Feverish 溶岩の蒸気に覆われたような頭に、なにか冷たいものが触れた。ゆっくりと、汗で張り付いた銀髪を解きほぐしていく。
指先だと気づいて、ヒュンケルは時間をかけて瞼を開ける。
「少しは楽になったか」
寝台に腰かけたラーハルトが、うつ伏せのままの相棒を不安げに見下ろしている。
ヒュンケルは微笑もうとしたが、喉が動かず、ひとしきり咳き込んだ。
焼け付いた咽頭から、がらがら声を絞り出す。
「……ただの風邪だ。寝ていれば治る」
ラーハルトは、彼の髪を梳く手を止めない。まだ生きているか、確かめるように。
ヒュンケルはじっとしたまま、心地よいその動きを堪能する。
「魔族は、病気にかかることがないのか」当たり障りのないことを訊いてみる。「俺の知る限り、呪い以外の理由で寝込んでいる魔族を見たことがない」
「知らん。興味も無い」ラーハルトの声は、必要以上に冷たい。感情を押し殺す時の、彼の癖だ。
「お前自身は?」
「それらしい経験は、ほぼ無い」
「そうか」
羨ましいな、と軽口をたたきながらも、ヒュンケルは慎重に相棒から目を逸らす。
――自分が体調を崩すと、ラーハルトはいつも、静かに取り乱す。
たかが風邪に対して、彼らしからぬ大げさな反応だ。最初は面白半分にとらえていたヒュンケルだったが、ようやく気付いた。
ラーハルトにとって、熱をもって汗ばんだ体も、食事から顔を背けるしぐさも、寝台の上でうなされる姿も、ただ一つの悲劇に結び付く幻影なのだ。
唯一愛した人間、彼の母の最期の姿に。
全身の末梢神経が狂ったように敏感になって、洗い立てのシーツの感触が岩肌のように感じられる。また戻ってきた寒気と頭痛に眉をしかめると、ラーハルトが湿らせた布で額を拭ってくれた。
――何か言わないと。
ぼおっとした脳で、必死に話題を探す。
「……今日はどうだった。王宮の会議は」
すると、ラーハルトがはっとしたように手を止め、足元の袋から何かを取り出した。
小さな、からし色のノート。
再び腰かけて、ページを繰り始める。そして、
「数日後だ。女王の勅令が下る」と、重々しい調子で言う。
「?」
「俺はこんなことを望んではいないと思っていた。融和と許容は、戦いの傷跡が癒えるまでは儚い夢に過ぎないと。しかし、これは現実になる。政治的な戦略だろうが、とにかく――少なくとも、この国では、法で定められることになるんだ」
「……なんの話だ」
興奮気味に早口で話す相棒を、いぶかし気に見上げる。
「居住権だ」
ラーハルトの横顔は、かすかに上気している。
「先の戦いにおける所属軍や、モンスター、魔族など種族に関わらず、申請者には国民としての権利を与えると」
ヒュンケルは目を丸くして、ラーハルトが差し出したノートを覗き込んだ。
が、几帳面だが癖のある筆記体でぎっしり書き込まれた文字に、くわんとめまいを覚えてまた枕に沈み込んだ。
こめかみを押さえながら「と言うと?」と訊くと、
「俺もお前も、この国の人民になれるんだ」
「……と言うと?」
それは朗報だが、俺たちにとってそこまで素晴らしいことだろうか、とヒュンケルは回らない頭で考える。二人で生きていくと誓い合ったのだから、別に今更、何かに属する必要などないではないか。
そもそも人間嫌いなラーハルトが、なぜそんな新法に興味を持っているのか分からない。
「分からんのか」
ラーハルトはいらいらと、思い切り下線を引いた一行を指し示して、
「結婚できるんだ」
と、言い放った。
――ヒュンケルは目を閉じて、数秒呼吸を整えた。
ラーハルトは一体何を言っているのだろうか。何かおかしなキノコでも食べて幻惑されているのではなかろうか。ただでさえ高熱で動けないのに、この状況をどうすれば良いんだ。
「……それは良かった。ああ、良いことだな。しかしだ、ラーハルト、俺は別に」
「早速手続きを開始するぞ。教会で僧侶の立ち合いのもと、契約を結ぶだけだ。書類は王宮で貰えるらしい。友人親族を集めて宴を催すのが常だが、それは省略可能だそうだ」
