南さに 一歩前へ 御前に連れてこられた屋根の上からでは建屋の中を窺い知ることはできない。ただ響く剣戟の音に戦闘が続いていることは知れる。
結界を張り、音と視覚を遮断しているから普通の人間には何事も感づかれてはいないはずだ。先ほど持っていた端末から本丸に連絡を入れたので、政府の方も何かしら動いてはくれるだろう。
だが御前は大丈夫だろうか。
不安だけが募る。
手をぎゅっと握りしめ、必死に中の様子を探ろうとしていると突然背中にぞわりと嫌な気配を感じた。
はっと振り返り息をのむ。
ツノの生えた爬虫類じみた骨格が中に浮いている。
ゆらゆらと細い身体を揺らし、動くたびに肋骨と思われる骨がカタカタと音を立てた。そしてその口に咥えた短刀。
映像では見たことがある。時間遡行軍の短刀だ。
こちらを認識しているだろうじっと空洞が見据えている。
こちらに武器はない。そして何よりここは不安定な屋根の上。避けることすら困難だ。
冷や汗が背中を伝う。
どうする。
ゆっくりと、だがじわじわと距離を詰めてくる短刀にこちらもじりじりと後ろに下がる。
「ーーー!」
ギュンと勢いを上げて飛び込んできた短刀に頭を下げる。
瞬間バシンと音がして、目の前の短刀が弾け飛んだ。
「え…」
呆然として気がついたのは、御前の扇子だ。わずかな光を放ったそれが一瞬にして周囲をつつみ、敵の攻撃を防いだのだ。
帯から扇子をとりだす。
僅かに傷のついたそれをそっと広げてみる。
たしか御前は一度くらいしか防ぐことはできないようなことを言っていた。だが少しは脅しにはなるかもしれない。
「来るならきなさいよ。叩き折ってやるから!」
叫んで敵短刀に扇子を掲げた。
その時だった。
「にゃあーん」
この場に削ぐわぬ声がした。
「にゃあ」「にゃあん」「なぁん」
一匹だけではない。二匹、三匹と現れた猫が私の側により、小さな頭を膝へと擦り寄せてくる。
「………え…」
驚きに固まる。
敵短刀もどういうわけか襲ってはこない。いや目の前でフシューと毛を逆立てる一匹がいるから、そいつに気圧されているとでもいうのだろうか。
「よおし、お前ら良くやったにゃ!あとは任せろ…にゃ!」
どこからか聞こえた声。
目の前に銀線が走ったと思ったら、敵短刀が黒い塵となって大気に溶けていく。
「主、舌噛むから口閉じてろよ!」
聞こえた声に頷く暇もなく、次に感じたのはあったかい温度。
脇の下と膝下に差し込まれた腕に体が持ち上がる。
「ひゃっ!」
声を上げかけて慌てて閉じ、目の前の首筋に縋り付く。
タン、と軽い音を立てて屋根を蹴ったと思えば身体が空へと浮かんだ。
しがみついたそこには見慣れないジャケットと、見慣れたシャツ。
思考が追いつかないまま数秒後には浮遊感が止まり、重力が体を包んでいた。
「もう大丈夫だぜ。御前も…にゃ。」
聞こえた声に涙腺がゆるゆると砕けそうになる。おかえりなさい。どうしてここに。と次々疑問が頭に浮かぶけれど、それを感情が大波で飲み込んでいく。まだここは戦場。しっかり頭を動かさなくちゃいけない。そう必死に唇を噛むけど、目の前が霞んでいく。
その顔を見られたくなくて、腕の中から降りようと足をばたつかせた。
「こら、暴れる、にゃ。」
「だ…だって…。」
さらにぎゅっと抱きしめられて、もう彼の胸に顔を埋めるしかなかった。
泣き顔を見られるなんて、なんか、悔しすぎる。
「あー、気にしねえから…にゃ。」
ぽんぽんと頭を撫でる手が優しい。
相変わらずの語尾。
それでも以前よりも自信に溢れているようなしっかりした声がする。
どうしてこんなに大人になっているのか。
一文字揃いのジャケットをしっかり身につけて、心なしか背まで伸びてる気がする。というか、こんなにカッコよくなって帰ってくるなんて聞いてない。
内心の焦りと疑問と気恥ずかしさで半ばパニックに陥っていたところに声がかかった。
「…あー…取り込み中のとこすまん…。」
「御前。」
南泉くんの声にはっと顔をあげる。
そのままストンと地面に降ろされて、私はすぐに御前に近づいた。
「御前、怪我は!手入れ!」
慌てて札をだそうとする私を押し留めた御前は、別れた時と対して変わっていなかった。
「問題はない。手入れは本丸に戻ってからでも大丈夫だ。」
僅かに破れた服。
かすり傷も見られるけれど、大きな傷は見られない。
「よかった…。」
「心配をかけてすまなかったな。なあに、珍しい敵だったからな、情報を得るため少し遊んだだけだ。」
そう言って笑う御前には余裕が感じられ、ホッとして膝から力が抜けた。
「…っと。大丈夫にゃ?」
かくんと落ちそうになった身体を後ろから回った腕に支えられ、耐えた。
「ありがと、南泉くん。」
