TwilightTwilight:
薄明り
黄昏
終末期
あぁ、こんなもんか。
迷い込んだ雑居ビルの路地裏で、自分の足元にじわじわと広がっていく血の赤を見詰めながら、ぼんやりと頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
痛みはない。やけに寒いのは、季節のせいじゃないだろう。このままここに蹲っていれば、そう時を待たずに俺は死ぬ。そうと分かっていながら、湧き上がってくるのは、後悔でも、未練でもない。安堵のようなものだった。
何の意味があるのかもよく分からない、下らない俺の人生もやっと終わる。ふと息を吐き、顔を上げると、ビルの隙間に小さな空が見えた。真冬には珍しい晴天だ。その空の抜けるような蒼さが妙に白々しい。いっそ雨でも降っていればましだったものを。どうしてこんな日に限って晴れていやがるのかと恨めしく思う。ろくでもない俺の命日なら、雨のほうが似合いだろうに。
通りがかりに、妙な絡まれ方をしている女を見掛けたのはつい先刻のことだ。くせ毛の、気の弱そうな女は、男をあしらう術を知らないようだった。だからなんだという話だ。放っておけばよかったものを、つい、横から手を出した。
女を助けてやろうとか。そんなご立派な理由では無かった。女に付きまとっている男が傍目にも見苦しく、見るに堪えずに声を掛けた。それだけだ。
まさか男が刃物を持っているとは思わなかった。素人が振り回したところでどうということは無い。そう高を括ったのが間違いだった。男が振り回す刃物の切先が脇腹を掠った。服は裂けて血は滲んだが、掠っただけだと思っていた。だが、掠った所が不味かったらしい。
歩いている間もじわじわと傷口から漏れ続けていた血は未だに止まる気配も無い。急激に体温が下がっていくのが解る。早急に手当てをしなければ其れまでだろう。だが、それでいい。
ろくでもない人生の終わりにしちゃあ、マシな死に方じゃないか。
らしくもない、馬鹿な真似をしたモノだ。暴漢に襲われそうになった女を助けるなんて。それで終わるなんて。本当にらしくない。
けれども、何の意味があったかも解らないような人生の最後に、人のためになったかもしれないのなら上々だ。
地獄行きはとうに覚悟の上だが、これで少しはましな所に逝けるだろうか。
最後にもう一度空を見ようと顔を上げたが、いつの間に雲が出たのか、青空は少しも見えなくなっていた。それどころか、やけに辺りが暗い。
この暗さは、雲の所為じゃない。あぁ、これは、俺の眼が霞んでいる所為か。いよいよ、潮時というやつか。
あっけないもんだ。こんなものか。こんな風に、終わるのか……
「月島っ」
聞こえたのは空耳か?今、誰か、俺を呼んだろうか?
「月島…っ目を開けろ!月島っ」
二度目は、はっきりと俺の名が聞こえた。呼び捨てとは大層な話だ。怒鳴りつけるようなその声に、うるせぇと文句を言ってやりたい所だが、どうにも口は動きそうにない。俺を呼び捨てにするなんざ何処のどいつだ。面を見せてみろ。そう、思うのに、どうにか瞼を押し上げてみても、霞む視界には、ぼんやりとした人らしい姿が見えるだけだった。
「月島…っ」
繰返し呼ばれたところで、答えてやることは出来そうにない。
一体何処の誰が俺を呼んでいるのか知らないが、話しがしたけりゃあ地獄まで訪ねて来てくれ。どうやら俺は此処までらしい。
あぁ、それとも、俺を呼ぶのはお迎えってやつか?
地獄からのお出迎えなら、怒鳴られるのも納得だ。俺が行くのなら、穏やかに迎えてくれるような所じゃないだろう。次に目を開けたら、案内をして貰えるだろうか。道行に伽が居るのは有難いことだ。
例え行き先が、地獄だとしても。
***
子供の頃から母親は居なかった。生きているのか死んでいるのかも知らない。
物心ついた頃からずっと、小さな島の田舎町で親父と二人で暮らしていた。
親父は、記憶のある限り、最初から屑だった。呑んで、暴れて、偶の帰宅には、いつも違う女を連れていた。親父の連れてくる女たちの中には、俺の世話を焼こうとするような女もいたが、大抵、そうした女とは親父は長く続かなかった。よくまああれだけ色んな女を連れ帰ってきていたものだと妙な関心もしたが、褒められたものではないことくらい、ガキの頃から判っていた。親父のような人間にだけはなるまいと、子供心にそう思っていた。
一日も早く家も島も出たかったが、ガキの俺には金も知恵もなく、親父が気紛れに置いていく金でどうにか食いつなぎながら、どうやったら一人で食っていけるかと、そればかりを考えていた。
殴られ、蹴られ続けていた日常が変わったのは十四の春だった。
酔った親父が、連れ込んでいた女に手を挙げた。よくあることだ。見慣れた光景だった筈だが、その時は無性に腹が立ち、俺は親父に殴り掛かった。
女を庇うつもりはなかった。ただ、自分より弱いものを笑って殴りつける親父の姿があまりに醜くて、どうにも我慢が出来なかった。限界だった。
無我夢中で殴り掛かった俺は、気付いたら親父に馬乗りになっていた。
さっきまで親父に殴られていた女が、俺の腕に取りすがって「もうやめて」と泣いていた。
「これ以上やったら、この人死んじゃうよ…っ」
必死のその声に、やっと冷静になって親父を見下ろすと、親父の顔の形が変わっていた。鼻が妙な方向に曲がっていて、開いた口の中は真っ赤だった。女がすがる腕の先、固く握りしめたままの俺の拳もその赤と同じ色をしていた。
その日以来、親父は俺を殴らなくなった。
殴れなくなった、というほうが正しいのかもしれない。別に、死んだわけではない。女が止めなければどうだったかはわからないが、俺に殴られたくらいでは親父は死ななかった。お陰で、その時は警察の世話にならずに済んだ。
俺を止めた女の話では、親父は、医者に何を聞かれても「階段で転んだ」と言い張って、息子に殴られたとは決して言わなかったらしい。
それが親父の情なのか、プライドなのかは解らない。解りたくもない。
ともかく俺は、警察に突き出されることもなく、その後も、普段通りに日々を過ごした。
親父は前にも増して家に帰らなくなった。姿を見せなくなった親父の代わりに、時折、俺を止めたあの女が訪ねて来るようになった。親父に預かったのか、自分で稼いだものかは分からないが、女は定期的に金を届けにきた。女が寄越す金は、俺が一人で食っていくには十分な額で、親父が一緒に居た頃よりいくらかましな暮らしが出来るようになった。
ガキの一人暮らしは田舎町で目立ったようだが、誰が何処で如何噂してようと、俺には少しも気にならなかった。親父に殴られていた頃に比べれば、他人の軽口などとるに足らないものだ。一人でいることは、少しも苦にならなかった。そうして、親父と殆ど顔も合わせまま中学卒業と同時に俺は家を出た。
家を出るその日、訪ねてきた女にもう家に帰る気がないことを告げると、女はどこか寂しそうな、ホッとしたような顔をして、少し纏まった額の金と、女の連絡先を書いたメモを俺に握らせた。
「何か困ったことがあったら、頼ってちょうだい」
にこりと笑って女が去ったあと、俺は金だけをポケットに突っ込んで、女の香水の染みついたそのメモを丸めてアパートのゴミ捨て場に放り投げた。
家を出た俺は、地方都市の郊外にある、ごろつきみたいな連中を雇ってくれる自動車工場に転がり込んだ。社長は、そうした連中ばかり雇っているからか、俺のようなガキの扱いにも慣れていた。何を押し付けることもせず、過度に干渉してくることもなく、住む場所と仕事を与えてくれた。工場の近所の連中は、悪ガキを集めて安く働かせている等と噂しているようだったが、俺には気にならなかった。そうだとしても、俺のようなガキを働かせてくれる場所など早々ないのだ。仕事があるだけ有難かった。工場で働いている他の連中も似たり寄ったりだ。みんな、小さな不安も不満も抱えながら、一人きりで生きていた。そうした同じような悪ガキの集まりなものだから、工場ではしょっちゅう小競り合いが起きていた。些細な切欠で始まる小競り合いは、大抵社長の一括で片が付いた。そんなことが、三日と空けず続いていた。
小さな喧嘩はあっても、それなりに飯の食える日々が続けはそれでいい。そう思っていたが、やんちゃなガキの集まりだ。小さな喧嘩が、ある時ふとしたきっかけで大きくなって、警察を呼ぶような騒ぎになった。
その騒ぎに巻き込まれた俺は、警察の世話になることになった。俺が起こした騒ぎではなく、止めに入ったほうだったが、反論をする気にもならなかった。こういう時、悪い奴らは余計な知恵が働く。都合よく徒党を組んで自分たちの気に入らない奴を追い落とすのが実に上手い。新入りで、社長ともそれなりに上手くやれている俺が気に入らなかったのだろう。俺は知らない間に首謀者ということになっていた。その根回しの速さに、呆れるのを通り越して感心した。社長は、それが分かっていたのか、随分と俺を庇って警察にも掛け合ってくれたようだったが、連中には、おそらくそれも気に食わなかったろう。社長は繰り返し、何も気にせず帰って来いと言ってくれたが、そう言ってくれるからこそ、帰る気にはなれなかった。
或は、あそこで心根を入れ替えて社長の所に帰っていれば、真っ当な、人並みの人生を歩めただろうか。ふとそんなことを考えることがある。考えるだけ無駄な話だが。
親父の訃報は檻の中で聞いた。
酔って足を滑らせ、側溝に落ちて死んだらしい。早朝に犬の散歩をしていた誰かが、倒れている親父を見付け、通報したのだという。見つけた誰かには気の毒な話だが、実にあの親父らしい死に方だと思った
出所する時に貰った親父の遺品は、安物のライターとボロボロの財布だけだった。財布の中には僅かの金と、古ぼけた写真が一枚入っていた。随分若い親父が、不細工な赤ん坊を抱いている知らない女と一緒に写っていた。
俺は何も見なかったことにして、財布から金だけ抜き取るとライターと一緒にその写真ごと財布を捨てた。
行く宛が無くなった俺を拾ってくれたのが、叔父貴だった。
その頃の俺は、都市部の繁華街にある安い居酒屋で働いていた。俺みたいなガキを黙って雇ってくれるのは、そういう飲み屋か、掃除屋くらいのものだった。寝場所と飯がついてくるというだけで選んだ仕事だ。雑居ビルを改装した社員寮は狭い部屋に二段ベッドが四つ詰め込まれていた。その二段ベッドの下の段のひとつが俺個人のスペースの全てだったが、俺にはそれで充分だった。
寮に風呂はなく、畳半畳も無いシャワーブースは一回十分と決められていた。風呂がないことは不満だったが、週に一度、近くの銭湯に行くのだけを楽しみにしていた。食事は店の残り物を適当に食べろと言われていたが、同僚達と奪い合いなものだから、食い逸れることも屡々だった。給料らしき給料は出た試しが無く、手元に残るのは子供の小遣い程度の額だったが、世間を知らなかった俺は、それでも寝起き出来る所があるだけましだと思っていた。
思ってはいたが、次第に自分たちの置かれている状況が異常だと気付き始めた。極端は給料の安さや、休みの無さ。『世間並』を求められる立場ではないと分かってはいても、疲労と共に不満はどんどん積もっていった。
これなら、檻の中のほうがましじゃなかったか。今からでも工場に戻って、社長に頭を下げて働かせてもらえるだろうか。そう思い始めたある日、店主が悪趣味なブランド物の服を着て、へらへらと笑いながら街を遊び歩いている姿を見かけた。見てしまった。その瞬間、頭が真っ白になった。従業員にはろくに給料も出さず、経営が苦しいとばかり言っている男の嘘があまりに露骨で、俺は後先構わず店主に殴りかかった。
そこに出くわしたのが叔父貴だった。
叔父貴は、道端で店主を殴りつける俺を止めるでもなく、笑いながら「良い腕っぷしだなぁ」と声を掛けてきた。街中で突如始まった暴行騒ぎに人垣が出来ていたが、その中でも、叔父貴の姿はとりわけ目立っていた。派手なスーツとサングラス。磨きこまれた靴先は尖っていて、一目で堅気では無いと解った。
「お前、家は?」
横柄に訪ねてくるその声に、答える必要などなかったのに、俺は店主を殴る手を止めて叔父貴に答えていた。
「ない」
「親は」
「死んだ」
「そいつは気の毒な話だ」
取り繕ったその声と言葉は、寒々しいものだったが、店主の吐いた嘘に比べたら、マシなモノのように思えた。
「…うちへ来るか?」
それがどういう誘いだか、すぐわかった。解っていたが、不思議と、恐れはなかった。
「…風呂は、あるか?」
無意識に、口から滑り落ちたのはそんな問いだった。
「風呂?」
繰り返した叔父貴は怪訝そうな顔をしたが、次の瞬間には、にかりと笑ってみせた。
「もちろんあるぞ。うちの風呂は広いぞ。檜風呂だ。」
「飯は?」
「たらふく食わせてやるさ。肉でも魚でも、好きに食わせてやる。」
