泡沫寓話 昔々或るところに、ひとりの男が居りました。
男は港のある小さな村の片隅に、独りきりで暮らしておりました。
男は始めから独りでいたのではありません。男には父も母もありましたが、男が物心ついたころには既に母の姿はなく、酒ばかり煽っては幼い男に手を上げ続けていた父は、ある日ころりと息を引き取りました。
過ぎた酒の所為だったか、成長した男が父の暴力に対抗した所為であったか、真相は定かではありません。けれども、村の誰しもが、男の父の死の真相を付き止めようとはしませんでした。村の厄介者が減って、皆ホッとしたのです。『厄介者がひとり居なくなった』村の衆にはその事実だけで充分でした。
けれども、村の衆には男が新たな『厄介者』となりました。厄介者と同じ血を引く男は、己の父親を手にかけたのかもしれない男とも見られました。村の衆は男を居ないものとして扱うようになりました。男には『月島基』という名がありましたが、その日から、男の名を呼ぶ者はひとりも居なくなりました。斯くて、男は独りきりになり、淡々と、ただ、淡々と生きているというだけの日々を送るようになりました。
男の家は村の外れにありました。船小屋に気が利いた程度で雨風をしのぐのがやっとの小さな家です。傍目には、物置小屋のように見えるでしょう。けれども、男にはそれで充分でした。なにせ、ただ、生きているというだけだというような男でしたので、家を整えることなど、考えもしませんでした。
家の直ぐ傍には小さな浜があり、浜では小魚がよく獲れましたので、男は食べることには困りませんでした。獲れた魚で充分飢えは凌げましたし、隣の村に魚を提げていけば、僅かでも野菜や米を手に入れることは出来ました。
浜で魚を獲り、その魚を食べ、或は売って、男は独りきりで日々を過ごしました。生きることに、何の目的も、希望も持ってはおりませんでした。
一体、何のために生きているのか。男は時折そんな考えに囚われそうになっては、生きることに目的も何もあるものか、と頭を振りました。
そんな風に、男は独りきりでどれほどの時間を過ごしたでしょうか。
虚しさを、虚しいと感じることすら無くして、男は相変わらず日々を淡々と過ごしておりました。そんなある日、男がいつものように浜へ出掛けると、昨日の内に仕掛けた網に見慣れない魚が掛かっていました。
いいえ、それは魚ではありませんでした。何せ、魚らしい形をしているのは腰から下の尾とヒレばかりで、上半身はまるで男と同じ人の姿をしているのですから魚である筈がありません。男は、人魚というものを初めて目にしました。
網に絡まった人魚の尾は瑠璃色に輝いておりましたが、網目に掛かったのか、所々、捲れて血が滲んでいるようでした。その怪我の所為でしょうか。人魚は人と変わらぬ形をした上半身を岩場にぐったりと凭れさせておりました。
褐色の肌に包まれた引締った身体つきは、若い男のそれのようでしたが、浅く息を吐いて上下するその背中にも衰弱は明らかでした。
男は、暫し物陰から様子を眺めて思案しました。人魚などという珍しいものが網に掛かったとなれば、如何するべきか。
生け捕りにして何処かの見世物小屋へ売るべきか、今の内に仕留めてその肉を売る方が良いだろうか。
思案するうち、不意にぱしゃりと水音がしました。男がそれに気付いて顔を上げると、いつの間に、男に気付いていたらしい人魚が男を振返り、その大きな目で男を見詰めておりました。
「っ助けてくいやい…っ」
聞こえてきたのは助けを求めるその声でした。声を発したのは、人魚に他ありません。男は人魚が口をきけることに驚きました。そしてその次に、男を見詰めてくる人魚の美しさに目を見張りました。
人魚は、人で言えば男の姿に違いありませんでしたが、青紫の直ぐな髪に縁取られたその顔は、眉こそ特徴的でしたが、通った鼻筋と、澄んだ瞳の印象的な整った美しいものでした。
男は暫し呆然と人魚を見詰めていましたが、ふと我に返ると、其れが当然のように急いで人魚に絡まった網を外し始めました。
見世物小屋に売ろうとか、ましてや、仕留めて肉を売ろうだなどという考えは、いつの間にか男の中からキレイさっぱり消え去っていました。
一刻も早く網を外してやろうと思うのに、絡まった網は中々取れません。切ってしまえば外してはやれますが、網を切れば、切った網を直すまでは漁が出来なくなります。そうすれば男は暫く喰うに困ることになるでしょう。そうとは解っていましたが、男は躊躇うことなく網を切り裂きました。
四苦八苦して人魚から外してやった網には、僅かばかりですが他の魚も掛かっていました。男はボロボロになった網と一緒にその魚を引き揚げ、桶に移すと、まだ岩場に寄り掛かっている人魚に向き直りました。
網が外れて自由になった筈だのに、人魚はその場に留まったまま男をじっと見詰め続けていました。
「助けてくれて、あいがと」
にこりと笑ってそう言う人魚に、男は戸惑いました。なにせ男は、生れてこの方、誰かにお礼を言われた事などなかったのです。ましてや笑顔など、向けられたことはありませんでした。ですので、男は、人魚の声に如何答えていいか解らなかったのです。
「名前を、聞いてもいいか?」
無言のまま立ち尽くす男に、人魚はそう問い掛けました。
「…月島、基…」
男の返事はぶっきら棒にも程がある酷いモノでした。けれども、人魚はその声を聞くと満足そうに微笑んで「つきしまはじめ」と口にしました。
