春に降る花のように大学2年ももう終わりを告げようとしていた。
ゼミ履修の申し込み日に寝坊した私は抽選にさえ間に合わず、結局、授業履修一番人気のゼミ履修一番不人気な石神助教授のゼミに拾っていただいたのだ。おかげで毎日をそれはもう充実したものにしていただいているわけで、今日もギリギリまでデータを集め、まとめたものをせんせーの研究室へと運んでいるところだ。
石神せんせーはイケメンで頭もスタイルも満点なのに彼女の影もない超優良物件。華の女子大生としてはワンチャンあるならチャレンジしてみたい気持ちもわからなくもない。
しかし、もし、自分の友達が熱を上げていたなら悪いことは言わないからやめておけと忠告したに違いない。何如せん石神助教授は厳しいのだ。他人にも自分にも。しかも厳しいだけじゃない。言葉も態度も悪い。
なんてことを考えていたら、目的地である石神せんせーの研究室に着いてしまった。
なんとか気力を振り絞ってドアを叩く。
どうぞと入室を許可され、実験結果と考察をまとめたレジュメを抱え直し、ドアに手をかけたが開けるより先にドアが開いた。目の前に現れたイケメンせんせーの顔を視界いっぱいに捉えて眉を顰める。
「え?石神せんせー髪染めたんですか?まあ、今更更生しても手遅れだと思うんですが、少しでも思うところがあるなら実験の種類減らすか人増やしてください」
髪を黒く染めた所で中身まで変わらないんだろうと生意気な口を叩く私を見てせんせーが笑い出す。
「ふはっ!言われてんぞ石神助教授様よぉ」
「ほーん。テメーの忌憚無い意見痛み入るわ」
口悪く八重歯を見せながら見下ろしてくるイメチェン済みせんせーの後ろからいつものせんせーが現れた。
「ふあっ!え?石神せんせーが2人?2人にに見えるんですけど……せんせーがこき使うせいじゃないですか?ちょっと、これ労災使えますかね?」
「落ち着けバカ。コイツは双子のおとーとだ」
「せんせーって人の子だったんですね。てっきりロボットかアンドロイドだと思ってました」
徹夜明けのすっぴんという酷い顔を初対面の人に見られるメンタルを二十歳そこそこで培った私に怖いものはない。そんな軽口を叩く私にせんせーは「そうか」と短く返しただけで、私から分厚い紙の束を受け取るとディスクへと戻っていく。
「クククッ。テメー面白ぇな。その推察だと俺はコイツのコピーやクローンか?」
せんせーと双子だと紹介された御仁が妙に馴れ馴れしく話しかけてくる。
「まあ、そうなりますね。せんせーのコピーならたぶん改良されてバージョンアップされてるんでそろそろ空でも飛べるはずです」
疲れ切って表情筋を動かすのも辛く、適当に返事をすると黒バージョンのせんせーは吹き出した。
助教授とはホントに双子なのか怪しいほど性格も違ようだが、顔と声は区別がつかないほどそっくりだから、間違いないのだろう。
「このデータで前回の結果との比較グラフにして明日までに出しとけ。あとレジュメは悪くねーから、次のゼミん時テメーで解説しろよ」
前半と後半の落差が激しい。明日までとか鬼ですか!けど、レジュメが認められたのは単純に凄く嬉しい。
「はい。では、今日は帰っていいですか?」
表情筋が死んでて無表情になってしまっているが、あの石神助教授に悪くねーと言われたのだから、いやが上にも気分が高揚する。
「おう。今送ってやるから、待ってろ」
「は?いえ、大丈夫……です」
「もう遅い時間だ。テメーに何かあったら寝覚めが悪ぃ。大人しく送られとけ」
送る?せんせーが私を家までってことだよね。いやいや、恐れ多いですから!