ついていけば、どうなるか、分かっていた。それでも、住む所と、寝る所、ゆっくり足を延ばせる風呂と、たらふく食える飯。それが与えられるなら、十分だと思った。今より、はるかにましだろう。と。
斯くして俺は、広域指定暴力団所属の暴力団員。所謂『ヤクザ』というモノに、なった。
ヤクザに真っ当もくそも無いが、うちの組は昔気質の真っ当なヤクザだった。
薬は売らず、チャカも流さず、シマのみかじめ料と的屋の売上、ちょっとしたいざこざの仲介が収入源で、当然、組には大した金も無ければ力も無かった。叔父貴は、同業の間ではちょっとは名の知れた人だったが、才覚はあってもヤクザにしては人が善過ぎると噂されるような人だった。組員を見れば、どいつもこいつも俺と似たような逸れ者ばかりで、噂の真偽を裏付けていた。
身内の諍いはご法度。堅気には決して手を出さない。堅気の皆さんが真っ当に稼いで、上納金を上げられるよう、俺たちがシマを守るとだと、叔父貴は口癖のようにそう言っていた。ヤクザにしては人が善過ぎたんだ。お陰で同業の諍いに巻き込まれることは終ぞ無かったが、組が勢力を伸ばすことも無かった。
時代に取り残された組は、叔父貴が病であっさり死んでしまうと虚しく霧散する他なかった。誰も、跡を継ごうとはしなかったし、継げやしなかった。継ぎたくとも、叔父貴のようなやり方では、最早食ってはいけないことは、分かっていた。やり方を変えて、他所の組の傘下に入ろうとはだれも言わなかった。
組は、畳むしかない。それが叔父貴の供養になる。組の連中は皆そう思った。
組の家土地を売り払い、寺に叔父貴の供養を頼むと、残った金は僅かだった。その金を、最後まで残っていた組の若い衆たちに分けてしまえばそれできれいさっぱり片付いた。俺はまた行く宛を失くして、ふらふらと彼方此方を渡り歩く生活を始めた。とは言え、行く先は限られたもので、何処も似たような稼業の連中のところばかりだった。
日陰で生きてきた人間がそうそう表に出られるわけがない。そもそも、日向の歩き方など知らないのだ。好んでそうしてきたわけではない。俺には、そうするしかなかった。組の連中もそうだったろう。昔世話になった、あの工場や、居酒屋に居た連中もそうだったかもしれない。誰も好き好んでそんな生き方を選んだわけじゃない。ヤクザになりたくてなる奴なんていやしない。そうするしかなかった。ただ、それだけだ。
俺は、このままずっと、日陰を見付けては渡り歩いていくのだろう。
それしか出来ない。そうして、どこかで野垂れ死ぬのが関の山だ。
それが似合いの人生だ。それでいい。それでいい、と、思っていた
***
目に映ったのは、一面の白だった。
無機質な、一面の白かを見つめるうち、すぐ近くに、人の気配があると気付く。やけに体が重い。起き上がるのが億劫で、視線だけを泳がせると白い服を着た女の姿が見えた。女は俺の視線に気付かない様子で、黙々と何かの作業をしている。女からそっと目を逸らし、反対側を見遣ると、カーテンを開いた大きな窓の向こうによく晴れた空が見えた。
「あら。お目覚めになられました?」
此処は地獄か、あるいは天国か。などと思案するうちに耳に届いたその声に振り返れば、すぐ其処に女が此方を窺っているのが見えた。口許の黒子が艶めかしい、妙に色気のある女だ。地獄の鬼にしては小ぎれいすぎるが、天国からの遣いにしては生々しい。
「ここがどこだか、おわかりですか?」
「…地獄ではなさそうだな」
女の問いにそう答えると、女は驚いた顔をして、それから「どうでしょうね」と笑ってみせた。その声を聴きながら、手や足を動かしてみると、脇腹のあたりが痛むが、体はまともに動きそうだと知れた。どうやら、俺は死ななかったらしい。一体如何して。逡巡しながら女を見遣れば、女の着ているものが白衣だと気付いた。そうであれば、この女は医者ということか。だが、寝かされて居る所は病院ではなさそうだ。病院独特の、薬品の匂いもしなければ、女以外には人の気配もない。
「此処はどこだ。俺は一体…」
「まぁ、そう焦らず。やっと目が覚めたばかりなんですから。ゆっくり為さってください」
「おい」
ゆったりと笑う女に詰め寄ろうと身体を起こしかけると、途端に脇腹に痛みが走った。無意識に顔が歪む。
「あら。無理は禁物ですよ。脇腹は縫っているんですからね。」
女の言葉を確かめるためにシーツを捲ると、腹周りには大袈裟なくらい厳重に包帯が巻かれているのが見えた。
「運が良かったですね」
言いながら、女は俺に横になるようにほだすと、シーツを掛けなおし、徐に点滴の用意を始めた。
「傷はそんなに深くはありませんでしたが、出血が酷くて。もう少し遅かったら危なかったんですよ。」
口元に笑みを称えてそう告げながら、女は手際よく俺の腕に針を刺し、慣れた様子で点滴を落とし始めた。その話が本当なら、俺は寸での所で死なずに済んだということになる。生かしてくれと言った覚えなど更々ないが。誰かが俺を生かしたということか。一体誰が。心当たりなどない。
「鯉登さんに感謝しないといけませんよ。」
「コイトさん?」
耳馴染みの無いその名に眉根を寄せると、女は束の間切なそうな顔を見せたが、すぐさまそれを取り繕うように笑みを作った。
「もう直ぐ、帰ってこられますから」
『コイト』というその人が、俺を助けたのというのだろうか?そんな名の知り合いは居たことがない。俺に恨みを持って、殺そうとする人間ならどこかにいてもおかしくはないが、死にかけたヤクザ者をわざわざ助けようとする物好きなど、心当たりはまるでない。一体、どういうつもりで、何の目的で俺を生かしたのか。どこかの組の関係者か。或いは、死んだ親父と繋がりのあった人間か。どちらにしても、ろくな話ではないだろう。俺のような人間を生かすことにメリットのある人間なんて限られている。何かの駒にでもするつもりだろうか。だとすれば、早々に、ここから逃げる算段をするべきか。今すぐにでも、この女を脅して部屋の外に…そう思いかけた矢先、ガチャリとドアの開く音がした。
その音に顔を上げたが部屋のドアは閉まったままだ。今の音は、部屋の外の扉だろうか。微かにこちらへ近づいてくる足音が聞こえて来る。
「噂をすれば」
足音に気付いた女が小さくそう零してドアの方に向き直ると、タイミングを合わせたように部屋のドアが開いた。
「すまない、遅くなった。頼まれていたモノを探すのに手間取った。これでよかったか?」
ドアを開けるなり、そう話しながら部屋に入って来たのは若い男だった。
褐色の肌をした、すらりとしたその男は、どこからどう見ても堅気の人間だ。俺のような、日陰に生きてきた人間とは纏う空気がまるで違う。それなのに、どこかにほんの少しだけ、陰を匂わせているような、そんな気がしたのは気のせいだろうか。
「ありがとうございます。大丈夫、これで十分ですよ。」
女は男の差し出したものを受け取り、確かめると、男に笑みを向けてから、「それより…」と零してチラとこちらに視線を寄越した。暗に、男にあちらを見ろと示したようなものだ。
男は、それに気づいて女の視線を追うと、視線の先に居る俺に気が付いた。一瞬、目が合う。その途端、男は口を噤んでぎくりと固まった。
単に、寝ていると思っていた俺が起きているから、というだけではなさそうな反応だった。
大きく見開いた眼が、真直ぐに俺を捉えて凝視する。こちらに向けられたその顔をよくよく見れば、随分と整った顔をしていると気付かされた。眉だけは特徴的だが、それを差し引いても整っていると言える部類のその顔に覚えなどない。これだけの別嬪なら、一度見れば覚えていそうなものだが、記憶のどこを探っても、その顔を見た覚えはなかった。
その筈だのに、どうしてだが、どこかで見たことがあるような、会ったことがあるような、そんな気がした。どうしてそんな感覚に捕らわれるのか。そんなことを考えている内に、男がこちらに駆け寄ってきた。
「っ…っ目が、覚めたのか…!?」
言いながら、男は勢いよく俺の手を取った。
「目は見えているか?耳は?私の声が聞こえるか?どこか痛むところは無いか!?声は…話しは出来るのか!?」
矢継ぎ早に、身を乗り出して質問を浴びせてくるものだから答える暇もない。初対面の人間に何のつもりかと言い返したくとも、その隙さえ与えないのだから面食らってしまう。
「鯉登さん、落ち着いて」
俺の困惑を悟ってか、横から女が一言口を挟んだ。
嗜めるようなその声に男はハッとして我に返ると、慌てて握ったままでいた俺の手を離した。
「っすまない…つい…」
酷く申し訳なさそうに零した男は、そのまま視線を落とした。長いまつげが頬に薄く影を作るのを間近に見ながら、どう答えたものかと思案するうち、口を開いたのは傍らに居た女だった。
「ついさっき目を覚まされたところなんですよ。まだ何にも説明していませんし。だから、そう急かさないで差し上げてくださいな。」
「つい、さっき?」
「えぇ。鯉登さんが戻られる、ほんの少し前。」
男が女の声に顔を上げると、女はにこりと微笑み、小さく頷いた。男はそれを受けてゆっくりと俺に向き直ると、しげしげと俺の顔を眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「そう、だったのか…すまない、いきなり…驚かせてしまって…」
眉尻を下げ、伏し目がちにそう漏らす男は、今にも泣きそうに見えた。
男の涙など、何の価値もない。見ず知らずの男に泣かれたところで如何ということはない。その筈だのに、泣かせたくない。と、瞬間的に思ったのは、どうしたわけだろうか。
「そんな、気にするほどのことじゃありませんよ」
知らず、口をついた言葉に男が視線を上げてこちらを見た。澄んだ群青に、やつれた不精髭の男が映っていた。どこからどう見ても、助ける値打ちなんぞありそうにない、見すぼらしいヤクザ崩れにしか見えなかった。
「俺を、助けてくれたのはあなたなんでしょう?」
問いかけると、男は群青を揺らめかせて曖昧に笑ってみせただけだった。
「どうして、俺なんかを…」
「その話は、またにしよう」
男は、そう言うと、とってつけたように笑って見せた。言外に、それ以上問うことを許さないような、そんな強さのある笑みだった。
「今は、傷を治すことに専念した方がいい」
そうだろう?と、隣の女に男が同意を求めると、女は、にこりと笑って「えぇ、その通りです」と当然のように答えた。
「医者もこう言っているんだ。今は、体のことだけ考えていてくれ」
それしか認めない。と、言外に滲むその言葉に、反論するだけ無駄に思えて、小さく溜息を吐くと、男はそれを肯定と受け取ったのだろう、満足そうな笑みを見せた。
「私の顔が見えるか?」
笑みの後に聞こえてきたのは、先刻並べ立てられた質問のひとつだった。
「えぇ。よく見えてますよ。」
静かに答えると、男は満足そうに笑って次の問いを投げてくる。
「声も、聴こえているか?」
「ちゃんと聴こえています」
「…痛みは、ないか?」
「無くは、ありませんが、大したことはありません」
「本当か?辛くはないか?」
「本当です。これくらい、どうってことはない」
「そうか……」
ポツリとそう呟いた男は「そうか」ともう一度繰り返して「それなら、よかった」と小さく漏らすと、その瞳から静かに涙を零した。
男の頬を伝うその雫に、ざわりと胸が騒いだ。見てはいけないもの、見たくはなかったものを見てしまったようで、慌てて視線を逸らすと、男の傍らでは、女までがその目に涙を浮かべているのだから、全く訳が分からなくなった。その涙は、何なのか。
「家永にも、礼をせんとな」
「とんでもない」
俺の困惑を他所に、二人は満足そうに笑いあっているが、俺には少しも状況が掴めなかった。ヤクザを一人助けたからと言って、一体、泣くほどのことだろうか。どうしてそこまで、と、疑問ばかりが浮かんでくる。
「すまない、家永と話したいことがあるんだ。少し、待っていてくれ。」
男は俺にそう告げると、イエナガという名なのであろう女に声を掛けて部屋を出た。そのまま男の後を追って出て行こうとする女を慌てて呼び止める。
「待て…っ…待ってくれ」
「如何されました?」
怪訝そうに振り返った女に「あの人は」とだけ問いかけると、女は「あの人」と零してから、言葉の先を察して「あぁ」と漏らすとこう答えた。
「鯉登音之進さん。あなたを救った人ですよ。」と。
「俺を、救った?」
「えぇ、あなたを救ったのは、鯉登さんです。」
女が出て行き、一人取り残された部屋で今聞いたばかりの名を口にしてみる。
「コイト、オトノシン」
漢字は、どう書くのだろう。少しも覚えのない筈のその名を、妙に懐かしく感じる。懐かしい筈などないのに。何故なのか。
コイトというあの男の顔を見てから、妙な感覚があってどうにも居心地が悪い。それなのに、不快には思わないのだから、なお分からない。