「覚えたぞ、月島。私は音之進だ。鯉登音之進。覚えておいてくれ。きっと礼をしにくるからな。」
にかりと笑ってそう言うと、人魚はぐらりと身を傾けて沖へと帰って行きました。男は人魚の影が見えなくなっても、ぼんやりと浜に立ち尽くし、いつまでも、いつまでも、人魚の帰って行った沖を眺めていました。
一体、何が起こったろうか。自分は今、幻を見たろうか。白昼夢か。
現実感の無いまま、足元の桶に目を遣ると、其処には破れた網と、僅かの魚が在りました。破いてしまった網を持ち上げてみれば、一枚だけ、瑠璃色の鱗が掛かっておりました。小判ほどの大きさの其れは、人魚の鱗に違いありませんでした。男はその鱗を手に取り、しげしげと眺めて陽に透かすと「おとのしん」と人魚の名乗ったその名を漏らしました。
瑠璃の鱗の向うに、音之進が男に見せた笑顔が見えるようで、男はその鱗を大事に懐に仕舞うと、僅かの魚の入った桶を手に家に戻りました。これしきの量では売りにはいけません。網も直さなければ漁も出来ません。それでも、男はひどく満たされた気持ちでおりました。
***
男が浜で人魚を助けて、早数日が過ぎました。
男はどうにか網を直して、再び漁が出来るようになりました。男は、浜に出る度に沖を見るようになりました。岩場の影を覗くようになりました。そこに人魚が待ってはいまいかと、そう思ってのことです。
然し、待てど暮らせど人魚は姿を現しませんでした。
矢張りあれは夢だったろうか。そう思いかかる度、男は懐から鱗を取出しては陽に透かして眺めるのでした。
そうして思うのです。例えそうであったとしても、二度と人魚が来ないのだとしても、あのひと時を得られたのならそれで良い。と。
瑠璃の鱗の向うに人魚の音之進の影を見て、男は慰められておりました。
そんな日々を、どれ程過ごしたでしょうか、ある朝、いつものように男が浜に出ると、いつだか人魚の居た岩場で、ぱしゃりと水の音がしました。
男はもしやと駆け出して、岩場を覗き込みました。
果して其処に居たのは待ち焦がれた人魚でした。
「久しぶりだな、月島。私のことを覚えているか?」
にこりと笑う人魚に、男は、月島は、震える声で言いました。
「忘れられるわけがないでしょう。」と。
人魚は其の声を聞くと、いかにも嬉しそうに笑って「そうか」と零し「それは嬉しいな」と瑠璃色の尾で水面を弾きました。
「遅くなったが、礼を届けに来たぞ。受け取れ。」
そう言って人魚が差出したのは両の手のひらに溢れんばかりの真珠でした。
「こんな…」
困惑する月島に、人魚は怪訝な顔をして「やはり少ないか?」と問いましたが、月島はそれに大きく首を横にふると「とんでもない」と声をあげました。
「貰い過ぎです。こんなに、たくさん…」
震え掛かる声で月島がそう言うと、人魚は肩を竦めて「そんなことはない」ときっぱりそう言い切りました。
「私を救ってくれたのだ。それでも足りないというのが本当だ。」
人魚はなおも続けます。
「見付けてくれたのが月島でなければ、私は今頃どうなっていたか…見世物にされるか、とっくに喰われて誰かの胃袋の中だったかもしれないのだ。命の礼にしては安すぎるくらいだろう?そうは思わんか?」
懸命に訴える人魚を、月島は困惑しながらも嬉しく思いました。
自分が、何の目的も希望も無く、ただ生きていただけの自分が、人魚の命を救えた。そうして礼を言われている。自分が、何かの、誰かの、役に立ったのだということを、ただ、ただ、嬉しく思いました。
「確かに、貴方の命にはもっと値打ちがあるでしょう。」
月島は言いました。
「けれども、俺のような男には、これは過ぎた礼ですよ。」
人魚は其の言葉に眉根を寄せると再び「過ぎるものか」と声をあげました。
「私はちゃんと知っているぞ!月島がどれだけ真面目で誠実な男か、いつも見ていたのだからな!」
「…見ていた?」
人魚の言葉に月島が思わずそう漏らすと、人魚はハッとなって慌てて何かを誤魔化そうとしましたが、一頻り慌てふためく仕草をみせると、やがて諦めたように大きく息を吐いて「そうだ。ずっと見ていた。」と言いました。
月島が、浜で独りきりで暮らすようになってから、人魚はずっと見ていたのだというのです。浅瀬に遊びに来た折に見掛けたのが最初だったと。
漁をしている姿を見掛けて、見つかっては危険だと岩陰から様子を見ていると、月島は網に掛かった魚のうち、まだ小さいモノは海に返していたのでした。大抵の人間は、網に掛かったモノは根こそぎ引き揚げていくというのに、小魚たちを海に返してやるその姿勢に人魚は感心したのだと言います。
その日以来、人魚は時折月島の様子を覗うようになりました。月島はいつ見ても独りきりで、黙々と働いて、ただ静かに暮らしていました。人魚には、そんな月島が真面目で、誠実そうに見えました。
あの男と話がしてみたい。いつしか人魚はそんなことを考えるようになりました。けれども、人間との接触は禁忌です。人魚の存在を知られては、自分ばかりか仲間や家族まで危険に晒しかねません。
けれども、あの男なら。人魚はそう考え、いつか男と話をする日を夢見ながら沖から、岩場の陰から、月島を見続けていました。
あの日、網にかかってしまったのはわざとではありませんでした。月島の様子を間近で見ようと岩場に隠れていたのですが、沖に戻る際にうっかり尾鰭を絡ませてしまったのです。
