UtopiaUtopia:
現実には存在しない、理想的な世界
理想郷
無何有郷
何処にもない場所
二度とは、こんな夜は無いだろう―
「っは、ぁ……っ…んっ…っ」
薄暗い部屋に漏れる吐息は甘く、褐色の肌には薄らと汗が浮かんでいる。
「声、我慢しなくていいですよ」
背中から声を掛けると、シーツに額を擦りつけていたその人は緩慢に首をもたげてちらと此方に視線を寄越した。
特徴的な眉の根を寄せて、浅く息を吐くその唇は濡れている。此方を睨むように見るその眼には欲が滲んでいた。
「っ…っあ!…っん、…ぐ、ぅ…っ」
煽情的なその眼に、唇に、煽られる。
下肢を弄っていた手に力を籠めると、一度きり、高い声を発したその唇は直ぐに閉じて漏れる声を呑み込もうとした。耐えるその姿がいじらしい。
嗜虐の趣味は無い筈だのに、つい、苛めたいような気になって、彼の後孔に沈めた指で内側の一際敏感な処を執拗に撫でた。
「ぐぅ、ぅ、…っん、ん…っ」
「我慢しなくていいのに…」
びくびくと跳ねる背中に重ねて声を掛けると、恨めし気に此方を見つめて来るその眼には涙が浮かんでいた。益々、堪らなくなる。もっと、泣かせて、喘がせたい。その衝動が湧き上がる。
つい数時間前に出逢ったばかりの、男であるその人に。俺は、どうしようもなく欲情してしまっていた。
数時間前。俺は結婚式場に居た。
当然ながら、自身の式などでは無い。招かれた客として、数あるテーブルの一席に所在なく座っていた。ひな壇には、美しく着飾った幼馴染が幸せそうに笑っていた。本当に、幸せそうに。それを見届けて、ただ帰るつもりで居た俺の隣に座っていたのが、今、俺の下で身悶えているその人だった。
新郎新婦双方の友人が相席になっていたそのテーブルは、皆一様に身の置き所の無さを感じる人間の集まりだったようだ。余所余所しさと、妙な連帯感。無事に式が終わると、皆安堵して席を離れていった。やっと解放される。そんな気分だった。
「疲れましたね」
どうして、その一言が口をついたろうか。
ポツリと漏れたその一言に、隣の席に居たその人は少し驚いて、それから愉快そうに笑ってみせた。
「あぁ、確かに疲れたな。」
式の数時間、ずっと隣に居たその人の顔を、その時初めてまじまじと見た。
こんなにキレイな人だったのかと、そんな事を思った。それから、どちらともなく連れ立って飲みに行った。
そこまでは、よくある話だろう。思の他、話しが弾んで、俺もその人もよく飲んだ。機嫌よく飲んで、席を立とうとしたその時に、その人がよろけたモノだから、肩を貸した。
「大丈夫ですか?」と声を掛けてその顔を覗き込んだ。
瞬間、眼があった。それだけだ。それだけだった。
それなのに、お互い、何を言わなくても『解って』しまった。
呑み屋を出て、どれほど歩いたろうか。気付いたら、名前も知らないその人とホテルに居た。
薄暗い部屋のドアを開けて、腕を取って、引き寄せて。無言のままに口付けるとその人は静かに目を閉じた。
どちらがどちらの役割をするのか、何を話したわけでも無いのに、お互いが当然のようにその役に回るのが何処か滑稽に思う。
慣れている風では無いのに、そうされるのを待っていたように。その人は俺の手を、指を、舌を、拒まなかった。
舌を絡ませながら、一枚、一枚、服を脱がし、脱いでいく。その間にも漏れる息は、躊躇いながらも徐々に熱を上げていた。
一体如何してこんなことになってしまったのか。
俺は酔っているだろうか。この人も、酔っているのだろう。そうでなければ、こんなことには、なりはしない。なる筈が無い。
こんな、名前も知らない相手と、しかも、幾らキレイな人とは言え、体躯も立派な男相手に、その場限りの事に及ぶなんて。
そんな事は、ありはしない。或る筈が無い。
けれども、これがこの場限りなら、思う様欲を吐き出せばいい。そんな考えが頭を過る。どうせ、この先二度と会うことは無いのだから。今だけなら。思う様、欲望を吐き出してしまえばいいじゃないか。
「っはぁ、っぁ…んっ…っぅ…っ」
沈めた指を引き抜くと、その人は肩で息をして腰を揺らした。
濡れた後孔はひくひくと誘うように震えている。その中心にひたりと熱を押し当てると、伏せた背中がびくりと跳ねた。
「声、出した方が楽だと思いますよ」
朱に染まった耳元に口を寄せてそう囁くと、俺の下で震えるその人が口を開きかけた。その瞬間を狙って一息に竿を沈めると、開きかけた口からは悲鳴のような声が上がった。
「っあ!?…っああああぁ…―っっ!!!」
叫びながらシーツを掴む手は、関節が白くなるほどに力が込められている。押入った内側は狭く、ぬるりとした内壁は竿に絡みついて異物を押し出すように、奥へ誘うように、収縮を繰り返す。
「ほら、力、抜いてください。息して。ゆっくり…」
言いながら、ゆるゆると腰を揺らして奥へ奥へと押入っていくと、途切れ途切れに声が漏れる。
「ぁ、…ぁ、…ぁぁ、ん、…ん、ぅぅぅー…っ」
根元まで呑み込ませ、ゆるく腰を廻して奥に馴染ませる。ゆっくりと身を屈めて、肩甲骨の間から汗で髪の貼り付いた項を舐め上げると、竿を咥えこんだ奥がきゅうと締まった。
思わず舌なめずりをしてしまった自分は、随分と下品だと思う。
だが、其れが何だというのだ。どうせ一晩きりなら、欲の赴くままでいい。どうせ、其れだけの関係なのだから。
「名前、聞いてもいいですか?」
身を沈めて、後ろから圧し掛かるようにしてそう問い掛けると、その人は「なまえ」と繰返して、それから「おとのしん」と、そう呟いた。
おとのしん。聞こえた、その響きを口に乗せてぐずりと奥を突きあげると一際甘い声が漏れる。
「っあぁ…っぁ、ん…っ…っ」
甘く、痺れるその声は、一晩中途切れることなくベッドの上に散らばっていった。
二度とは無いのだろうその一時が、惜しくて、惜しくて、堪らなかった。
***
あの日以来、あの人の事ばかり考えている。
あの人、というのは、会ったその日に一夜を共にした、その人の事だ。
幼馴染の結婚式で、偶々隣の席に居合わせて、そしてそのまま一晩を共にした。名前も、連絡先も、何も知らないまま裸で抱き合ったその人の名は、結婚式の席次表でやっと確認することが出来た。
鯉登音之進。それが、あの人の名前らしかった。確かにあの人は『おとのしん』と自らの名を教えてくれたのだから、間違いないだろう。
熱に浮かされた、甘ったるい声で泣きながら俺に縋りついていたその人は、俺が目覚めた時には姿を消していた。
乱れたベッドには昨夜の痕跡も色濃く残っているというのに、部屋の中の何処にもあの人の姿はなかった。
ベッドを弄ってみても、俺の傍らは冷え切っていた。恐らく、早い時間に支度をして部屋を出たということだろう。
ベッドサイドの小さなテーブルの上には、数枚の紙幣が置かれていた。残されているのは紙幣だけで、メモの一枚も添えられていなかった。本当に、一夜きり。ということか。と、自分もそのつもりだった癖に、落胆している自分に驚いた。驚いて、呆れた。
男を抱いたのは、初めてだった。
どうすればいいか知っていたのは、だいぶ若い頃に呑んだ流れで同僚と一緒に見たゲイビデオの記憶があったからだ。よくも覚えていたものだと思う。
酔った同僚が何なら試してみるかと悪ふざけをして誘ってきたが、アレは本気だったのだろうか。あの同僚が、男を知っていたのだとしたら。或は。俺に抱かれたかったのか、俺を抱きたかったのかは考えたくも無いが。
もしもあの時、同僚とどうにかなっていたとしたら、或はどうにかされていたとしたら。考えてみても、その可能性はゼロだ。
俺に男を抱く趣味はない。どの口が言うかと思われそうだが、其れは事実だ。何をどう考えてみても、男相手に、己が役に立つような気がしない。
それにも拘らず、如何して俺は、昨夜のようなことをしただろうか。
役に立たないどころか、昨夜の俺はあの人に溺れていた。溺れていた、というのが、正しいだろう。
身体の相性は悪くなかった。それどころか、今まで抱いたどんな女より具合が良かった。男があんなに良いなんて思いもしなかった。
男がイイのか、あの人が特別俺と肌が合ったのかは定かではないが。そう思ったのは俺だけだったか。そう思ったとしても、アレだけ好き放題してしまっては、二度とは御免だと逃げられるのも尤もなのだが。
昨夜の俺は、酷かった。振返ってみて、我ながらそう思う。そう思うくらい、あの人を好きにした。
あの人が、あんまり素直に俺の要望に応えてくれるから。応えようとしてくれるから。つい夢中になって、もっと、もっととあの人を貪った。貪って、溺れた。どうやら、欲というものには際限がないらしい。其れを思い知らされた。恐ろしい事だ。或は、あんな風に、何もかも受け容れられるのでなければ、其処まで溺れなかったのかも知れないが……。
あの人は、如何して俺に何もかも許してくれたのだろう。
