ここ最近の地底魔城は、常に緊張の気配に充ちていた。それともいうのも、この城の主ー魔王ハドラーの命を狙う勇者一行が、もう目と鼻の先にまで迫ってきているからだ。
「もうここに攻め込んでくるのは、時間の問題かと」
「そうか……」
そう、悪魔の目玉が送ってきた映像と報告とに、バルトスは深く息を吐き出す。
バルトスは、じごくのきしと呼ばれる怪物(モンスター)である。彼らは六本の腕を持つガイコツの姿をしていて、魔王の魔力によって造られ動かされている。彼はその中でも特に強力に造られていて、魔王の居る玉座へと続く門の番人を任せられている、この魔王軍におけるいわゆる幹部という立場である。
地底魔城。ここは死火山の火口を利用して造られた、文字通り地底に広がる城である。外の様子を確かめるための窓なんて物はあるはずも無く、時刻なり何なりを図りたいのなら、空が見える火口付近まで赴くか、偵察用に配備されている悪魔の目玉を通しての映像を見るしかない。
今しがた送られてきた映像には、勇者一行が野営の準備をしている様子が映し出されていた。空の色は、怪物の彼から見ても少し不気味な程の赤。……どうやら今の時刻は夕方、のようである。
「彼らが攻めてくるのは、明日の朝。夜が明けてからだろうな……」
そう呟きながら、バルトスは悪魔の目玉を下がらせ、城の奥へと歩き出す。ハドラーへ報告を入れなければならないし、こちらにとっても向こうにとっても最終決戦となるのならば、自分以外の幹部二体とも連携を取らねばならない。たったの一晩の時間しかない、急がねばとバルトスは蝋燭の明かりだけの薄暗い通路を足早に駆け出す。
ちなみに。ハドラーの指揮する魔王軍における幹部は、地獄の騎士バルトス、デストロールのガンガディア、亜人面樹のキギロ、鬼面道士のブラス。彼ら四体で構成されている。
ブラスはハドラーから与えられている任務が他の三体とは少し異なるため、こことは別の離れた場所を拠点としているが、バルトス等三体は基本この城に常駐している。特にバルトスは、怪物としての名が示す通りの地獄の門番であるため、滅多なことでは城の外には出ない。
急げ急げと通路を駆けているバルトスだが、しかし彼はふと足を止めた。胸元に揺れる星を模した首飾りが目に入ったからである。彼の息子が彼のために、紙で作った物だ。
腕の一本を動かして首飾りを手に取り、じっと見つめる。そうして思い返すのは、六年ほど前の事。魔王ハドラーがこの地上で名乗りを上げ、バルトス等を引き連れて最初の町を襲った時のことだ。ちょうどこの地底魔城のある山の麓にあった町で、今では廃墟となり人の影どころか動物の姿すら見当たらない。完全なる廃墟となっている。
バルトスの息子というのは、この町で拾った人間の子供の事である。当時はまだ赤子で、瓦礫の中に埋もれるようにして泣いていた所を憐れに思ってしまい、気がつけばそれを拾い上げ、魔王の許可すら得て、ここまで育て上げてしまった子だ。
「…………」
バルトスは手にした星の飾りをじっと見つめ……。そして何かを決心したように、一つ大きく頷いて歩みを再開させる。向かう場所は魔王の待つ玉座ではなく、彼ら親子に与えられた小さな個室である。
「とうさん、おかえり!」
ガチャりとドアを開くと、中から嬉しそうな笑みを浮かべる子供が飛び出してきた。銀色の髪をした男の子である。バルトスは彼を、魔界に伝わる伝説になぞらえてヒュンケルと名付けていた。
「ああ、ただいま」
バルトスの周りを跳ねるように飛び回りながら、ヒュンケルは今日一日の出来事を楽しそうに語り出す。一日の出来事と言っても、彼は城の外に出ることは許されていないので語れることはほとんど毎日同じだ。どこの怪物が遊んでくれたとか、こんな絵を描いた、物を作っただとか。今日の話も何時もとほとんど変わりがない。