けれどもそのお蔭で人魚は月島と話をすることが出来ました。名前を知ることも出来ました。
月島は人魚が遠目で見ていた通りの、真面目で誠実な男だった。人魚にはそう思えました。直ぐにもお礼の品を持って月島を訪ねよう。人魚はそう考えていましたが、海の底に戻ると、人魚は人魚の帰りを待っていた家族や友人たちに酷く叱られました。怪我が治るまでは浅瀬に近付いてはいけないと釘を刺され、兄に監視をされるようになりました。
人魚は、せっかく月島と話が出来るようになったのにと嘆き悲しみました。悲しみに暮れる人魚の涙は、ぼろぼろと零れて真珠になりました。零れた真珠が寝床に溢れる程になる頃、兄は弟をたいそう不憫がりました。
斯くして兄は両親を説得して人魚を浅瀬に出してくれました。兄は弟に甘いのです。人魚が零した真珠をお礼にするようにと人魚に持たせたのも兄でした。少しでも危ない事があればすぐに戻るようにと、何度も何度も言い聞かせて、兄は人魚を月島の所に来させてくれたのでした。
人魚がここへ来た経緯を聞いてしまえば、月島には手の平の真珠が宝物のように思えました。今こうして、人魚と、音之進と、話をしている時間も、宝物に違いありませんでした。
月島は真珠を零さないよう大事に懐に仕舞うと、人魚に向き直りました。
「ありがとう、ございます。」
月島の言葉に、音之進は驚いたような顔をしました。如何して礼を言うのかと、不思議がる音之進に、月島は苦笑して続けました。
「俺のような男には、勿体ないことばかりで…」
お礼を言うくらいしか、返せるものがないのが口惜しい。月島がそう俯くと、人魚は「何が勿体無いモノか」と身を乗り出しました。
「さっきも言っただろう?礼を言うのは私の方だし、これしきの真珠では足りないくらいだ。月島は良い男なのだから、もっと堂々として居れば良い。」
懸命に訴える音之進に、月島は笑ってしまいそうになりながら「ありがとうございます」と零し「本当にもったいないですよ」と繰返しました。
繰り返してから「足りない、と言うなら、ひとつだけお願いをしてもいいですか?」と月島が問うと、音之進はパッと顔を輝かせて「勿論だ!」と身を乗り出しました。「どんな願いだ?」と問う音之進に、月島は少し躊躇ってから、そろりと口を開きました。
「時々…本当に時々でいいんです。こうして、また、会いに来て頂けませんか?」
月島が遠慮がちにそう口にすると、音之進は花の咲くようにその顔をほころばせました。そうして、こういいました。
「会いに来てもいいのか?」と。
「また、月島に会いに来てもいいのか?私と、話をしてくれるのか?」
震え掛かる声でそう訴える音之進に、月島が頷き「会いに来てください。話をしましょう。」と答えると、音之進は「嬉しい」と声をあげて笑顔をみせると、大きく尾を跳ねて水しぶきをたてました。
尾に弾かれた水しぶきは陽を受けてきらきらと輝きました。その眩い輝きの中で、ひと際眩しいのは音之進の笑顔でした。
「嬉しいぞ、月島ぁ」
声をあげ、光の中で微笑む音之進は、月島の眼にそれはそれは美しく映りました。美しい。と、月島は、そう思ったのです。自分に真直ぐに向けられる笑顔と感謝は、これまで月島が見てきた何よりも美しいモノに違いありませんでした。何より美しく、何より、愛おしいモノに違いありませんでした。
その晩、月島は音之進に貰った真珠を柔らかな藁に包んで瑠璃の鱗と一緒に小さな壺に収めました。音之進の寄越した真珠はたいそう美しいモノで、街へ持って行って売りに出せば相当な値段で売れるような品物でした。家も、着物も、真新しく作り変えて、滅多と口に出来ない米も一年分とは言わず買えるでしょう。けれども、月島は其の真珠を売ろうとは思いませんでした。勿論、鱗もです。鱗も、真珠も、自分と、人魚の大切な思い出です。手放す事など考えられませんでした。もしも万が一、どうしても困った時にだけ。そう考えて月島は小さなその壺を大切にしまいました。
さて。翌日から、音之進は言葉通りに月島を訪ねて来るようになりました。十日に一度だったのか、七日に一度になり、五日、三日と間隔が狭まり、終には毎日、音之進は浜へ姿を見せるようになりました。
浜は村はずれにあり、月島以外の人間はめったと訪れることはありませんでしたが、月島はそれでも警戒して、音之進に人のいない時間帯にだけ姿を見せるようにと言い含めておりましたので、音之進は決まって朝の早い内か、夕方の陽の暮れかかる頃に月島を訪ねて来るのでした。
「月島ぁ!」
元気よく、嬉し気に名を呼んで。音之進は波間に、岩陰に、顔を見せるのです。月島を訪ねて来る時、音之進は必ず何かしら海の底から手土産を持って来ました。或る時は美しい貝殻を、或る時は何処かから流れ着いたガラスの欠片を、またある時は小さな珊瑚の欠片を。そうして捧げられた小さな贈り物は月島の家に積み上がって行きました。月島が、何も持って来なくて良いと訴えても、音之進は、美しいモノを見付けたら、月島に届けたくなるのだと言って贈り物を止めることはありませんでした。
どれだけ音之進が贈り物を寄越しても、月島には返してやれるものがありません。音之進は毎日月島と話が出来ればそれで良いのだと言いましたが、月島はそんな音之進の言葉を苦しく思うばかりでした。
