Shenanigans ……ぴちょん。
ひそやかな水音に、ヒュンケルはうっすらと瞼を開く。
岩肌に揺れる蝋燭の光が眩しい。この部屋の、唯一の光源。
清潔な枕からそっと頭を持ち上げて、自分の身体を見下ろしてみる。
闇の中に浮かび上がる白い胸から、力なくシーツに投げ出された腕、裸のままの腰と、足先まで。
つい先日まで鋼鉄の輪がはめられていた足首には、もうなにも戒めるものがない。
そんなものが無くても、もはや逃げることが出来ないと分かっているからだ。
逃げる、という選択肢が思い浮かばないくらい、完全に壊れてしまったのだから。
今までになく伸びた銀色の髪の先に、何か触れるものを感じる。鈍重な視線を向けると、彼の恋人は寝台の脇にかしずいて、熱心に毛束を布で拭っていた。
全身の毛を剃ったくせに、髪だけはそのままだ。なにか理由があるのだろう。
ラーハルトに絶え間なく拭き清められて、ヒュンケルの四肢は人形のように輝いている。
ここに閉じ込められてから、どれだけの時が流れたのだろう。なぜこんなことをする、出してくれ。暴れても泣き叫んでも、彼の気が変わることは無かった。
ただここに繋がれ、生かされ、愛でられながら、日々、採取されている。
……香りを。
「もう少しだ。あと少しで、精製できそうなんだ」
と、ラーハルトが呟く。
小麦の収穫や夕食の準備の報告かと思われるほど、軽い口様だ。
「そうか」
かすれた声でヒュンケルが答える。体中を拭った布が丁寧に積み上げられ、装飾の入った壺に恭しく絞られていくのを、呆然と眺める。
ラーハルトが彼の匂いに執着を示しはじめたことには気づいていた。冗談で済ませられる、ちょっとした官能的な遊びに過ぎなかったのだ。――最初は。
何が彼を狂わせてしまったのかは、全く分からない。
きっかけも思い出せない。
今、ラーハルトはなんとかして、その匂いを取り出そうとしている。
話は通じなかった。もう、以前の冷静沈着な半魔の親友の姿はなかった。その事実を受け入れるまでには時間がかかったが、ひたすらに続けられる奇妙な儀式に、ヒュンケルの理性が崩れ去って久しい。
「だが、足りないんだ」
ラーハルトが首をかしげて呟く。
「お前がもっとも美しく香る瞬間だ。記憶をたどってたどって、やっと分かった」
「……何が?」
長い銀髪を梳いていたラーハルトの指が、じりじりと首元に登ってきた。
ぎし、と寝台が揺れる。
セピア色の視界が、ラーハルトの顔で覆われる。小さな炎を宿した黄金色の瞳ばかりを爛々と光らせて。
本物の悪魔のようだ、と、ヒュンケルが目を潤ませる。
「恐怖だ」
両手が、痩せた首に添えられた。徐々に強まる圧に、ヒュンケルは歯を食いしばる。
「敗北の、死の恐怖だ。俺に殺されるときの、あの匂いだ。あれが、あれこそが――」
ラーハルトは言葉を切り、指の力を緩める。むせこんだヒュンケルの頬に、冷たい何かが触れた。
花束だった。卵のような、槍のような形状の、色とりどりの花弁。見たことの無い、異国の花々。
「この輝かしき花を見てくれないか。こんなに誇らしく咲き乱れているのに、香りが無いんだ。哀れな、空虚な花々よ。これらにお前の匂いをうつし取ってやるべきだと思わないか。きっとできるさ。やってみよう」
ほとんど子供のような無邪気さで、ラーハルトがのしかかる。
片手に光る短剣に、ヒュンケルの背が凍る。
「ラーハルト」
「さあ、花をかき抱け。そのまま、そのまま――そうだ、お前の魂を花に閉じ込めて、永遠という名の香水を作ろう。この不毛な世界で、それ以上に重要なことがあるだろうか?」
そんなことが出来る訳が無い。狂気の沙汰だ。
だが、もう、ヒュンケルの思考から抵抗と言う言葉は抜け落ちてしまっていた。
にっこりと微笑んで、病的な好奇心に蝕まれた恋人に震える手を差し伸べる。