考えたところで、答えなど見つかりそうにない。
忘れよう。忘れたほうが良い。どうせ、もう二度と会うことはない。そう、思うのに…
「連絡先、きいときゃ良かったな…」
などと、声を漏らしてしまう自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
「月島さん」と、聴こえたその声に現実に引き戻された。
「約束、十四時って言ってませんでしたっけ?」
言いながら、同僚が指し示す時計を見遣って青褪めた。
同僚の言う通り、新規取引先との面談アポイントは十四時だ。急いで出れば間に合うか、ギリギリの時間だろう。
「すまん!助かった!」
声を掛けてくれた同僚に叫びながら、纏めていた資料を掴むと慌ててオフィスを飛び出した。
***
相手先に到着したのは約束の十分前だった。乗り換えがスムーズにいったのが幸いだった。
新規の取引先は大手だ。新社屋のビルメンテナンス契約の話がうちに回ってきたのは運が良かった。本来契約する予定だったという某社が、つい先日不祥事を起こしたのだ。役員から験が悪いと声が上がり、急ぎ新規契約先を探していたところで、関連会社の保守をしていたうちに話が回ってきた。長期に渡りトラブルもなく、適正と判断できる管理をしてきた点が評価されたものらしい。その評価は、長年真面目に仕事を続けてくれていた現場の職員たちのお蔭だろう。
上手くまとまればありがたいが、相手は大手だ。本来は、うちのような規模の会社が取引をする相手では無い。契約をとるのが難しいことは解っている。とは言え、投げやりにするわけにもいかない。
「上手く獲れたらもうけもんだ」
そのくらいのつもりで行こう。ボソリと呟いて自動ドアを潜り、受付を訊ねると、受付嬢はにこりと微笑んでみせた。
通されたレセプションルームで担当者の到着を待つ。名前は何と言っただろうか?思い出せないのが情けないが、名刺を交換するのだから問題ないか。などと考えていると、指定の時間を二分過ぎてドアがノックされた。
俺が椅子から立ち上がるのと、ドアが開くのは殆ど同時だったろうか。
「お待たせしてすいません。担当が席を外しておりまして。本日は私が代わりにお話を…」
ドアを開けるなりそう話し始めた相手は、そこまで一息に話してしまってから急に声を詰まらせた。
そうなるのも当然だろう。俺も手にしていた名刺入れを落しかけた。何故なら、ドアを開いて商談の場に入ってきたのが「あの人」だったからだ。
つい、さっきまで、連絡先を聞いておけば良かったと。悔いてならなかったあの人が、目の前にいた。絶句するとはこのことか、と実感する。
まさかこんな所で、こんな風に、再開するなんて思う筈も無い。目の前の現実に理解が追いつかず、お互い声を失くして硬直していたのはどのくらいの時間だったろうか。
ほんの数秒か、数分か。
何か、何でもイイ。声を掛けなければ。一体どうやって?
焦れば焦る程、口は少しも動かず、喉の奥からはため息の一つさえ出てきはしない。情けなくも、冷や汗ばかりかいて少しも役に立たなくなった俺にかわって、沈黙を破ったのは、あの人だった。
「っ…失礼。ご挨拶が、未だでしたね。」
咳払いをひとつして。至って冷静に。薄らと笑みをして。
「本日お話を伺います、鯉登と申します。よろしくお願いします。」
言葉と一緒に差し出された名刺に、俺は漸く我に返った。
そうだ。そうだった。ここは商談の場で、俺は新規契約を獲りに来た営業だ。私情に引き摺られてぼんやりしている場合じゃない。
「こちらこそ。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。月島と申します。本日は、宜しくお願いいたします。」
名刺を差し出して、そう名乗れば漸く目が覚めた。気がした。
あの人…鯉登さんとの面談はスムーズだった。
本来の担当者は鯉登さんの部下だというが、話しは全て頭に入っているのだろう。懸案事項の提示と改善要望を幾つか出されたが、感触は悪くない。この流れなら、いい話にまとまるのではないかという期待が持てた。
商談の間、鯉登さんには、あの夜の欠片も見当たらなかった。お蔭で仕事には集中できたが、話しが終わってしまえば、あの夜の事がチラついた。
覚えていない、訳ではないだろう。そうでなければ、俺の顔を見てあんな反応はしない筈だ。
声を掛ければ。袖を引けば。また、あの夜のように…と、余計な考えが頭を過る。つまらない期待が勝手に膨らんでいく。愚かにも程がある。
零れそうになる自嘲を呑み下し、面談が終わると直ぐに席を立った。
長居をして、無駄話をすればきっとボロがでる。纏まりかけている商談を、己の欲で御破算にする訳にはいかないのだ。
そもそも、此処で会えたのが幸運だ。また顔を見て、声を聞けるとも思ってはいなかった。会えるとは、思っていなかった。其れが叶っただけ上々だ。
仕事に徹した様子をみるに、つまらん希望など持つだけ無駄だろう。そもそも、あの朝、金意外のなにも残されていなかったことが全てではないか。これできれいさっぱり諦めもつく。やはりアレは、一夜の幻だったのだ。
そうだ。それでいい。あんな、欲に塗れて爛れた夜は、幻でいい。
それでは。と、頭を下げて部屋を出ると、鯉登さんは「お送りします」と、一緒にエレベーターに乗り込んでエントランスまで送ってくれた。
エレベーターの中の会話にも、色気など欠片も無い。二人きりの狭苦しい空間で、僅かの時間。交わされたのは、今ほどの商談の続きでしかなかった。悪い話では無く、良い話だというのに、少しも心は弾まない。
エレベーターを降りてしまえば、あとは社に帰るだけだ。契約が上手く行きそうだ。と、いい報告が出来る筈なのに、如何してこんなに気持ちが凪いでいるのか。答えは明確だが、どうしようもない。
「では、ここで…」
端的に聞こえた声に振り返って頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました。」
努めて冷静に。私情の一切を隠し通して帰ろうとした俺を、呼び止めたのはあの人だった。「月島さん」と呼ばれた声に足を止める。
勢いよく振返ってしまったのは完全に失敗だった。あの人は、鯉登さんは、振り返った俺に驚いたような顔を見せた。それから、ぎこちなく笑って、躊躇いがちに小さく呟いた。
「また、改めてご連絡差し上げます。」と。
聞えたのは、業務連絡だ。それ以上でも、以下でもない。
俺は落ち込みそうになる自分をどうにか奮い立たせて笑みを作ると、無言のまま頭を下げて、逃げるようにその場を立ち去った。
取り繕った笑みはぎこちなく。この上ないほどに不細工なものだったろう。
わき目もふらずに駅へ向かい、ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んだ。隅の座席に腰を下ろし、さっき貰ったばかりの名刺を取出してみる。
鯉登音之進。あの人の名が書かれた名刺を眺めてみれば、勝手にため息が漏れた。会えてよかったのだろうか。会えないままの方が、諦めもついたか。会えたからこそ、望みはないと諦めがつくか。…諦められるだろうか。
私情に囚われるあまり、乗り込んだ電車が逆方向に向かうモノだと気付いたのは数駅過ぎてからだった。
飛び降りた駅から帰社が遅れると連絡をするついでに、悪い感触では無かったと上司に告げると、まだ契約が取れた訳でもないのに電話口で派手に喜んだ上司の後ろで、同僚たちまでがざわついている気配がわかった。いつもなら、一緒に喜ぶところだろうに。零れるのは苦い笑みばかりだった。
***
その晩、夢を見た。
夢の中で、俺はあの人を抱いていた。鯉登さんを、抱いていた。
あの晩のような、欲を貪るような抱き方では無くて。俺はただ、ひたすらに鯉登さんを慈しんでいた。まるで、大切な恋人を抱くように。
『っん……つき、しま…ぁ……っ』
甘く、切なく、名を呼ばれるのが心地よかった。このままずっと、鯉登さんを抱いていたい…放したくない…溺れてしまいたい……
そう思いながら目覚めた時の虚しさといったらなかった。
安布団を抱き締めて、いい年をして夢精なんぞをしてしまった自分に心底うんざりした。
「最悪だ…」
漏れた声は、言葉に相応しい濁った色をしていた。
***
担当を代わって貰うべきだろうか。
出社早々、鯉登さんの名刺が目に入って、ふとそんな事を思った。
修正案をまとめて、本来の担当者である谷垣という男に資料を送ったのは、鯉登さんと面談した翌日の午後だった。内容を確認するという返信は直ぐに送られてきた。返信は勿論、谷垣さんからで鯉登さんからではない。
契約が纏まって、調印するとなっても再度相手方と顔をあわせる機会はそう多くはない筈だ。精々一度か二度くらいだろう。その機会に、鯉登さんと会う可能性はどのくらいだろうか。