けれどバルトスは、こうして楽しそうに話す息子を見るのが好きだった。何かを生み出すことは出来ず、ただ戦い奪うだけしか出来ない、冷たい骸である自分だが、こうしてヒュンケルと向かいあっているだけでも、隙間だらけの骸の身体が何か温かいような……。そんな気分になるのだ。
「それでね、とうさん」
まだまだ語り足りないと、バルトスの腕を軽く引くヒュンケル。その手はとても小さい。
この小さな手の成長を、何時までも見守っていたい。心からそう思うが、しかしその願いは本当に叶えられる物なのだろうか。大きな戦いを目前にして、バルトスは初めて不安を抱き始めた。
バルトスの役目は門番ゆえ、城を出て行動する事はあまりない。だから、まだ勇者とは斬りあうどころか顔すら合わせたことがない。
しかし勇者は、キギロやガンガディアを何度も撃退し、ハドラーにすら肝を冷やさせる程の相手である事は確かだ。確実に負ける、とは言わないが、無事に勝てるとも言うことが出来ない。
もし、自分が負けたら。ハドラーが負けたら。この子はいったいどうなるのだろうか。バルトスはヒュンケルの手を見つめながら、思う。
魔物に育てられたとはいえ、ヒュンケルが人間であることには変わりはない。勇者一行が同族のしかも子供である彼に無体を働くとは思えないが……。
「ヒュンケル……」
「なに?とうさん」
じっと。自分を真剣に見つめてくる父の瞳に、ヒュンケルは小さく首を傾げる。しかしバルトスは、なかなか口を開くことが出来ない。ふと思い浮かべたその事を、口にするべきかどうか……迷っているような様子だ。
そんな父の様子に少しの不安を覚えながらも、ヒュンケルもじぃっと黙ってその言葉の先を待つ。……長いような、短いような沈黙の時が流れ……。そしてようやく、バルトスが言葉を紡ぎ出す。
「……明日、この城に勇者達が攻めてくる。ワシはハドラー様の門番として戦わなければならないが……もしかしたら死ぬかもしれない」
「そんな……!?」
突然に父から告げられた、その言葉に。ヒュンケルは、言葉を失った。どう言葉を紡げばいいのかが分からず、彼はただ目の前の父をひたすらに見つめ、その言葉へと必死に耳を傾ける。
「……この城は戦場になる。ワシも死ぬかもしれないし……何より、お前がここにいるのは危険かもしれない」
ヒュンケルの大きな瞳が、涙で潤み出す。その様に胸を痛めながらも、バルトスは言葉を続ける。
「お前をデルムリン島にいるブラス殿の所に預けようと思う」
そうと口には出したが、もちろんこの事はたった今、バルトスが一人で考え出した事であり、ブラスには何の説明も許可も取ってはいない。だが、あの鬼面道士ならば断らないだろう事も、ヒュンケルに危害を加えることもないだろうと。バルトスはそう確信している。いつかその旅立ちを見送った際に、ふと一瞬だけ浮かべた……。怪物のモノではない、優しげな瞳を見たからだ。
「さあ、ヒュンケル。行くぞ」
ヒュンケルの答えは待たずに、バルトスはその小さな手を引いて歩き出す。彼のお気に入りのおもちゃくらいは持たせてやりたいが、しかしその時間すら今は惜しい。一刻も早く、この幼い息子を安全な場所へと送り届けねば。
ヒュンケルは正直にはっきりと言えば、この城を……いや、父のそばを離れたくはなかった。例え自分の命が危うくなろうとも、父のそばに居られるならばそれで良いと思っていた。しかしそれは口に出すことは出来ない。だって自分の手を引くバルトスの手は震えているし、自分に向けられる視線には涙だって滲んでいたから。ここでわがままを言っては、父は今以上に困ってしまうだろうことが痛いほどに分かってしまうからだ。
慌ただしそうにしている怪物と何回もすれ違う。彼らは、バルトスと彼に連れられ歩くヒュンケルには何も言わない。ちらっと視線を向けてくる者も何匹かいたが、そのどれもがヒュンケルには何だか寂しそうに見えた。
彼らもバルトスと同じように、ヒュンケルの成長をずっと見守ってきた者たちだ。もう彼に会えないかもしれない、成長を見守ることが出来ないかもしれない。その事が辛くて堪らないのだろう。
