黒い衣「いて……」
魏無羨は左手でお腹を押さえた。
金如蘭に刺された左腹部が鈍く痛む。
共情の光景を一音も間違えず、聞いた通りに再現しようと笛で吹いた清心音は、姑蘇藍氏でも難しい曲。
集中力と体力を魏無羨から奪い取る。
腹部に怪我をしての笛の演奏は怪我を更に悪化させるが、でも、これしか金光瑶の企みを藍曦臣へ伝える方法がなかったのだ、仕方がなかった。
一緒に来いと藍曦臣に言われ、魏無羨は藍忘機から借りた内衣と下履きしか着ていない姿では雲深不知処内は動けないと途方にくれた。
だが金麟台で着ていた外衣は自分の血と刀の刺し跡でもう着れない。
「藍湛、どうしよう…俺、服が無いかも」
慌てている魏無羨を見た藍忘機が奥から黒い外衣を持ち現れた。
「魏嬰、これを」
「あ、ありがと!助かった」
広げられた外衣は光の加減によっては黒にも紫にも見える。
前面は模様や装飾は一切なく、衿元に銀灰色のひねりのラインがあり、背中から肩にかけて衿元と同じ銀灰色で模様が描かれていた。
シンプルではあるが、とても品が良い。
「どこに連れて行かれるんだろ?」
「兄上には思い当たる所がある」
魏無羨が傷口をなるべく動かさず、外衣を着れるように藍忘機が手を添えた。
着終えてふうっと息を吐いた魏無羨は、外衣が自分の体に丁度合っていて驚く。
でも考えれば、藍忘機が黒の、それも魏無羨にぴったりの外衣を持っていることはおかしなことだ。
内衣は袖がぶかぶかで明らかに藍忘機のものなのに。
「藍湛、これさ……」
「行こう。兄上が外で待たれてる」
魏無羨の言葉を遮るように、藍忘機は魏無羨の背をそっと押し静室の外へと導く。
急かされる格好になった魏無羨は疑問を飲み込むと、藍兄弟と共に蔵書閣へと向かったのだった。
「とてもお似合いだ、魏公子」
禁室にあった東瀛の秘曲集・乱魄抄を清心音に紛らせた事実を見つけた蔵書閣からの帰り道に、笑顔で藍曦臣からそう告げられた。
「え?」
「その外衣だよ」
「この服は藍湛が用意してくれたんですね」
藍曦臣は頷いた。
やっぱり、と魏無羨は生地の良さを確かめるように指で外衣を撫でた。
姑蘇藍氏に黒い外衣など必要ない。
必要あるとしたら、昔から黒にこだわって好んで着ていた魏無羨だけだ。
「君が莫公子として雲深不知処に運び込まれたすぐ後かな。忘機から服を仕立てる職人を呼んでほしいと頼まれた」
藍曦臣は魏無羨の体を気遣いながら歩を進める。
金麟台で魏無羨と藍忘機が起こした騒ぎはもう知れ渡っているはずだが、雲深不知処は静まりかえり、誰一人とも会わなかった。
ここに匿われている事実を知られたくない魏無羨にはありがたい。
「職人が、普段使わない生地と色の注文を忘機から受けたと私を訪ねて来てね。これでいいのかと言われたから覚えているよ」
職人が確認する程の意外な注文。一体どんな顔をして藍二公子は頼んだのだろうか、魏無羨には想像できない。
「色からして魏公子の服だろうが、何故今なのかとあの時は思ったよ。まさか本当に君が甦り着ている姿を見れるとは」
ふふふと笑う藍曦臣に、魏無羨はどう返事をすればいいのか迷う。
魏無羨の復活は、莫玄羽の献舎で成り立った。
代わりに左腕に刻まれた傷は、穏やかな藍曦臣が感情を顕にし、自分の弟を詰問してしまうほど信じている義兄弟の命を欲している。
できることならこのことは、藍曦臣には知らせたくない。
「今考えると大梵山ですでに忘機には君がわかってたんだね」
「どうしてですか?」
「思追や景儀が気を失った君を運ぼうとしたらしいが、忘機が自分が運ぶと言い張ったらしい」
「あ~、米俵の様に担がれたか、引きずられたんでしょうね」
参ったな、と照れて笑った魏無羨とは違い、藍曦臣は視線をさ迷わせ、握った手を口に持っていくと空咳をした。
「いや、それは違う……」
「違う?」
では、藍忘機は一体どうやって運んだというのか。
何故か視線を合わせようとしない藍曦臣の態度から、とんでもないことがあったのではないかと魏無羨から汗が出る。
「後で忘機に尋ねるといい」
姑蘇藍氏は嘘はつけないので、嘘を言わずに
済ますには上手い手だ。
2人が歩くとジャリジャリと足元に敷き詰められた砂利が音を立てた。
藍曦臣の言う通り、わからないなら藍忘機に聞けばいい。
ならば藍忘機に聞いても答えてくれないなら誰に聞く?