コイトオトノシンは、綺麗な男ではあった。およそ俺の人生では出会ったことのないような、美しい男だ。でも、だからと言って、この妙な感覚は何だというのか。思考に靄がかかっているようだ。
「なんだってんだ…」
ぼそりと呟いて、ふとさっき男に握られた手を見遣れば、そこにはまだ男の手の温みが残っているような気がした。
***
コイトというらしいその男は、程なくして一人で部屋に戻って来た。
男はベッドに身を起こしている俺を見遣ると、ホッとしたように笑って「目が覚めて本当に良かった」と、独り言のように呟いた。
「腹は、減っていないか?何か、欲しいものがあれば…」
「腹は……減っています」
「そうか!わかった!すぐに何か用意しよう。食べたいものはあるか?」
身を乗り出して聞いてくる男の目には、善意しかない。それがどうにも落ち着かなかった。
「いや、飯も、ありがたいんですが、それより…その…」
「!?どこか、痛むのか!?それなら直ぐに家永を…」
「いや、そうじゃなくて!」
「そうじゃないなら、なんだ?」
「いくつか、聞きたいことがあります。」
直ぐにも部屋を飛び出す勢いの男の言葉を遮るように声を上げると、男はようやく落ち着いて「なんだ?」とこちらに向き直った。
何かの期待と、好奇心の滲んだその目は、まるで純真無垢な子供のようだ。あんまり真直ぐ見詰められると『その目で俺のような者を見なくていい』と、目を背けさせたくなる。背格好や声音から見るに、そんな子供ではないことは確かな筈だのに、そう思わせるのだから、よほど良い育ち方をしたんだろう。俺とはまるで違う育ちの筈だ。そんな男が如何して。聞きたいことは山程ある。
けれども、だからこそ、平静を装って慎重に問いを投げた。
「まず、此処は何処です」
「私のマンションだ」
「あなたの?」
「そうだ。一人暮らしだから、私以外、普段ここに出入りする者はいない。だから、安心してほしい。」
男は、聞いた以上のことを言い訳するように口にした。
「本当は、入院させたかったんだが、家永の病院には、長く置いておけなくてな…」
「イエナガというのは…?」
「さっきまで、此処に居た医者だ。」
白衣を着ていた女の姿が脳裏に浮かんだ。
「家永に傷の処置をしてもらってから、此処へ運び込んだんだ。」
「なんだってそんなこと…」
純粋に、浮かんだ疑問は無意識のうちに声になった。当然の疑問だ。それだのに、男は困惑したような表情を見せた。
「…見付けたから」
そうして、寄越した答えはその一言だった。
「見付けたから…放っておけなかった…」
それだけ、というにはあまりに深刻なその表情には微かに嘘が滲んでいたが、男が何の意図で、どんな嘘をつかなければいけないものか、少しもわからない。だが、それが誰かに頼まれた類のものではないことも、悪意に裏打ちされたものでもないことも、なんとなく、察しは付いた。
「随分、お優しいんですね」
漏れた声には、棘が潜んだろうか。
「俺みたいなもん、放っておきゃあよかったのに」
ヤクザなんざ助けたって、誰も喜びはしませんよ。自嘲交じりにそう告げると、男は悲しそうな顔をして「そんなことを言わないでくれ。」と零した。その声音にギクリとしたのは、男がまた涙を見せるのではないかと思ったからだ。けれども、男は涙を見せず、代わりにぎこちなく笑ってみせた。
「これも、何かの縁だ」
助かって良かったではないか。と、遠慮がちに男は言う。
生き永らえて、よかったかどうかなど、分かったものではない。けれども、ひとつ、確かなのは、俺なんかの命を救ってくれたこの男には、大きな借りが出来てしまったということだ。俺が望んだか否かに関わらず、借りは借りだろう。
「良かったかどうかは分かりませんが、助けて下さったことには感謝しますよ。」
溜息交じりにそう零すと、男はほんの僅か表情を緩めてみせた。
「傷さえ治れば直ぐに出て行きます。この礼はいずれ…」
「礼なんて考えなくていい」
言葉を遮った男の声は、思いの他、強く響いた。
「焦って出て行くこともない。いつまで居てもらっても、私は…」
「そうはいきませんよ」
男の話を遮った俺の声も、強いものだったろうか。
「縁といったって、見ず知らずのアンタに迷惑はかけられない。」
「迷惑なんて思ってない、私が勝手に…」
「それでも。迷惑は迷惑だ。俺には、赤の他人の、あんたの世話になるような義理もない。それに、あんたは真人間だろう?俺みたいな人間と、深くかかわらないほうが身のためだ。」
我ながら、らしくもないことを言っていると思う。世間知らずの善人なら、この機に付け込んで、この先一生面倒を見させるという手だって考えられる。俺の親父のような人間なら、そうするのだろう。けれども俺は親父とは違う。目の前のこの男を相手に、そうしようとは思わなかった。思えなかった。
「俺がどういう素性の人間か、アンタも解っているでしょう?」
背中には立派は彫り物がある。叔父貴の世話になると決めて背負った龍だ。手当てをしたというなら、それを見ただろう。素人が格好をつけて飾りにするような代物ではない。あれを見れば一目で堅気ではないと察しが付いた筈だ。分かっているなら、関わろうとするべきじゃない。ヤクザ者と堅気の真人間じゃ、生きている世界が違う。それなのに…
「それなら、せめて、傷が治るまででもいい。」
男は、そう口にした。
「包帯が取れるまで…傷が、ちゃんと塞がるまで、それまででもいいから、此処に、居てほしい。」
何故。どうして。俺みたいな男を引き留めようとするのか。
「ダメか?」
必死に訴えてくるその目に、何を言っても無駄なような気がした。
「……わかったよ」
諦めと同時に、そう声が漏れた。
「…暫く此処で、あんたの世話になる。それでいいですか?」
問いかけると、男はホッとしたように笑って「よかよ」と呟いた。何処かの方言のように聞こえたが、それがどこの郷里の言葉か、すぐには浮かばなかった。
「名前を聞いてもいいか?」
聞こえた言葉に顔を上げると、男は澄んだ瞳で真直ぐに俺を見ていた。
「月島基」
「つきしま、はじめ…」
端的に、答えた俺の言葉をなぞるように繰り返した男は、どんな字を書くのかと重ねて問うてきた。
「どうって……空に浮かぶ月に、島は、普通の…」
「はじめは?どんな字だ?」
「基本の、基、で、はじめと読ませる」
困惑しながら答えると、男はやけに嬉しそうに「そうか」と零して「月島基、だな」と指先で空に書くまでして俺の名を確かめた。
「あんたは、コイトオトノシンって言うんですってね。」
「!?どうして、私の、名を?」
驚く男に「さっきの女医から聞きました。」と付け足すと、男は一瞬「女医?」と零して怪訝な顔をしたが、構わず「どう書くんです?」と続けて男が俺に尋ねたように問い返すと、男は少し躊躇ってから先刻と同じように指先で空をなぞり『鯉登音之進』と綴った。今時珍しいくらい古風な名は、家柄だろうか。
男を真似て、同じように指先で空にその名を書いて見せると、男はそれで正解だとでもいうようにコクコクと頷いて見せた。
「鯉登、さん……ですね」
「そうだ。あってる。……月島、さん、と、呼んでいいか?」
遠慮がちに聞こえた「ツキシマサン」というその呼び名が、どうにも落ち着かなかった。
「あー……その、『さん』ってのは、外して貰ってもいいですか?」
「じゃぁ、どう、呼べばいい?」
「『月島』で結構です。そのほうが落ち着きます。」
「そう、か……わかった」そう答えた鯉登さんは、少し間を置いてから、やはり遠慮がちに小さく「月島」と俺の名を呼んだ。『さん』付けより耳に馴染む。
「はい。」
呼ばれた声に答えてみせると、鯉登さんは、やけに嬉しそうに笑って「これから、よろしく頼むぞ。月島。」と零した。その笑みが、随分幼く見えた。
話す間に、時折、子供のような仕草や笑い方をするが、歳は幾つくらいだろうか。それも尋ねてみようかと一瞬思って、止めにした。歳がいくつでも、この人が俺の恩人であることには変わりない。
「しばらく世話になりますよ。鯉登さん。」
頭を下げてそう告げると、満足そうに笑った鯉登さんは、ふと思い出したように「ところで」と声を漏らした。
「女医というのは、家永のことか?」続けて聞こえたのはそんな問いだった。
ほかに誰がいるはずもない。そうだと答えると、鯉登さんは何度か瞬きを繰り返してから、じんわりと口元を緩め「家永が聞いたら喜ぶな」と笑い交じりにそう零した。何がそんなに面白いのかと疑問に思っていると、程なくして信じがたい言葉が耳に届いた。
「家永は、男だ。」と。
にこりと笑う鯉登さんに絶句していると、鯉登さんはますます愉快そうに笑っていた。
その笑顔を、花が咲くようだ、と思った。
いくら整った見目をしているからと言って、男相手に馬鹿な話だ。けれども、そう思ってしまったものはどうしようもない。
鯉登さんは、俺の人生には、全く居なかったタイプの人間だ。
居るだけで、日向の匂いのするような、そんな人が、どうして俺のような人間に関わろうとするのか皆目見当がつかない。
気紛れか、善人というものは、こうしたものなのだろうか。
どうにも、調子が狂う。狂わされてしまう。それなのに、不快に感じないのは、心地よいと思うのは、何故なのか。
何も解らない。解らないけれど、それでいいことにした。今は。今は、まだ。
***
その日から、鯉登さんとの生活が始まった。
鯉登さんの言う通り、このマンションの一室には鯉登さん一人で住んでいたようだ。案内されたリビングにもキッチンにも風呂場にも、どこにも他人の気配がない。俺の為に揃えたらしい生活用品はどれも真新しいものばかりだった。清潔に整えられた部屋には生活感というものは乏しいが、居心地のいい空間が作られていた。居心地が良すぎて、俺にはかえって落ち着かないくらいなのだが、居候の分際で何が言えるわけでもない。
家の中では好きに過ごしてくれて構わないとは言われたが、テレビや新聞を見る気にもならず、書棚に置いてある本はどれも難しそうで、手に取る気にならなかった。そうなると、手持無沙汰で、自然と窓の外を眺める時間が増えた。
俺が使わせてもらっている部屋は、客間だったのだろう。ベッドの他にはサイドチェストと小さなテーブルが一つあるきりだ。
外の景色が見える大きな窓の向こうには、遥か彼方に観覧車が見えた。止まっているようにも見えるそれは、昼間ぼんやり眺めていると、ゆったりと動いているのだと分かる。見るとはなしに、その観覧車を眺めて過ごしていると、いつの間にか眠気に襲われて、気付けば夕刻になっている事もあった。
携帯電話でもあればちがったのかしれないが、刺された時には持っていたはずのそれは運ばれた時にどこかに落としたのか、鯉登さんがまとめてくれていた俺の荷物(と言っても財布と煙草くらいだが)には見当たらなかった。
携帯がなければ、誰の連絡先も解らない。もっとも、登録されていたのは元の組の連中か、とっくにこの世から居なくなった奴の番号ばかりなのだから失くしたところで困ることはない。誰かに居場所を知らせようとも思わなかった。
居候している部屋に籠り、傷に触らない程度に体を動かすか、寝ているか、診察に来た家永(何度見ても男だとは信じがたい)に傷を診てもらうか。そうしているうちに、夕刻には鯉登さんが帰ってきて、一緒に夕飯を食べる。そんな生活が一週間あまり続いた。夕飯は一緒に食べろというのは鯉登さんの指示だ。作って貰ったものを、ただ一緒に食べるだけではさすがに申し訳なくて、多少なりとも料理を手伝うような真似をしてみたり、皿を片付けるくらいのことはするようになった。けれども、何を手伝うにしても、不慣れで気の利いたことができるわけでもなければ、うまく世間話が出来るわけでもない。不器用で不愛想な元ヤクザのおっさんなんぞと居て、一体何が楽しいものかと思うが、鯉登さんは俺の前ではよく笑顔を見せた。どうして鯉登さんがそんな風に笑ってくれるのか、わからないままには違いないのだけれど、目の前にいる人が笑ってくれているのは悪い気はしなかった。
鯉登さんが、昼間どこへ出掛けているのか、当初は聞いていなかった。仕事に行っているのだろうと思っていたが、大学に通っていると聞いて絶句したのはつい先日のことだ。まだ学生だったかと妙に焦ったが、学生ではなく、研究員だと聞いてホッとした。学生だろうと、研究員だろうと、同じ家で暮らす上で何が変わるものでもないのだが。いくら居候とは言え、学生に養われているとなるといたたまれない。ような気がした。
淡々と,、このまま日が過ぎていくだろうか。そうして、そのうちに傷が塞がれば、此処から解放されるだろうか。それまでに、鯉登さんが、俺を助けたわけは聞けるだろうか。
そんなことを考え始めたある日、その男は、唐突に訪ねて来た。
平日の昼間、鯉登さんが出掛け、俺が部屋にひとりになるその時間、男はインターフォンを鳴らして玄関の前に立っていた。そうして、初めて訪ねて来たその日以来、毎日決まって訪ねてくるようになった。
