アン・バースデイ・アントルメ/若忍+樹(若干仙樹仙に見えるかも) カチャ、と鍵のターンはダンスのステップのようにゆるやかに軽やか。キィ、とアパートの蝶つがいが鳴く。気が付けば出掛けていた樹が、そう時間をおかず帰ってきたのだろう。天気の不安定な時期なので、傘を持っていかなかったようで少し気に懸けていたけれど、しばらく晴れの予報が続くしまあいいか、どうにでもするだろう、と、忍は好きなゲームのレベル上げをしていたところだった。
「おかえり、樹」
玄関のほうに届くよう少し声を張り、セーブポイントまでのあと少しの間、プレイを続ける。相変わらず足音のろくにしない樹が、リビングまで辿り着くのと同時、電源を切った。
「ただいま、忍。ハッピー・アン・バースデイ」
樹の手に握られていた袋を差し出され、忍は、困惑するも受け取ってしまう。柄付きで半透明のそれのなかには、何やらラッピングされた、白っぽい、箱のようなものが入っていた。心当たりが一見なくて、けれどことばに、答えがあって。彼の唐突な行動は、たいてい、そんなかんじだった。
「アン・バースデイ…って、…誕生日、言ったことあったか?」
驚きに、丸めのまなこがいっそう大きくなる。情報の出所には大方見当が付いたけれど、同時にそれは、こいつのことだから予測外の情報源を持っているのかもしれないという疑り交じりで、未だ、距離を掴みかねているところだ。回答は、思いのほかシンプルで、同時に見当の通りだった。
「いいや? ないな。昨日、ふと思い立ってコエンマに訊いたんだ」
わずかな安堵と、その唐突さへの何とも言えない感情が忍を笑み交じりにため息づかせる。
「…直接訊いてこないところがお前らしいよ」
「そうか?」
「ああ」
すっとぼけは恐らく自覚があって、ひょうひょう、見せている張り子のほんとうのなかみを、未だ探りかねさせる。
「それで、コエンマはいつだって言ったんだ?」
「昨日の時点で、明後日と言っていた。要するに、明日だな」
情報は、ああ、精確だったらしい。すると、差し出されたこの袋は。
「アントルメになるように、ババロアを買ってきた」
音声で問うてもいないのに視線で解して答えを寄越す樹を、本当に、だれより人間くさいと思った。
「あんと……るめ?? …蟻…?」
首をかしげる忍をみて、樹がふわり、包み込むように笑む。
「"アントルメ"。…まあ、要するにメインディッシュとデザートとの間の簡単な菓子類さ」
「魔界のか?」
「人間界の、フレンチだな」
「…なるほど」
彼は、能力の都合もあってなのか、人間界の幅広いエリアの知識に長けていたから、忍の知らないことをたくさん知っている。それはともかく、忍の今抱いている疑問は数多ある。
「メインもデザートも、家にあったか?」
一緒に買ってきたようには見えなかった(と言っても、彼の場合亜空間に収納して持ち運ぶことは可能だけれど)し、メインと言えるほどたいそうな食材も今日は冷蔵庫になかったように思う。いぶかしがる忍に対し、樹は、当然至極とばかり、さらり返すのだった。
「いいや? バースデイ当日の明日がデザートなら、前日の今日は、アントルメが妥当だろう」
「……、…あし、…た…、……も……祝う、…つもりなのか…?」
スマートに返されて、少々てれくさいわけでは断じてない。だって、こんなの、動揺くらいするだろう!
「当然さ。オレは、忍のバースデイも、…アン・バースデイのすべても…、年中、祝い通したいんだ。忍と出逢えた、感謝を込めてね」
「……っ、……そんなに通年で祝われるほど、おまつりおとこに生まれた覚えはないが」
むすり、あどけなさの残る声で棒読みじみてたつりと、むすりとじみてさえ、返すのはああそうさ、照れ隠しだとわかっているし分かられている。案の定、樹はのどでかみしめるようくつくつと愉快そうに笑むのだった。
「…っ、くく……おまつりおとこ、か…」
「…ああ」
「愛らしい響きだが、まあ、そう卑下するな。…オレにとって、お前との時間は、あのひの翌日共にみたテレビより、…ふふ…、…陳腐な言葉にはなるが、…まぶしいよ」
ジョークのあとに本音をはさむ、彼の悪いクセだった。樹のまなざしが見つめるどこかとおくを、知っているしきっと全貌は知り得ないだろうと思っている忍が、それこそ樹をまばゆいように細めた眼で見つめ、いかんともしがたい心地でくしゃりTシャツの胸元を握りしめる。そこが、あたたかくいたむのなんて、こいつと会うまで知りやしなかったんだ!
