火花 もう季節は夏の初めで、夕暮れが近いとはいえ、歩いていると汗が顎を伝う。
冨岡は鬼殺隊の任務で、夕暮れに他の隊士たちと落ち合う場所に向かい、徒歩で移動しているところだった。
落ち合う場所は山の中なので、少し前から、緩やかな勾配を登っている。そこら中で蝉が鳴いていてうるさいくらいだ。朱色の蜻蛉が一匹、近くを飛んでいる。いわゆる赤蜻蛉だが、暑さに弱いので、夏の間は涼しい山にいて、秋になると平地に降りていくという習性がある。
傍目には、彼の様子はいつもとまったく変わらないように見えるだろう。なにしろ、話すことも怒ることもほとんどなく、笑顔に至ってはほとんど誰も見たものがいないという男なのだ。
だが、見た目がどうあれ、冨岡は幸せな思い出を頭に浮かべていた。二月ほど前に、煉獄と初めて口づけを交わしたことを。ついでに、手も握った。
煉獄らしい、温かい優しい温度の掌だった。唇は、意外なほど柔らかく、弾力があった。
それを思い出している冨岡の顔を見る者がいたら、驚愕しただろう。しかし、幸か不幸か、ここには年老いた鎹烏しかいない。
ただ、前回の煉獄は任務の後遺症で声が出せない状態だったし、冨岡は物事をきちんと口にするということが壊滅的に下手なので、言葉で確認し合ったわけではない。だから、それが二人をどういう関係に定義したのかは、定かではない。
煉獄もまた、愛だの恋だのという方面には疎いのか、それともあれですっかり満足したのか、先へ進むような気配もない。冨岡に至っては恋愛以前の意思疎通に難があるくらいだから、下手をしたらこのまま何事もなくときが過ぎていきそうだった。
冨岡はそのことを気に病んでいるのかどうか、それもまた外観からは窺い知れない。
さて、集合場所に着いた冨岡は、下級の隊士たちが輪になって雑談しているのを見つけた。そこには小さな神社があり、周辺が少し拓けているので、大勢の人間で話すのにちょうどよいのだろう。
まだ日が明るいこともあり、彼らもそこまで張り詰めてはいないのか、あるいは、緊張しているからこそ、それを紛らわすために話しているのかもしれない。
「えっ、お前ついに行ったのか!」
隊士の一人が、大きな声を出して仲間の背中を叩く。
「なんだなんだ、なにがあったんだ?」
どうやら盛り上がっているようだ。その輪の中の一人の隊士が、童貞を捨てるべく意を決して花街に行った、という話をしている。
くだらない会話だ。鬼殺隊の戦闘員は男が多いから、よくこんな話が繰り広げられている。冨岡は特に興味もないから、普段ならこういった輪からは離れて、静かなところに行く。
だが今日は、なぜだか冨岡はその場に留まり、鳥居の前の階段に腰を下ろした。
「いやぁ、やっぱり遊女は手管が違うよなぁ。接吻のときに舌を吸うんだぜ」
それがとても気持ちよくて感動した、また相手の女郎にも上手だと褒められた、そんな話だった。
まさか水柱が聞いているとは露ほども思わず、場が沸き立つ。そしてその隊士は、さらさらの黒髪をした別の男に声をかけた。
「お前もまだなんだろ?今度連れてってやろうか、村田」
そう呼ばれた隊士に、冨岡は見覚えがあった。たしか、同じ水の呼吸の使い手で、最終選抜でも一緒だった男だ。
遊郭への誘いに、村田は首を振った。
「俺はやめておくよ。そういうことは、恋仲になった相手としたいんだ」
途端に、仲間たちから非難の声が飛ぶ。
「馬鹿だなぁ、恋仲の相手ができたとき、接吻や閨事の作法もわかんなかったら格好がつかないだろう?」
そんな話だ。あとはもう、どのみち経験の少ない男たちの猥談で、冨岡は遠くを見て夜を待った。
その夜の鬼は厄介だった。怪我人が多く出て、冨岡も肩に軽い怪我を負った。しかし、なんとか死人も重傷者も出さず、斬ることができたのは幸いだった。
「あの」