「おはよう!今日も起きてる?」
「おはよう。起きてるよ」
近所迷惑になりそうな程喧しい朝の挨拶に答えてやると、男はにかりと笑って見せる。それが毎朝の『お約束』だ。
やたらと声の大きなその男は、杉元佐一と名乗った。
杉元は鯉登さんの友人で、俺が鯉登さんの留守の間に退屈しないように、不便が無いように、日中の世話をするようにと鯉登さんに頼まれたのだと、そう言った。本当の所はわからないが、杉元は嘘のつけそうな男にも見えなかった。
そうして、杉元が俺の世話を焼くようになったのだが、世話といっても、部屋の掃除や洗濯も大半は鯉登さんが不足なくやっているし(勿論俺も多少は手伝っている)昼の食事の用意も、大抵は鯉登さんが作り置きしてくれたものを温めるだけで、あとは何をするでもなく、ただそこにいるだけだ。
杉元は、テレビを見たり、スマホを見たり。何かの書き物をしていたり。居る意味があるだろうかと思うくらいだが、平日の殆ど毎日を俺と一緒に鯉登さんの部屋で過ごすようになった。仕事は大丈夫なのか、と気にはなったが、俺には関係のない話だ。その辺のことは、鯉登さんと話がついているのだろう。しかしこれでは、まるで見張りを付けられたようだ。などと思う。
見張り役など置かなくても、当分は逃げる気などないのだが、家主がそうしたいというなら好きにすればいい。邪魔になるものでもなし、それで鯉登さんの気が済むならそれでいいと放っておいた。
とはいえ、相手も人間で、毎日顔を合わせていては慣れもするし、退屈にもなる。杉元が訪ねてき始めた最初の内は、お互いに構えていたが、次第に緊張も解れ、世間話をするようになった。世間話、と言っても、話題は限られている。結局、共通の話題は、鯉登さんのことばかりになった。
杉元の話では、鯉登さんは、ずっと俺を探していたらしい。正確に、いつからかは知らないが、杉元が鯉登さんと出逢った高校生の頃には既にそうだったという。今が幾つかは知らないが、鯉登さんが昔から俺を知っていたということに違和感を覚えたが、杉元が嘘をついているようには見えなかった。
「鯉登があんまりにも一生懸命だからさ、俺も探すのを手伝うようになったんだよね」
杉元はそう言って笑っていた。
「似顔絵まで用意して何年も探したんだ。見つかって良かったよ」
言いながら、杉元はポケットの中から草臥れた紙を取り出し、広げて見せた。
「こいつのお陰で、鯉登が探してんのがあんただってすぐに分かった」
そこに描かれていたのは似顔絵だった。
鉛筆か何かで描いたものを印刷したのだろうが、そこに描かれていたその顔は確かに俺に似ていた。証明写真のように胸から上が描かれたもので、何故だか軍服のような服を着せられていたけど、その顔は、俺だと言われたらそうだと言いきれるほどに俺に似ていた。
「鯉登さんが、これを?」
「そ。あいつ、絵もうまいんだよね。」
感心した様子でそう漏らした杉元は広げた絵を指先でなぞり「この絵を覚えていたから、見付けられたんだけど…」と呟いた。
「お前が、俺を見つけたのか?」
「姿を見つけたのはね。でも、あの日、倒れてるあんたを見付けて助けたのは鯉登。家永先生のとこまでは俺も付き添ったけど。」
助けられたとは聞いていたが、それは初めて聞く話だった。
「俺がもう少し早く見付けて、鯉登に報せるのも、もうちょっと早かったら、刺されずに済んだかも知れないんだけどさ…」
あの日、杉元は街で偶々俺を見かけたのだという。
街中で擦れ違い様、ふと見かけた顔が引っかかり、杉元はしばらく俺の後をつけたらしいのだが、俺はそんなことにはまるで気付いていなかった。前を行く俺の後を追いながら、顔を確かめ、鯉登さんの描いた似顔絵の男に似ていると確信すると、杉元は急いで鯉登さんに連絡をした。
元々、杉元と会う約束をしていた鯉登さんは、近くではあるが、その場に到着するには十分余りはかかる場所に居たという。
微妙な距離だが、その程度であれば見失わないはずだと、見失うわけにはいかないと、鯉登さんが此方に向かう間、杉元は必死に俺の後を追っていたが、その十分の間に人ゴミと信号に阻まれ、一時俺を見失った。
視線を外したのは、ほんの一瞬のことだったという。けれども、そんなものだ。一瞬の隙で俺を見失った杉元は途方に暮れた。
そんなことになっているとは露知らず、俺はそのタイミングで柄にもない人助けなんて真似をして刺されたというわけだ。掠り傷だと思っていた俺は、騒ぎが大きくなると厄介だと思って足早にその場を離れた。人の少ない道を選び、路地へと入っていった訳だが、どこかで見ていた人間は居たのだろう。
杉元が鯉登さんと合流したのは、丁度俺が刺された現場を去った後だったが、何処かざわついた空気に何かを察した鯉登さんは、その辺りに居た男に声を掛けた。何かあったのかと尋ねられると、話しかけられた男は、俺が刺された一部始終を見ていたようで、鯉登さんと杉元に事の仔細を話したうえ『刺されたように見えたが、平然とした顔をしていた』とまで言っていたという。見ていないようで見ているのが他人ということか。
『刺された』という話を聞いた鯉登さんは蒼褪め、刺されたその男はどんな男だったか、どこへ行ったかと尋ねた。杉元が似顔絵を差し出すと、男は『刺されたのはこの男だ』とはっきりそう言ったらしい。
それから、鯉登さんと杉元はその辺りを捜し歩き、路地で動けなくなっていた俺を鯉登さんが見付けたのだという。
あの日、誰かに名前を呼ばれたような記憶があるが、あれは鯉登さんだったのだろうか。鯉登さんは、元から俺の名前まで知っていたというのか。何故だと浮かぶ疑問を他所に、杉元は話を続けていた。
俺を見付けた鯉登さんは、半狂乱だったと、杉元はそう言った。杉元が駆け付けた時には、俺は血塗れで、殆ど意識も無かったらしい。
「正直、死んでるんじゃないかと思った」
生きてるから笑ってそう言えるけど。と、続けた杉元は「本当に死んでたら、鯉登がどうかしちまうんじゃないかって俺も落ち着かなかったよ」とも言った。
救急車を呼ぼうと言う杉元を鯉登さんは何故だか頑なに拒否し続けたという。これでは埒が明かないと、無理やり救急車を呼ぼうとしていたが、それより先に、鯉登さんが家永を呼んだらしい。なんの話が通じていたのかは知らないが、家永はものの五分で車を寄越した。杉元は当然驚いたが、何が起こっているかを考えるより、先ずは俺を死なせないようにと必死だったという。
慎重に俺を車に運び込み、家永の診療所まで運ぶ間、鯉登さんはずっと俺の手を握り続けていたと聞いて、何とも言えない気持ちになった。
家永は、所謂『闇医者』という類の医者らしい。
医者には違いないし、免許は持っているというが、まともな客は相手にしていない。相手にしているのは、専ら俺のような日陰者ばかりだ。
記憶を辿れば、そんな噂を耳にしたことがある。日陰者同士のいざこざで不味いことになったら頼れる医者が居るという話だ。同業の連中ばかりを相手にしているその医者は、別嬪だが少々癖がある。だが腕は確かだと言われていた。どんな患者でも運び込まれれば断ることもしなければ、お上に垂れ込むこともない。ただし、治療費は口止め料込みの法外な額だと言われていたはずだ。
どうしてそんな医者と鯉登さんが繋がっているのかも疑問だが、杉元に聞いたところで何が分かるわけでもないだろう。鯉登さんに聞いても答えてもらえるかは疑問だが、そもそも、聞いたところで何になる。
鯉登さんは、どういう謂われだかはわからないが、恐らく、俺を知っていて、探していた。そして、俺を見付けて助けてくれた。その事実には変わりない。
気にならないと言えば嘘になるが、気にしたところで、どうにもしようがないことも確かだ。
何れ、話を聞けるときが来るだろうか。聞く必要があるだろうか。
「お。飯もちゃんと食ってるな」
一通り話し終えた杉元は、テーブルの上にそのままになっていた器をのぞき込んでそう零した。器の中身は空になっている。鯉登さんが用意してくれる食事を残したことはない。一緒に食事をとった初めてのその日、鯉登さんは、料理はあまり得意ではないと言っていたように思うが、俺にはそうは思えない。料理の上手い下手かはよくわからないが、出される料理はどれも丁寧に作ってあるうえ、俺の口には合うものばかりで、注文を付けるところなどないのだ。毎日こういう飯が食えていたら、こういう飯を作ってくれる誰かが居たなら、ヤクザになんぞならずに済んだかもしれない。ふと、そんなことを思う。夢のような話だ。だが、飯が変わったくらいでそう容易く足が洗えるような世界ではないことも、嫌というほど知っている。だからこそ、今のような、俺には現実だとも思えないような温い現実にいる間は、夢みたいなことを思うのだろう。
いつかは夢から覚めるのだから、馬鹿な夢を見るのも今の内だ。どうせ、すぐにそんな夢も見られなくなる。
「ちゃんと食べてあげてね」
聞こえた声に顔を上げると、杉元は思いのほか真剣な顔をしてこちらを見ていた。試すようなその視線に、潜んでいるのはどんな感情だろうか。
「いつも食ってるだろうが」
努めて冷静に、なんてことない風にそう返すと、杉元はその目を三日月に変えて「そうだね」と呟き「鯉登の作る飯って美味いの?」と聞いてきた。
「まぁ、悪くない」
「なにそれ」
「そのまんまだ」
「じゃぁ、美味いんだ」
「悪くないと言ってる」
繰り返したら、杉元は意地悪く笑って「はいはい」とあしらう様に笑ってから「いいなぁ」と小さく零した。
「俺も作って貰いたいんだけど」
「頼めばいいじゃないか。連れなんだろう?」
続いた言葉にそう返したら、杉元はわかりやすく顔を顰めた。
「わかってないなぁ」と、杉元は言う。
「何をだよ」
「何もかもだよ」
言われて、言い返そうとして、その通りだと思う。
俺は、鯉登さんのことなど何もわかっては居ない。その名前と、姿と、声と、その顔と。知っているのはそれだけだ。
どうして俺を助けたのか、俺を知っていたのか、俺を探していたのか、だとしたらどうしてそんなことをしていたのか。何も知らない。
「あの人は…」
「鯉登の事?}
どこの何者で、一体この先どうするつもりなのか。どうしたいのか。
「気になる?」
見詰めてくる、挑むようなその目から視線を逸らし「別に」と短く返すと、溜息の後に「気にしてあげてよ」と嘆くような声が聞こえてきた。
顔を上げると、杉元は笑っていた。
「鯉登、アンタが安心して暮らせるようにって頑張ってるみたいだからさ」
「は?……俺が、なんだって?」
「本人に聞いてみなよ」
そう言ったきり、杉元は俺に背を向けてスマホをいじり始めた。
全く、わけが解からない。解るわけがなかった。
***
その晩、鯉登さんはいつも通りに帰って来た。
変わりはなかったか?と、聞いてきた鯉登さんに、俺は「何も」と答えて、杉元から話を聞いたことは伝えなかった。鯉登さんが俺に言わないことを、話す必要はないと考えたからだ。
鯉登さんは、俺の返事を聞くと「そうか」と漏らしてキッチンに向かった。
そうして「すぐに支度をするから」と言って、いつもと同じように夕飯の用意を始める。何も変わりない。いつも通りだ。俺が杉元からほんの少し鯉登さんの話を聞いただけで、鯉登さんの何が変わったわけではない。元からそうだったことを、俺が知っただけのことだ。知ってしまっては、何故、如何して、と、確かめたいことは益々増えたが、俺は平静を装って鯉登さんの様子を伺いながら、いつも通りにテーブルを拭き、何か手伝うことはないかと声を掛けた。
すると、決まって鯉登さんは「あいがと」と小さく答えてから「気にしなくていい。寝ていていいからな」と言う。鯉登さんは、俺に何を求めることもない。いつもそうだ。ただ、此処に居ればいい。好きにしてくれて構わない。そう繰り返す。だからと言って、その通りにしていては居心地が悪く、寝ていていいと言われて寝に戻ったことは一度もない。居たところで、何が出来た試しもないのだけれど、俺は鯉登さんが望むようにそこに居るしかない。
料理が出来るまでの間は、大した手伝いも出来ず、俺はぼんやりと鯉登さんの様子を見ているだけだ。
「故郷は、どこなんです?」
ふと思いついて問いかけると、鯉登さんは顔を上げて「どうしたんだ?急に」と問い返してきた。
「時々、言うでしょう?『あいがと』って。どこの言葉なのかと思って」
答えると、鯉登さんは「あぁ」と小さく零し「無意識だった」と呟いた。
「鹿児島だ。珍しいか?」
「そうですね。あまり、馴染みがなくて」
「そうか。そうだろうな。ここからは、遠いからな」と漏らした鯉登さんの口元は笑っていた。
「月島は、どこの生まれだ?」
少し間を置いて、投げられたその問いに顔を上げると、鯉登さんは手元を見ていた視線をこちらに寄越した。
聞かなくても、知っているんじゃないですか?