キレイな貝殻もガラス片も珊瑚も、自分には全く似合わない。金に換えるのも忍びなく、如何したものかと月島は考えました。美しい貝殻や珊瑚は音之進にこそ似合う筈だ。月島はそう思い至ると、ある事をひらめきました。
月島は贈られた貝殻やガラス片や珊瑚を集めて首飾りを作りました。あまり出来の良いモノではありませんでしたが、月島がそれを音之進に差出すと、音之進は飛び跳ねて喜びました。兄や仲間にも自慢するのだと言う音之進の言葉を月島は冗談のように思っておりましたが、冗談などではなく、音之進は月島に貰った首飾りを自慢して、海の底ではちょっとした騒ぎになりました。
人魚たちは美しいモノを好むモノですから、我も我もと音之進の元にこの貝殻で、この珊瑚で、首飾りを作って貰えないだろうかと尋ねるものが後を絶ちません。音之進は断るに断り切れず、月島に話をしてみると、月島は戸惑いながらもその依頼を引受けました。
月島は、人魚たちに首飾りを作ってやる代りに、人魚たちから真珠や魚を分けて貰うようになりました。
月島の、日々の暮らしはひとりきりの頃に比べて随分と穏やかになりました。朝に、晩に、浜に行くことは変わりません。漁も変わらずに続けておりますが、浜へ行けば、音之進が待っているのです。
出来上がった首飾りを渡し、新たな材料やお礼の品を貰い、ほんの一時、音之進と話をするのを月島は日々の楽しみにしておりました。取り立てて、珍しい話をする訳でもありません。専ら、話をするのは音之進の方で、月島は黙って音之進の話を聞いていたり、問い掛けに答えるばかりでした。
月島は音之進の落ち着いたその声音が好きでした。その声を聞いていると、それだけで安らぐような気がするのです。ですから余計に話しを聞き入ってしまうのです。これでは、話をしていても音之進は少しも楽しくないのではないか。月島はそんな風に考えて、音之進に問い掛けたこともありますが、音之進は月島がちゃんと話を聞いて、必要な時にはきちんと答えてくれるから、其れが何より嬉しいのだと言いました。
寄り添い、微笑み合って話すふたりは、傍目にはどう見えたでしょうか。仲の良い友人。或は兄弟。そう、見えたでしょうか。
沖合から月島に寄り添う音之進を見詰める眼の中に、先を危惧する者がありました。音之進の兄、平之丞です。平之丞の眼には、二人は恋人のように見えました。きっと、平之丞の他にも、仲間の内の幾人かはそう思っていたでしょう。けれども皆なにも言いませんでした。何故ならば、其れは叶わぬ恋だからです。月島は人間で、音之進は人魚です。ずっと一緒には居られません。いずれは、別れを告げなければならない時がくるのです。
みんなそれが解っているから、哀れな音之進の、儚い恋を、静かに見守っているのでした。
勿論、音之進も、その事は充分に解っていました。遥か昔に、人間に恋をして、恋が破れて泡になって消えてしまった人魚の事も知っています。けれども、音之進は、何れ泡になって消えてしまっても構わないとさえ思っていました。
なにせ、月島はひとりきりなのです。音之進が知る限り、月島の傍に誰かが居たことはありませんでした。
自分が、自分だけが、月島の傍に居る。月島に寄り添ってやれる。そういう存在で在り続けたいと、音之進はそう願っているのです。何れ、人である月島は年老い、人魚である音之進を残して土に還る日を迎えるでしょう。その日を思うと、音之進は胸が張り裂けそうでした。
いっそのこと、月島と同じ人となって、月島と共に生きて死ねたなら。
音之進は、そう考えるようになりました。月島を想うその感情を、一体何と呼ぶのか、音之進は少しも解りませんでしたが、ただ、ただ、月島と共に在りたいと、音之進はそればかりを願うようになりました。
そして、月島もまた、同じように音之進を想っていました。音之進が人魚である事は承知の上です。それでも、少しでも長く共に在れたらと、月島はそう願っておりました。音之進と共に、穏やかに日々を過ごせたら、と。
二人の変化に気付いたのは、平之丞でした。音之進が人間に恋をしてしまった。そればかりか、人間の方も音之進に恋をしている。想い合う二入は、互いの想いに気付かぬまま、ただ、寄り添うことを願い続けている。其れが叶わぬと解っていながら、それでも想い続けているのだと。
何も言わず、毎日月島の所に通い続ける音之進に、平之丞は問い掛けました。
「いつまでそんなことを続けるつもりだ?」と。
酷い質問です。音之進を傷つけることも解っていました。けれども、このままずっと、何年、何十年と傍に居れば、別れは一層辛くなります。だからと思っての問いかけでしたが、音之進はにこりと笑ってみせたのでした。
「月島が居る間は、続けられるだけ続けるつもりじゃ」
ただ、月島と会えたらそれでいい。音之進はそう言って浅瀬に向かって泳いで行きました。止める事など、出来る筈がありませんでした。弟の、音之進の想いが余りに真っすぐで、それ程の想いだというのに、叶うことはないのです。平之丞は余りに残酷なその現実に胸を痛めました。
音之進は可愛い弟です。可愛い弟の幸せを願わない兄が居るでしょうか。平之丞は、どうにか音之進の願いが叶う方法は無いモノかと四方を駆けずり回りました。平之丞の奔走ぶりは、仲間の間で噂されるまでになりました。噂というモノは、とかく悪いものに思われがちですが、音之進を、平之丞を知る誰しもが、彼らを悪くは言いませんでした。
