか?」
     今更の様な質問に、音之進は瞬きをひとつして、真直ぐに俺を見詰めて答えた。
    「怖くない」と。
    「月島は、怖い人じゃない」
     きっぱりと、そう言い切る強い眼に「そうか」と答えることしか出来なかった。
     良心、というものがあるのならば、それに、咎められたような気がした。
    ***


    その日から、山小屋での二人暮らしが始まった。
     車で移動して、宿を転々とするのと、一つ所に留まって生活してみるのとでは、見える面も違って来るモノだと不思議に思った。
     音之進は好奇心旺盛な子だとは思っていたが、見聞きするだけでなく、何でも積極的にやりたがる子供だった。
    料理も、洗濯も、手伝うと言って聞かなかった。
    料理をするといっても、包丁を持たせるのは気が引けて、野菜を千切ったり分量を計ったりすることを任せた。
    洗濯は、洗濯物を干すには背が心許ないから、と、洗濯機の使い方を教え(といっても、スイッチを押すだけだが)出来ることをやらせてみた。
     一緒に飯を食って、洗濯物を干して。俺と音之進は、赤の他人同士で当たり前の『生活』をし続けた。
    昼間は山小屋の周辺の森や川に出掛けた。森で虫を捕まえてみたり、植物を観察したり。川では水遊びをして、カニを捕まえたり。退屈することはない。
    夜になると、辺りに灯りが無い所為か、夜空の星がよく見えるものだから、並んで星を見上げることもあった。
    星座というモノに興味を持ったことのない俺に、音之進は熱心に星の見方を教えてくれたが、俺は少しも覚えられそうになかった。けれども、音之進は其れを気にすることはなかった。実際、話している内容など、如何でも良かったのかも知れない。
    風呂には、大抵一緒に入るようになった。
    音之進の頬と、俺の首には、相変わらず傷のような痕が浮かんだり消えたりしている。山小屋に来てから頻々と浮かぶようになった気がするが、気のせいかしれない。
    痕が浮かぶと、音之進は決まって俺の首を撫でた。痛くはないのだといくら言っても止めないものだから、俺も真似をして、痕の浮かんだ音之進の頬を撫でるようになった。其れで、どうにかなるようなモノでもないのだけれど。手を離して、痕が消えているとその度にホッとした。
     雨の日は、山小屋の中で過ごした。
    小屋の書庫の中には、誰が置いたものか、どういう訳だか明治から昭和の歴史を記した本ばかりが並んでいた。
    暇つぶしに幾つか手に取ってはみたが、あまり興味は持てなかった。俺の真似をして本を手にした音之進は、漢字ばかりの本に理解が追いつかない所為か、本を捲り始めると、決まって直ぐに俺の隣で寝息を立てていた。本を抱えて音之進が眠ってしまうと、俺も隣で一緒に眠った。
     昼だけでなく、夜も、一緒に眠ることが次第に増えていった。寝室は同じで、ベッドは別にしていたのだが、心細いのか、音之進はいつもアザラシのぬいぐるみを抱えて眠っていた。そうして、時折アザラシを連れて俺のベッドにもきていたのだが、近頃はその頻度が増えている。
     今では、殆ど毎日一緒に眠るようになった。誰かと朝まで一緒に眠ったことなど無い人生で、最初の内は、少し煩わしくも思ったが、いつの間に、そんなことも思わなくなった。
     音之進と一緒に眠ると、不思議と、よく眠れるのだ。その所為だろうか。音之進と眠るようになってから、夢を見ることが増えた。
    なんだか懐かしい、温かな気持ちになる夢だ。
    それなのに、目覚めると、とても悲しい気持ちになる。
    繰返し、同じ夢を見ている気がするのだけれど、どうしてもその内容をはっきりとは思い出せない。夢とは、そうしたモノなのかもしれないが。

     眠って、起きて、一日を過ごして、また眠る。其れだけを繰返す俺と音之進は、傍目にはどんな風に見えるだろうか。
     監禁しているわけでもなし、誘拐犯と攫われた子供には見えないだろう。だとしたら、なんだろうか。
    兄弟、にしては似ていない。親子、に、見られても仕方ないだろうか。似てないことには変わりないが。そう言えば、一度はそんな風に間違われたこともあった。
     誘拐犯と攫われた子供。疑似誘拐とはいえ、そうである筈の関係が、なんだか、よく解らなくなってきた。
    何日、何週間と一緒に過ごしても、音之進は相変わらず家族の話をしない。帰りたいとも口にしない。
    宿題はやり終えたようだけれども、毎日ノートを拡げては何かしらの勉強はしているようだ。確認はしていないが。
    或は、そのノートを覗いたら、音之進が、何を考え、何を思っているか、少しは解るだろうか。
    音之進との日々は穏やかで、あまりに現実感が無い。
    時折、このまま、この時間が続けばいい。などと、ふと思っては怖くなる。
    此れでは、本当に攫ってしまいたくなりそうだと。
    そんな事を思って、怖くなる。
    怖くなるのだ。
    ***


    山小屋にテレビは置かれていなかったが、古いラジオは置かれていた。ダイヤルでチャンネルを合わせるような、随分とアナログなそのラジオは、使えるものかも怪しかったのだが、新しい電池を入れて適当に弄ってみたら、ローカル局の電波を拾うようになった。
    ラジオ体操をするか?と音之進に提案してみたが、其れは直ぐに却下された。そうなると、そのラジオ使い道といったら、天気予報の確認くらいになる。
    折角電波を拾えるようになったのに、其れももったいない気がして、朝食の時間だけラジオを流すようになった。
    ローカル局の朝のニュースは、平和な地域情報ばかりで、流れる筈の無い『幼児誘拐事件』のニュースなど流れそうも無い雰囲気だ。それならば、流していてもいいだろうと、一日の僅かの時間だけラジオを流すことにした。
    聞くとはなしに聞き流す、最高気温が何度になったとか、何処其処で珍しい花が咲いたとか、そんなニュースの合間に、その日聞こえてきたのは花火大会の報せだった。
    日付は今夜。開始時刻は十九時。場所は、山小屋からほんの少し車を走らせた所に在る港だという。
    「…花火…」
     朝食のおにぎりを食べる手を止めて、ラジオに聞き入っていた音之進がポツリと漏らした其の一言が食卓に落ちた。
    「見に行くか?」
     殆ど無意識に口をついて出たその言葉に、音之進はパッと顔を輝かせて「行く!」と叫んだ。
     ラジオからは、今夜は快晴で、絶好の花火日和になるだろうと告げる明るいアナウンサーの声が聞こえていた。

     ラジオが報せていた花火大会の場所を詳しく調べると、車を飛ばせば然程時間のかかる場所では無いと知れた。
     その花火大会と言うのはこの辺りではそれなりに有名で、普段は静かな港周辺も、その日だけは賑やかになるという。出店も多く、道も混雑する。車で行くなら、早めに行って、近場の公園辺りから見る方が良いという口コミが目立った。
     初めて行く、見知らぬ土地だ。先人の忠告は聞いておくべきだろう。口コミを信じて、午後のだいぶ早い時間に山小屋を出ることにした。
    「浴衣でもあればよかったな」
     車に乗り込んでから、ふとそんな事を思って口にした。完全に、イメージだけの話だ。偏見とも言うかも知れない。
    「着れるのか?」
     助手席から上がった驚きと疑問の混じったその声に「どうだろうな」と答えてから「着たことはあるか?」と問い掛けると、音之進は「あるぞ!」と答えた。
    「毎年、夏になるとかかどんが……っ」
     途中まで明るい声で話していた音之進は、急に言葉に詰まると俺から視線を逸らして窓の外を見始めた。
    「どうした?」と背中に問い掛けると、音之進は振り返らないまま「なんでんなか」とだけ答えた。
    『かかどん』というのは確か母親のことだ。いつもの夏は、母親に浴衣を着せてもらって花火を見ていたのだろうか。
    だとしたら、充分過ぎる程に愛されている証では無いか。そんな風に思うけれど、窓に映る音之進の暗い顔が気にかかる。何が、音之進にそんな顔をさせるのかが解らない。
    解らないけれども、その顔を見るのは、あまりいい気がしなかった。出来るなら、音之進には子供らしく笑っていて欲しいと思う。そう思うのは、俺の勝手なのかもしれないけれど。