しばらく歩くと、蝋燭のものでは無い、白い明かりが見えてくる。城の出入口である死火山の火口、そこから降り注ぐ月明かりである。
人は、ある程度は日光に当たらないと病気になってしまうことがある。だからバルトスは定期的にヒュンケルを連れて、この辺りまでやって来ては彼に日光を浴びせていた。ほんの少しだけならば、城を出て周囲を散策させたこともある。
この場所から二人で何度も見上げた、太陽も月も。もうこれが見納めかもしれない。そう思うと、互いに繋いだ手に力が篭ってしまう。
ふぅー、と。バルトスは深くため息を吐き出して、懐からキメラのつばさを取り出した。しばしそれをじっと見つめ。やがて決心したかのように一つ大きく頷き……それを宙に向かって放り投げる。
瞬間。淡い光が二人を包みこみ、その身体を持ち上げた。目まぐるしく変わる風景、耳元で唸る風の音。そのどれもがヒュンケルにとっては初めての経験である。しかしそれに感動をする暇もなく、二人の身体は地面へと下ろされた。
景色の流れが止まり、風の音も止んで。目の前に広がっていたのは、一面の砂とその奥に続く鬱蒼とした森であった。
足元に伝う感触も、今までに慣れ親しんだ硬い岩ではなく柔らかな砂の物。背後から聞こえるのは、寄せては返す波の音。
「ここがデルムリン島だ。地底魔城とは遠く離れた、南の海に浮かぶ孤島だよ」
初めての景色にきょろきょろと、興味深げに辺りを見回すヒュンケルに簡単な説明をするバルトス。彼はそのままヒュンケルの手を引き、真っ直ぐに、砂浜の奥に続く森の方へと歩き出す。
地底魔城には蝋燭や魔法の灯りなどの限られた光源しかなく、常に薄暗い空間であった。その様な場所で育ち、光の中より闇の中の方が目が効くヒュンケルであるが、しかし彼のそんな瞳を持ってしても森の奥に何があるのか、何がいるのかは全くわからない。ただ、ざわめく様な気配を感じるだけだ。
「とうさん……」
思わず父の手を握りしめる。バルトスは一度足を止め、不安げな瞳をするヒュンケルを抱き上げた。
ちょうど、その時。
ガサガサと、茂みが揺れる音が辺りに響く。何かがこちらに向かってきているのだ。そうと察したヒュンケルは、抱えられたバルトスの腕の中で身を固くするが、しかしバルトスは平然としたままだ。歴戦の戦士の貫禄……というよりは、その足音の主が顔見知りだと。そう分かっているかのようである。
「誰かと思えば……バルトス殿ではないか」
「お久しぶりですな、ブラス殿」
茂みの揺れる音と共に姿を現したのは、一匹の鬼面道士であった。小さな身体を黒いローブに包み込んだその姿は、ヒュンケルにとっても見覚えがある。だいぶ前に父と共に、キメラの背に乗ってどこかへと向かうところを見送った事のある相手だ。
特にどういった素性の者なのかは知らないが、それでも父が親しげにしていた者だ。それがわかっただけであるが、しかしヒュンケルは、ほぅっと一つ息を吐き出して固くしていた身から力を抜いた。
腕の中の息子のそんな様子に、こちらも少し安堵の息をこぼしながら、バルトスはブラスにここに来た目的を伝える。
明日には勇者一行が地底魔城に突入してくるであろう事、その戦いが終わるまで、ヒュンケルをこの島で預かって欲しい事。もし自分が戻らなければ……その時はそのままヒュンケルをここに置いて欲しい事。
ブラスは途中に口を挟むこともせずに黙ってバルトスの言葉に耳を傾ける。そして彼が全てを語り終えると、ブラスはゆっくりと。しかし、大きく頷く。その仕草には少しの躊躇いも見えなかった。
「この島の怪物達は、魔王様に育成を任された特別凶暴な者たちばかりじゃ。しかしワシの言う事はよくきいてくれる。ヒュンケルくんには危害を加えぬよう、言い聞かせておこう」
しばしここで待っているようにと二人に伝え、ブラスは森の中へと戻っていく。それから程なくして森の奥から感じていたざわめきが一つまた一つと消えていく。ブラスが言い聞かせた結果、なのだろうか。
「ヒュンケル……」