喉元まで出かかったその言葉をどうにか飲み込んで「佐渡です」と答え「新潟の」と補足した。
鯉登さんはそれに「そうか」と答え「佐渡には、行ったことがない」と続けてから「いいところなのだろうな」と俺に笑いかけた。
「……何もありませんよ」
答えたその声は、苦く落ちた。
俺の生まれ育った町は、暗い海と、荒れた岩場に囲まれた何もない田舎町だ。いい思い出など、一つもない。戻りたい、帰りたいと思える場所でも無いのだ。それが顔に出ていたのだろう。
「つまらないことを、聞いてしまったな」
申し訳なさそうに聞こえたその声に「いえ」と短く答える。
「話を振ったのは俺ですから」
俺の方こそ、余計なことを聞きました。と頭を下げると、鯉登さんは「気にするな」と笑って、手元に視線を落とした。
黙々と、料理を続ける手元から色んな音が聞こえてくる。葉を刻み、肉を叩き、俺のために作られる食事の出来上がってくその音をぼんやりと聞きながら、昼間、杉元から聞いた話を思い出す。
杉元が知り合った頃、高校生の頃から鯉登さんは既に俺を探していた。それが本当に俺なのかは分からないが、少なくとも、俺に瓜二つの男を探していたことには違いない。
一体いつから、鯉登さんは俺を……その男を、知っていたのか。何処で、如何して、知ったのか。探した理由は何なのか。聞きたいことは山程ある。けれどもそれを、如何聞いていいのか、うまく言葉を探せなかった。
「何で、此処までしてくれるんです」
口をついたのはそんな言葉だった。俺みたいな男を助けて、世話を焼いて、それで一体何になるというのか。
湧き上がった疑問に返された言葉は、答えにもならない一言だった。
「気にしないでくれ」と。
鯉登さんは、そう言って笑っただけだった。
「気になりますよ」
当然の反論をすると、鯉登さんは少し困ったような顔をして「月島は気にしなくていい」と繰り返した。
「私が、好きでしていることだ」
「だから、それがなんでなんです?」
「何でって……」
「俺には、此処までしてもらう謂れが無いんですよ。有難いとは思っています。思ってはいますが、俺は……育ちが良くないもんで、あんまりよくされると、何か裏があるんじゃないかと勘繰るんです。」
馬鹿正直に告げると、鯉登さんは困惑した顔をして「そんなことを、考えていたのか」と弱弱しく声を漏らした。
「裏なんて……何もない」
そう零した鯉登さんのその顔が傷ついているように見えた。
「私は、ただ……」
言葉尻を濁してうつむく鯉登さんの、今にも泣きそうなその顔に、俺のなけなしの良心が痛んだ。
「……すいません。あんたのような人に限って、そんなことはないとわかっちゃいるつもりなんですけれど…」
言い訳がましくそう告げると、鯉登さんは緩く首を横に振って「いいんだ」と零した。「私が、勝手な真似をして月島にそう思わせてしまっているのだから、気に病まないでくれ」と続いたその言葉に、どう答えていいか分からなかった。
「月島には、恩があるんだ」
「恩?」
唐突に聞こえたその言葉を繰り返すと、鯉登さんはこくりと頷いて「私は、其れを返しているだけだ」と薄く笑みを作った。
「お前は覚えていないようだが……それでいい」
「それでいいって、そんな」
「いいんだ」
柔らかに繰り返された声には、はっきりと強い意志が込められていた。
「私の、好きにさせてほしい」
笑みと共に告げられたその言葉に、俺は何を答えることも、何を問うことも出来なかった。
***
家永は、一日おきに訪ねてきていた。傷の経過を見るためだ。最初の内は、消毒だのガーゼの取り換えだの確かに必要な処置だったろうと思えたが、粗方傷も塞がってきた今も訪ねてくる頻度が変わらないのは監視のためだろうか。どのみち、俺には断る権利などない。
「で?如何です?鯉登さんと一緒になって」
処置をしながら、家永がふとそんなことを口にした。
「変な言い方すんな」
「あら?そうですか?」
趣味の悪い揶揄い方をすると辟易していたら、家永は気にした様子もなく「で?どうなんです?」と重ねて問うてきた。
「どうって…」
考えるまでもない。鯉登さんは日々甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれている。三食昼寝つき。何を強制されるわけでもない。衣食住のすべてを整えて貰って、申し訳程度に家事を手伝うだけなのだから、ヒモのような生活だと思うこともある。ヒモになどなったことがないから偏見でしかないが、ヒモと違うところがあるとしたら、俺が鯉登さんの機嫌を取ったり、恋人のような真似をすることが無いことくらいだろうか。恋人、ではないが、鯉登さんは俺が風呂に入れない間は、背中を拭いてくれたりもした。彫り物のある背中を、鯉登さんは嫌な顔一つせず熱心に拭ってくれた。そのうえ、何かしてほしいことは無いか、必要なものはないかとしつこいくらいに聞かれるのだから、恋人でもここまで世話を焼いてくれることもないのではないかと思う。これで不満を言ったりしたら、それこそ罰が当たるだろう。
「お幸せそうで何よりです」
にこりと笑ってそう言った家永の言葉は嫌味でもなんでもなく、本心なのだろう。
「幸せだかなんだか知らねぇが、これじゃぬるま湯みたいで身体がなまる」
愚痴のようにそう零したら、家永は「いいじゃないですか」と笑った。
「ゆっくり、ぬるま湯に浸かったことなんてなかったのでしょう?」
口元に笑みを称えてそう問いかけてくる家永は、こちらの世界の連中を見てきたからそう言うのだろう。確かにそれはその通りだ。
「そうだな」と答えてから、それが許されるならそれでいい。と思うことにした。どうせ、この生活もそう長く続くものではない。今一時の話だ。それならば、許されるだろうと思いたい。
「本当に、何の不満も無いんです?」
処置を終え、荷物を片付けながらそう問いかけてきた家永は、俺に何を言わせたかったのだろうか。「無い」ときっぱり答えてから、ふと思いついて「あるとしたら、下の世話くらいのことだな」等と、軽口をきいたのは間違いだった。間違いに気付いて後悔しても、もう遅い。
「それもお願いすればいいじゃないですか」
家永は声を弾ませてそう言った。目は輝き、口元は綻んで、名案だろうと言わんばかりの様子に呆れるしかない。
「馬鹿言え。鯉登さんは男だぞ」
「あら?男だってイイもんですよ?」
俺の言葉に不満も明らかにそう言い返した家永は「試してみたらいかがです?」とまで言うのだから面食らってしまう。忘れていたわけではないが、この家永も、男なのだ。その言葉は、自身の経験によるものか、と、危うく問いかけそうになって、寸でのところでその問いを飲み込んだ。聞いたが最後、何を語られるか分かったものじゃない。俺の動揺を他所に、言うだけ言って帰ろうとする家永を呼び止めたのは嫌な予感がしたからだ。
「お前、間違っても鯉登さんに余計な事言うなよ?」
釘を刺すつもりでそう言ったが、家永はにんまりと笑って見せただけで、何を答えることもなく帰っていった。それこそ、余計なことだったろうか。
ひとり取り残された玄関で、家永に言われた言葉を思い出す。お願いすればいい、だ等と、よくも言えたものだ。相手が女でも洒落にならないが、男相手になんて冗談じゃない。
そうは思うものの、本当にそうだろうかとも思う。
鯉登さんは、キレイな人だ。男の俺からも見ても素直にそう思える。肌にも、髪にも艶があり、ふと、触れたくなる瞬間がある。男を相手にしたことは無いが、聞いた話ならいくらでもある。誘われたことだって無くはない。興味がわかなかっただけだ。けれども、相手が鯉登さんならどうだろう。
あの、キレイな人を組み敷いて、俺の手で……
「……抱けるな」
ぼそりと、声に出してしまってから、自分で自分にゾッとして、馬鹿な考えを打ち消そうと必死に頭を振った。世話になっている恩人相手に、何を考えているのかと自身に呆れるしかない。
何を考えているのかと、盛大に溜息を吐いた所で、家永と入れ違いに杉元が訪ねてきた。
「おはよー。って、珍しいね?玄関に居るの。何かあった?」
いつも通りに訪ねてきた杉元の姿をしげしげと眺めてみれば、その顔が整ったものだと気付かされた。気にしたこともなかったが、杉元も『若くて見目のイイ男』という点では鯉登さんと同じ筈だ。その筈だが……
「……ないな」
考える間もなく答えは出た。そういう趣味の人間がいることも承知しているが、俺の趣味じゃない。その筈だ。
「何が?」
「何でもない」
「え!?何!?気になるんだけど!?」
なんだとやかましく騒ぐ杉元のお陰で、どうにか笑うことが出来た。笑って、流すような話だ。そうでなければ、間違いが起こる。
間違いだ。間違いに違いない。
そんなこと、あってはならない。その筈だ。
***
小さな紙袋を提げて帰って来た鯉登さんが、帰ってくるなり俺にその袋を渡してきたのは、一緒に暮らし始めて二十日余りが過ぎた頃だった。
何か分からず受け取った袋の中には、真新しいスマートフォンが入っていた。
「これは…」
「月島用だ。名義は、私になっているが、好きに使ってくれていい。」
鯉登さんの話では、俺が元々使っていたものは、刺されたあの時に落として壊れてしまったらしい。修理に出そうとはしたが、スマートフォンですらない携帯電話は修理に出すだけ無駄だと修理を受け付けてさえ貰えなかったという。
袋の中には、確かに見覚えのある携帯が入っていたが、電源はとうに切れている上に、液晶の画面はひび割れて、確かにこれでは直せるものではないだろうという有様だった。
「いいんですか?こんなもの持たせて」
「必要なこともあるだろ?何か、調べたり……連絡を取りたい相手だって…」
「居ませんよ。そんな相手」
「そう、なのか?」
どこかホッとしたように見える鯉登さんに笑ってしまう。
「…もしもそういう相手が居たとして、それが薬の売人なんかだったとしたら、どうするんです?」
あまりにも無防備で、あまりにも優し過ぎる鯉登さんに、半分脅すようなつもりでそう告げると、鯉登さんは一瞬表情を硬くしたが、俺の言葉に怯むでもなく、真直ぐに俺を見つめてきた。
「月島は、そんな真似はしない。」
きっぱりと、そう言い切られては言葉もない。
俺の何を知っていて、何をそんなに信じているのかと問い詰めたい衝動をどうにか抑えつけ「そうですか」と苦く笑うのが精一杯だった。
「でも、こいつは必要ありませんよ」
何とかそう言葉を続けて、差し出された袋ごと返そうとすると、鯉登さんは驚いた顔をして「どうして」と小さく零した。
「どうしても何も、此処にいる間は外に出る気はありませんし。職を探すにしても、俺のような人間は、伝手を頼るしかありませんから。」
日向に生きる普通の人が、ごく当たり前にそうするように、求人情報で職を探し、適当な行き先を見付けるなんてことは、日陰を生きている人間には出来はしないのだ。日向にしか居たことのない鯉登さんには、考えもつかないのかも知れないが。
だからこんなもの、持っていたところで俺には勿体ない。金の無駄になると返そうとしたが、鯉登さんはそれを受け取らなかった。
「だったら、私との連絡用に持ってくれ」
「連絡…と言っても…」
「何かあったら、知らせてほしい」
鯉登さんは、少しも引かなかった。
「傷が痛むとか、食べたいものがあるとか……なんでもいいんだ。…私から、何か、知らせることも、あるかもしれないし…」
「何か…って、例えば?なんです?」
「何って……例えば……帰る、時間とか…街で、猫を見かけたとか」
「猫?」
「猫は、嫌いか?」
「嫌いじゃありませんけど…」
それがわざわざ知らせたいほどのことかと思ったが、「よかった」と笑う鯉登さんを、可愛らしいとも思った。思ってしまった。
これは、何のごっこ遊びだろうか。俺みたいなおっさん相手に、それで楽しいのかと疑問は残るが、鯉登さんがそうしたいと言うなら拒むほどのことでもない。
「わかりましたよ。こいつは、あなたとの連絡用に持っておきます。」
それでいいですね?と念押しすると、鯉登さんは嬉しそうに笑って「よかよ」と郷里の訛りでそう答えた。
鯉登さんと、一緒に暮らしている間に気付いたことがある。
鯉登さんは、幼い。歳も若いのだろうが、それ以上に、子供なのだろうと思う。その癖、俺以上にしっかりした大人のような一面も見せるのだから、実にアンバランスだ。危なっかしくて、見ていて心配になる。俺みたいなヤクザ者に心配される謂れもないだろうが、俺みたい男だからこそ、余計に心配になる。この幼さと素直さで、つまらない輩に騙されて、いいように使われはしまいかと。もしもそんなことになったなら、どんな手を使っても助けにはいくつもりだが、心配には違いない。よくもこれまで、悪い輩に集られずに済んだものだと感心さえする。
きっと、昔からそうなのだろう。こんな様子だから、杉元のような男が近くにいるのかもしれない。鯉登さんへの認識は、杉元も俺とそう変わったものではないだろう。話してれば、それがよく分かる。危なっかしくて、放っておけなくて、つい、手助けをしたくなる。近くに居れば居るほど、離れがたくなるのかもしれないと、そう思う。
そんな人が、どうして俺なんかに一生懸命になっているのか解らない。
俺みたいな男とは、一番、関わっちゃいけない人なんじゃないか。かかわったところで、何の利になるとも思えない。いいや、鯉登さんが関わろうとしても、俺が、関わっちゃいけないんだ。本当は……
「何か、不便は無いか?」
ほとんど毎日のように、鯉登さんは俺にそう問いかけてくる。傷の具合は?食べたいものは?ほしいものはないか?俺に不便の無いようにと繰り返される問いは、俺を鯉登さんの所に引き留めるための問いだ。
「不便なんてありませんよ」
「本当か?何か、してほしいこともないか?」
「してほしいことなんて…」
「何でもいいんだぞ?月島が望むことは、なんでも…」
なんでも。と、聞こえた言葉に、昼間の、家永の声が蘇る。よくない考えが、頭を擡げてくる。
「じゃぁ」と小さく呟くと、鯉登さんは、その後に続く言葉が何なのか知りもせず「なんだ?」と身を乗り出してきた。
「アンタを抱かせて下さいよ」
冗談を装いもせず、そう告げると、鯉登さんはぎくりと固まった。
キラキラと輝くばかりの真っすぐな目は、俺を映したまま瞬きもせず、静かに色を失っていくように見えた。流石に、こんな要望は想定してなかったか。それはそうだ。鯉登さんは男で、俺も男だ。抱かせてくれなんて、そんな要求、考えもしなかったろう。
「冗談ですよ。」
