いつかあなたをつくるもの「ん……」
眩しい朝日に目を覚ますと、コーヒーの香りがした。まだ布団から出たくなくて、起きるか二度寝するかもぞもぞと葛藤をしていると、起きたかと師匠から声がかかった。見つかってしまうと起きなくてはいけない気持ちになる。
「いいよ、寝てて」
「起きます」
「そ? コーヒー淹れたけど飲む?」
「いただきます……あ、師匠!」
「ん、どした」
「おはようございます」
「おはよ、モブ」
振り返った師匠はこれまで見たことがない顔をしていた。苦笑しているような、照れくさそうな、そして少し嬉しそうな顔で笑った。
ベッドから体を起こした僕の肩に冷えるからとブランケットをかけて、師匠は台所に向かった。
「牛乳入れるだろ?」
「お願いします」
テーブルの上には師匠のマグカップと読みかけの文庫がうつ伏せにしてある。ベッドから降りるとホットカーペットの温もりが足を迎え入れた。そういえば冬に師匠の部屋に泊まったのは初めてかもしれない。
程なくして師匠が戻ってきた。大きめのマグカップを受け取り、カフェオレを一口啜る。牛乳の割合が多くて優しい味がした。少し甘くて温かい。
「うわ、すごい寝癖」
「ちゃんと髪乾かしたんだけどな」
後で直してやるよ、と跳ねた僕の髪を撫でて師匠は笑った。家にいる時の師匠は、相談所にいる時に感じる塀みたいな物が取り払われて、なんだか距離が近い気がする。
「あ、眼鏡かけてる」
「知らなかったっけ。家にいる時は眼鏡なんだ。どうだ、なかなか似合うだろ?」
黒縁の眼鏡をかけた師匠はきりっとした顔で大袈裟にポーズを取った。師匠、照れてるな。ふふ、と堪え切れなかった笑いが漏れてしまった。
「え、今何かおもしろいことあった?」
「ありましたよ」
首を傾げた師匠の顔がまたおかしくて、笑ってしまった。
「これからパン焼こうと思うんだけど、お前も食べるだろ?」
「いただきます。お腹が空きました」
「夜の残りのサラダがあるから挟んでホットサンドにでもするか」
「ブロッコリーのやつですよね。僕あのサラダ好きです」
「良かった。俺も好きでたまに作るんだよな。昔、飲み屋の大将に教えてもらったんだ」
「師匠料理するんですね」
「まあ本当に気が向いた時にな」
カフェオレをまた一口。少し砂糖を入れてくれたのかほんのり甘い。
「あ、手伝います」
「その前に顔洗ってこい。話はそれからだ」
師匠はビシィと指立てて立ち上がった。いちいち大袈裟だな。
「はい」
スリッパを履いてその背中に続いた。廊下はひんやりしていて、改めて師匠の家のにおいがした。
歯磨きと洗顔を終えて、台所に向かうと師匠はホットサンドメーカーにセットして、準備を終えていた。コンロに火をつけた後、師匠は振り向いた。
「タオルあるとこ分かった?」
「分かりました」
「ん、良かった」
戸棚からお皿を出して、レタスを千切ってプチトマトを乗せていく。シンクに寄り掛かりながら、師匠は伸びをした。
「普段は野菜なんて買わないからさ、モブが家に来る日はなんか健康になる気がするよ」
「野菜食べないんですか?」
「あー……意識しないとな。洗ったり皮向いたり色々手間なんだよ。お前も大人になったら親御さんのありがたさが分かるさ。まじで野菜は食べろよ。大人からのアドバイスだ」
「そうなのか……分かりました。気をつけます」
チリチリと音がしてきたので、師匠はホットサンドメーカーをひっくり返した。
「これ一人分しか焼けないから、先食べててくれ」
「半分こにして、もう半分は食べてる間に焼きましょう」
「ん、いいの? 腹減ってるんだろ?」
「僕が一緒に食べたいんです……駄目ですか?」
「そか、じゃあ一緒に食べるか」