影竹堂と書かれた静室への門を潜ると魏無羨は弟そっくりの広い背中の名を呼んだ。
「沢蕪君……」
「何か?」
「藍湛がいないうちに教えてほしいことが……」
藍忘機が決して語ろうとはしない背中の戒鞭の痕を、魏無羨は尋ねた。
しんしんと降る雪は時間が経つにつれ、地面を覆っていく。
このまま続くようならば明日は積もるかもしれない。
「魏嬰、寒くなってきた。こちらへ」
入り口の柱に持たれたかかり、天子笑を飲む魏無羨に藍忘機は静室の中に戻るよう声をかけた。
「うん」
返事はするものの一向にその場から動かない様子に、藍忘機は古琴の前から立ち上がると、魏無羨の側へと近寄った。
その気配を感じた魏無羨は外を見たまま、酒を流し込む。
「魏嬰」
「あのさ、言いそびれたんだけど……」
藍忘機の整った眉がひそめられ、魏無羨が何を言い出すのかと、怪しんでいる。
「この服、藍湛が用意してくれたんだろ?沢蕪君に聞いた。ありがと」
藍忘機から漂っていた緊張を含む空気が消えた。視線や纏う空気で知己の心を少しは読み取れるようになってきた魏無羨は、この距離感が好きだなと思った。
「職人が驚いたそうだぞ?お前が黒の服なんて注文したことないからさ」
わざと明るく言うとふっと藍忘機の唇に笑みが乗る。
「そうだな。だが、この生地は君に似合うと思った。間違いではなかった」
滅多に誉めない藍忘機に誉められたことと、その満足げな視線に気恥ずかしくなり魏無羨は身動ぎした。
「あ!そうだ!お前、大梵山からここまで俺をどうやって運んだわけ?沢蕪君が教えてくれないんだよ!」
「大梵山から?……ああ、抱き抱えて連れてきた」
「抱き抱えた!?どんな!?」
「こんな風に……」
魏無羨の背に右手を当て、膝裏に左手を当てると藍忘機はそのまま持ち上げ再現しようとする。
「待て待て、これはお姫さま抱っこだろ!!」
藍忘機の手から慌てて魏無羨は身を捩って逃れた。
これなら藍曦臣も目線を合わせないわけだ。その時の雲深不知処内と、藍啓仁の様子がとても気になるが、誰も話題にしないところをみると無かったことになったようだ。
しかし、魏無羨の慌てぶりと反対に藍忘機は冷静に返す。
「成り行きでそうなった。江晩吟も連れていきたそうだったが、君は雲夢の方が良かったと?」
「……それは、嫌……」
あの時、気を失わなければ良かったと魏無羨は後悔するが、紫電の威力の前にはなす術がない。
「リンゴちゃんにでも括りつけて運んでくれた方がマシだったのに!」
「それは景儀が提案したが、ロバの方が拒否した」
「あ……そうなの……」
やはりりんごちゃんに嫌われているんだ、といじけた魏無羨にくすりと藍忘機は笑う。
大梵山ーーー倒れた魏無羨に近寄った藍忘機と藍思追、藍景儀の前に、どこからともなく現れたロバはフンフンと魏無羨の顔を匂いながら、周りをウロウロしていた。
そいつを渡せ!と怒鳴る江晩吟にロバは蹄をガツガツ鳴らし大声を出して威嚇する。
そんなロバの様子に江晩吟はもういい!と捨て台詞を残し、その場から立ち去った。