先日の、最後に見たその表情を思い出す。振り返った俺に驚いて、強張ったその顔を。ぎこちない笑みを。思い出せば、鯉登さんが俺に会いたいか否かなど考えなくても解りそうなものだ。
仕事とはいえ、やはり顔を合わせるのは気まずい。それはそうだ。その場限りだと思っていた行きずりの相手に何度も会いたくはない。其れが本音ということだ。そう考えるのが妥当なのだろう。
そうと解ってはいるが、自分はどうだと考えると、その限りでは無い。相手があの人だからこそだが、この期に及んで未だ会いたいと思っている。
会ったところで、二度と触れられやしないなら会えない方がマシだろうか。
そもそも、あの晩の事を詫びるべきか。合意ではあったはずだが、散々勝手をした自覚はある。随分と無理もさせた。
鯉登さんは、俺に縋って泣いていたようにも思う。いや、確かに泣いていた。アレは、生理的なものだったろうか。だとしても、だ。鯉登さんは、最後は気を失うように眠ってしまったくらいなのだし。顔を合わせたからには謝罪すべきだろうか。それも今更か。蒸し返されたくもないかも知れない。
うっかり顔を合わせることの無いように、やはり担当を代わる方がいいだろう。誰に任せるのが適任か…其れを考え始めたところで谷垣さんからメールが届いた。文面には、修正案で話を進めたいと書かれていた。最終決定の前に、再度打ち合わせをしたいともある。どうやらこのまま上手く話が纏まりそうだと安堵して流し見するところだったが、最後の一文に目を疑った。
以後、この案件は谷垣さんに代わり、鯉登さんが担当するという内容の一文だ。追ってメールも寄越すという。
何故?と思う間もなく鯉登さんからのメールも届いた。文面はごく端的なものだ。契約内容確認の為、再度面談したいという内容だった。
驚かなかったと言ったら嘘だ。嬉しくなかったと言ったら嘘だ。鯉登さんが、俺に会いたいと思ってくれている。などと、浮かれてしまった。唯の仕事の連絡だというのに。思い上がりも甚だしい。本当にそう思う。
落ち着け。と自分に言い聞かせながらメールの文面から一度目を逸らして、深く息を吸う。ゆっくりと吐き出せば漸く平静を取り戻せた。
そうだ。これは、仕事の話だ。担当が代わったのは、最初に鯉登さんが面談をしたから、そのままという話になっただけかもしれない。会いたいというのも、メールや電話で何度もやり取りをするより、会って話した方が早いというだけのことに違いない。そうだ。それだけのことだ。勘違いするな、月島基。そう自分を制して、スケジュールを確認した。情けなくも震え掛かる指で面談可能な日時を幾つか提示して返信すると、鯉登さんからは直ぐに回答がきた。
提示した中では一番早い明日の午後の面談希望とのその回答に了承の返事をしながら、俺は性懲りもなく浮かれている自分に気付いていた。
鯉登さんに、また会える。仕事だと割り切らなければいけないのは重々承知しているつもりだというのに。それでも、嬉しい、と、思ってしまった。
その晩、俺はまた鯉登さんの夢を見た。
記憶は朧で、詳しい内容は覚えていないのだが、この前見た夢のように、鯉登さんを抱いていたのではなかった。見ている間は鮮明に見えていた筈のモノが、目覚めた途端、靄が掛かって色褪せてしまった。だが、夢とは本来そうしたものだろう。覚えているのは、鯉登さんと一緒に居たということだけだ。
そしてその鯉登さんが、何故だか、とても哀しそうな顔をしていた。如何して、そんな顔をしているのか。理由はわからない。解らないのに、解らないからか、見ている自分まで哀しくなってくる。
『そんな顔を為さらないで下さい××××殿』
夢の中で、俺は確かそう言って鯉登さんの頬に触れた。そうすると、鯉登さんは、ほんの少し笑ってくれたように思う。鯉登さんを、何と呼んでいたかは思い出せない。一体どういう願望なんだと目覚めてから不思議に思ったが、いくら考えても夢は朧になるばかりだった。
***
鯉登さんとのアポイントは午後の遅い時間だった。直帰の予定で社を出て、真直ぐ指定の場所へ向かう。二度目の訪問は余裕をもって出たせいもあって、指定時間にも充分間に合った。
仕事だ。と、自分に言い聞かせながら向かったせいだろうか。鯉登さんが目の前に現れても、この前よりは随分と落ち着いていられた。
交渉は、実にスムーズだった。修正案の細かな内容の確認が数点。その上で、再度の変更要望を受けたが、変更内容は軽度のモノだった。
それでそのまま契約を進めるという話で纏まったが、あまりにすんなりと話が運び過ぎて、ホッとするどころか却って不安になった。
本当にこの内容で大丈夫か。不備はないのか。後で何か追加要望が出るのではないのか。湧いて来る不安は俺を冷静でいさせるという点では役に立った。
私情を挟む間もなく、仕事は仕事として無事に終えられそうだ。とはいえ、話しがうますぎる点はやはり気懸りだ。直帰のつもりだったが、一度帰社して契約内容を精査した方がいいだろうか。
逡巡しながら「それでは」と、席を立つと、不意に鯉登さんに声を掛けられた。「月島さん」と呼ぶその声に顔をあげてみれば、鯉登さんは黙ったまま俺を見詰めていた。真直ぐに見詰めてくるその瞳に、俺の姿が映るのが解る。
何かを言い掛けては噤むその唇に、俺を見詰めてくるその眼に、ほんの僅か『あの夜』の気配が滲むようで…
期待しても、いいのだろうか。
「…鯉登さん」
会いたいと思っていたのは、仕事だけではないのだと。
「今日、この後、予定ありますか?」
あの夜を、忘れられなかったのは俺だけでは無いと。
「…ありません。」
鯉登さんの返事には、僅かの躊躇いがあった。
迷っているだろうか。困っているだろうか。それでも…それなら…
「じゃぁ、呑みに、いきませんか?」
はしゃぐでもなく、仕事の付き合いを装って告げた言葉に、聞こえた返事は「はい」の一言だった。
***
誘ったはいいものの、この先俺は一体どうするつもりなんだろうか。
鯉登さんの仕事が終わるのを待つ間、近くの喫茶店で美味くも不味くも無い珈琲を啜りながら考えるのはその一点だけだった。
あの反応、まさか仕事の話ではないだろう。個人的に…というなら、あの夜の事がある。だからと言って…だからこそ、何をどう話して、この後をどうするのが正解なのか解らない。
夢に見る程に、会いたい、抱きたいと思っていた相手を自分から誘っておいて何を言っているのかと自分でも思う。思いはするが、いざそうなると、今更何を話していいか、少しも検討がつかないのだ。いっそのこと、話などせず、あの晩と同じように、ただ抱き合えたらどれ程楽だろうかと思う。下衆にも程がある己の考えにゾッとするが、其れが本心だ。
あの人は…鯉登さんは、どうだろうか。本当に俺と呑みに行きたいだなどと思っているだろうか。俺と何を話したいのだろう。話などしたいのだろうか。
堂々巡りをするうちに、カップの中の珈琲はカラになった。二杯目を頼んで待つべきか。少し迷って、メニューに手を伸ばしたところで、店の入り口が開いて客が入って来る気配がした。
顔を上げてそちらを見遣ると、待っていたその人の姿が見えた。
鯉登さんは、店の入り口できょろきょろと店内を見渡して俺を探しているようで、呼び掛けようかと席を立つと、そのタイミングで俺の姿に気付いた。
顔を上げて、眼が合った、その瞬間。あの日が、フラッシュバックした。
気付いたら、俺はホテルのベッドで鯉登さんを抱いていた。
あの時と同じだ。同じだが、決定的に違うことがひとつある。あの日、あの晩は俺も鯉登さんも酔っていた。酒を飲んでいた。けれども今は二人とも素面だ。酒など、一滴も飲んでいない。
待ち合せた喫茶店で、目が合ったその一瞬で『解って』しまったから、直ぐに店を出て、真直ぐホテル街に向かった。
何か話をした方がいい。頭ではそう思っている筈なのに、俺の口からでたのは適当なホテルを見付けた時に発した「ここでいいですか」の一言だけだ。
言葉が無いのは鯉登さんも同じことで、俺の問いかけにも黙って頷いただけだった。適当に選んだ安ホテルの、何の変哲も無い部屋で、鯉登さんの口からもれているのは嬌声ばかりだ。そうさせているのは、俺なのだが。
「…鯉登さん…」と、最中に、その名を呼ぶと、鯉登さんはひくりと喉を震わせて「いや」と小さく声を漏らした。
「っ…名前、よんで…」
泣きそうな顔で請われてしまっては断りようがない。
「…音之進…で、いいです?」
朱に染まった耳元で囁くと、鯉登さんは潤んだ瞳から目尻に雫をひとつ零して「うん」と子供のように答えて俺に縋りつき「つきしま、て、呼んでよか?」と聞いてきた。一瞬、下の名を呼んでくれと言おうかと思ったが、それはどうにも気恥ずかしいような気がしてやめにした。イイですよ。と答えると、鯉登さんは其れに応えるように、縋る腕に力を増した。