    十分後。俺は音之進を連れて大型スーパーの子供服売り場に居た。子供服売り場なんてところに足を踏み入れたのは初めてだが、地元で花火大会があるならもしかして…と来てみて正解だった。予想した通り、売り場には子供用の安価な浴衣が売られていた。浴衣といっても、きちんとした品物では無く、上下に分れたそれらはひと夏着られたらいいというような作りのモノだ。それでも、きちんと着ればそれらしくは見える。花火を見に行くためだけなら充分なように思えた。
     吊られているモノの中から、音之進の背丈に合うモノを取出し、好きな柄を選べと言うと、音之進は「オイが選んでよかか!?」と驚いて、それから随分迷って一着を選んだ。
     音之進が選んだのは、白地に、青みがかった紫で花が染め抜かれているような柄のモノだった。花は、桔梗だろうか。
    「意外と渋い柄を選ぶな?」
     更衣室で着替えさせながらそう呟くと、音之進は少し不安そうに「おかしいか?」と訊ねてきた。
    「いいや。おかしくはない。」
    「まこち?」
    「まこ…?なんて意味だ、それ」
    「本当か?って…ほんまこち、おかしゅうなかか?」
    「おかしくない。よく似合ってる。」
    確り帯を結んでそう言ってやると、音之進は「あいがと」と、嬉しそうに笑ってみせた。
    「オイだけん浴衣は、こいが初めっじゃ」
    「浴衣、持ってなかったのか?」
     意外に思って漏れた言葉には、少し間をおいて「いつもは兄さぁのおさがりじゃっで…」と控え目な声が聞こえた。
    母親に、毎年着せられていたのは、兄の、平之丞のおさがりだったというわけだ。
    きっと、浴衣だけでは無いのだろう。
    音之進は、ずっと、平之丞のものを、平之丞を、なぞるように与えられてきたのかもしれない。そうして、何かを与えられるその度に、平之丞と重ねて見られてきたのだろうか。
    平之丞の事は嫌ってはいないのだろうし、寧ろ懐いているのだとは思うが、だとしても、子供なりに思う処は色々あるのだろう。
    「帯、きつくないか?」と問い掛けると、音之進はこくりと頷いて「平気だ」と答えた。
    「月島、はよ、花火見け行こ!」
     そう言って、俺の手を取った音之進は健気に笑っていた。
     安物でも、音之進が好んで選んだ浴衣は、本当によく似合っていた。

     口コミというのは頼りになるものだ。と、しみじみ思う。注意書きの通りに、会場近い港では無く、其処から少し離れた高台にある公園に向かうと、其処には既に同じ考えで来た人たちの姿が多く在った。そうした人たちをあてにした出店も幾つも並んでいて、公園は縁日のような賑わいだ。
     駐車場から遥か下の海沿いの道路を覗き見れば、花火の始まる前から渋滞が始まり、見る限り、少しも車が動いている様子がない。口コミを信じて正解だったということだ。
     予定の時間を少し遅れて上がり始めた花火は、小さなものから順に上がり、あたりが暗くなるにつれ、より大きく、派手なモノが次々に上がっていく。
     鮮やかな火が、花の咲くように次々と夜空に拡がっていく。その光景を、音之進と二人、手を繋いで見上げていると、何故だか、以前にもこんな事があったように錯覚した。
     此処ではない、何処かで、遠い昔に。こんな風に。
    音之進と二人、花火を見上げたことがあるような。そんな錯覚だ。勿論、そんなことがある筈が無い。
    音之進と会ったのはこの夏が初めてなのだ。一緒に過ごした記憶は、この夏のモノしかない。だからこそ、錯覚だと思うのだが、釈然とせず、ふと隣を見遣ると、音之進はいつの間に、花火から目を逸らして別の何かを熱心に見ていた。何を見ているのかと視線を追ってその先にあったのはかき氷の屋台だった。音之進と同じ年頃の子だろうか。小さな手には余るくらいのカップを大事そうに持って歩いているその姿が其処彼処に見える。
    「氷、食べるか?」
     聞く必要も無かったかと思ったが、訊ねると、音之進は「うん」と素直に勢いよく答えた。俺はこの返事が聞きたかったのかもしれない。
     屋台は直ぐそこに見えている。
    「買って来るから、ここで待っていろ。」
    「わかった」と答えた音之進が、ほんの少し不安そうな顔をしてみせたものだから「直ぐに戻る」と言い置いて早足で屋台に向かった。
     
    絆されている。と、思う。
     これは『ごっこ』とは言え『誘拐』の筈だのに、俺はそれらしく振る舞えているだろうか。
    答えはNOだろう。そんなことは、とっくに解っていた。
    俺は、音之進との時間を楽しんでいる。そのことに、俺は漸く気が付いた。
    いいや、気が付いたんじゃない。それを、認めることが出来た。そう言う方が、正しいだろう。認めたからと言って、何が変わるわけでもないのだけれど。

    屋台の列に少し並んで、漸く氷を買って元の場所へ戻ってみると、其処に居る筈の音之進の姿が無かった。
    「っ…音之進っ」
     声は無意識のうちに出ていた。
    「音之進、何処だ?何処に…っ」
    「月島!」
     焦る俺の声を遮ったのは、他でもない、音之進の声だった。なんてことはない、音之進は、ちゃんと言われた通り元の場所で待っていた。ぼんやりして戻る場所を間違えたのは俺の方だったのだ。
    「こっちだぞ!月島ぁ!」
     ぶんぶんと元気よく。笑いながら手を振る音之進の姿にホッとした所為だろうか。無意識のうちに、俺は音之進を抱き締めていた。
    「?月島?」
     耳元に聞こえる音之進の声には戸惑いが滲んでいた。
    「どうしたんだ?氷、融けてしまうぞ?」
     音之進の声の向うに、花火の上がる音を聞きながら、この夏が、終わるのが惜しいと、思った。
     思ってしまった。


    ***


    気付けば、暦は八月も半ばに差し掛かっていた。音之進の夏休みも、残り僅かだ。

     その日、買出しに出ると告げると、音之進は読みかけていた本を手に「オイが留守番すっ」と言った。当然ながら、その案は却下だ。
    「駄目だ。一緒に行くぞ。支度しろ。」
    「逃げたりせんぞ?」
    「わかってる」
    「通報もしないぞ?」
    「手段も無いからな」
    「だったら安心だろう?」
     全く動く気が無さそうな音之進に「駄目だ。」と繰返すと、音之進は眉間に皺を寄せた。
    「ないごて?」
    「ない…?」
    「なんでだ?って言った」
    「おまえを独りにしておくのが心配だからだ。」
     そう言い切ると音之進は開いたままだった本を閉じた。
    「そうか。それならしかたないな。」
     つきあってやる。と本を閉じて駆け寄ってきたその顔は、酷く嬉しそうに見えた。

