Deadline それは、ある晩突然やってきた。
否、既にそこにあったのに、あえて目を逸らしていたのだ。
「それで?」
ラーハルトは冷静を保ちつつ、机に突っ伏した相棒を見下ろした。
「助けて欲しい」
と、ヒュンケルはかすれ声で返す。
見事な銀髪はこんな時にも艶めいているが、てっぺんに紙屑が絡まっていた。
「いつからだ」
重々しく問うと、罪深き男はおもむろに視線を上げた。
徹夜明けの頬に謎の文字が転写されている。インクが乾かぬまま寝入ったのだろう。
「……三日」
「本当は?」
「一週間」
「正直に言え」
「一か月、くらいだ」
「締め切りは、一か月前?」
こくり、と頷くヒュンケル。
「誤解しないでくれ、ラーハルト。これは単純なミスだ。姫の提示する原稿提出期限にはかなりの余裕がある。一か月くらい超過して丁度いい。いつもなら問題ないんだ。だが、複数の記事を請け負っていたことをすっかり忘れていて」
「やかましい。最初から期日を守れ」
「すまない」
ヒュンケルは素直に謝りつつ、ばさ、と書類の山におでこをぶつけた。
ラーハルトはこめかみを押さえて、机一杯に散乱した書を睨む。
魔界の文献の翻訳は、相棒の貴重な収入源だ。そして、主たる依頼人である某王家に借りを作ることはできるだけ避けたい。
互いの仕事には口出ししない方針だが、致し方ない。
「手を貸す。どこまで清書した?」
と言うと、ぱ、とヒュンケルが顔を輝かせた。
「こっちの束は確認済みだ。これと、これをチェックしてくれないか」
どさ、と紙の山が増えた。「あと、この番号順に古文書を並べ直してくれると助かる」
指さす先には、乱雑に積まれた埃っぽい古書たち。
軽く眩暈を覚えつつ、ラーハルトは覚悟を決めて椅子を引く。
「夜明けまでに倒すぞ」
ああ、とか、うう、とか言いながら、ヒュンケルもペンを握りしめる。
午前二時。
「見ろ、ここ誤字じゃないか」と、ラーハルトが目を擦りつつ下線を引く。
「……なんて書いてあるのか分からない」と、ヒュンケルが呆然と呟く。
「貴様が分からなかったら誰が分かるんだ!」
「多分、原本がその辺に」
「お前のメモにあるページが無いぞ」
「ああ、これは古代語の数値だから、五百を足して二で割って十七を足してくれ」
「ちょっと待て。引用の順番がこの行から全部間違っていないか」
「おかしいな……待てよ、原因が分かった」
「一件飛んでるだろう?」
「この古文書が手に入る予定だったのに、船便が遅れて届いていない」
「消せ! もう消してしまえ!」
「そうはいかない、重要なんだ。どうにか注釈を」
「勘弁してくれ」
午前四時。
「言いたくない」と、ヒュンケルが囁く。
「言うな」とラーハルト。
「……この単語なんだが」
「言うな。頼むから」
「多分、途中からスペルを間違ってる」
「聞きたくなかった」
午前五時半。
「……『更なる健闘を要する』?」
と、ラーハルトが死んだ目で読み上げる。
「『検討を要する』」
と、ヒュンケルがどんよりと訂正する。
最後の最後まで、なぜどうしようもない誤字が生きているのだろう。何度も繰り返した疑問を口にする気力もなく、二人は書類の山に溶けていた。
新鮮な朝日が差し込み、戦場と化した書斎を柔らかく労っている。
戦いは終わったのだ。
興奮状態の脳が二つ、眠ることもできずに転がっている。
やがてラーハルトがどろどろと体を起こし、キッチンに消えた。
しゅしゅ、と湯の湧く音色と、滋味あふれる紅茶の香り。
特別な日のために取っておいた金平糖とともに戻ってきた相棒を、ヒュンケルは救いの神を仰ぐまなざしで出迎えた。
「……ありがとう……助かった、この借りは必ず、むぎゅ」
問答無用で砂糖菓子を押し込まれて、がり、と噛みしめた。
慈愛の甘味が、神経に染み込んでいく。
「次は無いからな」
血色の悪いラーハルトが唸る。
ヒュンケルは、くさったしたいみたいだな俺たち、と余計なことを言いかけてどうにか飲み込んだ。
二人でやり切った充実感。
「ああ……もう無理だ。二度とこんな危ない橋は渡らん」
「半年前にも聞いたぞ、貴様」
覚えていたか。
――でも、ゾンビの朝も悪くないと思わないか。
勝手な多幸感に浸って、ヒュンケルはもう一粒、カラフルな金平糖を口に放り込んだ。
戦闘の代わりに命を削る方法を見つけるのは、あまりよろしくないな。と、朦朧とした頭で笑いつつ。