取り繕う様にそう告げると、ホッとしたのは俺の方だった。けれど…
「なんでもなんて言うもんじゃ…」
「よかよ」
嗜める声を遮るように短く聞こえた、肯定を示す一言に、今度は俺が固まる番だった。
「……は?」
「いい、と、言った。」
頬を赤らめて繰り返された言葉に絶句する。
「月島が、私を……抱きたい、と、言うなら…私は…」
躊躇いがちに、途切れ途切れに漏らされる言葉にかき乱される。この人は、何を言っているのだろう。何を言っているのか、分かっているのか。俺に抱かれてもいいだなんて…
「冗談だって言ったでしょう」
反射で口をついた言葉は、思いのほか強く、咎めるような響きになった。
「あんまり、馬鹿を言うもんじゃありませんよ」
自分が言い出したくせに、酷い言い様だとは分かっている。解っているけれど、どうしていいか分からなくて「先に寝ます」と吐き捨てるように言い置くと、そのまま鯉登さんの顔を見ないようにして部屋に戻った。
後ろ手に、ドアを閉めた後、もしも、と考える。
もしも、このドアを開けて、鯉登さんが部屋に入ってきたら。
俺はきっと、そのまま鯉登さんを抱いてしまうだろう。腕を掴んで、ベッドに押し倒して、そのまま……その衝動を、止められる自信はない。
「月島」
ドア越しに聞こえた声に息を呑む。
「はい」と静かに答えると、少し間を置いてから聞こえてきたのは一言きりだった。
「…おやすみ。」と。
鯉登さんは、それだけを告げると、静かにドアの前を去っていった。幸いにして、不幸にして、ドアが開くことは無かった。
いっそ、開いてしまえばよかったろうか。そうして、そのまま……と、浮かんだ考えにうんざりしながらふとカーテンを開けたままの窓の外を見遣ると、この部屋に来てすぐの頃によく眺めていた観覧車が、夜の照明に浮かんで見えた。
遥かに見えるそのゴンドラに、誰か乗っているだろうか。恋人か、家族か。俺には、余りにも遠くに見えるその明りがうっとうしくて、勢いよくカーテンを引くと、そのままベッドに潜り込んで頭からシーツを被った。
考えてはいけない。考えるべきではない。家永にそそのかされて、つまらない考えに捕らわれているだけだ。妙な気が起きそうになったのはそのせいだ。それだけだ。
そう言い訳して眠ったその晩、俺は夢を見た。
夢の中で、俺は見知らぬ場所に居た。
何処かの宿だろうか。行燈の明かりだけの薄暗い和室に、俺は、鯉登さんと二人きりだった。
二人きりのその部屋で、俺は、鯉登さんを抱いていた。
乱れた布団の上に、いつもはきれいに整えられている黒髪を散らした鯉登さんの姿が、行燈の薄明りに照らされていた。
いつもは凛とした群青のその瞳は欲に潤み、掠れて熱に浮かされたようなその声は、何度も、何度も、繰り返し俺の名を呼んだ。
『月島』と、俺を呼ぶその声は、あまりに甘く、切なくて、呼ばれる度に眩暈がして、俺は、鯉登さんに溺れていた。
目覚めは最悪だ。
夢は、夢でしかない筈だのに、妙に生々しく『月島』と何度も俺を呼ぶ甘ったるい鯉登さんのその声は、目が覚めた後も耳に残っていた。
最悪だ。本当に、最悪だ。
***
「鯉登になんかした?」
翌日、珍しく昼過ぎに訪ねてきた杉元は開口一番こう言い放った。時間のせいか、いつもの『おはよう』もなしだ。この時間になったのは、鯉登さんと話でもしていたろうか。
今朝、鯉登さんはいつも通りだった。昨夜のことなど、何もなかったかのように、いつも通り朝の挨拶をして、俺の朝食も用意してくれていた。少し違ったのは『寄るところがあるから』と、普段より早い時間に家を出たことだ。寄るところ、というのは、杉元の所だったのかもしれない。俺とのことを、何をどこまで、如何話しているかしれないが、何かしら相談をしたとしても不思議ではない。何を如何話すのかは、考えもつかないが、いい風には伝わってないだろう。杉元の顔を見ればそれがよく分かる。何かしたかと問われれば、心当たりしかない。然して、それをあっさり認めて白状するわけにもいかず「別に」と短く返すと、杉元は俺の返答を予想していたのか、不服そうな顔で「いいけど」という投げやりな言葉と一緒に盛大に溜息を吐いてみせた。
「鯉登のこと、大事にしてやってよ。」
溜息の後に続いたのはそんな一言だ。
振り返れば、杉元は至って真剣な顔をしてこちらを見ていた。憮然としたその表情は、拗ねているようにも、怒っているようにも見える。或いは、何かを挑むような…そんな顔だ。
「あの人に気でもあるのか?」
カマをかけるつもりでそう問いかけたら、杉元は眉一つ動かさなかった。
「あるって言ったら、引いてくれんの?」
それでは、暗に気があると言っているようなものじゃないか?そう思ったが、そんな軽口を叩けるような雰囲気でもないことは明らかだ。
「……冗談だ。真に受ける奴があるか。」
誤魔化すようにそう言うと、杉元は大仰に溜息を吐いて「そういう冗談よくないと思うよ」と至極まっとうな事を言った。返す言葉もない。
「大事な友達なんだよ。」
続いたその言葉は本心だろう。
「だからずっと心配してんの」
友人の人探しを何年も手伝うような男だ。そのうえ、今もこうして毎日俺の監視を引き受けているのだから、この男も大概なお人好しなんだろう。
「あんたにだって大事な人とかいるだろ」
人が好過ぎて、俺のような生き方をしている人間のことは考えもつかないのかもしれないが。
「いないよ」
短く答えると、杉元は微かに息を呑んだ。
「そんなもん、居た試しがねぇ」
世話になった人なら居る。けれども、誰かを『大事』だと思ったことなど一度もない。そう振り返ってみれば、本当にろくでもない人生だ。
「そういう相手が居たら、もう少し、ましな人生だったかもな」
自嘲間交じりにそう零すと、杉元は瞬きをひとつして「だったら」と口を開いた。
「大事な人、作ればいいじゃん」
事も無げに、杉元は言う。
「そんな簡単にできるもんかよ」
「鯉登がいるだろ」
間髪入れずに聞こえた『鯉登』の名に顔を上げると、杉元は笑いもせず、ただ真っすぐに俺を見ていた。
「大事だと思ってよ」
独り言のように言いながら、杉元は決して俺から目を逸らさなかった。
「……鯉登の事、大事にしてやってよ」
杉元の、矢のような視線が突き刺さる。
「あいつは、アンタの事、ずっと探してたんだからさ」
申し訳程度に、言葉の最後に笑みを見せた杉元に、俺はぎこちなく笑うことしか出来なかった。
「考えておくよ」
そう、返しはしたものの、何を如何考えて、どうするのが正解なのか、少しも分からなかった。
***
家永が狐目の女を連れてきたのは、杉元と話をしたあくる日のことだ。
この家に、杉元と家永以外の人間が訪ねてきたのは初めてだった。鯉登さんからそういう女が来るという話も聞いてはいない。家主でもない居候の俺が、勝手に氏素性の分からない女を家に上げていいものか。玄関先で迷っていると、女は遠慮した様子で「私はここで」と言い始めた。
そうは言っても、世話になっている家永の連れだ。少しくらい…と思ったが、女はチラとこちらを見遣ると「お気になさらないでください」と、こちらの心情を見透かすように微笑んだ。
「私が、無理を言って先生についてきたんです。ですから、本当に、お気になさらず。」
そう言う女の隣で、家永は甚く恐縮して「如何しても、お顔が見たいっていうものですから」と零し「すいません」と頭を下げた。
「顔が見たい?俺のか?鯉登さんじゃなく?」
思わずそう問いかけたら、家永は困った風に笑って隣の女を見た。女はそれに笑みを返すだけで、俺の問いに答えようともしない。
この女も、俺を『知っている』というのだろうか。鯉登さんと同じように。
「如何して、俺なんか…」
漏れた声に、女は笑みを深くして、家永と同じように困ったような顔をしてみせた。
「気にするな、と言っても難しいでしょうが、どうか、お気になさらず」
女の言う通り、気にするなと言われても土台無理な話だ。けれども、女は俺に答えるつもりはないらしい。答えない代わりに、しばらく俺の顔をじっと見つめると、女は瞬きを二つして「安心しました」と、そう零した。
全く意味が分からない。一体何に、どう安心したというのか。
「本当に、無事に、会えたんですね。」
感慨深そうにそう言う女の横で、家永は俺の顔色を窺っている。この女は、なんだというんだ。
「家永、少しは説明しろ」
「どう言えばいいか…」
まごつく家永の横で、女は涼しい顔をして咳ばらいを一つした。
「鯉登さんの古い友人です」
「友人?あんたが?」
女の口から出た言葉にそう返すと、女はこくりと頷いてから「えぇ、そうです」と答えてから、少し間を置いて「友人というより、私には、恩人ですけれど」と続けた。
「ほんの少し、鯉登さんがあなたを探すお手伝いをしていました。」
そういって、女が差し出したのはいつだか杉元に見せられたあの似顔絵だった。この女も、杉元と同じように、鯉登さんと一緒に俺を探していたのか。
「本当に『また』会えてよかった」
微笑む女の、その言葉が引っかかった。
「『また』って、どういうことだ?俺はあんたにあったことがあるのか?それとも、鯉登さんの話か?あんた、何を知ってる?」
どれだけ問いを投げても、女は悠然と笑うだけで、どの問いにもまともに答えようとはしなかった。
「私は、何も存じません。ただ、見守っていただけですから。」
はっきりと答えを寄越さない女に苛立ちは募ったが、詰ったところでこの女なら上手くはぐらかすだけだろう。うんざりして溜息を吐くと、女は小さく笑って「そう怒らないでください」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「怒っちゃいない。イラついてるだけだ」
吐き捨てるように答えると、女はまた笑って「ほら、怒ってる」と呟き、それから思い出したように「そのお顔、鯉登ニシパにはなるべく見せないであげてくださいね。」と言った。
「鯉登…何だって?」
「鯉登ニシパ…あなたの大切な方です」
きっぱりとそう告げられて、二の句が継げないでいると「大切な方ですよ。」と女は繰り返し「無事に、出会えてよかった」と、感慨深げに呟いた。
昨日、杉元に言われた言葉が耳に蘇る。
『鯉登の事、大事にしてやってよ』と、その声が耳元で聞こえた気がして頭を振ると、女はダメ押しをするように「鯉登ニシパのこと、大切になさってくださいね」と告げてきた。
全く、意味が分からない。一体なんだってこの女は、俺にそんなことを告げに来たのか。何を知っているというのか。
分からないのに、さっきから目の裏に鯉登さんの姿がちらついて、少しも消えそうにない。
大切な人。そう言われたその人を、俺は、一体如何思っているのだろうか。
如何したいと、思っているのだろうか。自分の本心が、分からない。
分かりたくない。
***
狐目の女が訪ねてきたその日、鯉登さんはいつもより早い時間に帰ってきた。息を切らせて「月島、居るか!?」と叫ぶように言いながらの帰宅だったものだから、何かあったのかと俺は慌てて玄関へ飛び出した。
「如何したんです!?なにか、あったんですか?」
いつにない、慌てた様子に声を掛けると、鯉登さんは俺を真直ぐに見詰めて暫し黙り「インカラマッが訪ねて来ただろう?」と、呟いた。
確かに聞こえた筈なのに、鯉登さんが口にした言葉はよく聞き取れなかった。耳馴染みの無い言葉は、それも方言だろうか。答えに詰まって、結局『知らない「女」が訪ねてきた』と返すと、鯉登さんは俺の腕を掴んで身を乗り出した。
「インカラマッだ。アイヌの女だ。何か、話はしたか?」
あの女は、アイヌだったのか。鯉登さんを妙な呼び方をしていたのは、アイヌの言葉だったろうか。アイヌになど、馴染みがないのだからわかる筈が無い。
「話、というほどのことは…」
「しなかったのか?」
「……するには、しましたが…」
女の話を、そのまま伝えるわけにもいかず、言葉を選ぶ必要がある。何をどう話したものか、考えるうちに思い出した。
「恩人だと、言っていました。鯉登さんのことを」
嘘ではない。女は、確かにそう言っていた。
「恩人……インカラマッは、そんなことを言っていたのか?」
心底不思議そうにそう零した鯉登さんに「はい」と短く返すと、鯉登さんは癪全としない様子のまま「それだけか?」と問うてきた。
鯉登さんのその声は、ホッとしたような、落胆したような、そんな声音だった。何を期待していて、何に怯えていたのだろう。
「それだけです。…自分の恩人だから、迷惑をかけるな、と。」
意訳も過ぎるだろうが、間違いではない。あの女は、俺に釘を刺しに来た。そうには違いないのだ。何を知っていて、何を意図していたかは分からない。けれども、それだけは確かだろう。
話を聞くと、鯉登さんは落ち着いたようで、ふ、と肩で息をすると、念を押すように「本当に、それだけだったんだな」と繰り返した。
それだけです。と、答えると、鯉登さんは漸く笑顔を見せた。
「迷惑なんて、少しもかけられてないのにな」と、笑う鯉登さんに、俺はどう答えていいか分からなかった。迷惑なら、十分すぎるほどかけているはずだが、鯉登さんが笑うのなら、迷惑ではないというのなら、それでいい。
女のことは気掛かりだか、ひと先ずは、それでいい。そういうことにした。
***
それから暫く、穏やかな日々が続いた。
あの日俺が鯉登さんに『抱かせろ』と言ったことには、俺も鯉登さんも触れないようにしていた。触れてはいけないと、そう思っていた。
表面上、何も無かったように過ごす日々は、俺が今までの人生で経験したことのない、酷く穏やかな日々だった。
毎朝決まった時間に起き、鯉登さんの作ってくれた飯を食べ、鯉登さんを見送る。夕刻には鯉登さんが帰ってきて、また一緒に飯を食う。日々は、ただ穏やかに過ぎて行くばかりだ。
杉元は、鯉登さんとどういう話をしたのか知らないが、俺に鯉登さんを大事にしろと言ったあの日以来、姿を見せなくなった。
家永も、しばらく姿を見ていない。少し前に、腹の傷の抜糸が終わると、あとはこまめに経過を見る必要もないと訪ねてこなくなった。最後に訪ねてきたその日、抜糸が済んだからと言って、傷が完全に治っているわけではないのだから、当分養生するようにと、家永はしつこいくらいに繰り返しそう言っていた。
「あなたが無茶をなさると、鯉登さんが悲しむんですから。ちゃんと大人しくしていてくださいね。」
そう言った家永に、居候の俺なんかがどうしたって鯉登さんが悲しんだりするものか、と、言いかけたが、鯉登さんなら、俺なんかのことでも悲しむのかもしれないと考え直して言葉を飲み込んだ。