    音之進は、よく笑うようになった。と、思う。
    空港で「攫った」当初に見せたような、皮肉の籠った、拗ねたような顔は暫く見ていない。棘のある物言いも、あまり聞かなくなった。
    時折、どこか寂しそうな顔をみせることには違いないのだけれど、それも、以前に見せていたモノとは少し変わってきたように思う。
    何が如何、と、聞かれると、説明に困るのだが。
    変わらないのは、家族の話をしないこと。そして、帰りたい。とは言わないことだ。そろそろ家族と離れてひと月になろうかというのに、それでも、音之進はその点だけは変わらなかった。
    変わったのは、俺への態度だろうか。よく、懐かれている、と、思う。始めから、そう嫌われてはいなかったと思うが、それでも、随分懐いてくれた。
    時折、勝手な行動をとられることもあるが、素直に笑顔を向けてくれることが格段に増えた。

    音之進は、俺をどう思っているだろうか。
    兄のように思ってくれているだろうか。
    平之丞の、代りだと、思っているだろうか。
    それを、聞ける日は、くるだろうか…。

    車を走らせ、向かったのは山小屋から一番近くにあるスーパーだ。大きな店ではないが、必要なモノは大抵揃う。
    カレンダーの残りの日数を考えながら、ひとつひとつ籠の中に買い足すモノを入れていくと、これも必要だ!と、音之進は大きなアイスの箱を抱えてきた。そのくらいの愉しみは必要だろう。と、俺はアイスを籠に入れることを許可した。
    「他に欲しいモノは無いのか?」
     レジに並ぶ前に問い掛けると、音之進は「ない」と言いながら、レジ脇に視線を向けていたものだから、其処に欲しいモノがあるらしいことは直ぐに解った。
     並んでいたのは花火だった。家庭の庭先で出来るような、手持ち花火のセットが幾つか並んでいる。
     黙ってじっと見ている辺り、余程気になっているのだろう。音之進が見ている目の前で並んでいる内のひとつを手に取って籠に入れると、音之進は俺の腕に縋りついて「花火、やるのか?」と驚いた様子で聞いてきた。
    「夜になったらな」と答えてやると、音之進は満面の笑みを見せた。


    ***


     海辺と違って、山は夜が迫って来るのが早い。
     夕方に陽が落ちると、見る間に森の奥から闇が拡がっていく。けれども、辺り一帯が濃紺に染まり、月が昇って星が輝き始めると、再び明るくなるのだ。
     地面を照り付ける昼の暴力的な明るさとは違う、薄明かりを燈したような夜の静かな灯りは孤独や、寂しさに寄り添うようだ。

    「小さい花火もキレイだな」
     既に何本目かの花火を手に、音之進は上機嫌だ。
     花火をするのだから!と、浴衣を着たがった音之進に、花火大会の時に買ってやった浴衣を着せてやったのは日が落ちてからのことだった。
     山小屋の裏の、小さな庭にバケツを置いて、音之進に持たせた花火にライターで火を点けてやると、色とりどりの小さな火花が手先で跳ねる。
    「火傷するなよ?」
    念の為、と注意をしたら「平気じゃ」と花火を持ったまま振り返った音之進に此方が火傷をさせられそうになった。
    「月島は、誰かと花火をしたことがあるか?」
     手元で爆ぜる火を見詰めながら、音之進が不意にそんなことを聞いてきた。
    「したことが…っていうのは、こういう花火を、か?」
     確認の為に問い返すと、音之進はこくりと頷いた。
    「どうだったかな。…あまり記憶にないな」
    「じゃぁ、この前みたいな大きな花火を見に行ったりは?」
     手元から、俺に流れてきた視線に気付いて其方へ振り替えると、大きな丸い眼がじっと俺を見詰めていた。真直ぐな。余りに真直ぐなその瞳に嘘は吐けそうになかった。
    「…それは、あるな」
     記憶の奥底に沈んでいる儚い思い出を振返ってそう告げると、音之進は「そうか」と小さく零した。
    「誰と行ったんだ?」
    「内緒」
    「恋人か?」
    はぐらかした答えに食い下がるその問いに吹き出してしまう。こんな年の子供でも、そんな話をするのかと妙な感心まで抱いてしまった。
    「さぁ…そう呼べるような人じゃぁなかったかもな」
     事実『恋人』では無かったその人を思い出す。
     佐渡の田舎町で、俺の唯一の拠り所だった幼馴染。
    癖っ毛が特徴の、心根の優しいその人は、高校を卒業するとあっと言う間に嫁いで行った。俺は少しも知らなかったのだが、彼女と、彼女の嫁ぎ先の何処だかの御曹司とは、子供の頃からの付き合いだったらしい。毎年、休みの度に島に遊びに来ては、家族ぐるみの付き合いをしていたという。
    高校を卒業したら、島を出て嫁ぐという話も随分昔に決まっていたと知ったのは、彼女が島を去った後だった。
    一度だけ、その彼女と、一緒に花火を見たことがある。
    遠くに、対岸の港から上がる花火を二人で並んでみた。彼女が島で過ごした最後の夏のことだ。手を繋ぐこともなく、ただ、一緒に上がる花火を見た。ただ、それだけだった。
    「楽しかったか?」
     見詰めて来る音之進のその眼に、手元で爆ぜる花火の火花が写っている。
    「…お前と見た花火の方が楽しかったよ」
     笑ってそう告げると、音之進は驚いたその顔をじわりと笑顔に変えて「オイも!」と声を上げた。
    「月島と見たのが一等楽しかった!」
     今も愉しいぞ!と、新しい花火を手にとって、早く火を点けろと強請る音之進が愛おしい。
    愛おしい、と、思うまでに、なってしまった。


    ***


    深夜、音之進の寝息を確認してからそっと寝室を出る。リビングの窓を開け、ウッドデッキに出て空を見上げると、夜の紺色には今にも降り出しそうなほど星が浮かんでいた。
    昼の暑さがまるで嘘のように、夜の山の空気はしんと冷えている。月や星で薄らと明るいが、森の奥は濃紺に沈んでいて、其の奥に何が潜んでいるか解らないくらいだ。
    もしも、今ここで、森の奥から熊でも出て来て襲われたら。そうして、山小屋に音之進を残して命を落したら。俺は完全に『誘拐犯』になるだろうか。その辺りは、平之丞が上手くやるだろうが。音之進はどうなるだろう。
    俺が息絶えた後に、熊に襲われたら。或は、熊でなくとも、何処の誰とも知らぬ輩に襲われたら。考えただけでゾッとする。何かに襲われて死ぬのなら、せめて音之進の無事を確保してからでないと…などと、在り得もしない妄想に囚われかける自身に呆れるしかない。
     溜息を吐いて、ゆっくりと深呼吸する。空に浮かぶ星を見ながら久しぶりに平之丞の番号を呼び出した。
    『何かあったか?』
     平之丞の、第一声はそれだった。
     いいや、なにも。と答えると『そうか』と小さく笑っていたが、暫く安否を報せていない弟のことは、やはり気にはなっているのだろう。当たり前の話だが。
    「怪我の具合はどうだ?」
    『もう退院してる。通院はしているが、来週には普通に歩けそうだ』
     走るのは未だ止められているけれど。と、笑う平之丞に「よかったな」と答えながら、如何話を切り出そうか模索してみたが、タイミングがつかめない。
     それ以前に、平之丞と話をしないと。と、思いはしたものの、何を話したいのか、俺自身が解っていないのだ。
    「なぁ、平之丞、」
     解っていないなりに、どうにかしなければと気は急いた。
    けれども「どうして…」と、その先を問おうとした声は、先に口を開いた平之丞の一言に止められた。
    「もうすぐ、夏休みが終わるな…」
     聞こえた言葉に、ドキリとする。
    「…そう、だな」
     返事は、無意識のうちにぎこちないモノになった。
    『月島』と、俺を呼ぶ平之丞の声は穏やかだ。
    『近いうちに、また連絡するよ』
     静かに、そう告げると、平之丞は俺の返事を待たずに通話を切った。
     今は、何の話もする気はないという意思の表れだろうか。平之丞は、近い内に連絡を寄越すとそう言った。
     ならば、其の連絡とは、いつ、どうやって、音之進を引き渡すかの話だろう。
     もう直ぐ、夏は終わるのだ。