触れる肌も、漏れる息も、熱い。つい先刻、職場で見た姿とはまるで違うその乱れように煽られる。仕事の場とは違う名で呼ぶのは、その方が、切り替えが出来ていいのかも知れない。
俺が今抱いているのは『あの人』であって、取引先の交渉相手である『鯉登さん』ではない。そう割り切ってしまった方が、幾らか気が楽になる気がした。
「…音之進…」
名を呼んで、髪を撫でて、深いところを突き上げると、鯉登さんは悲鳴を上げて俺の背中に爪を立てた。鯉登さんの爪が皮膚に食い込む幽かな痛みが、これが夢や幻では無く、確かな現実なのだと理解させる。
俺は今、確かにあの人を抱いているのだ。夢にまで見たあの人を。鯉登さんを、この手で抱いているのだと。
***
俺には学習能力というモノが欠落しているらしい。
夢中になるのはいいことだか、限度がある。結局また、受け容れられるのをいいことに好き放題して、結果、鯉登さんの気を失わせてしまった。
ことが終わったら、流石に話をしよう。しなければいけない。その考えはあった。お互い、いい大人で、解っていての関係だとは承知しているつもりだが、其れにしたって会話というモノが無さ過ぎる。
鯉登さんの身体だけは隅々まで知っているのに、その人そのものの事は何ひとつまともに知っていることが無いなんて不健全極まりない。
尤も、それがよくて、そうしたくて、鯉登さんは何も言わないのかも知れないが。
眠ってしまった鯉登さんを見遣ると、最中に泣き通しだった目許は少し腫れているような気がして、バスルームでタオルを絞り鯉登さんの目許を冷やした。気休めにしかならないだろうが、何もしないよりはマシだろう。
当分起きそうにない様子にそっと息を吐いてシャワーを使いに行く。万が一、途中で鯉登さんが目覚めて、この前と同じように部屋から消えてしまっていたらと考えると離れがたいが、もしもそんな事になっても、せめてと俺の連絡先を書いたメモをテーブルに残した。帰るのなら、そのメモだけでも受取って欲しい。その一心で残したメモだったが、その心配は稀有に終わった。
シャワーを終えて戻って来ても、鯉登さんは眠ったままだった。
目許に乗せたタオルを剥して、もう一度水に浸して絞り直す。瞼を閉じたままの鯉登さんは、随分幼くも見えて『可愛らしい』などと思ってしまう。瞼を開けば、その瞳はあんなにも凛々しいというのに。印象が変わるものだ。
その寝顔を、いつまでも見て居たいような気にさえなったが、まだ腫れの残る目許は少しでも冷やし続けたほうが良いだろう。
絞り直したタオルを目許に乗せて、静かに寝息を立てる鯉登さんの隣に身を横たえる。このまま、鯉登さんが目覚めるまで起きていよう。そう、考えていた。そのつもりだった。それなのに、いつの間に、眠ってしまったのは傍らの鯉登さんの寝顔があまりに穏やかだったからだ。きっとそうだ。
目覚めると、あの日と同じように鯉登さんは部屋から居なくなっていた。
やっぱりそうか。という諦めと、それならどうして。という落胆に溜息が漏れる。一縷の望みをかけてちらとテーブル見遣れば、テーブルの上にはメモが置かれているのが見えた。
昨夜、俺が置いたものがそのままになっているのだろう。うんざりしながら残されたメモに手を伸ばす。丸めて捨ててしまおう、其れともいっそ、破り捨てた方がスッキリするだろうか。どっちでもいい。自分の連絡先など残しておいたところで意味が無い。そう考えて、メモを破こうとした手は、然しメモをふたつに割く前にピタリと止まった。
目に映った、そこに描かれている文字は、俺の書いた其れでは無いと気付いたからだ。書かれていたのは、鯉登さんの連絡先だった。メモは、鯉登さんが残していったモノだったのだ。
「嘘だろ」と、思わず声を漏らして飛び起きた。ホテルのメモ用紙に書かれた少し癖のあるキレイな文字は、俺のものではない。間違いなくそうだと知れて俺は叫び出したいくらいだった。
これが残されていたということは、また『次』を期待してもいいということではないのか。そうだろう。そうでなければ、こんなものを残していく筈が無い。また、鯉登さんに会える。あの人に触れられる。その可能性に期待して喜ぶなと言われても無理な話だ。けれども、喜びと同時に、戸惑いもある。
いつ、どのタイミングで、どう連絡すればいいものか。なにせ、まともな会話など少しも交わしてはいないのだ。何を切欠にして、どう誘えばいいのか。少しも検討がつかなかった。
***
気付けば、鯉登さんから連絡先を貰って一週間が過ぎようとしていた。その間、俺からの連絡は出来ていない。そして、鯉登さんからの連絡も無い。けれども、仕事の話は粛々と進んでいるのだから妙な感じだ。
面談時に確認した修正事項を直して、契約書の様式を整えれば後の話はスムーズだった。調印も郵送でのやり取りで終わる段取りまで話がついている。
契約に関することで言えば、もう会ってまで確認しなければいけないような事は無い。調印が済んでしまえば、後は現場に任せるだけになる。何かトラブルが発生したとしても、そのとき現場に向かうのは営業担当の俺では無くて、別の部署の誰かだ。仕事で鯉登さんと顔を合わす機会は、恐らくもうない。
それならば、その方が気楽に会える…と考えるのが筋なのだろう。けれども、連絡先が解っていてもどう連絡したらいいのかも解らない状態では、このまま『連絡先を貰った』というだけで終わってしまうような気がして、気持ちばかりが焦ってしまった。焦るあまり、終には『確認したいことがある』などと社用を装って鯉登さんを呼び出すメールを送った。その呼び出しが不自然な事は明白だったが、意図が伝わったものか鯉登さんは俺の求めに応じる返事を寄越した。ホッとしたのが半分。もう半分は、己に対する呆れと諦めだろうか。最低だと思いながら、それでも俺は鯉登さんに会えることに浮かれてもいた。本当に最低だ。
木曜の午後。待合せに指定した喫茶店に鯉登さんは時間通りに現れた。
この前と、同じような事になるのを期待しなかったと言ったら嘘になる。だが、まずは話をしたい。そう思っていたのは、俺だけでは無かったらしいとは店に入ってきた鯉登さんの顔を見ればすぐに解った。
鯉登さんは緊張も顕わな、見たことのない顔をしていた。
「御呼び立てしてすいません。」
俺の斜向かいに腰を下ろした鯉登さんにそう声を掛けると、鯉登さんは緊張した表情を崩さないまま「いえ」と小さく呟いた。
注文を取りに来た店員に鯉登さんがカフェオレを頼むついでに二杯目の珈琲も頼んだ。程なくして湯気の立つカップが二つ運ばれてきたが、その間、俺も鯉登さんも口を開くことはなかった。
連絡できていなくてすいません。ありがとうございました。俺から連絡してもいいですか。次はいつ会えそうですか。ああ、その前に、色々と無理をさせてすいません。身体は辛くないですか。それから…それから…言いたいことも、聞きたいことも幾らもあるのに、少しも言葉にならない。
それは、鯉登さんも同じだったのかもしれない。
「迷惑、だったか?」
長い沈黙を破ったのは、鯉登さんの…いいや『音之進』の其の一言だった。
声に顔をあげると、目の前に座るその人は、潤んだ瞳に不安を浮かべて此方を見ていた。
今、此処にいるのは。俺の目の前にいるのは、取引先の『鯉登さん』ではなく、俺にその身体を預けてくれたあの人…『音之進』だ。
「っそんな…っ迷惑なんて、そんなことはありませんっ」
焦って言葉に詰まりながらもなんとかそう返すと、音之進はその瞳を三日月の形に変えて「よかった」と小さく零して笑ってみせた。
『よかった』とは、その笑みは、どういうことだろう。勝手に、良いように捉えていいものだろうか。何故、如何して、と思う程に、口は益々重くなった少しも言葉を吐き出せそうにない。急に喉の渇きを覚えて、珈琲と一緒に運ばれてきたお冷を一息に煽ると、音之進はその大きな目を丸くしてくすりと笑ってみせた。気のせいかしれないが、音之進は、楽しそうに見える。
ろくに会話も無く、いい年をしたおっさんと珈琲を飲んでいるだけだというのに。仕事中に完全な私用で呼び出されたというのに。どこか楽しそうに見えるのは、俺がそう、思いたいからそう見えるだけだろうか。
「また連絡する。」
カフェオレのカップを置いてそう呟いた音之進の声に、弾かれたように顔を上げた俺は一体どんな顔をしていたろうか。きっと、ひどく間抜けな顔をしていただろう。音之進は口の端をほんの少し上げて「週末は、予定があるか?」と問い掛けてきた。
「……週末?」
「金曜の、夜、とか…」
「ありません」
あったとしても、無かったことにします。とは言わなかったが、端的な答えに音之進は満足そうに笑ってくれた。その笑顔に、思い出す。あぁ、そうだ。と。あの日、式場で声を掛けたあの時、初めて見たその笑顔に俺は惹かれたのだ。あの瞬間から、俺は、この人に触れたいと思ったのだ。と。
***
音之進は、言葉の通り直ぐに連絡を寄越した。