人を人魚にすることは出来ません。けれども、人魚が人になる方法はあるといいます。噂を知った人魚たちは、みな口々に平之丞に集めた情報を届けました。東の海に詳しい者が居る、西の海に人になった人魚が居たらしい、南の海には知恵を授けてくれる者が居る、北の海には薬を煎じてくれる者がある。話を聞く度に平之丞はあちこち訪ねました。そうして終に、音之進を人間にする方法を知ることが出来ました。平之丞は歓喜しましたが同時に絶望もしました。
人魚が人間になるには、尾を足に変えねばなりません。陸の上で生きられる身体に作り替えなければならないのです。そしてそれをしまえば、どれだけ元に戻りたいと願っても、二度とは人魚に戻ることは出来ないのです。人として生を全うするか、或は泡になって消えてしまうか。
人魚が人の姿を保つには、強く人魚を想ってくれる相手が必要不可欠だと言います。深く、深く、人魚を愛する人間があればこそ、人魚は人の形を保っていられるのです。一度その愛を失くしてしまっては、人魚は人の形を失い、泡になって海の藻屑になるしかありません。
咥えてもう一つ、人の身体を得るために必要なモノがありました。
それは、声です。人魚の歌声には魔力が宿ります。声に宿った魔力を以て、人魚の身体を人の身体に替えるのです。人魚は陸で生きられる身体を手に入れる代わりにその声を差出さねばなりません。平之丞は、その事を音之進に告げるべきかと迷いました。人になるには、余りに失うものが多い気がして。果してそうまでして、音之進を人にしてやるべきだろうか。そうまでした所で、あの月島と言う男が、生涯を音之進と共にしてくれるだろうか。平之丞は其れを案じていました。
あの人間と、ほんのひと時交流をもって、後はその思い出を胸に海の底で、今までと同じように、仲間たちと一緒に暮らす方が幸せではないか。そうしているうちに、いつかまた、月島のような男が現れるかもしれない。それは人かもしれないし、何処かの海に居る人魚かも知れない。その可能性を信じて、待っていた方がいいのではないか。平之丞はそう思いさえしましたが、月島の元へ向かう音之進を見るにつけ、胸が痛むようになりました。
真直ぐに恋をしている弟を、知らないふりをし続けることは出来なかったのです。平之丞は、音之進に人になる方法があると告げました。
音之進は月島と同じ人間になれると聞いて歓喜しましたが、その方法を聞くにつけ、次第にその顔を曇らせました。
「人間になったら、もう二度と、兄さぁとも親っどとも話せんのじゃなぁ…」
音之進は噛み締めるようにそう言うと、話せんどころか、会えもせんな。と零して小さく笑いました。平之丞は、何と声を掛けていいか解りませんでした。兄弟は、どれ程の間向き合っていたでしょうか。
「音」と、音之進に呼び掛けたのは平之丞でした。呼ばれた名前に音之進が顔を上げると、平之丞はにこりと微笑んで問い掛けました。
「音は、あの人間が好きか?」
平之丞の声は、柔らかな、優しい響きをしていました。
「一生、傍に居たいと思えるか?」
平之丞が重ねてそう問うと、音之進は瞬きをふたつして、ゆっくりと口を開きました。
「好きじゃ」と。零れた一言は震えていました。
「月島が好きじゃ、ずっと、傍に居りたい。」
声と一緒に零れた涙は大きな真珠に変わりました。平之丞はそれを見届けると、音之進の手を取り、言いました。「ならばその想いを、あの人間に伝えておいで。」と。「もしも、人間がお前の想いに答えてくれるというのなら、お前を人間の姿に変えてくれる魔女の所に連れて行ってやろう。」
音之進は平之丞の言葉に頷くと、月島の待つ岩場に向かいました。平之丞は、小さくなる音之進の背中を見送りながら、音之進の願いが届くように、とも、届かぬように、とも願いました。平之丞は、ただ、ただ、音之進に幸せでいて欲しいと思うばかりでした。
***
「月島」
呼ばれたその声に振返ると、岩場に音之進の姿が見えました。
音之進は朝にも姿を見せていたので、日に二回顔を出すのは珍しいことです。月島は予想外の訪問を驚き、喜びました。
「如何したんです?珍しい。忘れ物でもなさいましたか?」
月島がそう問い掛けると、音之進はふるふると首を横に降って「いいや」と答えると岩場に身を寄せて「月島と話がしたくてきたんだ」と言いました。
月島はその声に喜んで答えました。辺りは暗くなりかかっていましたが、月島は小さな木切れに火を灯し、音之進の程近くに腰を下ろしました。ぼうとした火の燈色に浮かぶ音之進は淡く微笑んでいました。
どうしてだか、その笑みがいつもと違う風に見えて、月島は音之進に何かあったのではないかと不安になりました。日に二度目の訪問も初めての事です。もしや、これが最後の逢瀬になるのだろうかと、瞬時に過ったその考えに背筋が冷たくなるような思いがしました。ごくりと唾を呑みこんで、内心の不安を気取られぬよう、細心の注意を払って「話というのは?」と月島が問い掛けると、音之進は岩場に身を乗り上げて月島の傍らに腰を下ろしました。水から上がった瑠璃色の尾が、灯に照らされてキラキラと輝くのを見詰めながら、月島は「月島」と己の名を呼ぶ音之進の声を聞きました。
顔を上げれば、真直ぐに此方を見つめる音之進と眼が合いました。
「月島は、もし私が人間になって、月島の傍に居たいと言ったら、喜んでくれるか?」
真直ぐに見詰めて来る瞳は、けれどもその奥に不安を滲ませていました。