    「つきしま?」
     掠れたその声に振り返ると、いつの間に起きてきたのか、リビングに音之進の姿が在った。
     慌てて部屋の中に戻り、眠そうに目を擦る音之進に「どうした?」と声を掛けると、音之進は半分ほどしか開いていない眼を瞬かせて「つきしま…おらんやったで…」と呟いた。
     夜更けに目を覚ましたら、俺が居なくて捜しに来たということなのだろう。
    「目が覚めたから、外で涼んでいたんだ。もう戻る」
    「もどる?」
    「あぁ。ベッドに戻ろう。まだ夜中だ」
     ぼんやりと突っ立ったままの音之進の背中に手を添えて、寝室に戻るように勧めると、音之進は何を思ったのか、ぎゅう、と、俺にしがみついてきた。
     俺の腹に、顔を埋めるようにして、ぴったりとくっついて来る。
    「音之進?」
    「…つきしまぁ」
     いつにない音之進の行動に困惑する俺の耳に届いたのは、シャツに埋もれてくぐもったその声だった。
    「お願いじゃっで、どけもいかんで…」
     シャツを掴む、小さな手は頼りない。
    「ずぅっと、おいと居ろごた…」
    賢明に縋って来るその手は、あまりに健気で、泣きたいような気分になる。
     くっついて、離れそうも無い音之進の小さな頭を撫でてやると、微かに鼻を啜る音がした。
     泣きたいのは、俺だけでは無いのだと、知れたら、余計に泣きたくなった。


    ***

    その晩、夢を見た。
    いつも通りの、靄の掛かったような夢だ。
    深い霧の中に居るような、或は、風吹の中だろうか。温度は感じない。ただ、ただ、白く、霞掛かったその世界で、俺は宛も無く歩いていた。
    北か、南か。東か、西か。進む先に路はあるのか。何も解らない。解らないけれど、進むしかないのだと只管歩き続けると、遥か向こうから声が聞こえてきた。
    『月島ぁ!』
     快活に、俺を呼ぶその声に顔を上げると、真白な世界に、其処だけ鮮やかに、その人の姿が浮かんでくる。
     軍服のようなモノを着た青年は、何処かで見たような面差しをしていて、目を凝らす内、それが音之進の成長した姿のように見えた。
     そんなところで何をしているんだ。独りで先へ行くなと言っただろう。俺の傍を離れないでくれ。

    『鯉登少尉殿!』
     
    ハッとして目を覚ますと、山小屋の天上が見えた。隣には、俺にくっついて眠る『音之進』がいる。
    「…少尉…殿…」
     夢の中で、自分が口にしたその名を声にする。
    「…鯉登、閣下…」
     幼い姿で眠るその人の頬に傷はない。頬だけでなく、その身体の何処にも、未だ何の傷も無いのだ。
     俺は、其れを知っている。
     嘗ては、その頬に、その身体に、幾つも傷が在ったことを。その傷を、嘆き、慈しんだことを、知っている。
     震え掛かる手で、静かに寝息を立てる小さな身体をソッと抱き寄せる。
    「…音之進…」
     その名を呼ぶと、腕の中の身体が微かに震えて、ほんの少し笑ったようで、俺はいよいよ込み上げて来る涙を堪えきれなくなった。
     堪えきれる、筈が無かった。


    ***


    「森へ行ってもいいか?」
     翌朝、音之進は夜中に俺にしがみついた事などまるで覚えていない様子で、けろりとして朝食を食べ終えると、そう言っていそいそと一人で身支度を始めた。
    「俺も一緒に行くから、少し待て。」
     片付けをしながらそう告げると、音之進は「いいのか?」と駆け寄ってきた。
     いつもなら、付き合えと煩いくらいなのに珍しく殊勝なことをいうものだから「どうした?」と訊ねると、音之進は神妙な顔をして「じゃっで」と零した。
    「月島、わっぜ疲れちょっごたっで…」
     気遣うその声音と、伺うようなその視線に驚かなかったと言ったら嘘だ。子供は案外よく見ているものだというが、昨夜の『夢』を引き摺っている俺を、音之進は確り見ているということだろう。
    「ちゃんと帰ってくっ!そげん遠くへは行かんで、ひとりで平気じゃ」
     俺を気遣っての言葉なのだろう。ひとりで大丈夫だと訴える音之進の頭を撫でて「俺が平気じゃない」と告げると、音之進はようやく口を噤んだ。
    「前にも言ったろ。お前をひとりにするのは心配だ。だからついていく。それでいいな?」
     諭すようにそう告げると、音之進はふわりと笑って「わかった」と呟いて「オイも、月島が居る方が安心じゃ」と小さく零した。


    ***


     山小屋を取り囲むように在る森は、近頃まで誰かに管理されていたモノなのか、奥まで径が整備されていた。季節の所為か、今では手入れされていないのか、所々雑草や木々の枝に埋もれかけてはいるが、未だ充分歩くことは出来る。
     とは言え、子供一人を歩かせるのはやはり物騒な場所だ。茂みの奥から野生動物が飛び出してきても不思議では無い。
    「珍しか蝶がおったんじゃ」
     径を進みながら、音之進はそう口にした。
    「蝶?」
    「あんまり見たことなか羽の色をしとった」
    「どんな色だ?」
    「黒と蒼。わっぜきれいやった」
     うっとりと語る音之進の眼には、美しい其の蝶の姿が浮かんでいるのだろう。
    「こん前、庭に飛んできちょった。森に飛んでいったで、きっとこん森にいっはずじゃ」
     きょろきょろと、辺りを見渡しながら進む音之進は、ずっと蝶を探していたのだとその時になってはじめてわかった。
    「わっぜキレイやったで、月島にも見せとうて。捕めて来ようち思うたんじゃ…」
     俺の為に、探しているのだと。