金曜、二〇時、××ホテル・401号室。簡素な文面だが、要件は充分伝わる。ホテルの場所を調べてみると、俺と、音之進のどちらの勤め先からも少し離れた目立たない所だと知れた。どうしてそんな離れた場所を、と思ってからふと気付いた。近場でうろついていれば、いつか自分達を知っている誰かの眼に留まるかも知れないのだ。二人でホテルに入るところを見られたからといって、だからどうしたと開き直っていられる程、周囲に理解があるとは考え難い。『鯉登さん』には立場もあるのだろう。此れまで、そうしたことを気にはしていなかったが、この先も関係を続けるのなら、ある程度配慮は必要ということだろう。そう考えると、指定された場所は安全なように思えた。ここなら、知り合いに見られることも無いだろう。安心して、会うことが出来るということだ。俺も、音之進も。
指定の時間に指定の部屋を訪ねると、先に来ていたらしい音之進は直ぐにドアを開いた。
照明を落とした薄暗い部屋に、入るなり腕を引かれ、唇を奪われた。何を話す隙間も無く口を塞がれてしまってはどうしようもない。
音之進の舌は甘く、柔い。熱を持ったそれは、不器用に俺の舌に絡みつく。拙いその愛撫が愛おしくて、応えてやりたくなる。教えてやりたくなる。こうしてみせろ、と、知らせるようにゆっくりと舌を回して、音之進の身体を抱き寄せると、音之進は身を震わせて俺の背に縋ってきた。
そのまま、もつれ合うようにしてベッドに倒れ込むと、後は為すがままだ。欲に流され、呑まれ、溺れていく。
零れる汗も、涙も、熱い息も、次第に、どちらのモノか区別がつかなくなっていく。上も、下も、互いの境も、曖昧になって、解らなくなる。縺れて、混ざって、溶けて、堕ちる。深く、暗い、水の底に沈むような、そんな感覚に囚われる。苦しくて、心地よくて、このままいつまでも溺れていたくなる。
なにも、聞いてはいけないのかも知れない。
この関係が何なのか。深く考えてはいけないのかも知れない。
偶然知り合って、一夜を共にした相手が思いの外身体の相性が良かった。その場限りと思っていたが、その相手と繋がる機会が出来た。だから、呈よく欲のはけ口としているだけ。所謂、セフレという奴だろうか。
身体だけ。それだけでいい。そういう、ことなのかもしれない。それならば、言葉は必要ないのだろう。
身体以外、何も要らないのだ。そう考えれば、合点はいく。
そうだ。最初から、そうだった。俺は、あの日、あの晩、音之進を欲のはけ口として扱った。そうではないか。だから、音之進も、同じことを俺に求めているだけだ。其れだけの話だ。きっと、それだけなのだ。
それから、俺たちは毎週金曜に会うようになった。
会う度に、セックスしかしていない。いつもそうだ。
決まった曜日、決まった時間にホテルで落ち合って、無言のままに抱き合う。音之進はいつだって素直で、欲に正直だ。
若く、身体が柔軟な所為か、多少無理な体制をとらせてもいたがることも無い。好奇心旺盛で、新しい試みには積極的だ。口淫を強請ったら、それには少し躊躇いをみせたが、直ぐに慣れた。中々上手くはならないが、拙いながらに懸命に舌を使う姿は其れだけでクるものがある。
最初の内は、コトが終わる頃には意識を手放すことの多かった音之進は、暫くすると行為に慣れたのか、起きて居られることも増えた。けれども、決して朝まで部屋に留まることはない。意識を手放しても、そうでなくても、音之進は決まって俺が眠っている間か、シャワーを浴びているその間にひとりで身支度をして帰ってしまう。
何度身体を重ねても、其れは変わらない。今では、音之進の身体の、その全てを知っているような気さえするのに、その実、音之進本人のことは未だに何も知らないままだ。
勤め先は知っているが、それだけだ。何処に住んでいるのか、歳は幾つなのか、親は?兄弟はいるのか。何が好きで、何が嫌いなのか。なにひとつ解らない。知らないままだ。
身体だけの関係なのだから、そんなことは知らなくていいのかもしれない。知らない方が、いいのかも知れない。けれども、そんな関係に、虚しさを感じてしまうのは、我儘だろうか。
俺は、音之進に、何を期待して、何を求めているのだろう。
***
『偶には、一緒に食事でもしませんか』
翌週、いつもの連絡に、そう返事をしてみると、暫く間をおいてスマートフォンが着信を告げた。液晶画面に記された音之進の名に驚いて電話に出ると『急に、すまん』と、緊張の滲んだ声が聞こえてきた。
「都合、悪かったですか?」
問い掛けると、直ぐに「いいや」と否定の返事が返ってきた。
「いやじゃ、なければ」
『いやなわけなか』
声を被せるようにしてそう答えた音之進は、少し間をおいて『…嬉しい』と零した。ポツリと落ちたその声に、ドッと心臓が跳ねた。
いつもの金曜、いつもの時間、の、少し前。
音之進と関係するようになってから、初めてホテル以外の場所で待ち合わせをした。予約しているホテルの近くの小さなバルは、週末ということもあってか、店内は随分と賑わっていた。
壁際の二人掛けの席で向き合ってみれば、案の定、なのだが、何を話していいか解らなくて、会話は途切れがちになる。気まずさは、店内の賑わいがかき消してくれた。こんな風に、音之進と酒を飲むのは勘が手見れば二度目なのだ。一度目は、最初の、あの日だ。あの日は何を話したろうか。いろんな話をした気がするのに、ろくに思い出せない。
「結婚式の日以来だな」
ふと、音之進が零した言葉に顔をあげると、音之進はカラになりかけたグラスを持て余しながら「こんな風に、二人で呑むのは」と言葉を重ねた。
「そう、ですね」
「何を話したか、覚えているか?」
「…いいえ」
正直にそう答えると、音之進はうふふ。と小さく声を漏らして笑って「私もだ」と答えた後に「その後のことは、覚えているくせにな」と声を潜めた。
「それは…俺も同じですよ」
答えて酒を煽り、声を張り上げてビールのおかわりを注文すると、音之進が
「こっちも」と声を重ねてグラスの残りを一息に煽った。反らした喉が上下するのをぼんやりと見詰めるうち、口は勝手に開いた。
「幼馴染の結婚式だったんですよ。」
「…あの花嫁か?」
唐突な話に、音之進は確認するようにそう問い掛けてきた。
「そうです。ガキの頃から、ずっと一緒でした。」
話す内に、ビールが運ばれて来る。
「ずっと一緒だと思ってました。でも、そう思ってたのは俺だけだった。」
そんな話をしてどうする。と、思いながらグラスを傾ける俺を、音之進は黙ってみていた。
「何を約束した仲でも無かったし、ただの幼馴染だって解っているつもりだったんですけれど…式の案内が届いたら……どうしてでしょうね。なんだか、失恋したような気になってしまって……勝手ですよね…本当に」
一体俺は、何の話をしているのだろう。今更、そんな話を音之進に聞かせてどうする。どうしたいというのだ。こんな話をされても、だからどうしたと音之進を困らせるだけではないか。頭の片隅でそう思いながら、ぽつぽつと、独り言のように話し続ける俺の言葉を、音之進は黙って聞き続けていた。
「…すいません。聞き流してください。」
とってつけたようにそう零すと、音之進は薄く笑って「よかよ」と零した。
「勝手なのは、オイも一緒じゃ」
続いたその言葉は、独り言だったろうか。
伏し目がちに、そう零した音之進は何処か寂しそうに見えた。抱き締めたい。衝動的に、そう、思った。
今、すぐに。抱き締めて、組み敷いて、縋らせたい。何も解らないように。何も考えなくていいように。めちゃくちゃにしてしまいたい。
「…行きましょうか。」
衝動を抑えつけて、呻くようにそう漏らすと、音之進は「うん」と小さく答えて、まだ中身の残っているグラスを静かに置いた。
俺たちは、慰め合っているだけなのかもしれない。どうしたって埋まらない何かを埋めるために、補うために、色んなことに蓋をして、気付かないふりをして、欲に任せて、ただ、目の前の身体に溺れているだけなのかもしれない。
それでもいい。
この関係に、名前などなくてもいい、何も知らなくてもいい。互いにそれが必要なら、音之進が俺を求めてくれるなら、俺を受け容れてくれるなら、それでいい。
ホテルになだれ込めば、後はいつも通りだ。最早会話をすることはない。
脱がして、脱がされて、舐め合って、混ざっていく。それだけだ。
気のせい、か、知れないが、その日の音之進はいつもより敏感だった。ような、気がした。
最中に『基』と名を呼ばれたのは初めてだったと、気付いたのは、音之進が部屋から出て行った後だった。
結局、食事に誘ったのはそれきりになった。
音之進から、そうした誘いが来ることも無い。音之進は自身を勝手だと言っていたが、深入りされたくないということだろう。
食事の席でも、何の話が出来た訳でもない。それだけの、身体だけの関係で居たいという証だろう。ならば、深追いはするべきでは無いのだ。きっと。