バルトスは一つ大きく息を吐き出しながら、腕の中に抱えていたヒュンケルを別の腕で持ち上げる。高く空へとかかげられたそれは、もっと小さな年齢だった頃に父からあやしてもらっていた時のそれの様で、ヒュンケルは僅かに頬を赤くする。
「と、とうさん。おれはもう、小さな子供じゃないよ!」
ヒュンケルはそうと主張するが、しかし彼はまだ立派に子供と言える年齢である。またバルトスには、ヒュンケルが幾つになろうともまだ幼い自分の子である事には変わりがなかった。
「ヒュンケル……」
バルトスは自らの腕で高く掲げたままの息子の名を呼び、その瞳をじっと見据える。ヒュンケルも負けじとバルトスを見つめ返すが、しかし互いに言葉はなかなか出て来ない。
波の音と、森の奥から時折聞こえてくる魔物の咆哮。それだけが辺りに響いていた。二人は微動だにせず、時間が止まったようですらあったが、それを動かしたのはバルトスの深いため息である。
「ワシがお前を迎えに来れなかったとしても……強く生きるんだぞ」
「父さん……!」
バルトスがヒュンケルを迎えに来れなかった時。それはつまり、彼が戦いに敗れその生命を失った時だ。
一時ではなく、永遠の別れ。その様な時は、訪れるとしても遥か遠い未来のことだと思っていた。しかしそれが思っていたよりもずっと近く、目の前に迫っている。その事実に対して、ヒュンケルの幼く小さな身体が震える。
バルトスは彼のそんな様子に申し訳なく思いながら、天に掲げたままだったヒュンケルを自身の胸へと抱え直し、その六本の腕全てで小さな身体を強く抱きしめる。
「ヒュンケル……ぬくもりを、ありがとう」
最後に、そっとヒュンケルの頭を撫で、バルトスは彼を地面へと下ろした。そして目の前の森を見据えるその瞳は、もう優しい父親のものではなく戦いに赴く戦士のものだ。
ガサッと草木の葉を揺らしながら、ブラスが姿を現す。どうやら、島の怪物達への説明は終わったらしい。
「それではブラス殿、ヒュンケルの事をよろしくお願いします」
「……バルトス殿の健闘を祈のっていますぞ」
ブラスに深々と頭を下げ、そしてバルトスはくるりと背を向けて砂浜へと歩き出していく。
ヒュンケルはその背中を追いかけたい衝動に駆られるが、しかしそれをぐっと堪える。強く生きろと、そう言われたばかりだから。代わりにその背中へと向かって、声を張り上げて叫んだ。
「父さん!おれを育ててくれてありがとう!迎えに来てくれるのを、待ってるから!」
波の音をかき消すような声に、バルトスは一度だけ足を止め振り返って。そして微笑みを浮かべた。
それがヒュンケルの見た、父の最後の姿であった。
*
「今日は少し暑いな……」
足を止めて空を見上げながら、ヒュンケルはそう呟く。
額から流れ落ちる汗を拭う腕は、細い。けれどしっかりとした筋肉が付いていて、同年代の子供よりも随分と頼もしい印象を与えている。もっとも、ここには彼と同年代の子供は存在しないのであるが。
ここは南海に浮かぶ孤島、デルムリン島。モンスターのみが暮らす、人間たちには怪物島と恐れられている島だ。
ヒュンケルがバルトスと別れてから、六年ほどの月日が経っていた。
最初に島を訪れた夜は、空には暗雲が立ち込め波も荒れに荒れていた。しかし魔王が倒れてからは、空は青く晴れ渡り波も穏やかで優しい音を奏でている。たまの荒天の日ももちろんあるが、概ねは一年を通して穏やかな天候の続く、平和な島である。
この島でヒュンケルはただ二人の人間のうちの一人である。もう一人はー
「ダイ、水飲むか?」
「うん、のみたい!」
ヒュンケルの服の裾を握りしめる子供。ダイと呼ばれた彼は、二年ほど前のある嵐の日にこの島へと流れ着いた子供である。
まだ一歳を過ぎたぐらいの小さな、本当に小さな赤子であったが、彼が乗っていた小舟には他の人間の姿はどこに見えなかった。この嵐で船が難破してしまい、この子の両親か何かは、せめてこの子だけでも助かるようにと、そう願いを込めて小舟を送りだしたのだろう。