    森の中を歩いていたのは、どれくらいの時間だったろうか。気が付けば、陽は高く昇り、木々が陽を遮る森の中とはいえ、気温もかなり上がっていた。
    「もう、ここには居ないのかも知れないな」
     少し前を歩く音之進の背中にそう声を掛けると、小さな背中はぴたりと動きを止めて、落胆を滲ませた。
    「月島にも見せよごたったんに…」
    「その気持ちだけで充分だ」
     俯く音之進の肩を抱いて「帰ろう」と告げると、音之進は諦めたように小さく「うん」と答えた。
     どんなものだか、見てみたくはあった。
     けれども、例え見られなくても、音之進が其れを俺に見せたいと思ってくれた。その事が、ただ、嬉しかった。それだけで、充分だ。そう、思った矢先だった。
     帰り掛かるその目の前を、ふわりと、蒼が横切った。
     蝶だ。と、気付いたのは、その後だ。黒地の羽に、蒼い紋様が美しい。それは正しく蝶だった。
     アレだけ捜していたというのに、一体何処にいたものか。突如目の前に現れたその美しい蝶は、ふわふわと暫くその場で舞っていたかと思うと、不意に森の奥へと飛び去った。
     それは、ほんの僅かの時間にも、とても長い時間のようにも思えた。
     呆気に取られて、呆然と見守る内、蝶は森の奥へ消えていった。追い掛けたところで、もう見付けられはしないのだろう。
    「居たな」
    「居た」
    「確かに、あれはキレイだ」
    「じゃろう?」
     呆然と呟いた一言に、音之進は満面の笑みを見せた。
    月島に見せられてよかった、と、笑う音之進が愛おしくて、愛おしくて、堪らなかった。
    あの頃の、閣下もそうだった。
     珍しいもの、美しいもの、気に入ったモノを見付けると、何だって俺に見せてくれた。
     少尉時代から、別れの間際まで、生涯、その気質は変わらなかった。そして、今も…
    何も、覚えていなくても、この子は閣下に違いない。
    俺の愛した、あの人に違いないのだ。


    ***


    その晩、音之進を早くに寝かしつけると、平之丞に電話をかけた。連絡をするという言葉を待った方が良かったのかも知れないが、待ち続けていると、俺の方が、色んな我慢がきかなくなりそうで、待ってなど居られなかった。
    『どうしたんだ?』と、電話口で笑った平之丞に「俺はいつまで音之進と一緒にいられる?」と其れだけを問うと、平之丞は微かに息を呑む気配をさせた。
    『二十八日の、鹿児島行きの飛行機をとってある。』
     聞こえたのはその返事だった。
    「その日まで、預かっていてもいいか?」
     返答はない。
    「必ず、間に合うように、羽田に連れて行く。」
     言葉を重ねると、漸く『解った』と返事が聞こえた。
    『月島』と俺を呼んだ平之丞は、長い沈黙の後、ふぅ、とひとつ息を吐くと『いや、この話は、またにしよう』と静かに漏らした。
    「…平之丞」
    『うん。』
    「…感謝する。」
     それだけを伝えると、平之丞は電話口で小さく笑って『俺の方こそだ』と告げて通話を切った。


    ***


    その日、朝早くに音之進を起こすと、音之進はあからさまに不機嫌な顔を見せたが、次の瞬間には笑顔になった。
    「動物園、行くか?」と、其の一言を投げたからだ。
    答えは当然「行く!」の一言だった。
     山小屋から動物園までは相当の距離がある。だからこそ、早朝に起こしたのだが、はしゃいで車に乗り込んだ音之進は車の中で眠るどころか、ずっと上機嫌に話していた。
     一日居ていいのか、どんな動物がいるのか楽しみだとか、小さい動物に触りたいだとか、飽きる様子も無くひとりで楽しげに話す姿に、嘗ての『鯉登少尉』の姿が重なった。振返ってみれば、水族館の時もそうだったではないか。小さな動物が好きなのは、あの頃と変わらないのだろう。
     園内に入っても、上機嫌なのは変わらなかった。水族館へ出掛けた時のことが効いているのか、或は、花火大会でのことか。何が幸いしたかはわからないが、音之進はずっと俺と手を繋いで離さずにいる。
     手を繋いだまま、園内をくまなく回り、時に抱き上げたり、肩車をしてみたり。いつも通り。ごく当たり前の、兄弟だか、親子だかに見えるように振る舞うのにももう慣れた。それなのに…
    「月島、どうかしたのか?」
     一通り廻って、ベンチで休憩していると、音之進はそんなことを口にした。
    「何がだ?どうもしないぞ」
     笑ってみせても、子供の目は、閣下の眼は誤魔化せないらしい。
    「なんか変だ。元気が無い」
    「そうか?暑さの所為だろ」
     へらりと笑ってみせると、音之進はしかめっ面をして「そうか?」と訝しむと、ぐい、と俺の手を引いて立たせた。
    「!?音之進!?」
    「涼しい所に行こう!アイス食べたら治るんじゃないか?」
     ぐいぐいと腕を引きながら、目を輝かせてそういう音之進はきっと自分がアイスを食べたいだけなのだろうけれど。「そうだな」と答えて、俺は腕を引かれるまま売店に足を向けた。

     五分後、俺の手にはアイスが握られていた。勿論、隣に座る音之進も右に同じくである。
    「他に見たい所はあるか?」
     アイスを舐めながら問いかけると、音之進は「見たいのは全部見た」と答えてアイスに夢中になっていた。
    「今日は、ぬいぐるみはいいのか?」
     冗談半分に聞いてみると「見に行ってもいいか?」と、きらきらとした眼で見詰められてしまったから、駄目だ。とは言えなくなってしまった。
     元より、駄目だなんて、言う気は無かったかも知れない。
     恐らくこれが、二人で出掛ける最後になるのだから。音之進が望むモノは、なんだって与えてやりたかった。
    「欲しいのが見つかったら、ちゃんと言えよ?」
     溶けかかるアイスを舐めながらそう告げると、音之進は、うん。と素直な返事を寄越しながら、少しも俺の方は見ずにアイスを食べるのに必死になっていた。みれば、アイスを持った手は溶けたクリームで濡れている。
     自分は如何だと見てみれば、変わったモノでは無かった。急いで自分の分を片付けて、ウェットティッシュで雑に手を拭う。
    暫く待って音之進が漸く食べ終わると、クリームで汚れたその手を取って引きよせた。
    夏の間、何度となく繋いでいたその手は、記憶の中にあるあの人の手とはまるで違うモノだ。
    けれども、その爪の形は記憶の其れとそっくり同じようなきがして、不意に愛おしさが込み上げる。
    「つきしま?」
     あまりに長く、手を掴んだままでいたからだろう。クリームに濡れた小さな手をぼんやりと見詰め続ける俺の顔を、音之進は不思議そうにのぞき込んできた。
    「おいの手が、どうかしたか?」
    「いや、その、っ爪を、切った方が、イイかと思って…」
     苦しい言い訳に、音之進は再び首をかしげて「そうか?」と呟いた。
    「それより、べたべたなの気持ち悪い」
     そう言って唇を尖らせた音之進に救われただろうか。
    「直ぐ、拭いてやるからな」
     誤魔化すようにそう言って新しいウェットティッシュを取り出す。頭を過った不埒な考え事拭うように音之進の手を拭い、次いで、口許も拭ってやると、音之進は世話を焼かれているその間、黙って俺を見続けていた。
    「月島ぁ」
     呼ばれた声に視線を上げると、音之進と眼が合った。
    「もう、手ぇ繋いでよか?」
     キレイになったから、繋いでいいかと聞いて来るその声に、答える代わりに手を繋ぐと、音之進は満足そうな笑みを見せて「行こう」と歩き始めた。
     この手に引かれていくのなら、何処へだって行ってやろう。そう、思ったくらいだのに、売店に辿り着くと、音之進はあっさりと俺の手を振り切って売り場に掛けて行った。
    苦笑いしか出ないが、子供というモノは、そんなモノなのかもしれない。