「ああ、それでお前が満足ならば。俺は喜んで、この身を――」
ふとヒュンケルが口をつぐみ、目を丸くして硬直した。ラーハルトが振りかざした手をぴたりと止めて、続きを待つ。
「……ヒュンケル?」
「……すまない、ええと――俺はこのみを、――くしゅん」
突然がばりと横を向いて、ヒュンケルが鼻を押さえる。
「ちょっと待ってくれ――へくち」
ラーハルトはしばらく無言で見下ろしていたが、やがてがっくりと肩を落とした。
「貴様……準備が水の泡じゃないか!」
「へっくち。……しかたないだろう! 多分花粉のせいだ。五分まってくれ、やり直そ……へくしょん」
くしゃみを繰り返すヒュンケルからチューリップの束を取り上げて、ついでに偽物の長髪も剥ぎ取った。
「だから全裸で待機の設定はやめておけと言っただろうが。全く――せっかく王宮からこんなものまで借りてきたのに」と、銀色のヘアウィッグをふらふら振って見せる。
「それに、その迫力のない変なクシャミはなんだ!」
「なんだと! 戦場ではクシャミひとつが命取りだ、可愛く小さく、と父に教わっ……えっくし」
「もういい、知らん。次は違う設定にするぞ、とっとと服を着ろ」
ヒュンケルはぶつぶつ文句を言いつつ、投げ出してあったガウンを羽織ってよいしょと起き上がった。ラーハルトがカーテンを乱暴に引くと、賑やかな市街に注ぐ夕日が室内に差し込み、「岩窟」はあっという間にいつもののどかな部屋に戻った。
まっとうな前戯に飽き足らずロールプレイに嵌って以来、二人でいろいろと試している。
今回は、狂気の調香師を描いた流行小説に夢中になったヒュンケルの提案だった。恋人の香りを欲するあまり、殺害してしまう男の猟奇的な愛。
なかなかいいアイデアだったのに、台無しだ。
「設定が細かいと、気分が切れた時のリカバリーが難しいな……」
と、鼻声のヒュンケル。
「せっかく入り込んでいたのに」
ラーハルトはぶっきらぼうに答えると、ヒュンケルの頭を抱え込んで、一緒にどさりと寝台に倒れた。
「悪くなかっただろう?」
と、くしゃみ男がつぶらな瞳で見上げてくる。
「――まあ、確かに。結構興奮した」
ラーハルトは素直に認めて、本物の銀髪に鼻をうずめてみた。
少し汗ばんだ頭皮の、子犬の様に甘い香りが鼻腔を埋める。
ヒュンケルが勝手に想像しているほど、ラーハルトの鼻は正確でも敏感でもない。せいぜい、人間の平均を少々上回る程度だ。
だが、恋人の肌から蒸散する香りの一滴をかき集めて香水に精製し、常にそばに置けたならば、という気持ちは分からないでもない。
そんな思いを読んだ様に、ヒュンケルが身じろぎして、
「もし、俺を切り刻んで煮込んで干して搾って、小さな香水瓶にすることが出来るなら、そうしたいと思うか?」
と、やや真剣な声音で聞いた。
「かもな」
と言うと、ヒュンケルが心外そうに片眉を上げてラーハルトを睨んだ。「冗談だ」と微笑んで、その仏頂面を胸に抱きなおす。
「死んだ香りに、何の意味がある? 俺の記憶に住まうのは、生きたお前の匂いだけでいい」
ヒュンケルはそれを聞いて目を丸くし、少し考えて、ふむふむと頷いた。
「その通りだ、ラーハルト。実は今のお前の言葉は、非常に理にかなっている。太古の科学書によれば、匂いに紐づくエピソードと言うのは他の五感とは異なる生物学的な基盤があると言うのだ。同一起源であったとしてもその受容には解明困難な複雑系が関与する。ある香りの惹起する反応とはすなわち……」
「わかった、わかった、頼むから黙れ」
まだ何か喋り続けているヒュンケルをぎゅ、と抱きしめて、完全に崩れ去ったムードに別れを告げる。
じたばたするヒュンケルの首筋に鼻を寄せてため息をつく。明日は普通に抱こう、と心に決めて、温かなムスクを胸いっぱいに吸い込んだ。