会話も無く、互いの事を知らないまま、週末毎に抱き合う関係は続いた。
会えば、若く、美しい音之進の身体を好きにさせて貰える。抱き合うのは心地良い。音之進とのセックスには何の不満も無い。
けれども、抱き合う度、虚しさが増してくるのは何故だろうか。
何故虚しいだなどと思うのだろう。あれ程好き勝手しておいて、何の贅沢を言うかと罵られても尤もだ。
欲の処理。それだけだ。最初からそうだった筈だ。それなのに、何を今更。
そんな考えに囚われる度、俺は繰返し夢を見るようになった。
音之進の夢だ。夢の中では、現実とはまるで違う。俺は音之進を抱きつぶしたりなどせず、愛おしみ、慈しんでいた。
何処かに二人で出掛けたり、部屋の片隅で寛いだリ。現実には、そんな時間を持ったことなど無い筈の風景が、幾つも、幾つも、繰返し夢に現れた。
夢の中で、音之進は笑っているのだ。いつも、決まって、俺の隣で。嬉しそうに、穏やかに、安心しきったような顔をして、笑っているのだ。その笑顔は、まるで、恋人にむけるもののようで。
その夢を見る度に、現実を振返って虚しくなる。
いつまで、こんな関係が続くのだろう。いつか、唐突に終わるだろうか。
その終りを、俺は、受け容れられるだろうか。考えると、恐ろしくなる。
それでも、関係を切れないのは何故なのか。
解っている筈の答えに蓋をして、ずるずると関係を続けることしかできなかった。
***
金曜に音之進と抱き合い、そのまま別れて土日は独りで過ごす。気付けばそれが俺の『いつもの週末』になっていた。誰と連絡を取ることもせず、金曜の夜を思い出しては無気力に部屋でだらだらと過ごす。音之進と関係して以来、考えるのは音之進のことばかりなっていた。身体だけの関係なのだと、割り切らなければいけないと、そう思いながら、如何しても、如何しても、音之進のことを考えてしまう。いくら考えたとて、どうにもしようがないというのに。下手に深入りしようとすれば、関係は終わってしまう可能性の方が高い。
それが解っているから、どうにも出来ないでいるくせに、独りで思い悩んでは狭苦しいアパートの隅で腐っているのだから不毛にも程がある。
自分で自分にうんざりして、気分転換でもしようと珍しく土曜の午後に家を出た。そう。気分転換のつもりだった。
普段歩かない街でも歩いてみれば、見えるモノも変わって少しは気が晴れるかと思ったのだ。
其れは、間違いだったのだが。……いいや、或は、正解だったか。
滅多に降りることのない繁華街のある駅に降りて、目的も無くフラフラと歩く。華々しく飾り付けられたショーウインドーも、派手に着飾って道を往く人々も、俺の眼には刺々しく映るばかりで気が晴れるどころか滅入る一方だった。出掛けるなら、山や、海にでもすればよかった。そう思って溜息を吐いた。いっそ、今からでも海へ出てみるか。近場なら、電車に乗れば小一時間で着くはずだ。その頃には、人も減っているかも知れない。そうだ。それがいい。そうしよう。と、駅に引き返そうとしたその時だった。
行き交う人の群れの中に、音之進を見付けたのは。
仕事帰りの金曜に合う時よりは、幾らかラフな服装をしている音之進は、その表情も心なしか穏やかなように見えた。
その表情は、隣にいる、見知らぬ男の所為だろうか。
音之進より少し背の高い、色白の、目鼻の整った『好青年』を絵にかいたようなその男は、ピタリと音之進の隣に寄り添って、時折、音之進の顔を覗き込んでは穏やかに笑いかけていた。
その時の気持ちを、どう言い表せばいいだろうか。
静かに、波の退いていくような。そんな、不思議な感覚だった。
なんだ。そういうことか。そういうことだったか。と、俺はひとりで納得していた。あっちが本命なのだろう。今、音之進の隣にいる、あの男。上品そうなあの男は、きっと俺のように荒々しく音之進を抱いたりはしないのだろう。
本当に、求められていたのは身体だけだったということだ。
解りきっていた筈のその事実を、いざ目の前につき付けられると、乾いた笑いが込み上げてきた。自嘲とは、こういうことを言うのだろう。
音之進は、あの男の腕の中では上品な顔をしているのだろうか。
俺にするように、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにして、取りすがったりはしないのだろうか。そうなのかもしれない。だから俺が必要なのだろう。
理解して、納得して、急に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
ひとりで浮かれて、思い悩んでいた自分は何と滑稽だったことか。あぁ、でも、今ここで知れてよかった。よかったじゃないか。下手に思い上がって、つまらない告白でもしようものなら、目も当てられない事態になっていたに違いない。そうなる前に気付けて良かったのだ。
この先は、思い悩むことなく、音之進の気が済むまで精々お互い利用すればいい。そう割り切ればいい。……割り切るしか、無いのだから。
「…馬鹿だな、俺は…」
ぼそりと呟いてその場を離れようとした刹那、通りの向こうに居た音之進と眼が合った。
途端に、音之進が目を見開いた。素知らぬふりをしていればいいモノを、そんな反応をするものだから、隣の男に、その変化に気付かれてしまった。
「知り合い?」と、男が音之進に問い掛けるその声が聞こえて来る。
困惑する音之進の其の肩に男の手が労わるように添えられているのが目に映る。何の疑いようも無い、その男が音之進の『恋人』なのだろう。其れが解りきっているから、俺は笑みを作って音之進と男に歩み寄った。
「お久しぶりです。」と素知らぬ顔で音之進に声を掛け「以前、仕事でお世話になりまして」と男に向かって答えると、音之進は、ぎこちなく笑って「取引先の、担当の方で」と言葉を付け加えた。
「そうなんだ。」と音之進に答えた男は、此方に向き直ると眩しい程に美しい笑顔で「音がいつもお世話になっています。」と俺に頭を下げた。
音。そう、呼ばれているのか。と、妙なところに感じ入りながら「お世話になっているのは此方の方です」などと、型にはまった答えを返す自分は、傍から見れば、さぞ無様だろう。
「すいません。急にお声かけして。お休みの所失礼しました。」長居は無用だ。直ぐにもこの場を立ち去ったほうが良い。そう判断して、背を向けかけた俺を音之進は如何して呼び止めたりしたのだろう。
「月島、さん…っ」
聴こえたその声に、脚を止めると「月島さんってあの?」と、男の声が聞こえた。『あの』とは、どういうことかと振返る。
「勇作さんっ」
音之進が焦ってそう漏らした、其れが男の名だろうか。
「だって、それならもっとちゃんと挨拶を…」
「っ月島さん、なんでんなかですっ気にせんで…っ」
何とも無くはないだろう。そんな動揺も明らかな顔をされて、気にするなと言われても無理がある。それでも、その場で問い詰められるような関係でもある筈が無く、俺は釈然としないまま、無言で頭を下げてその場を去ることを選んだ。
ゆうさく、といったか。あの男が言っていた『あの』とは、一体どういうことだ。恋人に、俺の事を話しているのだろうか?どんな風に?まさか、公認だとでもいうのだろうか。そんなことは或る筈も無いが。
考えたところで解る筈も無く、音之進に真相を聞くことも出来ず。俺はひとり部屋に戻って酒を煽った。
悪い酒は後に遺って、明くる日曜は酷い二日酔いで一日寝込んだ。
***
音之進から連絡が来たのは、水曜の晩だった。
いつも通り、金曜の待ち合わせの連絡だ。それ以上でも以下でもなく、土曜のことには少しも触れられていなかった。
いつもなら、直ぐに了解の返事を返していた。けれども、今回は、どうしてもその返事をすることが出来なかった。
もう、行かなくてもいいのではないか。と。ふと、そんな風に思う。
もういいだろう。と。解ってしまったのだから、其れで、終わりにしてもいいのではないか。正直、今日、こうしていつも通りに連絡が来たことにも驚いている。男がいることが知れた筈だのに、それでもまだ俺に連絡をしてくるというのは、どういうことだろう。どうもこうも、目当ては身体だとは解っている。俺とのセックスは、余程お気に召したのだろう。それとも、お上品そうなあの男では物足りないのだろうかと、下世話な考えばかりが浮かんでくる。
こんな考えに囚われるくらいなのだから、きっともう会わないほうが良い。そう思うのに、それならいっそ、割り切って会えばいいじゃないかとも思う。
恐ろしいことに、情けないことに、会いたい気持ちも、抱きたいという気持ちも未だあるのだ。身体だけでもイイ。その筈だったのだから、今更何を躊躇う必要がある。お互い飽きるまで、好きに擦ればいいじゃないか。そう、思ってから、こんな不毛で、愚かな事があるものかとゾッとする。己は、これ程までに浅ましい人間だったかと。それこそ、今更だ。