     しばらく様子を見ていると、音之進は何かを掴んで、そのまま真直ぐレジへ向かった。
    「決まったのか?」
    「決まった!」
     振り返ってそう答えた音之進は、俺が近付こうとするのを片手で制して「これはオイが買おごたっ」と続けた。
     何を選んだのかはわからないが、どうやら、今日は自分で買いたいらしい。小遣いを持たされているとは聞いていたが、この夏の間、其れを使わせることは終ぞしなかった。
     これが、音之進のこの夏最初の買い物だろう。
    会計を終え、袋を手に戻って来た音之進は、俺の前に立つと中から包みを一つ取出した。
    「ん。」
     ずい、と包みを差出されて面喰う。
    「ん?」
    「月島にやっ」
     受け取れ。と、押し付けられる包みを受取ると、期待の籠った眼差しが刺さるようで、俺はその期待に応えるべく、貰ったばかりの包みをその場で開けた。
    中に入っていたのは、小さなキーホルダーだ。手の平に収まる程の大きさのそれは、動物の形をしている。あまり見慣れない動物のようだが、何処か見覚えのあるその形が何であるか。理解するのには少し時間がかかった。
    「…もしかして、くずり、なのか?」
     あの人とは、縁のあった動物には違いない。
    「なにかわらかん。けど、それが良い気がした。」
     別のがいいか?と聞いて来る音之進に「いや」と答える。
    「これがいい。気に入った。」
     音之進を、あの人を、想うのに、これ以外の選択はない。
    「…大事にするよ。」
    笑ってみせると、音之進はホッとしたように「よかった」と呟くと、声を弾ませ「オイもお揃いにした」と同じキーホルダーを掲げてみせた。眩しいくらいの、笑顔だった。


    ***


    八月二十七日
     俺が、音之進と一緒に過ごせる最後のその日、特別な事は何もしなかった。
     いつもと変わらない時間に起きて、一緒に朝食を食べ、食器を片付ける。音之進は、食器を拭くのが上手くなった。片付けが終わると、今度は洗濯だ。音之進に洗濯機のスイッチを入れるように頼んで、洗濯が終わるまでの間に簡単な掃除をする。出しっぱなしにしている本を片付けるよう音之進を叱ったら、後で読むんだと言い返された。
     洗濯が終わると、洗濯物を籠に入れて、庭に運ぶ。音之進から手渡される一枚一枚を拡げては、干していく。この天気では、昼前には全部乾くだろう。
     空になった洗濯籠を抱えて山小屋に戻ると、音之進はさっき読むと言っていた本を本当に読み始めた。書庫から持ってきたのだろうその本は、明治の頃の街並みや、人々の生活の様子が収められた写真集のようなモノで、この所、音之進が気に入って暇さえあれば眺めている一冊だ。
     もしや、と思うが、昔のことは何も思い出さないようだ。
     その事実にホッとしながら、ほんの少し落胆している自分は、本当に、勝手なのだろう。
     昼になると、冷蔵庫に残っている食材で簡単な食事を作った。料理は、得意と言えるような腕では無かったが、音之進と過ごす内に、少しはましなモノが作れるようになった気がする。気のせいかしれないが。
     午後は、洗濯物を片付けると、森に行きたいという音之進を連れて森を歩いた。いつか見た蝶には出逢わなかったが、代りに、キレイな花を見付けた。白地に薄紫のその花の名を何と言うかは知らないけれど、音之進は随分気に入って「また見に来よう」と帰る道すがら、ずっと言っていた。肯定の返事は、返してやれなかった。
     散歩から帰ると、音之進は少し疲れたと言ってリビングのソファで寝息を立て始めた。音之進が眠っているその間に、極力物音を立てないようにして、或る程度の荷物を纏めておく。明日、速やかに音之進を帰してやるための荷物だ。パッキングが終わったら、車に乗せておく。
     不思議と気持ちは凪いでいた。俺は本当に、いつも通り、過ごせていたと思う。そのつもりだった。
     音之進が目を覚ますと、一緒に夕飯の用意をして、風呂にも一緒に入った。
     一緒に過ごす間、何度となく俺の首や音之進の頬に現れては消えていた痣は、その晩、浮かんでは来なかった。
     寝室でも、いつも通り…と、思ったが、その晩、音之進は「一緒に寝てもいいか?」と訊ねてきた。
     一緒に眠る事など珍しくも無い。何も訊ねずに当然のようにぬいぐるみを抱えて俺のベッドに潜り込んできていた筈だのに、その時だけ、確認してきたのは何故なのか。
     買って以来、寝る時は片時も手放さなかったアザラシのぬいぐるみは音之進のベッドに置かれたままだった。
     いつも通り過ごしていたつもりが、そうではなかったろうか。何も言わずとも、音之進は何かを察しているのかもしれない。
    「おいで」と手招いてやると、音之進はベッドに上がり、一緒に眠るときはいつもそうだったように、ぴったりと俺にくっついてきた。
     互いの体温を感じながら「おやすみ。」と言い合って、目を閉じる。
     灯りを落した暗い部屋に「月島」と小さく聞こえたのは不意のことだった。
    「どうした?」と短く問うと、腕の中で、音之進が微かに身じろいだ。
    「今年の夏は、楽しかった」
     音之進のその声は、酷く穏やかなモノだった。
    「…そうか」
    「月島は、楽しかったか?」
    「…あぁ、楽しかった」
    俺の答えに「そうか」と零した音之進は「それなら、良かった」と呟くと、静かな寝息を立て始めた。
    ピタリと寄り添ってくる小さなその身体を抱き寄せると、日向の匂いがした。泣いてはいけない。と、そればかり、考えていた。


    ***


     八月二十八日、その日の朝。
     朝食を終えて「出掛けるぞ」と告げると、いつもなら、何処へ行くのかとはしゃいでいた音之進は、ただ静かに「わかった」と答えるときちんと身支度をして、ベッドに置いていたアザラシのぬいぐるみを抱えて車に乗り込んだ。
    トランクには、昨日積んだ音之進の荷物が収まっている。
     車の中でも、会話らしい会話は無かった。最後だというのに。最後だからか。
     俺は黙って車を走らせ、音之進は何処に向かっているか、聞こうとしなかった。
     音之進は、きっともう解っているのだろう。解っていたのかもしれない。何時から、何処まで解っていて、其れをどう思っていたかは知れないけれど。
     