隠の手当てを受けている冨岡に、一人の隊士が話しかけた。村田だ。
「冨岡、いや、水柱様。今日は助かりました」
鬼の攻撃をまともに喰らいそうになった彼を、冨岡が庇ったことを言っているのだろう。富岡の側は、誰を庇ったかなど意識する暇もなかったが、そのことを言う必要もない。「そうか」と一言だけ返した。
「……」
その後、特に会話も続かない。村田は困ったように、「じゃあ」と去ろうとした。
そのとき不意に、冨岡が口を開いた。
「……俺は、お前と同じ考えだ」
村田は後ろを向きかけた姿勢のまま止まり、え?と彼を見た。しかし冨岡は、どことなく満足そうな目をしただけで、立ち上がって先に行ってしまう。
「……なんの話?」
あとに残された村田は、呆然と呟いた。
冨岡の肩の怪我は、傷自体は深くはないものの、鬼の爪に毒があったようで、やや膿んでいた。胡蝶の屋敷で一度手当てを受け、そのあとは自分の屋敷で二日ほど休暇を取った。
一日目は少し熱が出たが、すぐに引いた。呼吸の使い手は、身体の回復も早い。冨岡は特に傷を気にもせず、自宅で過ごしていた。
二日目の昼下がり、煉獄が訪ねてきた。彼は今朝任務から帰ったところで、胡蝶のところへほかの隊士の様子を見に行った帰りだった。
「冨岡。胡蝶に昨日来るように言われていたのに、行かなかったのだろう」
悪戯っぽい目をして、煉獄が口角を上げて言った。怒っていたぞ、と言って、彼女から預かってきた傷薬を差し出す。
「もう治った」
「気持ちはわかるがな!胡蝶の言うことは聞いておいた方がいい」
でないとあとが怖いからな、と朗らかな笑顔で言う。
「……なにしに来た」
今更のように、冨岡が尋ねる。薬を渡すために来たわけではないはずだ、と言いたいのだろう。そんなものは、ほかの人間にやらせればいい。柱がわざわざ出向くようなものではない、と。
「なに、君が前に見舞いに来てくれたからな」
そう言って、煉獄は履物を脱いで、勝手に上がった。このまま玄関で会話していても、冨岡が上がるように言うことはないと知っているのだ。冨岡とて、別に入ってほしくないわけではないので、黙ったまま煉獄のあとに続いた。
煉獄は、大ぶりな桃を一つ差し出した。
「怪我をした隊士に持って行ったのだがな、君にも一つお裾分けだ」
それから畳の上に腰を下ろした。
「さて、まずは君の怪我の手当てだ」
と、手を差し出す。見せてみろ、というわけだ。
「別に、自分でできる」
「君は、そういうときばかり返事が早いな」
ため息をつくが、煉獄の笑みは消えていない。まるで気にした様子もない。そして、思いついたように瞳を光らせる。
「自分で肩を出してくれ。俺が脱がすような間柄じゃないだろう」
そう言って、おかしそうな顔をした。いや、これは照れ隠しなのかもしれない。いずれにせよ、その台詞に、冨岡はなんだか面白くない顔をして、そのことに煉獄は笑い声を上げた。
「……お望みなら、そこからやるか?」
そんなふうに、少し下から見上げるようにして、煉獄が問う。小さな唇が、優しい弧を描いている。そっと触れ合った、あの唇だ。
「……腕が痛くて上がらない」
仏頂面で富岡が言った。見え透いた言い訳に、煉獄は優しく眉を下げた。
「そうかそうか。だから、ちゃんと胡蝶のところへ行けというんだ」
言いながら、冨岡の着物の左肩をそっとずらす。
「よく沁みる薬だそうだからな。しっかり塗り込んでやろう」
言葉とは裏腹に、痛みが出ないように肩をはだけさせると、煉獄は包帯を優しく外していく。冨岡は、目の前の伏し目がちになった彼の睫毛を見下ろした。
「これは痛そうだ」
いつも、もっとひどい傷を負っても、眉一つ動かさない男が、痛ましい目をして傷口を見る。人の痛みにはそんな眼差しを向けるのに、自分のことは顧みない。
