(仮)お江戸でパラディその7 うららかな日差しがのんびり歩く野良猫の白い毛を光らせていた。背中をかいてやろうか、迷っている間に猫はさっさと向こうへ行ってしまった。ため息をついて判治は道の先へ視線を戻し、歩き出す。穏やかでない判治の胸内とは裏腹に町はゆったりとした午後の時間を刻んでいる。
判治は本郷に来ていた。今日は夕刻から利葉偉と会うのだが、その前に利葉偉の馴染みの店に行くように言われたのだ。「逢引き」と言われたその約束を何となく承知してしまった後悔で判治の気分は晴れない。
「おぼこのお前のために手順を踏んでやる」あの竹藪での勝手な振る舞いの後、利葉偉は言った。
「寛永寺で落ち合って、そこからどこかお前の行きたいところに連れてってやる。その後不忍の座敷で飯を食ってから奥で休む」
「し、不忍は高いんだろ?無理しなくていいよ」自分の気持ちを置き去りにして話が進み、どこにつっこめばいいやら、とりあえず判治は言葉がかろうじて意味をなしたとこから口にした。
「かまわねぇ。お前の気持ちが落ち着くなら安いもんだ」自分を慮って言ってくれているのがわかり、ハンジは面映く思って言葉も出なくなってしまった。
二人座り込んだまま、次の逢引の算段を進めていく。判治は今の自分が現とは思えなくなっていた。口説かれて、茶屋に誘われている。しかもあの江戸でも評判の姿絵の主、蝶沙楼の利葉偉に。背は絵と違って低いけど。
「俺に会う前に本郷の瀞洲砥(とろすと)屋に行け。あの着物を事前に渡して、話はつけとく。着物に合わせて帯やかんざしを見繕ってもらえ。女将が上手いこと仕立ててくれる」
「自分で支度できるよ!刺青見せるまではバレたことだってないんだ」利葉偉がまるで判治が初めて女の格好をするかのように言うので、判治は心外だと言い返した。しかし利葉偉はそれを軽くいなす。
「一応は武家のお姫様、ってか。それなりに上物の小物だったが、取り合わせの塩梅がなっちゃいねぇ。どうせあちこちからのかき集めだろ」
その通りだったので判治は黙りこんだ。が、むくれた。その様子を見て取って利葉偉はとりなすように言葉をかける。
「おめぇがそう言うのに疎いのは仕方ねぇだろ。こっちは廓育ちで生まれた時から粋を競う女どもに囲まれてたんだ。まあ任せとけ」頬に手をやり、優しく撫ぜる。触れた先から痺れが走り、陶然となりそうになる自分を判治は必死で抑え込んだ。硬くなる判治を知ってか知らずか、利葉偉は今度は唇をやわやわと喰むだけの口付けでハンジの心を蕩かす。ああ、こんなんじゃ文句も言えやしない。
ぼうっとしている間に利葉偉は落ち合う日を決めて、そして吉原に帰って行った。
「送ってやれなくて悪いな」もう直で行かねば夜見世の刻に間に合わないから、と判治の手を引いて竹藪から出て小路に戻ると、さっさと判治を置いて行ってしまった。
そんなこんなで利葉偉はもう判治と懇ろになるものと決めてしまって、振袖を預かりに一度少しだけ顔を合わせた時も判治は何も言えなかった。頬に手を当てられ、目を覗き込むようにして話をされるともう、のぼせて何も言えなくなってしまう。いつもと勝手の違う自分にもやもやしてこのまま事が進んでしまっていいのか、と思う。
迷いながらも判治はしかし、約束の日になると支度をして本郷に足を向けていた。向けていたが、どうしても歩みは遅くなるのだった。
*
「あんたが判治だね?利葉偉から聞いてるよ。私は七葉。お入りよ」
判治が言われた通り店の裏側に回って声をかけると、判治と同じくらいの背丈の、粋な小袖を来た女が出迎えた。
(ふーん、この子が利葉偉のねぇ……)
通した座敷にちんまりと座る判治を七葉は意外に思いながら見た。女に毛ほども興味を持たずにきた利葉偉が初めて心に留めた相手。もちろん今日の判治は普段通りの男の形をしているので、そのきっかけがどういう物だったかは聞かずともわかる。
