Make hay while the sun shines「何事も思い立ったが吉日って言うだろ」
「僕はそういうのちゃんと決めたくて。その、初めてだから」
渡された縦長のパンフレットを握り締めて立ち上がる茂夫に、霊幻は大袈裟だなと溜息を吐いた。
「俺も初めてだし。気持ちが新婚だったらいつでも新婚旅行だよ」
「……師匠がこんなこと言うはずがない。でもおかしいな、悪霊の気配を感じない」
「失礼だなお前は。この先一つか二つこんなこと言うこともあるだろ」
「いつまで新婚気分でいるつもりなんだアンタは」
売り言葉に買い言葉だったのかもしれないが、臆面もなく言い放つ霊幻に茂夫は赤面した。部屋に気まずい沈黙が落ちる。ずっと新婚でも良いだろ、と照れ隠しのような捨て台詞を吐いて霊幻は寝室の扉を開けた。
「朝、出発するから……ちゃんと起きろよ」
「……はい」
茂夫も霊幻の背中を追った。
一緒の布団に潜り込んで茂夫は霊幻の背中を見つめていた。一緒に暮らし始めてからは余計に霊幻の言動に振り回されることが多くなったように思う。しかし不思議と不快ではなかった。霊幻を近くに感じられた気がして、茂夫はなんだか嬉しかった。
先週末からふたりは一緒の屋根の下で暮らしている、所謂新婚カップルである。
***
翌朝、調味駅から在来線に乗ってターミナル駅の大宮駅まで出た。
休日の朝の構内は平日の朝と比べて人通りは少なかったが、それでも遠出しに行く人々で賑わっていた。茂夫は自動販売機で買ったミネラルウォーターに口を付け、人混みを眺めながらぽつりと言った。
「なんだか休日にくると新鮮ですね」
「そうだな」
人混みの波間に浮かぶスーツ姿をぼんやり自分に重ねていた霊幻はそっと目を閉じた。あれは過去の自分であったかもしれないが、今の自分ではない。忙しなく革靴を動かすスーツ姿から無感情に視線を外し、ホームの案内板を探す。
「東京上野ラインは……」
「あ、こっちですね」
最初の目的地は品川駅。大宮駅から品川駅に向かうには、新幹線、東京上野ライン、京浜東北線が候補に挙がる。この中で新幹線は最速だが高値でもあるため、一旦除外する。後は京浜東北線と比較して、東京上野ラインの方が所要時間が短かったため、東京上野ラインを選んだ。目的のホームは六・七番線。橙色の看板の色が目印だ。
***
乗り換えのために品川駅で降りて、階段を昇る。構内では物産展が開かれていて、お土産や茶碗が売っていた。目当ての電車が到着するまで時間があったため、少し見ていくことに決めた。
「おい、モブ。見ろよ、イカの沖漬けがあるぞ」
「さすが師匠、目の付け所が大人だ」
茂夫の手にはカラフルな絵付けがなされた急須が収まっていた。
「……お、おう、お前もなかなか渋いな」
名残惜しそうに物産展を後にして階段を何段か登り、京浜急行線の乗り換え口へ向かった。京急線の切符売り場で「みさきまぐろきっぷ」のカテゴリを見付けた。
「モブ。ボタン押させてやってもいいぞ」
「はあ、僕もう子供じゃないのに。……でも、じゃあ、ご厚意に甘えて」
みさきまぐろきっぷ、おとな二人。小さい電子音と共に大きい切符が出て来た。霊幻は切符を受け取り、茂夫に切符を渡した。並んで改札に通す。
「切符通すの久しぶりだな」
「そうですね。いつもSuicaだから」
失敗して改札から締め出されないか少し緊張しました、と茂夫は小さく笑った。
「自動改札がない頃なんて、駅員さんが鋏で切るかハンコ押してたって言うから便利な世の中になったもんだよな」
「え、朝のラッシュ時大変じゃないですか」
「そうだな、人数えるだけでも大変だったと思うぞ」
ホームの足元にある整列位置のステッカーを確認する。横浜方面、快特。霊幻は緑色のステッカーを探した。茂夫はステッカーの種類の多さに困惑しながらも霊幻に続く。
「僕が駅員さんだったらきっと失敗しちゃうだろうな」
「大丈夫だ。無人駅は使用済み切符を籠に入れて回収するから、お前は無人駅で働けばいい」
「かご!?」
無事緑色のステッカーを見付け、ふたりは既に電車を待っている人の後ろに並んだ。
霊幻は無人駅にいる茂夫を想像して、なんだかおかしくなった。モブがいたら「無人」じゃないだろ。ひとりで静かに突っ込んだ。茂夫はまだ「かご……」と小さく呟いている。
ホームに電車が滑り込んできた。