ブラスはその赤子を拾い上げ、ダイと名付けて今日まで育て上げてきた。島の怪物達や、もちろんヒュンケルも一緒になって面倒を見てきたので、彼らにとってダイは友人であり子供であり弟であり……とにかく、大切な家族なのである。
水筒の蓋に一口よりは少し多めの水を入れて、ヒュンケルはそれをダイへと手渡す。それを受け取る手は、あの日の自分よりももっと小さい。直ぐに壊れてしまうのではと少しばかり不安になるが、バルトスや彼の部下の魔物達もこんな心境だったのだろうかと、そう思うと自然に笑みが零れてきてしまう。
六年前のあの日、バルトスがヒュンケルをブラスに預けてたったの一日。空の暗雲が晴れ、ブラス達島の怪物達の瞳から魔が消えていくのを見て……。ヒュンケルは、静かに涙をこぼした。魔王が倒れた、それはつまり父の生命も絶たれてしまったのだと。そう、理解したから。
それでもヒュンケルは、父が迎えに来てくれるのを待っていた。毎日海岸へ出て、海を眺めて空を眺めて。父が来てくれるのを待っていた。
それを止めたのは何時だっただろうか。正確な事は覚えてなんていないが、ブラスや島の怪物達が、皆自分を心配して寄り添ってくれている事に気がついた時。そこでようやく父の死を受け入れることが出来た様に思う。
魔王を倒したー父の生命が絶たれる原因となった顔も知らぬ勇者の事を、一時は憎んだりもした。だが最近はそう思うことも少なくなってきた。もし、相手が目の前にいたのならそれも分からなかったかもしれないが、顔もわからぬ誰かをどのような感情であれ強く想うのはとても疲れる事である。それに、
「おにいちゃん、のみおわった!ゴメちゃんものんだよ!」
「ピィ!」
そう言いながらダイがヒュンケルへと蓋を戻す。しかし蓋にはまだ水が少しばかり残っている。彼の小さな肩に乗った、最近島の仲間に加わったばかりの金色のスライムの分もと、多めに入れたのだが多すぎたのだろうか。首を傾げるヒュンケルに、しかしダイは満面の笑みを浮かべながら言った。
「あとはおにいちゃんのぶんだよ!」
「そっか、ありがとう」
眩しい。まるで太陽のような笑顔は、全ての暗雲を晴らしていく。ダイの成長を見守っていくうちに、ヒュンケルの心に巣くっていた行き場の無い闇も、徐々にその姿を消していった。顔も知らぬ勇者への想いが完全に消えた訳ではないが、ある程度の折り合いをつけ、飲み込める程度にはなっていた。
弟が自分の分だと言ってくれた水を喉の奥に流し込んで、ヒュンケルは森の奥へと視線を向ける。この島を初めて訪れた時とは違い、今は真昼間で空も快晴。その奥を見通すには十分なほどに明るい。
彼らは今、食料となる木の実やキノコ等の森の幸を求めてこの場にいる。普段ならばヒュンケル一人で採取へ向かうのだが、今日は初めてダイが一緒だ。ついこの間3つになったばかりで、まだまだ目を離すことはできない。しかしそろそろ簡単なことなら教えてもいい頃だろう。
前々から「一緒にいきたいっ」と言われていたこともあり、また今日はブラスにどうしても手が離せない用事があるらしく、それならばとダイを伴っての初めてのお出かけとなったのだ。いわゆる、はじめてのおつかい、みたいな物だろうか。
初めはヒュンケルとダイ、そしてゴメちゃんの二人と一匹だけのパーティであったが、気がつけばスライムやキラーパンサーとベビーパンサーの親子など、道中で様々な怪物達と出会いそして彼らも、面白そうだとあるいは心配だと。そういった感情を表しながら、ヒュンケル達に着いてきていた。ずいぶんと大所帯なパーティになったものである。
「目的地まではもう少しだから」
言いながら、ヒュンケルはダイへと手を差し出す。森の奥に潜れば潜るほど、足場が悪くなっていく。直近で雨が降った訳では無いので地面がぬかるんだりなどはしていないが、それでもあちこちに木の根が這い出ており、小さな子供が走り出せば直ぐに転んでしまうだろう。
「キノコ、いっぱいとれるかな?」