     空港に着いたのは昼前だった。平之丞と約束した時間にはちょうどいいくらいだ。
     けれども、ここへ来て、音之進の抵抗を受けた。「降りろ」と言っても、音之進は降りようとしないのだ。
    「音之進」と、諭すように名を呼んでも「嫌だ」と繰返す。
    「いいから降りろ」
    「嫌だと言ったら嫌だっ」
    「嫌って…」
    「山小屋に帰ったら降りるっ」
    「それはダメだ」
    「だったら嫌だっ」
     こんな駄々をこねられるのは初めてのことだった。
    「ずっと車に居るわけにはいかないだろ」
     溜息交じりにそう告げると「山小屋に帰ったら降りる」と繰返された。
    「だから、其れはダメだと…」
    「ここで降りたら、月島とはお別れなんじゃろう?」
     そう言った音之進の声は震えていた。
    「オイと居るのに飽きたか?オイが我儘ばっかり言うから、もう嫌になったのか?」
    「違う。そうじゃない。そんなことは…」
    「オイは月島とおろごたっ」
     叫ぶようなその声に、胸が詰まる。
    「月島と、離れよごたなか…」
     音之進の大きな瞳から、今にも涙が零れそうになるのを見るにつけ、どう答えていいかわからなくなる。
    「月島…つきしま、オイは…」
    「音之進」
     名を呼ぶと、音之進は潤んだその眼で縋るように俺を見詰めてきた。
     いっそ、このまま本当に攫って逃げてしまおうか。一瞬、そんな暗い考えが頭を過る。
     勿論、そんなことは、出来ないが。今から告げることは、その代わりになるだろうか。
    「ひとつ、約束をしよう。」
     冷静に、落ち着いて。そう告げると、音之進は「約束」と繰返した。
    「そうだ。約束だ。」
     小さな唇が、キュッと結ばれて俺の言葉を待つ。
    「音之進が二十歳になったら…その年の夏まで、俺を忘れずに居てくれたら、また会おう。」
    「そんな先まで、会えないのか?」
    「忘れてしまうか?」
    「っ忘れるもんか」
     噛みつくように答えるその声に「そう願うよ」と笑ってしまった。
    「その時になったら、迎えに来てくれるのか?」
    「そうしたいが、何処にいるか解らないからな」
    「じゃぁ、どうしたらいい?」
     必死に問うてくる音之進に、どう答えるか、考える。
    「…待ち合わせをしよう」
    「待合せ?」
    「そうだな…花火を見に行ったあの公園はどうだ?あそこなら、十二年経ってもあまり変わらないだろう…」
    「十二年…」
     呆然と呟く音之進には、途方も無い時間のように思えるだろう。俺にとっても、長い時間になることには違いない。けれども、先に希望があれば、きっと瞬く間だ。
    「日付は…今日と同じにしよう。八月二十八日。」
    「十二年後の八月二十八日…」
     繰返す音之進に「そうだ」と頷く。
    「音之進が、俺を覚えていてくれたなら、また会おう。」
     静かにそう告げると、瞬きをした音之進の瞳から、一筋だけ雫が落ちた。
    「覚えちょい。忘れたりせん。」
     真直ぐに見詰めて来る瞳には、俺が写っている。
    「絶対行っで、月島も、オイんこっ忘れじ…約束、覚えちょって…」
     ぎゅうと、ぬいぐるみを抱き締めて、確かめるようにそう告げた音之進を、その姿を、その声を、忘れることは無いだろう。
    「あぁ、忘れたりしない。」
     二度と、あなたを、忘れたりするものか。

    駐車場から僅かの距離を、手を繋いで空港ロビーに向かう。
    約束の時間のほんの少し前に指定された場所に辿り着くと、平之丞は既にその場で俺たちの到着を待っていた。
    「兄さぁ…」
     音之進が小さく漏らしたその声に、そっと手を離す。
    「…真直ぐいけ。振り返るな。」
     告げると、音之進は一度だけ俺の方を見た。
    「…またな。」と、小さく笑ってやると、音之進は泣きそうな顔で無理に笑って「うん」と頷いた。
    「またな。つきしま。」
     言い置いて、音之進が歩き始めると、此方に気付いた平之丞と目配せをして、音之進が振り返らない内に、逃げるようにその場を去った。
    「月島」と俺を呼ぶ音之進の声が聞こえた気がしたけれど、振返りはしなかった。


    ***


    ひとり帰り付いた山小屋は、やけに広く感じられた。
    誰の声も、気配も無い。静かな小屋の中に独りきりだ。
    ほんの数週間、過ごした小屋の中をぐるりと見渡すと、其処彼処に音之進の幻が浮かんでくるようだ。
    ふと、ソファを見ると、本が一冊残されていた。近付いて手に取ってみると、其れは音之進が繰返し眺めていたその本だった。明治の街並みや、人々の生活を切り取った古い写真集だ。じっくり手に取ってみたことは無かったそれを手に取り、頁を捲ろうとすると、癖になっているのか、或るページが開いた。
    見開きの、そのページに掲載されていたのは明治末期の函館の景色だった。
    そうと気付いた瞬間、背筋が泡立った。函館は、俺と、あの人にとって、特別な場所だ。
    音之進は、あの人は、昔を思い出していたというのだろうか。いいや、そんな素振りは見えなかった。だとしたら、無意識に、或は、意識の奥底で、音之進はこの場所に惹かれていたということだろうか。
    聞いたところで、真意が解るとは限らない。そのページが開いたのも、たんなる偶然かもしれない。けれども、もしも、もしも音之進の中に、欠片でも「あの人」が居るのならば、再び会えるだろうかと期待してしまう。
    この先の十二年を、待っていいのかと期待してしまう。


    ***


    平之丞からの着信は、小屋の中をキレイに片付けた頃だった。
    『今、何処にいる?』
    「未だ山小屋だ。今晩もう一晩泊って、明日帰る。鍵は元のポストに戻しておいたのでいいか?」
    『あぁ、そうしてくれ。色々と、世話になったな。』
     控えめなその声は、傍に音之進がいる所為だろうか。
    「無事に、鹿児島か?」
    『あぁ。音之進と一緒に、実家に戻っているよ。』
    「…音之進は」
    『さっきようやく寝てくれた所だ』
     苦笑交じりに告げた平之丞は、一拍置くと『なぁ』と呼び掛けて『俺たちの計画は、ばれていたのか?』と聞いてきた。
    「何か言っていたか?」
    『いいや。でも…』
    「でも?」
    『一発殴られた。』
    「殴られ…え!?」
    『こざかしい真似をするな、ってさ』
     平之丞は愉快そうに笑ってそう言ったが、俺は動揺を隠せなかった。
    「…ばれていたのか?いつから?」
    『わからん。わからんが、何かは察していたのかもな』
     うちの弟は賢いんだ。と、平之丞は笑っていた。
    『お前の話ばかり聞かされたよ。』
     どんな話を、どんな風に、話したのだろう。
    『…感謝してる』
    「それは…俺の方だ」
     聞こえた言葉に、本心からそう告げると、平之丞が電話口で息を呑んだのがわかった。
    「…なぁ、平之丞、ひとつ聞きたいんだが、お前…もしや」
    『月島』
     言い掛けた言葉は、然しその声に遮られた。
    『音之進が、お前を恋しがっている』
    「平之丞…」
    『また、弟に…音之進に会ってやってくれ』
     切実な、その声に、何を聞けただろうか。
    「…覚えていてくれてたらな」
     やっとの思いでそう返すと、平之丞は小さく笑った。
    『覚えているさ。忘れるものか。』
    「…どうだろうな」
    『俺が保証するよ。』
     きっぱりと言い切った平之丞は、通話を着る間際、静かに俺を呼んだ。
    『月島軍曹殿』と。
     絶句する俺に聞こえたのは『…音之進を頼みます。』と続いた一言だった。



    ***



    十二年後


    十二年。先を思えば長く感じるその月日も、過ぎてしまえばあっという間だった。
    約束があれば、尚更だったかもしれない。
    あの日から、十二年後の八月二十八日。約束のその日、俺は空港に居た。あの日、音之進と別れたその空港だ。
    予定していた便に大幅な遅れが出て一時は焦ったが、どうにか無事に今日という日に間に合った。
    空港でレンタカーを借りて、記憶を頼りに約束の場所を目指す。事前に調べたところでは、今はもう、あの港での花火大会は催されていないらしい。
    音之進と約束をしたその日以来、当然に、音之進には在っていない。今でも変わらず友人でいる平之丞からは、時折話を聞いているが、写真は敢えて見せて貰わなかった。音之進が、俺のことを話しているかどうかも聞いていない。
    大学に在学していた頃は平之丞もよく音之進の話をしていたが、卒業して、連絡を取る頻度も減ると、段々と弟の話もしなくなった。意図的に、話さないようにしていたのかも知れない。
    聞いたところで、答える平之丞ではないのだろうけれど。