結局、何の返事も出来ないまま、金曜が来てしまった。
行くか、行かないか、散々迷っていた癖に、時間になると足は勝手に待ち合わせの其のホテルへと向かっていた。
指定された部屋のドアをノックすると、少し間をおいてドアが開かれた。
開かれたドアの先で、音之進は泣きそうな顔をしていた。
「来て、くれんかと、思っとった……」
漏れたその声は弱々しく、潤んだ瞳からは今にも雫が零れそうに見えた。
何故、如何して、俺にそんな顔を見せるのか。恋人でもない俺に、唯のセフレでしかない俺に、見せていい顔じゃないだろう。
苛立ちに任せて音之進の腕をとり、部屋の奥へと引き摺って行こうとすると「待て」の声が耳に届いた。
「っ話が、したい」
切実なその声に振り返ると、音之進は、ドアを開けたその時と同じ、泣きそうな顔をしたまま、真直ぐに俺を見ていた。
「…話が、したいんだ…」
震えた声で繰り返された言葉に、頭の芯が冷えていく。
「何を話す必要があるんです?」
漏れた声は、思いの外低いモノだった。
「何を…って…」
「男がいることがばれたから、気まずいんですか?」
「男?」
「いいですよ。気にしません。」
「気にしないって…何を…」
「どうせ、俺たちは身体だけの関係ですから。」
言葉は意図せず吐き捨てるような響きになった。傷ついた顔をする音之進に、僅かだけ、罪悪感……のようなモノが湧き上がる、唯の事実を告げただけだというのに。何故そんな感情が湧いて来るのか。何故、そんな感情を、抱かなければいけないのか。
「…なんでそんな顔するんです…」
苛立ちのままに吐いた言葉に、音之進は息を呑んだ。グッと引き結ばれた唇は戦慄いて、潤んだ瞳は揺れている。
『わからないのか』と言わんばかりのその顔を、解って堪るか。と見詰めていると、音之進は一度、ギュッと目を閉じると、瞼を開くと同時に「月島」と俺の名を呼んだ。
「『さん』は、つけないんですね」
「揶揄うなっ」
帰ってきた言葉は、思いの外強いモノだった。
「月島、私は…っ」
「話しなんて、もういいでしょう」
「よくないっ」
二度目の、強い口調に今度は此方が息を呑んだ。
「…話を、させてくれ。ちゃんと、話したい。」
さっきまで泣き出しそうだったその顔は、その眼は、強い意志を持って真直ぐに俺を見詰めている。
「…一体、何を話すって言うんです…」
わざと笑ってそう言ってみせても、音之進はもう怯むことは無かった。何を、話したいというのだろう。今更。
「月島は、勘違いしている」
「勘違い?」
訝しむ俺に、音之進は眉根を寄せて言葉を重ねた。
「男と言うのは、勇作さんのことだろう?」
「この前、一緒にいらした方ですよね。」
「あぁ、そうだ。」
「随分と、親し気なご様子でしたが?」
煽るように告げた言葉に、音之進は僅かだけ眉をひそめて、それでも「当たり前だ」と強い口調でそう返して来た。
「勇作さんは、従兄だからな。」
「従兄?」
「子供の頃から、兄弟同然に過ごして来た人だ。私にとっては、兄と変わらない。…兄以上に、色んな話を聞いて貰っている。私のことを、一番知っているのは勇作さんかも知れない。……じゃっどん、恋人とか…そんなんじゃなか」
淡々と続いた言葉の最後に出たのは郷里の訛りだろうか。時折聴こえるその方言が、何処の言葉かも知らない。兄という話が出たが、音之進には、兄がいるということだろうか。勇作というあの男は従兄だと言ったが、恋人では無いと思っているのは、音之進だけではないのか。あの親し気な様子を見るに、あの男に音之進への好意が無いと言い切れるだろうか。そう思ってしまうのは、俺の眼が、欲で濁っているからだろうか。
黙ったまま立ち尽くしている俺に、音之進は、はぁ、と、息を吐いて肩を落とすと「月島」と静かに俺の名を呼んだ。
「月島は、前世を信じるか?」
「何です?藪から棒に…」
唐突が過ぎる言葉に、思わずそう零すと、音之進は「…だよな。」と小さく呟いて自嘲気味に笑ってみせた。
「何なんです?」
「いや、いい。気にしないでくれ。」
「気になるでしょう。そんな突拍子も無い話。」
畳みかけるように言葉を重ねると、音之進は諦めたように小さく笑ってゆっくりと口を開いた。「昔から、夢を見るんだ」と。
「夢?」
「全部を覚えているわけじゃない。けれども、多分、同じ夢だ。」
音之進は記憶を手繰り、何かを思い出しながら話しているようだった。
「子供の頃からずっと、同じ夢を繰返し見ている。」
「…それが、なんだっていうんです?」
問いかけた俺に、音之進はちらと視線を寄越して「そう思うよな」と呟くと「私も、唯の夢だと思っていた。」と言葉を続けた。
「戦争の、夢なんだ。ダイジェスト映像みたいに、場面がどんどん変わっていく。場面が変わる度に、次々と人が死んでいくんだ。知らない人が殆どだが、兄も、勇作さんも、父も……みんな、私を残して死んでいくんだ…」
音之進は静かにそう語りながら、視線を落した。
「同じ夢を見ているのだと気付いても、父や兄には言い出せなかった。夢の中とは言え、何度も死ぬところを見ているなんて聞かされても嬉しくはないだろうから…」
「それで、勇作さんとやらに話を聞いて貰っていたと?」
浮かんだ考えをそのままに声にすると、音之進は「酷い話だよな」と苦く笑って「勇作さんも、夢の中で死んでしまうのに…よくそんな話を黙って聞いてくれるものだと思う」と低く呟いて「でもな」と話を続けた。「居なくなる人ばかりでは無い。」と。
「ひとりだけ、ずっと傍に居てくれる男が居た。」
そう告げた音之進の眼は明るい光を取り戻したように見えた。
「兄も、勇作さんも、父も。居なくなってしまったその後に、その男だけは、どんなことがあっても、ずっと私の傍を離れずに居てくれた。」
光を取り戻したその眼には、その男が写っているだろうか。
「目覚める前には、いつも、その男が笑ってくれるんだ。笑って、私の頬を撫でてくれる……」
男を語るその声は、その眼は、まるで……
「月島」
呼ばれた声にハッとなって顔をあげると、音之進はその眼に俺を映していた。
「ずっと私の傍に居てくれるその人は、お前にそっくりなんだ…」
俺を映して、笑っていた。
「式場で、月島を見掛けた時は驚いた。あの人が、夢の中から抜け出してきたのかと思った。」
薄く笑みを作り、俺を見詰める音之進はまるで恋をしているようだ。
けれども……
「……わかりました。」
その恋の相手は、俺では無い。
「?…月島?」
漏れた低い声に、音之進の顔が曇る。
「最後にしましょう。」
静かに告げると、音之進の開いた口から「え」と小さく声が漏れた。
「これで、お終いにしましょう。」
声を漏らした口をそのままに、音之進は瞬きもせず俺を見詰めている。
「そうしましょう。…その方がイイ。」
きっぱりとそう告げて音之進の腕をとると、すぐさまその手を振り解かれた。
「……なんで……」
漏れ聞こえたその声は震えていた。その顔を見れば、また泣き出しそうなその顔に戻っている。泣きたいのは、俺の方だというのに。
「…俺は、その人の身代わりですか?」
落ち着いて告げたつもりの声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
「っ違う!そんなんじゃ…」
「俺はあんたが夢見るような男じゃありませんよ」
「違う、月島、私は…」
「アンタも解ってるだろ」
咬みつくようにそう叫ぶと、音之進はぎくりと身を固くして口を閉じた。
「俺は、アンタに優しく微笑みかけて頬を撫でてやるような…そんな、優しい抱き方なんてしたことないだろ…アンタが一番解ってる筈だ…」
残酷な事を言っているだろうか。
「前世でも、夢でも、俺に似た誰かが居たって、其れは俺じゃあない」
何が残酷だというだろう。
「現実の俺は、今ここにいる俺は、アンタに散々好き勝手しただけの、唯のつまらん男ですよ。何度か寝たっていうだけで、アンタが別の男と歩いていたら、それだけで相手の男に嫉妬して……馬鹿ですよね。ホント…馬鹿だ……。」
ありのままの現実を告げながら、虚しさばかりが募ってく。
「もう、終わりにしましょう…」
後悔ばかりが、押し寄せて来る。
「彼が…勇作さんが、あなたの恋人じゃないにしても…」
最初から、もっと、ちゃんと……せめて二度目には……いいや、いつだって、やり直しは出来た筈だのに……
「…もう、やめましょう…こんなことは…」
何もかも、もう、遅い。その筈だのに……
「…嫌じゃ」
聞えたその声に耳を疑った。それにも拘らず、思わず漏れた「は?」という物騒な声にも「嫌じゃ」と音之進は繰り返した。
「嫌って…」
「終りなんて…そんなの、嫌じゃ」
「俺だって嫌なんですよ」
「だったら…」
「アンタとこんな関係続けるのが嫌なんです」
吐き捨てるように告げた言葉に、音之進は明らかに傷ついた顔をした。
