綿毛の君と傘帽子の君⑦第7章
見覚えのない部屋の布団の中で僕は目を覚ました。
この甘い香りは、部屋にある あの花瓶から香っているのだろうか。
ぼくの左横にはビクターとウィック、それと見知らぬ男が一人、並んで座っていた。
『目が覚めたんですね、よかった』
「ビクター…」
目が覚めたばかりのぼくの頭の中は、水飴のように、とろんとしている。
このまま、この暖かい眠気に従い、もう一度眠りについてしまいたい。
だが、その願いは、ウィックに顔中を舐め回し攻撃第2弾によって、妨害されてしまう。
たまらず、ウィックのヨダレでべたべたになった顔を袖で拭う。
『そろそろ目が冴えてきた頃だろう、初めまして少年。
私は、ルカ・バルサーだ』
ルカ・バルサーと名乗る男は、額から角を生やしていた。
きっと、ビクターと同じ、鬼なのだろう。
しかし、ぼくは、ビクターに対しては感じなかった感情を、男には抱いていた。
天へまっすぐ伸びる紫の角や、口の隙間から見え隠れ鋭い牙。
首にさげた金属製の枷。
差し出された手の先にある尖った爪。
これが、自分とは違う生き物と出会うことの
恐怖なのだろうか。
さっきの態度から、鬼が、ぼくをいじめるつもりは無いことは分かっている筈なのに、ぼくの全身がイヤだと訴える。
『びくたぁ…』
周りの目を気にする余裕なんて ぼくにはなくて、気づけばビクターに縋っていた。
彼の着物の袖がよれるのにも気付かずに 強く握りしめ、必死に助けを求めていた。
その間、ビクターはぼくの背中を宥める様に優しくさすってくれていた。
ウィックも、ぼくの腰の辺りに手を掛け、ビクターがするのを真似て、さすってくれる。
『怖がらせてしまったかな?
すまないね。
では、私は暫く席を外すことにするよ』
鬼は そう言うと、本当に部屋を出ていった。
緊張から解放された身体からは、一気に力が抜け落ち、そのまま、ビクターの胸にもたれかかる。
『アンドルーさん、もう大丈夫ですよ』
さっき食べた 飴細工のように甘やかな声が、ぼくの耳を擽る。
『アンドルーさんは、帰り道の途中で、疲れて眠ってしまったんです。
だから、近くに住んでいる彼の家で、一時的に休ませてもらっていたんですよ。
彼は僕の友人なので、アンドルーさんに、酷いことはしません。
怖がる必要なんてないんですよ』
甘い声は、徐々にに粘度を含み、僕の意識を、ねっとりと包み込む。
そして、先程まで心を占めていた恐怖を溶かしていく。
「そうか…」
『後で、謝りに行きましょう。
大丈夫です、僕たちもついて行きますから』
「うん…」
ぼくがゆっくりと ビクターの胸から頭を持ち上げると、丁度 ビクターと視線が交わる体勢になった。
ビクターの瞳に映る僕の瞳は、とても幸せそうな色をしていて、ぼくは 今 幸せなのだと知る。
**
ビクターの友人を探し屋敷内を巡ってみて、ここが相当広い屋敷であることを知った。
一部屋あたりの大きさも凄いが、それが幾つも連なっていると、尚更壮観だ。
ぼく一人だったら、すぐに迷子になっていただろう。
ぼくが寝ていた部屋から、渦を巻くように順々に回って、ぼくたちは最後に縁側に辿り着いた。
そこには やはり、彼は立っていた。
薄明かりの中では、男の表情を伺うこともできない。
「バルサーさん、さっきは 驚いてしまって悪かった。
祭りの後、眠りこけたぼくに、寝床を貸してくれたんだろ……。
恩人に人にする態度じゃなかった。
…ごめんなさい」
ぼくは深くお辞儀をして謝る。
頭に血が登ったからなのか、自分の恥ずかし姿を思い出したからなのか、頬がじんとする。
鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤になってるのがわかる。
顔が上げられない。
『気にしないでくれ!
人の子供が、鬼の私を怖がるのは、とても自然なことだよ』
なんでもないことのように告げられた、その言葉が、深く胸に刺さる。
態とではなくても、ぼくから始めた線引きだっただろう、人間と鬼、分かりやすい区別だ。
然し、相手から明確な線引きをされてしまうと、戸惑ってしまう。
ぼくたちの間に 確かな行き違いが起きてしまえば、ぼくの気持ちなんて すぐに届かなくしてしまう。
そうなる前に、ぼくは言わなければいけないんだ!
「もう怖くない。
もう 怖がったりしない!」
ぼくの気持ちが少しでも伝わってくれるよう、一所懸命 声を張り上げた。
喉がひりつくけど気にしない、気にしてなんていられない。
『ヒヒヒッ、それは頼もしいことだな!
そうだ、僕のことはルカでかまわないよ、アンドルー君』
拒否されるかもしれないと身構えていたが、ぼくの謝罪はあっさりと受け入れられた。
良いことだけど、拍子抜けだ。
宜しくと、差し出された手を、今度は握り返すことができた。
ビクターと同じく 冷えているが 温かみを感じる掌だ。
『ところで、グランツ君も私と同じ鬼なのだが、何故 君はグランツ君が恐ろしいとは思わなかったのだろう?』
「そ、れは…」
ひとめぼれだったから。
ルカだけに聞こえるように、こしょこしょ声で言った。
『ヒヒッ、そういうことか!
なるほどな、スッキリしたよ』
『そろそろ帰りましょうか』
二本の腕が、後ろから僕の肩に触れた。
肩に触れる手に手を重ね振り返ると、ビクターの黄金と目があった。
『おや、もう帰ってしまうのかい?
残念だな。
随分、余裕が無いんだね』
『…すみません。
今日は、どうしても家に帰らなくてはいけない用があるので』
ビクターはそう断ると、まずウィックを近くへ呼び、それから僕の手を握った。
『じゃあ、せめて玄関まで送らせてくれ』
そう言った時のルカの顔は、険しいものだった。
そんなに、ぼくたちが帰るのが寂しいのだろうか。
こんなに立派な部屋に一人で住んでいては、無理もない。
ルカの案内のおかげで、今度はすんなりと迷路屋敷の玄関までたどり着くことができた。
あと一歩、玄関の敷居を越えようとすると、ルカから呼び止められた。
『アンドルー君、これを君に』
ルカから手渡されたのは、大人の手のひら程の木板だった。
裏面には、達筆な文字て何やら書かれている。
『これはお守りだから、肌身離さず持っているといい。
君が危なくなったときに、きっと活躍してくれるさ』
「分かった、大切にする!」
『……グランツ君、そんなに怖い顔をしないでくれ。
この子はまだ幼いから、もしもの時のために渡しただけだ。
他意は無い』
ルカの言葉に釣られて、隣のビクターを見上げたけれど、怖い顔なんてしていなかった。
にこにこと温かい笑顔だ。
きっと暗いから、ルカは見間違えたんだろう。
「ルカ じゃあな、ありがとう!」
お礼もそこそこに、ぼくたちはルカの屋敷の門をくぐり抜ける。
『それでは、帰りましょうか』
子気味いい鈴の音に合わせて、二人と一匹は歩き出す。
ぼくたちの家まで もうすぐだ。