わくわくとした、そんな気持ちが溢れ出るような表情を浮かべながら、ダイがヒュンケルの手をしっかりと握る。
小さな、柔らかい手。それに対するヒュンケルの手は、この年頃の子供にしては少し大きく硬い。幼い頃に少しだけ父に教えてもらった素振りを、毎日の日課として繰り返している結果だ。最近ではそれにダイも見様見真似で加わっているが、どうやら彼は勇者に憧れているらしい。将来は勇者になるのだと言う姿に少しばかり複雑な思いを抱かないでもないが、しかし自分の後ろに着いて周り、何かと真似をしようとする弟のことが、ヒュンケルは可愛く思えて仕方がなかった。
小さな手を引いて、ゆっくりと歩き出す。普段以上に足元に気をつけながら歩くのは、存外疲れるものだ。照りつける太陽の光もあって、額には汗が滲む。
「クワァッ!」
バサッと、キメラが一声上げながら翼を広げて影を作る。気温自体はそう高くはないようで、影の中に入った。ただそれだけでずいぶんと暑さが和らいだ。
「ありがとう」
ほうっと息をこぼしながら礼を述べるヒュンケルに、キメラは嬉しそうににこりと笑みを浮かべる。その笑みに、幼い頃の自分をいつも見守っていてくれた地底魔城の怪物達を思い出してしまい、少しばかり胸が痛むような、ただただ懐かしいような。そんな感傷が溢れてきてしまう。
「おにいちゃん、どうしたの?」
思わず足を止めたヒュンケルの顔を、ダイがキョトンとした顔で見つめてくる。ヒュンケルは軽く頭を横に振って、なんでもないとそう返しながら歩みを再開させる。
地面に這い出た大きな木の根を、よいしょと乗り越えて、道の真ん中で昼寝をしているキャタピラーに少しだけどいてもらって。そしてようやく目的の場所へとたどり着く。
木々が鬱蒼と茂り少々ジメッとした感じではあるが、その分他の場所よりもだいぶ涼しく感じられる。近くにはさらさらと流れる小川もあるため、少し休憩をするにもいい場所である。
川はあまり深くも無いので、食糧採取の目的を終えたら、水遊びをするのもいいかもしれない。そんな事を考えながら、ヒュンケルは背負っていた籠を下ろしてその場にしゃがみこむ。足元には丁度よく、食べられそうな木の実が転がっていた。
「こういう木の実を拾うんだ」
「うん……わかった!」
ヒュンケルが手のひらに乗せたそれをじっと見つめて、ダイは元気に頷く。そしてゴメちゃんや他の怪物達と一緒に、たった今見せられたようなモノを小さな指で拾い集めていく。たまにただの石を拾ってもいるが、一緒にいる怪物達が「それは違う」と言ってくれる。その様子はかつての自分のようだと懐かしく思いながら、ヒュンケルも目に付いた木の実等を拾い集めていく。
辺りに響き渡るのは、さらさらと流れていく川の音と鳥や虫の鳴き声だけ。皆が黙々と食糧になる物を拾い集め、籠の中のへと放り込んでいく。おかげで一時間と少しでもう籠は満杯状態だった。
「おにいちゃん」
「ん、何だ?」
ふぅと、大きく息を吐き出しながらヒュンケルは額の汗を拭い、自分を呼ぶ弟の方へと視線を向ける。しかしその弟の視線が向いているのは兄の方ではなく、木々の向こうー水の流れる音が聞こえる方だ。どうやら水遊びがしたくなったらしい。
籠はもうすでに満杯であるし、陽もまだまだ高い位置にある。急いで帰る必要は無いのだし、後は遊びの時間に当てても何ら問題は無いはずだ。
「うん、少し遊んでから帰ろうか」
そう言いながら籠を背負って、小さなダイの手を握る。ずしりとした重みが肩にくいこむが、しかしそれも嬉しそうな弟の顔を見ていると気にならなくなってしまう。
無邪気な笑みとは、何もかもを吹き飛ばしてしまう。そんな効果があるのだろうか。ずっと胸の中に燻っていた黒い感情は、この小さな弟と関わっていく間に徐々に薄れていったことを思い出す。自分を育ててくれた父やその周りの怪物達も、同じような心境だったのだろうか。そんなことに思いを馳せながら、手を繋いで水の音の方へと歩いていく。