「……ならば、メインディッシュは、オレたちの初めて会ったあの日、ということになるのか」
くるしいような呼吸を搾り出すよう、それこそケーキのデコレーションにさえなるようぽつり、発話する。樹が眼を見開き、忍を見て、まぶしいようにとも泣きたそうにともなんとでもとれるようくしゃり目元を寄せて、だのにことばは軽やかぶって余裕ぶる。
「…おや、忍が、それで構わないのならいいが」
ああ、声の隠しきれぬ喜色よ、忍のこの胸をゆめゆめきゅうと締め付けるな! ああ、泣きそうなあたまよ、このてのひらを自分より高いところにあるそこにまるでそっと乗せたくもなるような心地になどゆめゆめさせるな!
「……っ……ほかに、…有りようもない」
ああ、ああ! ぐしゃり、寄る柳眉よ、流麗よ、こんなこどもじみた感情をふいとふてくされるようにしか言えぬ自分へと、うごかされたようにふわり笑むな!
「……ふふ。…そうか……奇遇だな、オレも、そうさ」
「…オレたちの奇遇なんて、はなから、分かってたことじゃないか」
あのひの延長上にしか、自分たちは、在れないのだ。
「…ああ、そうだ。せっかくの冷菓が、ぬるくなるといけない。さっそく、と言うには少々遅いが…食べよう、忍」
言われて、忍は手に持たされていた袋の存在に意識を戻す。
「…午前の10時から、唐突にババロアを?」
「せっかくのアン・バースデイだ、無礼講さ。コーヒーを淹れてやろう」
「それじゃあほとんど毎日無礼講じゃないか。…日頃は食生活にうるさいくせに、…不思議なやつ」
呆れる忍に、くすくす、上機嫌そうに笑む樹はねこじみているといつもながら思う。
「オレなりの祝いかただ」
「…甘やかすのと、祝うのとは別物だと思うが。まあいい、お前のことばを借りるなら、"せっかくのアン・バースデイ"…だからな。なにしろ、今日を逃したら明後日まで来やしないんだ」
「分かっているじゃないか」
「…頂くよ、樹。あんと…るめ、とやらを。…ああ、ちなみに、今日、お前は誕生日じゃないよな?」
誕生日の概念がそもそもあるのかよく分かっていなかったが、万一今日が樹のバースデイならば、アン・バースデイは成り立たない。そう思って、素朴な疑問を尋ねた。すると。
「……ふむ。誕生日、というものを、オレに精確に当てはめるならば……」
それはもったいぶるというよりは、思案の様子だった。
「…やはり、…おまえにころされなかったあのひ、…に、なるだろうな」
「…っ、……なんだ、それは……っ」
ああ、ああ、いつくしむようななつかしむような、そんな声音を、細めた眼で。
「…ふふっ、オレは、お前も承知の通りペシミストなものでね。あのひにしか、今こうしておまえといきているオレは、生まれようもなかったじゃないか」
「…っ……おい、…あたりまえのように、…あのひの重さを、かさ増しするな…お前にとっては、たまたまの、出来事だったくせに…」
樹にとってそれがミクロな転機だったことを、忍は承知しているつもりだ。自身にとってダイナミックな転機となったあのひの驚きが、樹にとっては他愛のないことなのだと、承知している、つもりなのだ。たまたま、自分だっただけなのだ。きっと狩人が先代霊界探偵でも、…自分より、あとのやつだったとしても、こいつはきっと、余地を与えられれば同じように命乞いしただろうに、だのに、ああ!
「……ふふっ。お前の思うより、あのひは、オレにとって重たい意味を持つんだがな」
「…言ってろ」
「ああ、言ってるさ」
そのとき忍は、樹が胸中で思っていたことを、知りはしなかった。
――なあ、忍…おまえにとってあのひの驚きはダイナミックに感じられたようだが、その実、実感の未だ薄いミクロな変化しか伴っていないことを、承知しているか?
忍にとって敵をころさなかったというその事実ひとつだけがいたく重いのだと理解してなお、樹は、そう思っていた。さきを、思う。ほう、と、自然高まる鼓動が生を、実感させてくれる。確実に来たるはずのそのときが、そのときがいつくるか、時限爆弾に寄り添う樹は、思うだけで彼をこいびとのように抱き締めたくなった。ババロアの入った箱をひとまずテーブルに置こうとしている忍の背から腕を回し、きゅっと、抱き締める。忍がかろうじて箱を落とすのをこらえて、驚きを責めるため振り返りたいのを樹の胸や腕にはばまれているために身じろぎだけして、不服を述べるに留めた。
「…っ、……せっかくの、贈り物、なんだろう。落としたらどうする」
「…たべてから、また買ってくる、かな」
「……、…はぁ……まったく、相変わらず律儀なのか鷹揚なのか勿体ないオバケ知らずなのか、分からないやつめ」
またのどでくつくつと笑まれるのを、揺れる柳とともに耳元に感じてくすぐったい。
「勿体ないオバケは、魔界でも見たことはないな」
「……実在、しないのか…?」
「くっ、…ははっ、…把握しきれていないだけだろう」
そんな他愛ない応酬ばかりが彩るアン・バースデイ・アントルメ。おかわりは、また明後日、として、明日の誕生日にはなにをしてやろう。樹は、そんなふうに暦を見て過ごす時間を、まるまるすべてあいしていた。
終