「人魚ではなくなる私は嫌か?」
重ねられたその問いに、月島は「いいえ」と反射で答えました。殆ど無意識のことでした。答えて、月島は自身で驚きましたが、驚きながらも、其れが本心に違いないと確信していました。
「貴方が、俺と同じ人間であったらと、何度思ったか知れません。」
月島は、真直ぐ音之進を見詰め返してそう言いました。
「朝や晩に、一時顔を見るだけでなく、ずっと貴方と一緒に居られたら、どんなにいいか…」
目を細め、そう訴える月島に、音之進は泣きそうに笑って「そうか」と零すと「嬉しい」の声と共に月島に抱きつきました。音之進の肌は、水から上がったばかりだというのにサラリとして、月島の身体に巻き付いたその腕は、確かに生きている温みを感じさせました。
月島が跳ねる心臓を抑え付けてゆっくりと音之進を抱き締めると、音之進は擽ったそうに声を漏らして、それから「月島」と再びその名前を呼びました。
「月島が好きじゃ…ずっと一緒に居ろごた」
戯れのように漏らされたその言葉に、月島は泣きそうな気分になりました。月島には其の言葉が、抱擁が、別れの挨拶のように思えてならなかったからです。あぁ、これで最後なのだ。月島はそう思いました。きっともう、人魚の音之進には会えないのだろう。何故だか確信を持ってそう思えて、月島は込み上げる涙を呑み込んで、ぎゅう、と音之進を抱き締めました。
「俺も同じだ。アンタが好きだ。…好きだ。」
好きだ。好きだ。と繰返して、二人は日が暮れて、木切れの火が消え墜ちても、岩場の傍を離れることはありませんでした。
***
明くる朝、浜にも、岩場にも音之進の姿はありませんでした。
あぁ、昨夜のアレは、やはり別れの挨拶だったのだ。
月島はひとりそう納得して、音之進が来る前の生活に戻りました。
二日経ち、三日経っても、音之進は姿を現すことはありませんでした。最早、二度とは会えぬだろう。月島はそう覚悟していました。一時、良い夢を見られた。と、その夢を糧に、残りの人生を生きていこうと、そう思うようになりました。そう思う他、ありませんでした。
音之進の姿を見なくなって十日が過ぎたその晩、月島の家の戸を叩く者がありました。
村に月島を訪ねて来るモノなど在りません。何者が、こんな夜更けに訪ねてきたかと月島は身構えました。包丁を構え、戸の向うに「誰だ」と尋ねても返事はありません。けれども確かにそこに人の気配があると解ると、月島は殺気を漲らせて外へ飛び出しました。途端に、戸の前に居たらしい何者かは驚いたのか、その場に尻もちをついたようでした。月島は一体何処のどいつかと、その何者かに詰め寄り、その顔を見て驚きました。
薄暗がりに浮かぶその顔は、音之進の其れに違いありませんでした。
「音之進!?どうして…」
こんな時間に、と聞く前に音之進は月島に抱きつきました。ぎゅう、と縋るばかりで声はありません。縋りついてきた音之進は、愛おし気に月島の首筋に顔を埋めるばかりです。困惑しながら音之進を抱き留めた月島は、ある事に気付いて息を呑みました。自身に縋っている音之進に、足があるのです。あの美しかった瑠璃色の尾は影も無く、人間のすらりとした足がありました。加えて言うと、音之進は、布一枚すら纏っておらず、産まれたままの姿でおりました。唯一、音之進が身に着けていたのはいつだか月島が作ってやった首飾りだけでした。月島は、そうと気付くと慌てて音之進を抱え上げ、家の中へ連れて入りました。幸い、此処は村はずれで、時刻は夜更けです。辺りを見渡しても、人の姿はなく、音之進の姿は誰にも見られずに済んだようでした。
月島は、一通り家の周りを調べて、誰の目も無い事を確認すると、厳重に戸を閉めました。しんと静まった家にやっとひと心地つき、行燈の灯りの下でしげしげと音之進の姿を見てみれば、音之進はまるきり人の姿をしていました。褐色の肌は変わらず、尾の代わりには長くすらりとした健康的な足があり、その身体は己と同じ男の機能を持っているように見えました。見た目は確かに人間の、男の身体のようですが、音之進はつい先日まで人魚だった筈です。その身体が、正しく人と同じように働くのか、考えもつきません。一体何が起こったかと月島はたいそう困惑して音之進に事情を聞こうとしましたが、音之進は口を開くことはあっても、其処から声を漏らすことはありませんでした。
何やら訴えかけるように、口をパクパクと動かして、身振り手振りで何かを伝えようとする音之進の姿に、月島は気付きました。
どうやら、音之進は人間になるかわりに、あの美しい尾と、声を失ったのだと。月島は音之進の変化をそう理解したのです。
人魚の音之進に最後に会ったその晩に、音之進は、確か自分を好きだと言いました。そう言ってくれました。人間になって、一緒に居られたら嬉しいかと。そう問うてもくれました。アレは別れの挨拶などでは無かったのです。
月島は、今になって、嬉しいと答えた己の浅はかを恥じました。
「音之進、まさか、俺と、一緒に居る為に?」
月島がそう問い掛けると、音之進は少し困ったような顔をして、それからにこりと笑ってみせました。それは、充分な答えでした。