「巷で評判の弁天小僧という割には、借りてきた猫のように大人しいじゃないかい」七葉は衣装盆を引き寄せながら言った。盆にはあらかじめ預かっていた判治の振袖が入っている。
判治は何も言わなかったが驚いたように目を見開いた。その目の中に少しの恐れを感じ取り、七葉は言い足した。
「話は聞いてるよ。安心おし。口は固いし、利葉偉には昔世話になったんだ」
それを聞いて判治は少し表情を緩め、部屋に入ってから初めて口をきいた。
「お、お店の方はいいのかい?」判治は衣装盆をチラリと見る。瀞洲砥屋は紙入れや根付、櫛や簪を扱う小間物問屋だ。振袖の上に細々と小物が置いてあるのが目に入る。
「今日は元々休みの日さ」七葉は揃えた小物をひとまず風呂敷の上に並べながら話す。判治が少し呆れた顔をしているのに気づくとくすくす笑いながら七葉は続けた。
「全く細かいとこまでよく気付くよねぇ。あんたが男の形で入って振袖で出てもいいように、私の休みが使われたというわけだ」
「そ、それは申し訳ない」
「気にしちゃいないよ、さあ立って」
七葉は立たせた判治の着物を遠慮なく解き、肌襦袢だけにした。長襦袢を盆から取り出し着付けていく。その長襦袢を見て判治は頬染めた。こののち襦袢姿を見せることになる瞬間を想像したにちがいない。
『襦袢はこれだな。あいつははっきりした色が似合う。紅もだ、だが若けぇんだからけばけばしくするなよ』持ってきた着物と合わせながら、店の小物や七葉が取り寄せた着物の類をさっさと取り合わせていく利葉偉を思い出し、七葉は判治にわからないようにクスリと笑った。
(馬鹿だね利葉偉、はじめての床入りならこれが一番映えるだろうよ)
七葉は長襦袢の帯を絞めて満足気に頷き、振袖を重ねると帯を取って着付けて言った。そして若衆髷を解き、文金に結っていく。
「さあできた」
鏡の中には家人に傅かれて町を歩くほど身分が高そうに見える女人がいた。なるほど、帯は振袖の色柄を引き立てているし、幅も広く、後ろで長めに垂れ下がるのが可愛らしい。髪に刺した櫛も手絡も判治の肌によく映えていた。つまみの簪は控えめに揺れている。
「明日また戻っておいで。私は店に出てるけど、ここで元のナリに戻って帰ったらいいよ」
この後利葉偉に会って何が起き何をされるのか全て承知したその言葉に判治は恥ずかしく思い目を伏せ、しかし小さく頷いた。
「七葉さん、何から何までありがとう」
「礼は利葉偉に言いなさいな。あと、何か嫌な目に遭うようだったらすぐ帰ってきなよ、何も我慢するこたないんだからね」
『あいつは恐らく近い歳、女同士で話せるやつが周りにいない。何かと世話してやってくれねぇか』まったく、どこまでも細く気のつく男だよ。男の、初めて惚れた女への気の配りように少し馬鹿馬鹿しくなりながらも、初々しいハンジの様子に七葉は段々と絆されていた。この今まで相当苦労したような、恋も知らないかわいい子が、本当に幸せな時を過ごせなかったら嘘だ。
判治は七葉の言葉に驚いたが、やがてゆっくり顔をほころばせると嬉しそうに七葉に礼を言った。初めて会った人だが、何故だか判治は七葉に気を許せた。着付けの時も抵抗を感じなかった。それに訳をわかってる人がいるって安心する。このまま利葉偉に身を任せるのはきっと悪いことじゃない。
七葉は花のような笑顔の判治を見て、少しは硬くなった心をほぐすのに役に立てたかな、と自分も安心をした。そして判治の肩を叩き、店から送り出すのだった。
(続く)
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弁天小僧が女装して登場する『雪の下浜松屋の場』、着ているのは黒縮緬だそうです。みくろさんの絵もちゃんとそうなってますね(^_^;) 黒縮緬ハンジさんの方がカッコいいな〜。でも赤ん坊の枕元に赤い着物が掛けてあるのを想像しちゃったんですよね。