「それは、何となく、知っている。しかし」
「貴様の都合はどうでもいい。なに、一日かそこらで終わる、心配無用だ」
ヒュンケルは二割増しになった頭痛を堪えて、額に手を当てた。そういうものだったろうか、結婚という儀式は。互いの同意がどうとか、師は言っていなかったか。
「訊いていいか」と、どうにか口を開いた。
「なんだ」
「なぜ突然、そんな契約に夢中になったんだ。愛を誓っただろう。今更証拠なんて」
「証拠ではない」
追い詰められたような声に驚いて目を開けると、彼の黄金色の瞳が揺れていた。
小さな涙の気配。ヒュンケル以外には、絶対に見せない表情。
「記録だ」
と、太字で書かれた別の一行をなぞる。
「この国が存続する限り、二人の名が歴史に刻まれるんだ」
ヒュンケルは、聞こえないくらいそっと、息を吐いた。
……そうか。だからか。
だから、こだわったのか。
いつか、ラーハルトの人生からヒュンケルが消え去った時。忘れないでいるために。
この愛がたしかに存在した事実を、この世に刻み付けておくために。
そして、わざと明るく言い返す。
「国が滅亡したら終わりだな」
「不本意ながら、俺が守ってやろう。大事な記録だからな」
「ラーハルト。聞いてくれ、記録なら、もっと他に方法が――」
言い終わる前に、視界が蒼い肌でいっぱいになった。抱きすくめられたのだと気づくまで少し時間がかかった。普段の態度からは予想もつかない行動に、ヒュンケルは目を白黒させながらも、大人しくされるがままになる。
「頼む」
胸板にヒュンケルの頭を押し付け、その銀髪に鼻先をうずめる。
「頼むから、言う通りにしてくれ」
頭頂部に直接響かせるように、ラーハルトが囁く。
息が止まりそうなほどしっかりと抱き寄せられ、力強い腕と脚に包み込まれて、ヒュンケルはぞくりと肩を震わせた。
寒気のせいなのか、歓びのためなのか、もう考える力が残っていない。きいんという耳鳴りが、どこか心地よく正気を奪っていく。
「――そういう時は、素直に、お願いしますと言うんだ」
一応、悪態だけは挟んでおく。
身じろぎしてやっと顔を上げ、目の前の首筋に唇で触れる。少しだけ、ラーハルトの心拍が早くなるのを感じた。
「分かった、ラーハルト。時には、人間の慣習に準じよう。書類にサインする。儀式はなるべく人目のつかない場所で――」
「良し。では明日にでも女王に報告しよう」
ラーハルトはヒュンケルを放してそそくさと立ち上がると、ノートを片手に何やら予定を書き付け始めた。
「は? いや、待て、ラー……」
「郷に入っては郷に従えだ、王族の指示に従えば間違いはあるまい。せっかくの儀式に不手際があってはならんからな」
「ラー……ラーハルト、落ち着け、ちょっと待て……」
「待てよ……確かに。今から王宮に取って返せば、会議に揃った有識者どもが残っているだろう、意見を聞いてくる」
「待ってくれ」
「安心しろ、俺だけで手筈は整えてくる。今夜はよく休め」
息も絶え絶えなヒュンケルを置き去りにして、陸戦騎は風のように寝室を去って行った。
追いすがる姿勢のままだらりと片腕を垂らし、げほごほと湿っぽい咳をやり過ごす。古い肋骨骨折がまた痛くなってきた。
こんなに面白い状況を女王や仲間たちが見逃すわけがない。最低でも数百人の招待客、下手をすれば国を挙げた盛大なパーティになりかねない。
「最低だ……」
ぱたり、と仰向けになって、汚れた板張りの天井を見上げる。
視界の端に、何か紫色のかけらが見える。手を伸ばして触れると、懐かしい花束がサイドテーブルに置かれていた。
わざわざ買ってきたのだろう。せめて活けてから出て行って欲しかったが。
鈍重な体をやっとのことで起こし、花を抱えてキッチンに向かう。たしか、空の酒瓶がいくつかあったはずだ。
やっと水を貰った紫の花は、ほっとして花弁を揺らした。
ヒュンケルも、何となく花に微笑みかける。
――まあ、いいか。彼がそれで幸せならば。
ひとつくしゃみをして、皺の寄ったシーツにどさりと倒れ込んだ。