訪ねて来る者が無ければ、日中は一人きりだ。
まだ不完全だという傷に気を付けながら、リハビリの真似事のようなことをしたり、部屋の掃除をしてみたり。洗濯物を畳むのも慣れた。
飯も普通に食えるようになって、風呂にも入れるようになった。
出掛けてもいいと鍵は預かっているし、必要だろうと幾らかの金も持たされている。それでも、出掛ける気にもならず、俺は鯉登さんのマンションに留まり続けている。
もう、いつでも出て行けるのに、居座っているのだ。
連絡用にと渡されたスマートフォンでとっとと職探しでもして、どこか適当なところに転がり込む段取りを付ければいい。連絡先の番号を覚えているような相手は居ないが、どこに連絡を付ければ、誰に繋がるかなど分かっている。何処かの組の末端か、飲み屋の用心棒か。娯楽施設の回収屋。どのみち、日向の仕事ではないが、宛はある。食うに困るようなことは無いだろう。
この部屋を出れば、元の生活に戻るだけだ。ずっとそうして生きてきた。その世界に戻るだけの話だ。それなのに、ほんのひと月ほど前までのその暮らしが、如何してこんなにも遠く感じるのか。
あの世界でしか生きられないと思っていた。そこにしか居場所はないのだと。
こんな、今のような、堅気の暮らしが自分に出来るとは思っていなかった。ここはぬるま湯だ。このまま、此処に居続けたら、ふやけきって、元の世界には戻れなくなる。
だが、戻る必要があるだろうか。
いいや、このままここに居ていいのだろうか。
窓の外を見れば、今日も遠くに観覧車が見える。昼間の明るい陽の下で、ゆったりと回るそれは、俺には平穏な暮らしの象徴のように見えた。
このまま、此処に居れば。鯉登さんの傍に居れば、いつかは、俺もあのゴンドラに乗れる日が来るだろうか。そんなことはあり得ない。そんな日が来ることは無いと解っている。解っているのに、夢を見る。
ここは、あまりにも居心地が良すぎる。俺みたいな男が、居てもいいところなんかじゃない。解っている。そんなことは、解っている。それでも、どうしても、外へ出ようという気が起きなかった。
不意に震えたスマートフォンは鯉登さんからの連絡を報せた。
通知を開けば、今日は早く帰れそうだという端的な文面が目に映った。その一文に風呂の用意はしておきます。と返すと、程なくして、不細工なアザラシのスタンプが返って来る。鯉登さんのお気に入りらしいそのスタンプが何なのかはよく分からないが、よく分からないそのスタンプを送ってくる鯉登さんを、『愛おしい』と思った。
唐突に、けれども、確かに『愛おしい』と。
自分で自分の感情に驚きながら、今更のように自覚するしかなかった。
俺は、鯉登さんに惚れてしまったらしい。そういうことなのだろう。
『鯉登のこと、大事にしてやってよ』
いつか聞いた、杉元の声が耳に蘇る。
『鯉登ニシパのこと、大切になさってくださいね』
狐目の女の声が蘇る。
大事に、大切に、というのは、如何すればいいというのか。
俺には解らない。少しも、解らない。
***
その日、鯉登さんは休みで、朝からずっと家に居た。
二人で居ても、生活の何が変わるわけでもない。家事を協力してやるくらいのことで、特に会話が弾むわけでもなく、時間は静かに流れていく。
「一緒に、出掛けてみないか?」
鯉登さんがそう口にしたのは昼食をとった後だった。
この部屋に居候してからというもの、未だ部屋の外に出たことは無い。傷のこともあったが、出る気にもならなかった。外に出るのは、ベランダに出て風にあたる程度のことしかしてこなかった。
「気が、乗らないか?無理にとは言わないが、たまには、散歩に出てみないか?」
「散歩、ですか……」
そんなことをして、時間を過ごしたことは無い。
「近くに、公園があって。暖かくなってきたから、梅が咲いてるんだ。もう少ししたら、桜が咲く。その頃のほうがキレイなんだが、少しは、外の空気に触れるのもいいんじゃないかと思って。」
花を愛でるような趣味も持ったことがない。花見と言えば、バカ騒ぎをする連中を取り締まって、金を巻き上げるか、揉め事の仲裁に回るくらいのことで、ゆっくり花を見た試しなどなかった。
けれども、鯉登さんと並んで花を見るのは、そう悪くないように思えた。梅でも、桜でも、色鮮やかに咲く花は、きっと鯉登さんにはよく似合うだろう。
出掛けてみてもいいのかもしれない。そうして、この部屋の外のことも知って、この先のことを、考えなければいけない時はもうとっくに過ぎている。
鯉登さんの提案を受けようと、返事をしかけた時だった。滅多になく、インターフォンが来客を報せてきた。
「誰だろう?宅配便か?」と呟いてモニターを覗いた鯉登さんは、そこに映る誰かの姿を認めると、慌てた様子で玄関へ飛び出していった。
久しぶりに杉元でも来たのだろうか。或いは、家永か。あの狐目の女も一緒だろうか。俺が思い当たるのはそのくらいだが、鯉登さんの後を追い、玄関に向かった先で目に映ったのは、想定していた誰でもない、見知らぬ男だった。
鯉登さんの背中の向こう。玄関に佇むその人は、仕立ての良い上等そうなスーツを着て、口元に上品なひげを蓄えた紳士だった。
その男とは初対面で、見知らぬ男に違いない。それなのに、どうしてだか、俺の足は動かなくなった。その男に近づくなと、本能が報せているようで、玄関からリビングへ繋がる僅かの距離の廊下の端で、俺はただ、鯉登さん越しに男を見ることしかできなかった。
「鶴見さん…いつ、此方に」
『ツルミ』というのは男の名だろうか。男を呼ぶ鯉登さんの声は弾んでいた。
「さっきついた所だ。せっかくだから、顔を見ていこうと思ってね」
鯉登さんに微笑みながらそう答えた男は、チラとこちらに視線を寄越すと、静かに頭を下げた。鯉登さんから、俺のことを聞いているのか。或いは、この男も俺のことを知っているのだろうか。
「上がっていって下さい、お茶を……」
「ゆっくりしたい所だが、妻と娘を待たせているからね」
男は、そう言って鯉登さんの誘いを、やんわりと断ると「そうですか」と言いながら、あからさまに落胆した様子の鯉登さんの肩に手を添えた。
「そんな顔をしないでくれ」と、聞こえたその声はひどく優しい。
「また、ゆっくり話をしよう」
浮かべた笑みには、余裕が見て取れた。
「はい」と答える鯉登さんは落胆しながらも納得した様子で、男に理解を示すもので、静かなその会話は、言外に二人に通じるものがあるのだと滲ませていた。ツルミというこの男は、俺の知らない鯉登さんを知っているのだ。きっと。
視線は、睨むようなものになっていたろうか。ふと、こちらに顔を向けた男は、笑っているのか、緩やかにその目を三日月に変えて、そっと鯉登さんの耳元に何かを囁いた。
男が何を言ったのか、俺には聞き取れなかった。けれども、鯉登さんは、男の言葉にハッとして、それから「はい」と小さく答えた。
「良かったな、鯉登。」
何が、良かったというのか。
俺には、少しもわからないけれど、鯉登さんは、男の言葉に頬を染め、はにかんだような笑みを零した。俺には、見せたことのない笑みだった。それが、俺ではない男に向けられていることに、感じたことのない苛立ちを覚えた。
あんたは鯉登さんの何なんだ。こそこそと何の話をしている。何のつもりでここへ来た。あんたも俺を知っているのか。俺の何を知っている。
男に掴みかかりたくなるような衝動を抑えこんで、どうにかその場を離れたのは男の為じゃない。鯉登さんの為だ。強く握りこんだ拳は、関節が白くなっていた。掌の鈍い痛みは、爪でも食い込んでいるのかもしれない。それでも、その拳を、鯉登さんの目の前でふるいたくはない。そう思って、その一念で衝動に耐えた。そうすることしかできなかった。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
「月島」と、呼ばれた声に振り返ると、男の姿は既になく、不安そうな顔をした鯉登さんがそこに居た。
「大丈夫か?顔色が良くない。気分でも、すぐれないのか?」
心配そうに聞いてくる鯉登さんの、その目に映っている俺は、一体どんな顔をしていただろうか。確かめたいけれど、確かめたくない。確かめてしまったら、もう後戻りが出来ない気がして、鯉登さんと目を合わさないように視線を逸らした。
「……今のは?」
「今の?」
「さっきの男は、知り合いですか?」
俯いたまま問いかけると、鯉登さんは、すぅ、と静かに息を吸って「紹介すればよかったな」と呟いた。
「鶴見篤四郎さん。…私が、昔から世話になっている方だ。」
「世話に…」
「今度、月島にもちゃんと…」
考えるより先に体が動いていた。
「っ…つき、しま…!?」
気付いたら、衝動的に鯉登さんを抱き締めていた。
俺より背も高く、体格もいい筈の鯉登さんは、あっさりと俺の腕に収まった。細身だが、しっかり鍛えられた身体だと、抱き締めてみればよく分かる。捕まえたその腕の中で、心臓が、五月蠅いくらいに跳ねているのも、よく、分かる。
「っ…月島?…どう、したんだ…急に…」
耳に届いたその声は、微かに震えていた。
「あんた、あの人と…」
寝ているのか、と、喉元まで出かかったその言葉を寸でのところで飲み込んだのは、間近にのぞき込んだ鯉登さんのその目に、怯えが滲んでいたからだ。恐れが、滲んでいたからだ。
知らないけれど、知っている目だ。
今まで、生きてきた中で、何度となく向けられてきた、その目。俺を恐れる、その目だ。よく知ったその目が、俺を現実に引き戻した。
あぁ、これは、夢だった。心地よいぬるま湯の中で見る、淡い夢だったのだ。俺の現実は、此処にはない。此処が、現実である筈が無い。
鯉登さんは、俺のような男の傍に居るような人じゃない。解っていた筈だ。
解っていたくせに、つまらない夢を見た。鯉登さんの傍で、このまま、穏やかに、真っ当な堅気らしく生きていけるんじゃないかと、そんな夢を。
けれども所詮、夢は夢だ。現実になるものじゃない。
鯉登さんのこの目が、何よりの証拠じゃないか。
けれども、出来るなら、夢は夢のまま。鯉登さんに、こんな目をさせたくはなかった。
「…月島?」
そっと腕を放すと、鯉登さんはその声に困惑を滲ませて俺の名を呼んだ。
「…すいません。頭、冷やしてきます」
「月島…っ」
鯉登さんの声が背中を追ってきたけれど、俺は構わず玄関を飛び出した。振り返って、鯉登さんの顔を見ることはできなかった。
***
凡そ、ひと月ぶり…それ以上だろうか。久しぶりに外に出てみれば、季節が変わりかけていた。
頬を刺すようだった空気は温み、そこかしこに花が咲いている光景が目に映る。そういえば、先刻鯉登さんは花を見に行こうと言っていた。近くに公園があるとも言っていたが、土地勘のない場所では、それがどこだかも分からない。
探すつもりはなかったが、宛もなく、ふらふらと歩くうちに、小さな公園に辿り付いた。見事に花をつけた梅の木と、奥に見えているのは桜だろうか。此処が鯉登さんの言っていた公園だろうかと考えたところで確かめようはない。大人しくマンションに帰って、聞けばいい話しかしれないが、一度出てしまえば、もう、戻ることは出来ないような気がした。戻っては、いけないような。
ポケットを弄り、幾らかの金があることを確認してから公園の隅にある自動販売機で缶コーヒーを買って適当なベンチに腰を下ろす。
鯉登さんは、如何しているだろうか。いきなり抱き着かれて、さぞ驚いただろう。あんな怯えた目をさせたくはなかった。
俺が、あの男なら…ツルミというあの男ならそんな目はしないのだろうか。下世話な話だが、俺に抱かれてもいいと言った時点で、男を知っている可能性を考えてみればよかったのだ。失礼な話かしれないが、そうだとすれば、あの返事にも合点はいく。
あれだけの別嬪なら、男でも女でも、誰かいい人が居たって当然だ。居ないほうが不思議なくらいだ。俺みたいな男をわざわざ助けて匿うような、優しい人だ。男でも、女でも、あの人を知ったら惹かれてしまうだろう。
現に、俺がそうだ。いつの間に、あの人に惹かれていた。なんで俺を助けたのか、如何して俺を知っていたのか。そんなことも、どうでもよくなる程に。気付けば、どうしようもなく、あの人に、鯉登さんに惹かれていた。
そうなのだろうと、今更気付いてももう遅い。どうにもしようのないことだ。
俺には、不釣り合いだ。
解っていた。最初から、解り切っていたことだ。
例え鯉登さんが、何らかの理由で俺を昔から知っていて、探していたのだとしても。俺の知らないところで、何かの恩を感じていて、それを返したいのだとしても、もう十分だ。
鯉登さんを大切に……大事にしろというのなら、俺は、あの人に関わっちゃいけない。関わるべきじゃない。
このまま、何処かに消えた方があの人の為だ。もう、そうすべきだろう。このあたりが、潮時だ。スマホは、部屋に置いたままだったか。その方がいい。手持ちの僅かの金があれば、十分だ。元の世界に戻れば、俺はどうしたって生きていける。そこでの生き方なら、知っているのだ。
一息に缶コーヒーを煽る。このままこの街を出て、住み慣れた日陰に戻ろう。そう思い、立ち上がろうとしたところで、目の前に立つ人の姿に気が付いた。
「月島基だな」
頭上に降って来たその声に顔を上げると、スーツ姿の男が二人、物々しい雰囲気で俺を見下ろしていた。
あぁ、御誂え向きだ。
やはり俺には真っ当な暮らしなんざ儚い夢だった。そういうことだ。
「一緒に来てもらうぞ」
逃げよう、とは、思わなかった。それが無駄だと解っていた。
声に従って立ち上がり、男たちと一緒に公園を出る前に、一度だけ、マンションの方を振り返った。
遠くに見えるバカでかい建物の、何処に鯉登さんが居るのかは分からない。俺は本当に、ついさっきまであそこに居たのだろうか。それも全部、夢だったのかもしれない。それなら、それでいい。いい夢だった。俺には、勿体ないくらいの、いい夢だった。
夢、ならば、礼くらい、ちゃんと伝えれば良かった。
思ったところで、伝えようはないのだけれど。
***
「月島!」
暗い廊下に響いたその声に顔を上げると、廊下の向こうから、こちらへかけてくる鯉登さんの姿が見えた。今にも泣きそうな顔をして、駆けてきたそのままの勢いで、鯉登さんは俺に抱き着いてきた。
ここが警察署で、周りには警官も、全く無関係な一般の人も居るというのに、鯉登さんは、そんなものはまるで見えていないようだった。
マンションを飛び出してから、鯉登さんが、警察に俺を迎えに来るまで、半日も経っていなかった。
事の顛末はこうだ。公園で俺に声を掛けてきたスーツの連中は警察官だった。