違う。そうじゃない。そんな顔をさせたかった訳じゃない。そうじゃない。
「…苦しいんですよ…」
そう呻く俺は、卑怯者なんだろう。
「…嫌なんです…身体だけの、関係でいるのが…」
狡くて、酷い、悪い男だ。
「抱く度に、アンタをもっと知りたいと思ってしまう。近づきたいと思ってしまう。そんなこと、出来る筈もないのに……」
俺のような男となど、もう、関わらないほうが良い。
「夢の中の男の身代わりなら、他を当たったほうが良い。きっと直ぐに、俺なんかよりずっとマシな、アンタに似合いの優しい男が見つかりますよ…」
その方がいいんだ。きっと。お互いの為に。そう、思って言い切ったのに…
「なんで…」
如何して、そんな言葉を口にするのか。
「なんで…って……」
「知りたいと、近付きたいと、思ってくれたのだろう?」
どうして、声を震わせてまで、そんな事を聞くのだろう。
「私だって、同じだ……」
どうして、そんな事を言い出すのだろう。
「最初は、夢に見るあの男に似ていると思った…それは確かだ。だから、あの晩……きっと、此れきりだろうと、思っていたから……」
あぁ、そうだ。俺だって、そう思っていた。此れっきりだと。
「でも、また、会えた。」
会えるとは、思っていなかった。
「嬉しかったんだ。…本当に。でも、どう思われているか、解らなかったから…どうしていいか、解らなかった…」
俺も、そうだった。
「だから、誘われた時には、嬉しかった…」
「あんな酷い抱き方をしたのに?」
つい、漏れたその声に音之進は悪戯に笑ってみせた。
「でも、私が眠っている間に身体をキレイにしてくれていた。」
そう告げる音之進は、笑っていた。
「私が眠ってしまう前に、髪を撫でてくれていたことも、私の眼が腫れてしまわないように、冷やしてくれていたことも、ちゃんと知っている。」
笑って、俺を見詰めていた。
「月島は、酷い男なんかじゃない。本当は、優しい男なのだろう?」
続いたその言葉に、どう返せば良かったのだろう。
黙ったままでいる俺の顔を覗き込みながら、音之進は言葉を続けた。
「食事に誘われた時、嬉しかった…。」
そんな風に言われては、どうすればいいのか、益々解らなくなる……
「でも、其れきりだったから…つまらんことを言ってしまったのだろうと思って……それなら、身体だけでもイイと思った……」
そんなことはない。つまらないのは、俺の方だ。
「身体だけ、飽きられるまででいい。何度も、そう思った。思い込もうとした。」
あぁ、これでは……
「……けど、駄目だった……」
これでは、まるで……
「抱かれる度に、月島を、もっと知りたいと思うようになってしまった…」
まるで、俺たちは……
「なぁ、月島…」
音之進が、真直ぐに俺を見詰めて来る。
「私たちは、同じだとは、思わないか?」
穏やかに、凪いだその瞳には、確かに俺が写っている。
「…身体、以外も……繋がれるなら……私は、嬉しい……」
俺だけが、写っている。
「月島は、そう、思ってはくれないのか?」
凪いだ瞳が潤み、微かに揺らぐ。
「……俺は、嫉妬深い男ですよ?」
「…知っている」
「知ってるって…」
「さっき、教えてくれただろう?」
笑う音之進に、少しばかり呆れてしまうのは許されたい。
「俺みたいな男、絶対後悔しますよ」
「せん」
「何でそんな風に言い切れるんです?」
「せんものはせんからそう言っちょる」
「…それ、何処の方言なんです?」
「方言…鹿児島じゃ。生れがそっちで…気付かんじゃった…」
気付かなかったと言ったのだろうとは理解出来た。本当に、そうなのだろう。
「…俺、あなたのこと何も知りませんよ。」
「オイん身体は隅々まで知っちょる癖に」
「っそう、ですけど。そうじゃなくて…」
「それはお互い様じゃ。オイも、月島のことは何も知らん。」
音之進は笑っている。
「…じゃっで、知りたいと思うちょる…」
笑って、真直ぐに俺を見ている。
「……いいん、ですか?」
信じ難いその事実に、恐る恐るそう問いかけると、音之進は笑みを深くして「よかよ」と短く答えた。
「俺、しつこいですよ?」
「…うん。」
「捕まえたら、二度と離しませんよ?」
「うん。」
「…本当に、いいんですか?」
繰返し、そう問いかけると、音之進は答える前に俺に腕を伸ばして来た。俺より背の高い音之進の長い腕が背に回される。
ぎゅう、と、抱きつかれた耳元で「うん」と告げられて、堪らず音之進を抱き締めた。
「すいません。」
最初に出た一言は、謝罪になってしまった。
「好きに、なってしまいました。」
「うん。」
「アンタのことを、もっと知りたいです」
「うん。」
短く返される声は、ほんの少し、潤んでいる。
「…身体、だけじゃなくて、アンタが、全部、欲しい…」
「…うん。」
「俺に、全部下さい。」
強く抱き締めたままそう告げると、背中に廻された腕に熱が籠った。
「…よかよ…」
ぽつりと零された、その言葉にも……
「そのかわり、オイも月島を貰う…」
続いた、その声にも……
「月島は、全部、オイんもんじゃ…」
同じ、熱が籠っている。
「そいで、よかか?」
まるで、火の様な。
その熱に浮かされて、答える代わりに音之進に口付けた。
その晩、俺は何度となく抱いたその身体を、初めて触れるように抱いた。己の欲を求めるのではなく、ただ、ただ、音之進を慈しみ、愛した。
音之進は、俺の腕の中で何度も俺の名を呼んで、ぼろぼろと涙を零していた。辛いのではなく、嬉しいのだと。そう言って、俺に縋っていた。
泣きながら、好きだ、と、繰返す。音之進が愛おしくて堪らなかった。
眠りに落ちたその後で、夢を見た。鯉登さんの夢だ。
夢の中の鯉登さんは、笑っていた。笑って、俺に何かを語りかけていた。
アレは、何と言っていたか。
『随分待たせおって。待ちかねたぞ××××』
俺に向けられたのだろうその言葉がなんであるか、どんなに聞き取ろうとしても、聞き取れず。解らないまま、夢から覚めてしまった。
瞼を開くと、直ぐ隣に音之進の寝顔が見える。その寝顔を見る内に、夢の記憶は見る間に薄れていった。
気懸りだった筈なのに、目の前の音之進の寝顔を見ていると、それが同でもいいことのように思えて、俺は考えるのを止めにした。身を横たえたまま、ぼんやりと音之進の寝顔を見詰めていたのはどれくらいの時間だろうか。
ふと、瞼が動いて、音之進が目を覚ました。
「…おはよう、ございます」
ぎこちなく、そう告げると、音之進は照れ臭そうに笑って「おはよう」と返してくれた。一緒に朝を迎えるのは、これが初めてだ。こんな日が来るとは思わなかった。
「…なんか、変な感じだ」
寝起きの顔を半分シーツに隠してそう言う音之進に笑ってしまいそうになる。
「その内、慣れますかね?」
極力軽く、そう問いかけると、音之進は一度丸くした眼を細めて「そうだな」と呟き「きっと、直ぐに慣れる」と笑ってみせた。
そうだ。きっと、直ぐに慣れる。
こんな風に、同じ朝を繰返せば、いつかそれが当たり前になるかも知れない。
「もう、起きられそうです?」
問い掛けると、音之進は少し迷ってから「もう少し、寝ていてもいいか?」と問い返して来た。答えは勿論、決まっている。
「いいですよ。休みなんですから、もうひと眠りしてください。」
言いながら、音之進の身体を抱き寄せると、音之進は素直にその身体を預けてきた。裸のままの体温が心地良い。
「起きたら、シャワー浴びて、朝飯、食いに行きましょう」
抱き寄せた背中を撫でながらそう告げると、肩口に額を預けてきた音之進の「うん」という小さな返事が胸に落ちた。
「今日、予定、ありますか?」
眠りかけているその人に問い掛けると「うんにゃ」と猫の様な声が返ってきたのは、否定の返事ととらえていいだろうか。
「何も無いなら、一緒に、出掛けませんか?」
問いと重ねると、俯いていた顔が上がり、眠そうだった目がぱちりと開かれて間近に俺の顔を見詰めてきた。
「どこでもいいです。あなたの行きたい所。どこでも。」
「どこでも?」
「どこでも」
オウム返しに言葉を返すと、音之進はその眼を期待で輝かせて、意外な場所を口にした。
「だったら、月島の家に行きたい。」と。
告げたその笑顔は、初めてみる笑顔だった。屈託のない、子供のような。素直
な、愛らしい顔だ。こんな風にも笑うのだと、初めて知った。
きっと、こんな風に、初めてを繰返していくのだろう。そうして、いつか、全部を知れたらいい。そんなことは、不可能か知れないが。それでも。
一つでも多く、音之進を知れたなら。一つでも多く、俺を、知って貰えたら。
そんな風に、日々を過ごせたら。そう、願いながら「いいですよ」と答えて「その代り、片付けてないから、酷い有様ですよ?」と告げると、音之進は「じゃぁ、一緒に掃除するか?」と笑ってみせた。
その笑顔の、傍に居たい。そう、強く思った。出来れば、一生。