お礼を言いながら見上げると、彼がじっと御前を見つめていた。
「御前。伝言通り、ちゃんと取り返したからにゃ。」
そして、そんなことを言う。
対して御前は一瞬キョトンとした顔をすると、すぐににんまりと目を細めた。
「ほう……。」
私の腰を抱きしめたままの南泉くんを上から下まで見つめるその目は、まるで彼を検分しているかのよう。それに巻き込まれ居心地悪く感じていると、再び言葉が続いた。
「僕は主がお前さんの大切なものだと言った覚えはないぞ?」
スッと御前が伸ばした手が、私の帯の間から扇子を抜き取る。それを片手でパッと開き口元を隠した御前の顔はまるで悪戯が成功した子供のようだった。
「………へっ?…」
間抜けな声を漏らした南泉くんが御前を見つめた後に私を見下ろす。
パチリと音がしてそちらを向く。閉じた扇子の先で頭をトントンと指し示した御前に首を傾げていると、腰にあった腕がわなわなと震え出した。
「え?ちょっ!南泉くん?」
目をまん丸くして私を見下ろした南泉くんの顔がぶわっと赤くなる。
「うはははっ!気付いたか。」
「ご、御前。どうして、これ、俺の、隠して…。」
ふるふると震えながら顔を真っ赤にする南泉くんに対して御前がからからと声をあげて笑ったと思えば、現れた政府職員の方の対応に向かってしまった。
状況のよくわかってない私だけが首を傾げていると、顔を真っ赤にさせた南泉くんが蹲った。
「……伝言の…って…こっちかよ……。」
ぶつぶつと呟く南泉くんに、先程まで彼が見つめていた頭に触れる。
そういえば来る直前に御前が私の頭に簪を刺してきたっけ。
そう思い出し、手探りでそれを探って引き抜いた。
先程の戦闘で崩れかけていた髪だったが、それが必死に守ってくれていたらしい。引き抜いた瞬間にばらりと解けた髪が肩へと落ちてくる。
「……かわい。」
けれど解けた髪より、手の中に収めたものに私の目は釘付けになった。
引き抜いた簪の先、簪の端から今にも飛び降りたそうに前脚を伸ばした三毛猫。そして先端から伸びた鎖の先には赤い鞠がデザインされた飾りがつけられ、ゆらゆらと揺れている。まるで仔猫が揺れる鞠にじゃれつこうとしているように。
「うはは、坊主、すまんな。だが、まあお前さんらはこんなことでもしないと一歩も前へ進まんだろう。」
御前の言葉に頭を抱えた南泉くんの前に、私を膝を折って座り込んだ。
つんつんと彼の腕を突いて、少しだけ上がった顔を覗き込めば真っ赤な目元がこちらを向く。
「……これ…。南泉くんが選んでくれたの?」
横を向いたまま頷く小さな動き。
見える耳も赤く染まっていた。
「………いつか…主に…渡すつもりだった…にゃ…。」
「…この仔猫、南泉くんみたい。」
そう指摘すれば、再び顔が腕の中に隠れてしまう。
「…あんたを俺のものにしたいんじゃない。俺があんたのもんになりてぇ、って。」
前から、そう思ってた時、見つけた。
なんて小さな声が続く。
そしてすぐに、
「恥ずかしいだろうが。んなことよぉ…。」
そう言いながら頭を抱えてしまった南泉くんに私は思わず笑ってしまった。
「南泉くんはもう私の大事で大切だよ?」
極前と変わらないやわらかな髪を撫でながら言ってみる。
「…わかってんよ…んなこと。そうじゃなくて……、」
もごもごと口籠った南泉くんの前で簪を揺らす。
ゆらゆらと揺れるそれをチラリと見た南泉くんの視線がゆるりと移動して私を捕らえた。
そしていつの間にか伸びてきた腕に肩を掴まれ、グッと引き寄せられる。
「……あんたの一番大事もんになりてぇにゃ。」
耳元でそう囁かれれば、途端に熱を上げる頬。
行き場に困っていた手を捕まえられ、その手から簪が攫われる。
「俺のだ、にゃ。」
優しく髪を撫でられ、器用にくるくると束ねた手。そのまま簪を刺され髪を纏め上げられる。晒された頸にちゅと口付けられて、
「……!?…っな!!」
腰が抜けるかと思った。
真っ赤になってしまっただろう顔で南泉くんを見れば、もう既に色々飲み込んだのかすっきりした顔で余裕の笑みを浮かべているだからたまらない。
「…なん、せん、くん…?」
え…ちょっ!と驚くことしかできない私の手を引いて立ち上がる。
「よし!んじゃ、帰るにゃ。」
まだ早鐘を打ったままの心臓を抱えたまま、南泉くんを再び見上げた。
「ん?」
優しい声が降ってくる。目眩がしそうなほど甘い声に思わず一文字揃いのジャケットを握りしめながらまだ言っていない一言を伝えた。
「おかえりなさい…南泉くん…」
「おう!呪いは解けなかったけどにゃ。」
そう言った南泉くんにはもう迷いがない、晴々とした表情が浮かんでいた。
そしてこの先、吹っ切れた南泉一文字にこれでもかというほど翻弄される事になるのはまた別の話だ。