月島は、音之進の決断と行動に歓喜し、それから、えも言われぬ後悔に襲われました。月島は、人魚であった音之進を愛しておりましたので、あの美しい瑠璃色の尾と、柔らかに己の名を呼んでくれるその声を愛しておりましたので、己のような男の為に、音之進がそれらを差出したのが堪らないのでした。けれども同時に、そうまでして、音之進が自分の所に来てくれたことに歓喜せずには居られませんでした。なんと浅ましい。なんと卑しい。なんと愚かな事だろう。月島は、自身でそう思いましたが、それでも、嬉しくて、嬉しくて。自分の元へ来てくれた音之進が愛おしくて堪りませんでした。
この先、何をどうしても、音之進を守らなければ。食うに困らせたりなどするものか。月島はそう誓って音之進を抱き締めました。
声を失くした音之進は、自分を慈しむ月島に、微笑み、縋るばかりでした。
***
それから、二人の暮らしが始まりました。
月島が最初にしたことは、音之進の衣服を揃えることでした。着物を誂えるのに音之進を連れて行きたい所でしたが、自分のぼろを着せて連れ出すのは忍びなく、月島は決して外に出ぬようにと言い聞かせて音之進い留守番を命じると、壺の中から大事に取っておいた真珠の一粒を取出し、それを握り締めて町へ買い物に行きました。
真珠は思っていた以上の値で売れ、月島は必要な衣服の他に、音之進に食べさせるための食糧も幾らか手に入れて家に戻りました。果して音之進は月島の言いつけを守って、大人しく小屋の隅で眠っていました。
目覚めた音之進に衣服を着るようにと言うと、音之進は窮屈がって服を着ることをたいそう嫌がりましたが、終いにはどうにか納得して服を着てくれるようになりました。月島が安堵した事はいうまでもありません。
二人の生活は、何もかもが手探りでした。
音之進は、人間の暮らしのことを何も知りません。出来たばかりの脚では歩くのも不慣れで、岩場でよろけては月島を心配させました。
煮炊きも、洗濯も、風呂も、月島は一から音之進に教えました。ままごとのような生活でしたが、二人は、慎ましくも、幸せに暮らしていました。
けれども、音之進には、ひとつだけ不安がありました。
自分は月島に好きだと言って、月島も自分を好きだと言ってくれたのです。音之進は、月島と番になるつもりで陸に上がりました。雄同士では子を生すことは出来ぬとは聞きましたが、触れあうことは出来るとは知っています。それは、人魚でも人でも同じ筈だと、海の底で聞いてきました。
好いている者同士なら、自然とそうなるだろうと。けれども、一向に月島にそうした気配はありません。
抱きしめて、髪を、頬を、背中を撫でられることはありますが、それだけです。音之進は、段々と不安になっていました。月島に、愛されていなければ、自分は何れ泡になって消えてしまうのです。
泡になって消えてしまうその事実より、月島が自分と同じようには自分を好いてくれていないのかも知れないと考える方が、音之進には辛いのでした。
一方で、月島も同じ悩みを抱えていました。
月島は、音之進を誰より、何より愛おしく思っておりましたので、同じ家で、暮らしを共に出来ることに大変な幸福を感じておりました。
以前のように話をすることは出来なくとも、音之進はころころと表情を変えて、その感情を、考えを、月島に伝えてくれました。ですので、声が聞こえずとも、話しが出来なくとも、通じ合えているように思っていました。
ただ一つ、通じ合えているからこそ、月島は思い悩んでおりました。
音之進が自分を好いてくれていることは承知です。自分も同じ気持ちだと伝えもしました。同じ気持ちと言うのは、世間でいう所の恋仲であるとか、或は、夫婦のような関係になりたいということです。月島はそう願っておりました。
とは言え、音之進は人でいえば男の身体です。音之進が人魚であった頃から音之進が雄である事は明白でしたので、月島はそれも承知の上でしたが、如何せん、男を買ったことはありません。買おうと思ったこともありません。
音之進だけでした。性別も、種族も、一切気にせず、ただ、傍に居たいと思ったのは。触れたいと思ったのは、音之進ただひとりでした。
月島は、音之進に触れたくて堪らなかったのです。
けれども、どうしても触れることが出来ませんでした。
音之進の身体を思っての事です。人魚から、人に転じるのがどれ程の事かは解りません。けれども、美しい尾だけでなく、声まで差出さねばならぬというのです。容易な事では無い事は充分理解出来ました。
そんな無理をして自分の所に来てくれた音之進に、無体を働きたくはないのです。傷つけたくはないのです。月島は、音之進を宝物のように思っておりましたので、大切に、大切に扱いたいと、常々そう願っておりました。そうして、出来得る限り、大切にしてきたつもりです。
ですが、大切にするあまり、抱き締める以上事は出来なくなっていました。
触れたく無いわけでは無いのです。音之進の身体の隅々まで、一分も残さず触れて、その内側さえ暴きたいと、音之進に触れるその日を夢想した事も一度や二度ではありません。けれどもどうしても、行動に移すことは出来ないままでした。抱き寄せる度、髪に、頬に、触れる度、切なく投げられる音之進からの視線に、月島は、身を焼かれるような思いでおりました。
音之進も其れを望んでくれているのかと、其れが伝われば、尚更でした。
触れたいと、触れられたいと、互いに想いながら床を共にしてどれ程の日々が過ぎたでしょうか。
ぴったりと月島に身を寄せて、甘えたように首筋に鼻先を擦りつけて来る音之進に、その日、月島の理性の糸がぷつりと音を立てて切れてしまいました。