    音之進は、覚えていてくれただろうか。
    待っていて、くれるだろうか。
    どんな姿になっているだろう。
    想いを巡らせながら車を走らせる。約束のその場所に辿り着いたのは、日の暮れかかる頃だった。
    駐車場を降りて、十二年ぶりに訪ねた公園を歩く。あの日、人で賑わっていた公園は、すっかり寂れて辺りには人影も見られなかった。
    チラリと時計を見ると、間も無く時計の針は十九時を示そうとしていた。
    しんと静まり返った公園に、海から噴き上がってきた温い風が吹いて頬を撫でる。
    音之進は、忘れてしまったのだろう。
    あの人は、思い出さなかったのだろう。
    十二年だ。明治の昔から考えれば半世紀をゆうに超える時間が過ぎている。そもそも、前世の記憶など、思い出すのが稀なのだ。記憶だと思っているそれすら、幻かも知れない。或は、唯の願望に過ぎないかも知れない。
    そんな筈はないと思いながら、そうとでも考えるしかないのだと、諦めるしかないだろう。
    ひとり息を吐いて、辺りを見渡しながら、あの日、音之進と並んで花火を見ていた場所は何処だったかと捜し歩く。
    せめてあの日の風景を、もう一度見て帰ろう。
    それで終わりにするしかない。
    そう考えて進んだその先に、佇む人の姿が見えた。
    すらりと背の高い青年が、唯一人、其処に居た。
    それが誰かなど、考えるまでも無い。
    歩みを止めた俺の気配に、振り返ったその人は、俺の姿を認めると大きく声を張り上げた。
    「月島ぁ!」
     十二年前の記憶より、幾らか低く響いたその声は、遥か昔の、記憶のその声に重なった。
    「待ち兼ねたぞ!」
     逆光の中、叫ぶその人の顔はよく見えない。
    「っそれは、俺の台詞です」
     漏れたのは、俺の本音だった。
    「…覚えていて…いいや、思い出して、下さったんですね」
     呻くように漏れたその声に、その人が近付いて来る。
    「…忘れるものか。」
     目の前に立ったその人は、音之進は…俺の愛した、鯉登閣下、その人は、逆光の中、笑っていた。
     眩しいほどの、その笑顔に泣きたくなる。
    「…待たせたな…つきしま…」
     静かに響いたその声に、堪らず腕を伸ばすと、愛したその人は俺の腕の中に納まった。
    知っている、日向の匂いがした。




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    fujimura_k

    PAST23年8月発行『未明の森/薄暮の海』現パロ月鯉
    本編『未明の森』の鯉登サイドの後日談のような話。発行当時は別冊としてお付けしました。本編をご覧になった後にこちらをご覧ください。
    薄暮の海その海ならば、溺れて、沈んでも構わない。その海ならば―


    あの日から、間も無く十二年が経とうとしている。
    八月二十八日。一緒に花火を見たあの公園で。
    そう約束したあの時、十二年という月日は途方も無いように思えたが、過ぎてしまえばあっという間だった。
    十二年。約束を忘れることは無かった。一日千秋の思いで待ち続けて、その日を目前に控えてふと気付いた。
    日付と場所は確かだが、何時にとは約束しなかった。と。だから何時に行けばいいのか見当もつかなくて、それなら朝からずっと待っていればいいじゃないと開き直ったのは約束の十日前だった。
    待合せには絶対に遅れなく無い。もしも擦れ違いになったりしたら。そう考えただけでゾッとして、遅れずに済むようにと、待合せ場所の近くに前日から泊ることにした。けれども宿は直ぐには見つからなかった。夏休みでホテルが満室、なのではなく、ホテルそのものがその一帯には殆どなかったのだ。どうにか見付けたのは、十二年前には花火が上がっていた、その港近くにある小さなビジネスホテルだった。
    11245

    fujimura_k

    DOODLE23年5月発行『泡沫寓話』独り者の月×人魚鯉
    村はずれで暮らす独り者の月島が人魚の鯉登と出逢い、互いに惹かれあうようになり…という寓話です。人魚のお話だけれどもちゃんとハッピーエンド。
    泡沫寓話 昔々或るところに、ひとりの男が居りました。
     男は港のある小さな村の片隅に、独りきりで暮らしておりました。
    男は始めから独りでいたのではありません。男には父も母もありましたが、男が物心ついたころには既に母の姿はなく、酒ばかり煽っては幼い男に手を上げ続けていた父は、ある日ころりと息を引き取りました。
    過ぎた酒の所為だったか、成長した男が父の暴力に対抗した所為であったか、真相は定かではありません。けれども、村の誰しもが、男の父の死の真相を付き止めようとはしませんでした。村の厄介者が減って、皆ホッとしたのです。『厄介者がひとり居なくなった』村の衆にはその事実だけで充分でした。
    けれども、村の衆には男が新たな『厄介者』となりました。厄介者と同じ血を引く男は、己の父親を手にかけたのかもしれない男とも見られました。村の衆は男を居ないものとして扱うようになりました。男には『月島基』という名がありましたが、その日から、男の名を呼ぶ者はひとりも居なくなりました。斯くて、男は独りきりになり、淡々と、ただ、淡々と生きているというだけの日々を送るようになりました。
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     男は港のある小さな村の片隅に、独りきりで暮らしておりました。
    男は始めから独りでいたのではありません。男には父も母もありましたが、男が物心ついたころには既に母の姿はなく、酒ばかり煽っては幼い男に手を上げ続けていた父は、ある日ころりと息を引き取りました。
    過ぎた酒の所為だったか、成長した男が父の暴力に対抗した所為であったか、真相は定かではありません。けれども、村の誰しもが、男の父の死の真相を付き止めようとはしませんでした。村の厄介者が減って、皆ホッとしたのです。『厄介者がひとり居なくなった』村の衆にはその事実だけで充分でした。
    けれども、村の衆には男が新たな『厄介者』となりました。厄介者と同じ血を引く男は、己の父親を手にかけたのかもしれない男とも見られました。村の衆は男を居ないものとして扱うようになりました。男には『月島基』という名がありましたが、その日から、男の名を呼ぶ者はひとりも居なくなりました。斯くて、男は独りきりになり、淡々と、ただ、淡々と生きているというだけの日々を送るようになりました。
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    あの日から、間も無く十二年が経とうとしている。
    八月二十八日。一緒に花火を見たあの公園で。
    そう約束したあの時、十二年という月日は途方も無いように思えたが、過ぎてしまえばあっという間だった。
    十二年。約束を忘れることは無かった。一日千秋の思いで待ち続けて、その日を目前に控えてふと気付いた。
    日付と場所は確かだが、何時にとは約束しなかった。と。だから何時に行けばいいのか見当もつかなくて、それなら朝からずっと待っていればいいじゃないと開き直ったのは約束の十日前だった。
    待合せには絶対に遅れなく無い。もしも擦れ違いになったりしたら。そう考えただけでゾッとして、遅れずに済むようにと、待合せ場所の近くに前日から泊ることにした。けれども宿は直ぐには見つからなかった。夏休みでホテルが満室、なのではなく、ホテルそのものがその一帯には殆どなかったのだ。どうにか見付けたのは、十二年前には花火が上がっていた、その港近くにある小さなビジネスホテルだった。
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