真っ赤な車体はおもちゃのような形をしていて、脇腹に白い線が塗られている。方向幕には緑の下地に「快特」、黒の下地に「三崎口」の文字が記されている。
大勢の乗客を吐き出してがらんとした車内に、ふたりは乗り込んだ。
「僕、この電車に乗るの初めてです」
「俺も」
出入口近くの空いている席にふたり並んでおっかなびっくり腰かけた。ふたりとも大の大人の癖に、その様子が可笑しくて茂夫は微かに吹き出した。霊幻もそれを見て微笑んだ。やがてゆっくりと電車は動き出した。
『次は京急蒲田~京急蒲田~』
駅員の独特な発音で車内アナウンスが流れる。ぐんぐんと電車は速度を上げていく。ビル群だった車窓の景色がすぐに住宅街に変わった。
「良かったのか」
ころころと変わる景色が新鮮で熱心に景色を見ている茂夫に、霊幻は努めて興味がない風を装って訊いた。茂夫はゆっくり瞬きをして、霊幻を見詰める。
霊幻は見通すような茂夫の視線を仕方なく受ける。何がとは言いたくなかったが、話を振ったのは自分だ。既に零れてしまったものは、なかったことにはできない。
「はい」
「いや、さっきの急須を買わなくても良いかって、そういう……」
やはり言わなければ良かった。言ってしまってから自分の言葉の女々しさと卑屈さに打ちのめされた。こんな訊き方をすべきではなかった。
霊幻は早口で保身に走ってしまう自分に嫌気が差して、茂夫から視線を外したがシャツの裾を茂夫が掴んでそれを阻んだ。再び合わせられる視線。
茂夫は真っ直ぐ霊幻を見つめて、ゆっくり頷いた。もう一度ゆっくり確かめるように返答を繰り返した。
「良いです。僕は貴方が良い」
「……そうかよ」
「はい」
霊幻の、背けた頬と耳が赤い。可愛い人だと思う。
きっと後悔しながらも安心しているのだ。貴方が安心するのであれば、何回訊いてくれたって構わない。茂夫はようやくシャツの裾を解放した。
***
駅に停まる度に電車から降りる人、電車に乗る人が尽きない。
隣では霊幻が流れていく窓の景色をぼんやり見ている。
「ん? どした」
「いえ、こんなに長い時間電車に乗ることがあまりないので」
「そうだな……飽きたか?」
「いえ、なんだかとても新鮮で」
「楽しい?」
「はい。楽しいですし、楽しみです」
「なら良かった。俺も楽しい」
霊幻は歯を見せてニッと笑った。あまり見せない少年のような笑顔で、茂夫にとってそれは何よりも眩しく映った。
「それより、どこ行くか決まったか」
「いえそれが気になるところがたくさんあって、決めきれないんです」
茂夫が縦長のパンフレットのページを捲った。深い藍色の表紙にまぐろ丼の写真が大きく載っている。
”みさきまぐろきっぷ”は京浜急行電鉄から販売されている、品川駅から三崎口駅間往復の乗車券、食事に使えるチケット「まぐろまんぷく券」、お土産やレジャー施設を利用できるチケット「三浦・三崎おもひで券」がセットになっている切符だ。
昨晩、霊幻は茂夫にパンフレットを渡して「まぐろ食いに行こう」と言った。
「一緒に暮らし始めてから初めての旅行だし、新婚旅行ってことで。ここだったら日帰りで行けるし、テレビ見てて魚食べたいって言ってたろ」と。
そして冒頭のやり取りとなる。
***
「師匠、まぐろ丼だけでもこんなに種類が……!」
「まぐろの寿司、照り焼き、唐揚げもあるな」
「僕一体どうしたら」
わなわなとパンフレットを持つ茂夫の手が震えている。
「どうもしなくていいだろ、今日行けなかったところはまた今度ゆっくり行きゃいい」
「今度……そう、そうか」
茂夫の笑顔はまるで子供のように無垢に輝いている。終点に着く頃には丁度お昼の時間帯だ。
走行中のささやかな振動が茂夫に眠気を連れてくる。
霊幻が新婚旅行だなんて言う割に、あまりにもいつも通りだったので、なんだか気が抜けてしまった。昨晩、茂夫は緊張して眠れなかった。隣で早々に寝息を立てていた霊幻を横目に天井を見詰めたり寝返りを打ったりしていた。
「眠かったら寝ててもいいぞ。着いたら起こしてやるから」
霊幻の言葉に頷き、肩に頭を乗せた。すぐに眠りの世界に旅立った茂夫に霊幻は呟いた。
「お前が言ったんじゃないか」
すうすうと眠る茂夫を見詰める霊幻の眼差しは酷く柔らかい。
「自分達の在り方なんて自分達で決めるって。まあ、今回みたいな思いつきじゃなくて今度はちゃんと予定を立てて行こうな」