何かの嫌疑で俺を捕まえに来たわけではなかった。捕まったのは、俺を刺したあの男だった。酔って飲み屋で暴れて、自分はヤクザを刺殺したなどと息巻いていたものだから、そこから俺に繋がった。刺された経緯を聞きたいというだけのことだったのだ。とはいえ、刺された相手が前科者の俺ならば、叩けば埃が出てくるだろうと、警官たちは随分と息巻いていたらしい。結果は、警察側にしては散々だろう。所属していた組はとっくに解散。以後、何処の盃を受けるわけでもなくふらついていた俺には、警察の世話になるような話などどれだけ叩いても出てこなかったというわけだ。
取り調べを終えて解放されると、組に居た頃に何度か顔を合わせたことのある菊田と言う刑事がわざわざ俺の顔を見に来ていた。
「災難だったな」と言いながら、笑っているのだから性が悪い。挙句、「今度こそ真っ当に暮らせよ」などと、余計な事まで言われる始末だ。それが出来るなら苦労はしないと嘯いていると、話しをしている最中に行方不明の届けがどうだかという話が聞こえてきた。
鯉登さんが届けを出したのだと聞いて、俺は絶句した。マンションを出てからまだ数時間だ。警察に届を出すなどありえない話だ。
絶句する俺に、菊田刑事は「真っ当に暮らせそうだな」と笑ったが、俺はうまく笑うことなどできなかった。俺はただ、ただ、驚いていて、笑っていいのかも、解らなかった。
迎えに来て、俺に抱き着いたままでいる鯉登さんの後ろには、杉元と、ツルミというあの男の姿もあった。少し遅れて来た家永は、仕事を切り上げて連れに車を出させたのだと言って、俺の顔を見るなり「全く、人騒がせなんですから」と声を荒げた。
家永が言うのが、尤もな話だ。
鯉登さんは俺が出て行った後、半ばパニックになって家永や杉元、ツルミという男にも連絡したらしい。取り乱す鯉登さんに、警察への届を勧めたのはツルミだと聞いて、どんな顔をしていいか、いよいよ解らなくなった。
狭い警察署の廊下に集まった面々に「すいません」しか言えなかった。
***
結局俺は、鯉登さんに連れられて、元のマンションにのこのこ帰って来た。帰ってきて、しまった。
家永の車で送ってもらう車中、鯉登さんは、ずっと俺の手を握って放さなかった。マンションについてからそれに気づいたらしく、鯉登さんは車を降りるときになって慌てて手を離した。
「さっきは、すまなかった」
部屋に戻るなり、鯉登さんが口にしたのはその一言だった。
「すまなかったって…」
「いきなり、抱き着いたりして…」
「謝るのは、俺の方が先でしょう」
何の断りもなく、不用意に鯉登さんを抱き締めたのは俺の方だ。その上、つまらない邪推までして。それなのに、なんの謝罪もせず、逃げるように飛び出して。挙句そのまま居なくなろうとしたのに、警察の世話にまでなって結局連れ戻されているのだから、土下座したって足りないくらいだ。
「…本当に、すいませんでした」
「謝らないでくれ。私が、ちゃんと説明していれば済んだ話だ。」
鯉登さんは、頭を下げようとする俺を必死に止めて「悪いのは私だ」と繰り返した。
「何が悪いっていうんです」
「何…って…」
「鯉登さん」
名を呼んで、その顔をのぞき込むと、群青の瞳に俺が映った。
「何でです」
その群青に、静かに問いかける。
「恩があるとは言っていたが、俺には心当たりがない」
ずっと気になっていたことだ。
「此処までして貰う理由が解らない」
何度も問いかけて、はぐらかされ続けたことだ。
「そろそろ、教えてもらえませんか。その理由を。」
責めるつもりはない。純粋に、知りたいのだ。
鯉登さんが、俺を探していた理由を、俺に、此処まで尽くしてくれる理由を。
鯉登さんを、知りたいのだ。どうしようもなく、惹かれたから。惹かれて、しまったから。その人のこと、知りたいのだ。
「…前世を、信じるか?」
その声は、静かに響いた。
「前世?」
言葉を繰り返して問いかけると、鯉登さんは、こくりと頷いてみせた。
「私には、その記憶がある。」
真直ぐに俺を見つめるその瞳は澄んでいる。
「信じなくていい。聞き流してくれ。」
すぅ、と、ひとつ息を吐くと、鯉登さんは、ゆっくりと自分の『前世』を語り始めた。
前世、鯉登さんは明治の軍人だった。
そして、その軍人としての生涯には、最期まで鯉登さんに仕え、支え続けた男が居た。鯉登さんの右腕であり、最愛の伴侶だったというその男こそが『月島基』だと言う。
「あの時代だからな、公に出来るものでは無かったが、それでも、月島は最期まで私の傍に居てくれた。」
そう話す鯉登さんの口ぶりは、懐かしい思い出を語るものに違いなかった。
いくつもの苦難を共に乗り越え、晩年は二人で静かな暮らしをしていたが、無理が祟ったのか、鯉登さんは、右腕であった男よりも先に世を去った。
「私は、月島を置いて先に逝くことを悔いた。後に遺された月島に、苦労をさせるのではないかと…」
まるで昨日のことのように、鯉登さんは過去の後悔を口にした。
「生まれ変わってから、あの頃の手掛かりを探したが、私が死んだ後の月島の記録は見つからなかった。記録は残っていなかったが、私が、月島を覚えている。今、私が此処に居て、記憶を持っている以上、きっと月島も近くに居る筈だと思っていた。」
淡々と、語られる鯉登さんの話は、荒唐無稽なようにも思えたが、それがすべて作り話のようには思えなかった。
「月島を捜している内に、明治の頃の見知った顔と何人もすれ違った。杉元もそうだ。記憶はないようだが。」
「家永や、あの狐目の女も?」
「そうだ。全部ではないが、家永にもインカラマッにも記憶はあるらしい。二人とも、月島のことを覚えていた。」
「ツルミって男も?」
「あぁ。鶴見さんには明確に記憶がある。ようやく同じ記憶を持った人に出会えて、どれだけホッとしたか…」
ツルミという男を語るその口調に、嫉妬心が湧き上がりそうになる。
「鶴見さんは、私と、月島の上司だった人だ。……色々、あったがな。」
含みのあるその言い方が気になるが、聞かないほうがいいような気がした。
「今世で再会してからは、月島を探すのを手伝ってくれていたんだ。見付かったと連絡した時には、随分と喜んで下さった。」
それで今日も尋ねてくれたのだと、笑みを見せる鯉登さんに問いかける。
「人違いじゃ、ないんですか」
「人違い?」
虚を突かれたような顔をする鯉登さんに向き直り、その目を真直ぐ見つめ返すと、群青の中に不安げな顔をしている俺の姿が映っていた。
「俺は、誰かに大人しく仕えるような人間じゃない…似ているだけで、鯉登さんが探しているのは別の誰かなんじゃ…」
「そんなことは無い。」
俺の言葉を遮るように、響いたその声は強い意志を持っていた。
「私が月島を間違えることは無い」
俺を映す群青が、俄かに揺らいでいく。
「月島は、私の月島だ」
悲しみとも、怒りともつかない、感情の綯交ぜになったその群青に、触れれば、今にも雫が零れ落ちそうだ。
「……いいや、これは、私のエゴだ。」
自嘲交じりに零された言葉が胸に刺さる。
「前世など、今を生きているものには関係ない。そんなことはわかっている。寧ろ、そんなものに縛しつけてはいけないのに…」
エゴだと言いながら、この人は、鯉登さんは、一体、どんな思いで、俺との時間を過ごしていたのだろう。俺が、ぬるま湯だと思っていたあの時間は、鯉登さんには、どれほど……
「月島」
呼ばれたのは、俺だろうか。それとも、明治を生きた、その男だろうか。
「……それでも、私は……」
消えかかる言葉の先を察するには余りある。そう思うのは、俺の都合のいい解釈かもしれないが。
「……鯉登さん」
呼びかけると、群青がひと際揺らいで、俺を見つめた。
「前世が、どうとか言うのは、俺には解りません…」
話を聞いても、俺には、呼び覚まされる記憶もなければ、何の現実感もない。どこか遠くの、他人事のようにしか思えなかった。
「それでも…俺が、鯉登さんと居たいって言ったら、許して貰えますか?」
俺が鯉登さんの『月島』であるかは分からない。
「まともに働けるかはわかりませんが、仕事も探します。真っ当に暮らせるよう、出来ることはなんだってします。」
この先、前世のその男のように、鯉登さんを支えられるかもわからない。
「だから、俺を、傍においてもらえませんか」
祈るように、そう告げると、鯉登さんは声も無く、その群青から雫を零した。
はらはらと落ちるその雫に、そっと手を伸ばし指先で拭うと、鯉登さんが、その唇に「つきしま」と、俺の名を象った。
そっと腕を伸ばし、抱き寄せると、鯉登さんはそのまま体を預けてきた。
腕にかかる重さと、その体温を、愛しい、と、思った。
***
抱き合って眠ったその晩、俺は再び夢を見た。
真っ白な、何もない空間に、軍服姿の俺によく似た男が立っていた。
男は、憮然とした顔をして暫く俺を見ていたかと思うと、不意に口を開いて、こう告げた。
『その人を、頼んだぞ』と。
その人、が、誰のことだか、聞くまでもない。
言われなくても、この先一生守ってみせると、そう答える前に男の姿は白い靄の中に隠れて見えなくなった。
靄が晴れた先に見えたのは、見慣れた部屋の天井だ。
見慣れた光景が、一つ違うのは、隣に鯉登さんの姿があることだ。泣き疲れて、服も着たまま眠っていたその人は俺の気配に気付いて目を覚ました。
「?…つきしま?」
寝ぼけたようなその声に、無意識に言葉が口をついた。
「おはようございます。少尉殿。」と。
自分で、自分の声に驚いたが、鯉登さんは俺以上に驚いて、目を丸くした。
「今の…」
「なん、でしょうね?…口が、勝手に…」
苦く笑ってそう告げると、鯉登さんは、少し寂しそうに笑って、それから小さく「懐かしいな。」と零して涙を見せた。
その涙は、夢に出てきた、あの男のためのものだろうか。鯉登さんに涙させる、もう何処にもいないのだろうその男にほんの少し、嫉妬して、ほんの少し、感謝した。
その男が居なければ、今は無いのだろうから。
前世など信じてはいないけれど、何故だか不思議と、そう思えた。
***
傷が完全に治ると、俺は鶴見さんの計らいで倉庫番の仕事を任されることになった。
鶴見さんを頼るのは癪だったが、俺の伝手では真っ当な仕事など見付けられる筈もなく、鯉登さんが頼んで仕事を見付けてもらったのだ。なるべく人に会わず、目立たずに済むように。出来るだけ、鯉登さんの家から近い場所で。給料のことは二の次だったが、何の顔が利くのか、鶴見さんはそれなりの仕事を引き合わせてくれた。
勤めが決まって、鯉登さんと一緒に口利きの礼を伝えに行くと、鶴見さんは俺の肩を叩いて『鯉登を大事にしてやってくれよ』と、笑っていた。
杉元にも、狐目の女にも、夢の中の男にも釘を刺されたが、釘など刺されなくとも、鯉登さんのことを大事にしないわけがない。
今やあの人は、俺の全てだ。
一度、それを口にしたら杉元は笑っていた。
「さすがにそれは言い過ぎじゃない?」と言う杉元に、言い過ぎじゃないと言い返すと、杉元は「まぁいいけど」とまた笑っていた。
その杉元は、俺の勤めている倉庫のほど近くにあるコンビニで働き始めたばかりだ。どうやら、定職に就かず、バイトを渡り歩いているらしい。それで毎日俺の監視が出来たというわけだ。もっとも、バイト生活が、俺を探す時間を確保するためだったのかも知れないのだが、それは聞かないことにした。
「仕事、順調?」
仕事の合間にコンビニに立ち寄ると、杉元は決まってそう声を掛けてくる。
「お蔭様でな」
返事も、いつも同じだ。だが、今日は少し違っていた。
「弁当、相変わらず作って貰ってんの?」
追加で投げられたその問いには「まぁな」と短く答えておく。
「大事にされてるねぇ」
「大事にしてるからな」
おうむ返しに答えると、杉元は満足そうに口の端を上げた。
「ねぇ、今度遊びに行っていい?」
さらりと投げられたその問いに、一瞬間を置いて答えを返す。
「…音に聞いておくよ」
言い置いて店を出ると、閉まりかけた自動扉の隙間から「音!?」と叫ぶ杉元の声が響いた。実に愉快だ。
コンビニで買った飲み物を提げて倉庫に戻ると、鯉登さんが事務所で待っていた。弁当を届けに来てくれたのだ。
「一緒に食べよう」と笑う鯉登さんに「はい」と答えて足早に戻る。テーブルに弁当を広げる鯉登さんの横顔を伺いながら「そういえば」と話しを振った。
「さっき、杉元にうちに遊びに行っていいかって聞かれたんですけど…」
「杉元に?」
「断ってもいいですか?」
顔を上げた鯉登さんにそう告げると、鯉登さんは目を丸くした。けれども
「休みは、二人でゆっくりしたいんで」
そう、言葉を続けると、鯉登さんは丸くしていた目を三日月に変えて「よかよ。」と答えてくれた。
「家でゆっくりするか?それとも、どこか出かけてみるか?」
問われて、ふと浮かんだ景色が、無意識のうちに声になった。
「観覧車…」
「観覧車?」
「うちの窓から、見えるでしょう?遠くに…」
「乗りたいのか?」
意外だったのだろう。それはそうだ。俺自身、何を口走っているかとそう思っている。それでも、思いついた勢いのまま「乗りたいです」と答えた。
「眺めるばかりで、乗ったことがないもので」
言い訳のようにそう呟くと、鯉登さんはやけに嬉しそうに笑って「私とが初めてか!?」と身を乗り出した。
「えぇそうですよ。」と答えると、鯉登さんはスマートフォンを取り出して「行こう!いつにする?次の休みに行ってみるか?」と早速、スケジュールを組み始めた。
「楽しみだな」と笑う、その笑顔が愛おしい。
「楽しみですね」と答えながら、柄じゃない。と、思う。
こんな、いかにも平凡な、ごく普通の生活は俺には不釣り合いだ。こんな生活が出来る日が来るとは、夢にも思わなかった。
夢なのかもしれない、と、今でも思う。それでも、鯉登さんが居れば。この人の傍に居さえすれば、この夢は、続くのかも知れない。夢も続けば、いつかは、現実だと思える日が来るのかも知れない。
鯉登さんの傍で、鯉登さんと共に生きることこそが、俺の現実だと。それこそが、俺の人生なのだと。そう、思える日が。
いつか、その日が来ることを願いながら、鯉登さんが作ってくれた握り飯に噛り付く。
「美味いか?」と、問われて、不意に泣きたいような気持になった。
「美味いです」と、答えながら、泣くのを誤魔化して笑みを作った。俺が笑うと、鯉登さんはひと際嬉しそうに笑う。笑ってくれる。
その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。その笑顔を、守りたい。
そう、思った。