祖国は強い。どれほど強いかというと、国の化身なので当然「死なない」らしく、一度部下がナイフを持った犯人が引き起こした殺傷事件に巻き込まれたとき、庇って刺されたこともある。腹に刺さったままのナイフを素知らぬ顔でひょいと引き抜き、ポケットから丁寧に折りたたまれたハンカチで傷口をぬぐい、その三日後には「治りかけの傷は、相当痒い。痛いほうがまだマシだ」と呟いたくらいだ。いや、これは噂に盛大に尾ひれや背びれを付け、誇大脚色を加えたため実際にあったとは言い難いが、とにかくお強い方である。
彼が仕事をするダウニング街九と四分の三番地では、その一帯だけを黒々とした雨雲が覆っていた。局地的、いや、超局地的豪雨に見舞われた官邸内は、僕の職場でもあったのだがハチの巣をつついたような騒動が起きている。「重要書類はこっちに回せ!」「ビニールをかけろ、バカ。お前じゃなくてパソコンに、だ」と怒涛が飛び交う。
「どうされました、何ですか。この騒ぎは」
僕が出勤したと同時に、屋敷から続々と荷物を持ったスーツ姿の男たちが飛び出してきた。どうやら雨雲は室内でも関係なく侵入するようで、ざあざあと雨脚が響き、時折強い風も吹き付け、そのたびにどこからか悲鳴が上がっている。
「ハワードさん、大変だ。とにかく傘をさして」
「いや、こうなると傘も意味ないんじゃないか」
「じゃあ、傘もいいです。三階のイギリスさんの部屋にすぐ向かってください。例のやつです」
眼鏡をかけた僕の部下は、雫がたっぷりついたそれをぐいと指で引き上げる。手にはびしょ濡れの紙束を持っていて、――どれも濡れている。乾かせば読めるかもしれないが、インク滲みは避けられないだろう。とにかく、三階へ! と、その場にいる部下に急かされて、僕は嵐が吹き荒れる官邸に入った。カーペットや壁紙が濡れそぼって色をかえ、明かりは回線がショートしているのか付きもしない。暗がりの中でそうっと階段を上ると、三階の政務室にイギリスさんがいた。
国土は小さいが、勢力は十分で大国とされる強きイングランド。伝統とマナーを重んじる英国紳士の化身、そんな立派なイギリスさんはそこにはおらず、僕がドアを開けるとずぶ濡れのまま緑の瞳をこちらに向けた。辺りは暗く鬱蒼としていて、立ち込める雨雲の中で時折稲妻が走る。照らされた彼の表情はぼうっと闇に落ち込んで、瞳がぬめぬめと光るのが恐ろしかった。黒と黄の色味で猛毒を持つハチや、疣が集まったような外観を持つ有毒植物を思わせる。
「い、イギリスさんこれは」
「もうダメだ。俺はもう」
ごうごうと雨風が吹き荒れ、雨粒が顔を襲う。腕をかざして避けながら、僕は真剣に話しかけた。
「生きていても、あいつに嫌われたら意味がない」
「死のうって言うんですか? 不可能ですよ、あなたは国の化身なんだから」
イギリスさんは僕から視線を外し、横顔を向けたまますうっと涙を頬に伝わせた。無表情のまま泣き出す最強の祖国はとにかく底知れぬ恐ろしさがあり、ああ、と踵をかえして建物の外へ出る。
イギリスさんは、これはいつ収まりますか、中にやりかけの書類が! と部下たちはいっせいに喚く。そのすべてに手をかざして静止させ、スマホを取り出した。防水機能のあるもので良かった。登録したきり一度もコールしたことのない番号を選ぶと、「どうか出て、お願い!」と念じながら耳に当てる。
果たしてツーコールで出た彼は、「はい、日本です」と落ち着いた声色で返事をした。時差をまったく考えていなかったが、恐らく仕事終わりであろう日本さんは「お久しぶりですね」とこちらを気遣う様子もある。
「あの、あの日本さん、こちらハワードですが」
「そうでしょうとも。電話の名簿に載っておりましたから」
「その、突然プライベートなことをすみません。イギリスさんと、あのー……何かありました?」
「イギリスさんと」思い出すような仕草をしたが、すぐに日本さんは小さく笑う。「ああ、ありましたね」
「とんでもない豪雨です。官邸内がびっしょびしょ」
「雨雲を呼んだわけですね。ドラゴンは?」
「それはまだ」
「なら、まだ大丈夫」
本当は怒っているのですが、今回はあなたの頼みなので特別に。日本さんは滑らかにそう話すと、すぐに向かうと告げてくる。
「数時間でそちらに着きます。だから、皆様にご安心ください、とお伝えください」
「ああ、日本さん。助かります」
そのまま、日本さんの通話は切れる。一体二人に何があったのか、僕はそのあと知る由は一ミリもなかったが、数時間後さっそうと現れた日本さんは拍手で僕たちに迎え入れられ、官邸内に入るとものの数分で雨雲を収めて見せた。雨上がりのロンドンは雨粒を反射して輝き、より一層美しい。飄々と出てきたイギリスさんは濡れた髪をかき上げてカフスボタンに手をやり、しばらく宙を見つめて考え事をしたあと、「悪かったな」とバツが悪そうに呟いた。