暫くすると小さな小川が姿を見せた。もっと上流の方へ行けば広い水場があるのだが、しかしそちらはここよりも少しばかり流れが早く足場も深くなっている。ヒュンケル一人だけならばともかく、ダイもいるのだからここの方が安全だ。
「わー!」
冷たそうな水に目を輝かせ、駆け出していこうとするダイ。しかしそうはさせないとヒュンケルは、ダイの小さな手を握る自身の手にぐっと力を入れる。川は浅く水の流れも緩やかではあるが、しかし急に飛び込めば何があるか分からないものだ。
「こら、危ないから少し落ち着いて!」
「えー」
先ずは濡れないように服の裾を捲りあげ、靴も脱がせる。そうやって準備に世話を焼くヒュンケルにしかしダイは不満顔だ。早く水の中で遊びたくて仕方がないのだ。一足先に飛び込んだゴメちゃんやスライム等の友人たちを羨ましそうに見つめている。
早く水に飛び込みたくてうずうずとしている様子のダイの横を、ひゅっとベビーパンサーが風のように駆け抜けていく。親であるキラーパンサーが後ろから咎めるような声で吠えているが、そんなものは気にすることなく、ベビーパンサーは駆け抜けるそのままの勢いで水へと飛びこんだ。
ばしゃっと水しぶきが上がった。陽の光にきらきらと輝いて大層きれいであったがしかし、それに見とれる暇もなく、たった今飛び込んだばかりのベビーパンサーはつるりと足を滑らせてもうひとつ盛大な水しぶきを上げる。
「ガウッ」
それ見た事か。そんな風に一吠えしながら、キラーパンサーがベビーパンサーを水の中から咥え上げる。びしょ濡れのベビーパンサーはどうやら怪我はないようだが、しょんぼりとした表情をしていた。
「飛び込まないで、ゆっくりな」
「ん」
ひやりとした一幕を交えながらも、ダイ達もようやく水に入る為の準備を終えた。先程は一目散に駆け出そうとしていたダイだが、しかし今はヒュンケルに言われた通りにゆっくり、一歩一歩慎重に歩を進めていた。走ると危ないという実例を見てしまったのだから当然と言えるかもしれない。
ちゃぷっと、小さな足が水に触れる。流れる川の水は思ったよりも冷たかったが、しかしその驚きはすぐに気持ちよさへと変わっていく。
「つめたくて、きもちいい!」
にっこりと笑って言いながら、繋いでいない方の手を水へとつける。
とそこにゴメちゃんがやってきて、その翼でぱしゃっと水を跳ねあげる。他のスライムや怪物達も集まってきて、同じように翼や前脚、手を使い、ダイとヒュンケルにぱしゃぱしゃと水をかけていく。
最初はきょとんとした様子のダイであったが、ヒュンケルが両手のひらに水を汲み、それを他の怪物達にかけているのを見て、なるほどこうすればいいのか、と。それに習って周りのもの達へと水をかけていく。
水をかけて、かけられて。みんなではしゃぎながら過ごす時間はとても楽しく、しかしだからこそ早く過ぎていく。空はあっという間に柔らかなオレンジの色に染まり、夕方の訪れを告げる。
「ふぅ……」
少し疲れたように、しかし満足そうに息を吐きながらヒュンケルはダイの手を引いて水の中から岸へと上がる。ダイはまだ遊び足りないと言うようにちらちらと後ろを振り返っているが、しかしもう帰らなければならない時間なのだ。
「また今度遊びにこよう」
濡れた手や足を拭いてやりながらヒュンケルがそう言えば、ダイは小さくこくりと頷く。……元気がない、のではなくどうやら遊び疲れて眠くなってきてしまっているようだ。
「おにいちゃん、だっこ……」
言いながらダイは腰の辺りに抱きつき、じっとヒュンケルの顔を見つめる。その様はたいへん愛らしいものではあるのだが、ヒュンケルはそれに頷くわけにもいかなかった。
行きならばともかく、帰りは木の実やキノコでいっぱいになった籠を背負っていかなければならないのだ。バルトスと共にいた頃よりも背丈も体格も成長したとはいえ、ヒュンケルもまだまだ子どもと呼ばれる年齢なのだ。満杯になった籠と幼児を両方抱えられるような力は、まだ無いのである。