ぶんぶんと必要以上に大仰に首を横に振ると、黙って立っていたせんせーの弟さんが口を開いた。
「あー、なら俺が送るか?どうせ帰るし」
「いや、ですから、一人で帰れます」
「おお、そいつはおありがてぇ。頼むわ」
完全に無視されたまま話がすすむ。
「へいへい。テメーもほどほどにして帰れよ」
「真面目な生徒様が精度の高いデータ集めてくださるからサボれねーんだわ」
「ふあっ?私のせいですか?」
「ほーん。楽しそうで何よりだな。おら、行くぞ」
結局2人の会話に参加することができないまま、処遇が決定してしまったらしい。
せんせーって普段、人使いは荒いくせにこうやって、フォローとかしっかり入れてくるんだよね。せんせーのゼミから逃げた人がいるって噂の真相はたぶん違うんだろうな。
他にやりたい事を見つけたとかそんな理由じゃないかな。せんせーはちゃんと生徒を見てるから。口も悪いし態度も悪いし人使いも荒いんだけどねっ!
「あの、本当に……」
「おら、さっさと来い」
「は、はい」
往生際悪く断ろうとしたが、低い迫力のある声に急かされるように研究室を出てしまった。
外はすっかり暗くなり、廊下のガラスが鏡のように自分の顔の酷さを映していて思わず溜め息が出た。
これが女子大生の現実か。
文系の道を進んだのなら今頃オシャレに楽しいキャンパスライフを送っていたのだろうが、いかんせん自分が選んだ道は理系だ。世の中の不思議な出来事を解明したいという漠然とした夢に向かって進むと決めた時からある程度の忙しさは覚悟していた。男女の出会いである合コンなんて興味もないし期待もしてなかったけど。まさかここまで女から遠ざかるとは思わなかった。
石神せんせーは大学の内外を問わず有名人だ。授業の単位取得率が異常なほど低いくせにいつも抽選になる人気ぶりだが、ゼミの履修者は少ない。
というのもヤバい実験三昧で男女問わず平等にこき使うという噂があとを絶たず、実際逃げて音信不通になる学生もいたとかいないとか。実際、ある程度は身をもって証明されたわけだが、そこまで非情ではないと思う、厳しいけど。
まあ、石神助教授のゼミ出身という肩書きは就職には有利らしいし、無事卒業できた暁にはそのくらいの恩恵に預かってもバチは当たらないだろうと割と本気で思う程度にはこき使われている。
「テメー。家どこだ?」
「ヒィヤァっ!」
ぼうっとガラスに映る自分を見ていたら後ろからぬっと現れたせんせーの顔に思わず声が出た。もとい、せんせーの双子の方。
「大学の近くのアパートです」
「ほーん」
あの石神せんせーの双子ということは、きっとこの人も一癖も二癖もあるのだろう。
あまりお近づきになるのは考えた方がいいかも。
しかし、結局上手く断りの台詞が思いつかないまま、車に乗ってしまった。黒い車に乗り込むと見かけによらず安全運転だった。
「いつも、千空が迷惑かけて悪いな」
見かけによらず常識的な挨拶をされた。うん、人を見かけで判断するのホントやめよう。
「いえ、こちらこそいつもお世話になっております」
こちらも建前の挨拶を返す。
本当にに大学の近くのアパートなのであっという間に着いてしまった。
「送っていただき、ありがとうございました」
頭を下げて車から一歩下がる。
「どうした?早く部屋に入れ」
「送っていただいたんで見送ります」
「あのなぁ、部屋に入る瞬間があぶねーんだろうが、見ててやるからさっさと行け」
「え、と……」
「早くしやがれ」
「は、はい」
苛立ちを含んだ声に背中を押されてパタパタと階段を駆け上がってワタワタと鍵を開けた。
閉まるドアの隙間から下を見ると運転席からひらひらと手を振っているのが見えた。
バタンとドアが閉まり、いつものように鍵をかけると、重低音を響かせて遠のくエンジン音が聞こえた。
男の人の運転する車の助手席なんて父親以外初めてで、今更ながらにじんわりと手のひらに汗が浮かぶ。
緊張していたのか。
窓の外ばかり見ていたのが悔やまれる。
こんな短い距離なのに車で送ってくれて、家に入るまで見送ってくれた。
ドキドキと脈打つ心臓の音が大きい。
男の人に耐性なんてない自分のチョロさに目を閉じると、車から手のひらを振る彼の手が瞼に浮かんだ。
あ、名前…聞いとけばよかった。
これが、彼との初めての出会いだった。