月島は布団に横たえていた身体をぐるりと反転させると、組み敷いた音之進を真上から見下ろしました。
音之進は驚きに丸くした眼を、ゆっくりと三日月に変えると唇で「つきしま」とその名を象って、そろ、と月島の頬に触れました。微かに震える其の手に自身の手を重ね、指を絡めると、月島はその手に口付けました。刹那、ひくりと音之進の肩が揺れるのが見えて、其処から先は、無我夢中でした。
これまでの、我慢も、自制も、全て吹き消して月島は音之進を貪りました。大切に、大切にしようと思っていた筈だのに、触れてしまっては、歯止めなど効くモノではありませんでした。月島は音之進が愛おしくて、愛おしくて、もっと、もっと、と求め続けました。音之進は、どうにか月島に応えようと、必死に月島の背に縋りました。
苦しくて、心地よくて、如何していいのか解らなくて。音之進は焦点も定まらず、ぐらぐらと揺れる視界の中に懸命に月島の姿を探して必死の思いで縋りつき、声の出ない口をはくはくと大きく開いて声にならない声を上げました。
あぁ、いま、音之進の声が聞けたなら。月島はそう思いました。
思ってしまってから、己の為に音之進はその声を失ったというのに。なんと贅沢なと、月島は己を恥じました。恥じて、悔いながら、漸くに触れられた音之進を慈しみました。声の出せない音之進の代わりに、月島は、何度も、何度も音之進の名を呼びました。
音之進。音之進。音。好きだ。好きだ。音。
髪を撫で、肌に触れ、深く深く繋がりながら、声を失ったその唇に口付けると、微かに海の匂いがするようでした。そっと唇を離すと、音之進は酸素を求めて大きく口を開き、濡れたその唇を震わせました。
「つき、しま」と。
確か聞こえたその声に、月島は動きを止め、音之進は目を見張りました。
「…音之進?…お前、声が…」
月島が声を震わせてそう問い掛けると、音之進は震える指で己の唇に触れ、潤んだ瞳で真直ぐに月島を見詰めました。
「おいの声、聴こえとると?」
漏れたその声は、確かに音之進の声でした。何が起こったのかは解りません。けれども、確かにその声が聞こえたのです。
「名を、呼んでくれ」月島がそう告げると、音之進は潤んだ瞳からぼろりと雫を零しました。雫はもう真珠になることはありません。涙で頬を濡らし音之進はその名を呼びました。「つきしま」と。呼び慣れたその名を呼びました。
「もう一度」
「…つきしま…」
「もう一度…っ」
「っつきしま…っ」
三度目に名前を呼ばれると、月島は思うさま音之進を抱き締めました。其れから二人は笑って、泣いて、何度も繰り返し名を呼び合って、声が枯れるまで互いを求めあいました。二人はやっと本当に愛し合えたのです。
これでもう、音之進が泡になる心配はない。
そう安堵する者が、海の底に一人居りました。音之進の兄、平之丞です。
平之丞は、音之進に人間の身体を与えてくれた魔女に、ひとつ条件を付けました。音之進の瑠璃の鱗も、その声も、たいそう美しく値打ちのあるモノでしたが、もうひとつ。音之進の零した涙で為された真珠も大変な価値のあるものでした。平之丞は、其の真珠を差出す代わりに、もしも音之進の恋が叶い、それが、愛と呼ぶに相応しいモノになったなら、どうか声だけは戻してやって欲しい。勿論、その声に人魚の魔力はありません。声そのもの。必要なのは、それだけだと訴える平之丞に、魔女は許しを与えました。
魔女は音之進の声を詰めた小箱を平之丞に持たせました。もしも小箱の蓋が空いたなら、其れは音之進が愛を得られた証だと、魔女はそう言いました。
その小箱が、終に開いたのです。ふわりと、音も無く開いた小箱からは瑠璃色の霞が立ち昇り、海の波間に消えていきました。平之丞は、遠く、陸に暮らす可愛い弟を、その幸せを思い、空になった箱をそっと仕舞いました。二度とは会えぬ、可愛い弟の、大切な思い出として。
***
昔々或るところに、ひとりの男が居りました。
男は港のある小さな村の片隅に、独りきりで暮らしておりました。
けれども、いつの頃からか、男は、若く美しい男と二人で暮らすようになりました。
男は、名を「月島」といいました。男の連れている若い男は「音之進」という名です。
二人の名を呼ぶ者は、二人以外には誰一人居りません。
二人は、村はずれの小さな浜の傍に、これまた小さな小屋を建てて、そこで慎ましく暮らしておりました。
朝に、晩に、漁に出て、晴れた日には洗濯をし、雨が降れば網の手入れをして、二人はいつも一緒でした。ただ、街へ買い物に行くときだけは、月島はひとりきりで行くのでした。厳重に戸を立てて、音之進に留守番をさせる月島は、きっと村の誰にも音之進のことを知られたくなかったのでしょう。
音之進もまた、月島以外の誰かと交流を持とうとは思わないようでした。
さて、二人きりの世界は、果たして幸せでしょうか。
然し幸不幸など、一体誰が定められるモノでしょう。
月島には音之進が、音之進には月島が。互いに、互いが居ればそれで良いのです。求めあうモノが対で在れることに何の不幸が御座いましょう。
月島は、音之進と。
音之進は、月島と。
いついつまでも、幸せに暮らしました。
幸せに、幸せに、互いの命が尽きるまで。
今際の際に、来世の約束を交わす、その時まで。
幸せに、幸せに、暮らしました。
お話は、これで御終い。遠い、遠い、昔々の、お話です。