「何とか家まで歩けないか?」
困った顔でそう問いかけるが、しかしダイはもう半分夢の中。うとうととした様子で、良い返事は返ってきそうにない。
「…………」
ここは覚悟を決めるしかないか。そう思いながら、ヒュンケルは息を吐き出した。だが、
「がうっ!」
キラーパンサーが一声、力強く吠えながらヒュンケルに自身の背中を視線で指す。どうやら、自分の背中に乗せろと言っているらしい。
「ありがとう」
キラーパンサーの頭を軽く撫でながら礼の言葉を述べ、ヒュンケルはもう完全に眠ってしまったダイを抱えあげる。そしてそっとその背中へと乗せれば、ふかふかの毛なみが気持ちいいのか、ダイは無意識ながらもその柔らかな頬をキラーパンサーの背中へとすりっと擦り寄せるのだった。
そんな様子に軽く笑いをこぼしながら、ヒュンケルは満杯になった籠を背負い上げる。行きはダイの歩調に合わせていたが帰りはその必要も無い。荷物が重たくはあるけれど、行きよりも短い時間で帰りつくことが出来るだろう。
「陽が落ちる前に帰らないと……」
呟きながら歩き始めたヒュンケルを、しかしキラーパンサーがその服のすそを咥えて引きとめる。一体何事だろうか。何か忘れものでもしたのだろうか。首を傾げながら振り返ったヒュンケルに、キラーパンサーは自らの背に軽く視線を向けて、また短く吠える。子どももう一人分くらい、まだ余裕だと。そう言いたいらしい。
ここから家までの距離はそう長いわけでも無いし、歩けないことは無い。だが、重い荷物を背負って歩くのは確かに負担ではある。ヒュンケルは苦笑いを零しながらも、ありがたくその背中に乗せて貰うことにする。
キラーパンサーの背中にまたがる。と、ふわっとした柔らかい毛並みの感触と高い体温が伝わってくる。すると何故だろうか、幼いころの……今のダイと同じ年齢くらいの頃の事が思い出されていく。あの頃自分を背中に乗せてくれたのは、オークだった。毛並みはもうすこし硬くごわっとしていたが、このキラーパンサーと同じように温かくて、父の腕の中に抱かれるのとはまだ違った心地よさがあった。
「ああ……何だか、とても懐かしいな……」
キラーパンサーの背中に揺られ、優し気な瞳の怪物たちに囲まれながら、ヒュンケルはそうひとりごちた。以前は昔を思い出すととても悲しい気持ちになることもあったが、今はそうはならない。ただ懐かしく優しい気持ちになるだけだ。
普段は風のように地を駆けるキラーパンサーであるが、今は子ども二人を背に乗せいる為か、その足取りは非常にゆったりとしていた。ゆらゆら、まるで揺りかごのような優しい振動は眠気をさそう。その体温の温かさもあってか、ヒュンケルも少しうとうととし始める。だがちょうどその頃合いで、彼らは目的地へ。ブラスの待つ家の前へとたどり着いた。
「お帰り、二人とも。おや、ダイは眠ってしまったか」
ブラスは、二人の事が心配だったのだろう。家の中ではなく、その前で二人の帰りを待っていた。危険な場所へ行かせたわけではないが、それでも何か怪我などしていないだろうかと心配になるのは、 二人の保護者としては当然の事だろう。
「二人を乗せてくれてありがとう」
キラーパンサーの背中からブラスは優しくまだ眠ったままのダイを抱え下ろす。ヒュンケルもその背中から下りて、背に抱えたままだった籠を地面へと下ろす。
「ただいま、ブラス爺さん」
そう言いながらヒュンケルは背中から下ろしたばかりの籠の中身をブラスへと見せる。
「ああ。お腹が空いたじゃろう。早速夕ご飯にするとするかのう」
籠の中にたっぷりと詰まったキノコや木の実。二人や島の仲間たちが集めてくれたそれらに、ブラスはにっこりと笑みを浮かべながらそう言った。これらはどのような料理になって出てくるのだろうか。それを楽しみにしながら、ヒュンケルは今日も沈んだ陽の向こう側を見つめて小さく呟いた。
父さん、おれは今日も楽しく過ごしているよ。何時か遠い未来、また会える時にいっぱい話を聞いてほしいな。