ちょうど半身が焼けたようだ。手際良くメーカーの持ち手を開けて中身を取り出す。狐色にこんがり焼けた食パンに斜めに包丁を入れると、ザクッと音がした。いい感じに焼けている。断面からもくもくと湯気が出てとろりとチーズが糸を引いた。
「ぅあっち、モブ皿!」
「はい」
師匠はひょいひょいとお皿に乗っけて、二枚目をメーカーにセットしてコンロに戻した。半人分なのでお皿は少し寂しいけど、食べるのがとても楽しみだ。きっとすぐ残りも焼き上がるだろう。師匠は忘れないように、タイマーをセットしてお皿を持ってリビングに向かった。さっきまで寒かった廊下が、そんなに寒くない気がした。
「いただきます」
「ん、いただきます」
手を合わせて、ホットサンドに齧り付いた。ほかほかのブロッコリーがチーズと一緒に出てきた。これ、師匠大丈夫かなと心配した瞬間、予想通り隣から「あっつ!」と声が上がった。
ブロッコリー、ゆで卵、ツナとマヨネーズがとろとろに混ざり合って、冷たいサラダで食べた時とはまた別の顔を見せる。
「師匠、美味しいです」
「だな。良かった。いつも思うけどコショウとニンニクの存在ってやっぱ偉大だよな」
「はい。もうなくなっちゃいます」
「早えよ、ゆっくり噛んで食べろよ」
おかしそうに笑う師匠が、「ついてる」と僕の頬を拭う。なんだろう。いつもと逆だな。なんだか恥ずかしくなって、気を紛らわせようとマグカップを啜った。冷めたカフェオレは気持ちを落ち着けてはくれない。
「お、焼けたな」
遠くでタイマーの音がして、師匠は立ち上がった。
眼鏡をかけた師匠が組んだ腕をベッドに乗せて僕の顔を見ていた。
「ん、ししょ……?」
「本当は二度寝しようか考えたんだが」
お前と会ったの久しぶりだから、その。
師匠は視線を外して口をもごもごさせていた。
「師匠」
「ん?」
「おはようございます」
「おはよ、モブ」
「体、辛くないですか? 久しぶりだったのでつい張り切っちゃって」
「……まあ、張り切ったのお前だけじゃないし」
師匠は気まずそうに顔を僕から逸らした。
「どうしたんですか、今日はなんだか気味が悪いくらいに素直で可愛いですね」
「おい、失礼だな。たまにはいいだろ」
「駄目なんて言ってないじゃないですか」
不機嫌そうな師匠の頭を撫でて、こめかみに口づけした。不機嫌な"振り"だって知っている。いつもの照れ隠しだ。
「お前な……」
「ふふ。寒くない? こっちに来てよ」
布団を持ち上げて促すと、師匠はちらりと僕の方を見て隣に滑り込んだ。少し冷えた体を抱き締めて微睡む。
「寝るのお前」
「ん? 師匠二度寝したいって言ってたじゃないですか。それとも僕の寝てる顔見たいんでしたっけ?」
「……寝るわ」
師匠は眼鏡を外してベッドボードに置いて、枕に頭を乗せた。
「……起きたら昔作ってくれたホットサンド食べたいです。ブロッコリーの」
「懐かしいな、久しぶりに作るか。材料あったかな」
「あの時、師匠野菜食べろって力説してたじゃないですか」
「うん」
「その癖、師匠は僕が来た時しか野菜食べないなんて言うから」
「ん、俺そんなこと言ったか?」
師匠は呑気にふああと大きな口を開けて欠伸をした。
「言ってましたよ。だから僕たくさん師匠の家行かなきゃ行けないって思ったんです」
「……あー、だから一時期俺の家に来たがってたのか」
「師匠に健康で長生きしてほしくて。昔の僕は健気だったんです」
「はは、そうだな。子供のお前可愛かったな。今は自分で健気とか言うようになっちまったしな」
くく、と笑う師匠の後頭部に寝癖がついていた。それを撫でて目を閉じた。起きたら遅めの朝ご飯を食べて師匠の寝癖を直そう。
「まあ、今は堂々とアンタの食生活に口も手も出せるのでそんな心配要りませんけどね」
「こえ……いや、しっかりした弟子を持てて俺は幸せだよ」
「今何言おうとしたんですか……まあ、いいや。おやすみ師匠」
「ん、おやすみモブ」