『このロバは莫公子のロバでしょうか?』
江晩吟が消えたにも関わらず、尚も蹄を鳴らしているロバに、藍思追が横に立つ藍忘機に尋ねた。
『なら、これに括りつけて運びましょう!』
藍景儀の声がそう響くと、ロバはこちらを振り向き、ぴたりと動きを止めた。
『おっ、俺の言葉がわかったのかな?』
楽しそうに藍景儀がロバに1歩近寄ろうとすると、ロバは1歩後ずさる。
『ん?』
また1歩近寄ると1歩逃げる。
『んん??』
藍景儀が右に行けばロバは左に逃げる。
『こ、こいつ!』
一向に距離の縮まらない藍景儀とロバの動きに、ププププと仲間たちから笑いが漏れた。
『何をしてるんだ、景儀!ロバに遊ばれてるぞ!』
『わかってる!!』
手綱を取ろうと藍景儀が手を伸ばすが、ヒョイとロバに躱された。
このままでは時間の無駄だと判断した藍忘機は、莫公子ーー魏無羨を大事に抱き抱えた。
仮面の下の顔はわからないが、藍忘機と魏無羨
にとって当人以外知るはずのないあの曲を笛で吹いたという事実が、全てだった。
16年前、手を振り払い崖下に落ちていった大切な人が重みと温かさを伴ってもどってきた。
『含光君、我々で運びます』
慌てて近寄る藍思追に藍忘機はゆっくりと首を振った。
『いや、私が運ぼう。何人かはここに残り調査を続けよ。残りの者は雲深不知処へ』
『含光君、ロバは……』
藍景儀が困ったようにロバを見ている。
『もう、捕まるだろう。ロバも雲深不知処へ』
藍忘機のいう通りにロバはすぐに捕まった。
『こいつ、莫公子のロバのくせに主人を乗せたくなかったのか??』
藍景儀の呟きを無視して、ロバは青草をムシャムシャと呑気に食べていた。
「藍湛?」
心配そうに見つめてくる視線に、藍忘機は我に返る。不意に、魏無羨の外衣が目に飛び込む。
仕立て職人に黒の生地を見せてほしいと告げると何個か見せられた。
昔からの付き合いの職人なので、腕はもちろんのこと、取り扱う品も一流だった。
記憶の中の魏無羨は色は黒なのに、複雑な模様の外衣を好んで身につけていたが、どれを魏無羨が好むのか、藍忘機には判断がつかない。
その中で見つけた1枚の生地。
黒色のような紫色のような生地に一部分だけ施されている銀灰色の大きな模様。
襟元に銀灰色のねじったラインをつけ、他は生地の良さを生かし、背中から肩にかけてその大きな模様が来るように注文した。
超短期間で作られた外衣は、藍忘機が想像した以上の出来映えで、兄である藍曦臣も見に来た程だ。
抱き抱えたのでサイズがわかるうちに勢いで作ってしまった外衣だが、いつ着てもらえるかわからない。
もしかしたら好みではなく魏無羨からいらないと言われるかもしれないが、藍忘機はどうしても作っておきたかった。
それを、今、魏無羨が身につけている。
間違いなかった、という言葉に様々な思いを込めていたことを、魏無羨はわからないだろう。
「戸を締めよう。そろそろ亥の刻だ」
「うん」
カタリと静室の扉が閉じられていく。
やがて、その向こうに見えていた蝋燭の炎も消されると、雪の舞う音だけが静かに響く闇へとなった。