柱なのだから、自らの痛みに耐えるのは当然だ。だが、他人のことを自分よりも心配し、労るその優しさが、人を惹きつけるのだろう。
座卓の上に置かれた、大きな桃を冨岡は眺めた。
「……桃李もの言わざれども、下自ずから蹊を成す」
ふと呟いた声に、包帯を巻いていた煉獄が顔を上げる。
「司馬遷だな。急にどうした」
桃や李はものを言わないが、花が美しく実が美味なため、その木の下には人が集まり、自然と道ができる。同じように、徳のある人間の周りには、特別なことをしなくても、人が集まる。というほどの意味だ。
煉獄のようだ、と冨岡は思ったのかもしれないが、言葉はそれ以上出てこなかった。煉獄は目をパチリと瞬いてから、また包帯を巻き始める。
「まるで、君のことだな」
最後を丁寧に結びながら、そう言った。冨岡はそういう意味ではない、と言いたげな顔をするが、煉獄は意に介さない。
「君はたしかに無口だが、その心根は一緒にいれば伝わってくる。剣を見ればわかる」
ふふ、と微笑んで冨岡の着物を直した。
「君は優しい」
だから、言葉にはしなくても、君を信頼し、好意を抱いている者たちがたくさんいるんだぞ、と煉獄は言った。
冨岡は黙ったまま、彼の口元を見つめていた。その様子に、煉獄は眉を下げる。
「君といると、自分がひどくお喋りな人間になったような気がする」
そう言って、いったん口を噤んだ。
それから、また少し口を開いた。
「この間のように、俺が口を利けないくらいの方がちょうどいいのかもしれないな」
傷薬や綿布を片付けながら、話し続ける。
俺が話さない方が、君は懸命に意思を伝えようとしてくれるし……この前のように、行動で想いを伝えてくれる。
「だから、俺は」
言いかけた煉獄の手首を、冨岡は掴んだ。煉獄は動きを止め、相手の顔を見る。
静謐な眼差しで、冨岡は煉獄を見る。その瞳の奥にちらつく、小さな火花に、二人は気づいているのだろうか。
煉獄は力を抜いて、唇に薄く笑みを残したまま、瞼を伏せる。
冨岡は両手で煉獄の顔を包むように支えて、唇を触れ合わせた。そのまま、舌を差し入れる。一瞬、煉獄の身体がびくりと揺れた。だがすぐに、応えてくれる。
互いの舌をなぞり、絡ませ、離れ、そして上顎や歯の裏側の形を辿る。
二人の息遣いが、部屋の中に響いた。
口づけが終わったあとも、煉獄はしばらく黙っていた。頬はうっすら赤らんで、瞳が潤んでいる。
ここまでしても、やはり冨岡はなにも言わない。煉獄は少し息を吐いて、彼を見る。
「君はいつも、唐突だな」
「……練習だ」
またしても、誤解させるような言い方をするので、煉獄は眉を下げる。
「……そうか。まあ、好きなだけ練習台にするといい。それで」
つ、と指先が畳の上をなぞる。それだけでも、洗練された所作に見えるのが、育ちの良さなのだろう。
「本番は誰とするつもりなんだ?」
そう言って、まっすぐに冨岡を見る。その眼差しは優しく、柔らかいが、仄かに真剣さも纏っている。
冨岡は答えない。ただ、少し腰を浮かせて、煉獄の肩に手を置き、再び唇を重ねた。今度は驚くこともなく、煉獄は冨岡の羽織を握り締めながら応えた。
口づけは深く、長く続き、冨岡の腕にも、煉獄の指先にも、次第に力が篭った。二人は互いの背に腕を回し、強く抱き締めあった。
「これが本番だ」
ぽつりと、そう言った言葉に、煉獄は唖然とした。冨岡はまた、してやったりという顔をする。
は、と煉獄が声を出した。そのまま、はは、と声を上げて笑い出す。それだけで、なにもない座敷が華やいだ。
「君は、面白い男だな」
目を細めて、冨岡を優しく見た。
「好きになってきた」
そういう意味でな、と言って、愉しそうに瞼を伏せた。
冨岡は、衝撃を受けたような顔で彼を見る。これまでは好きじゃなかったのか、とでも思っているのだろうか。その視線に、煉獄は眉を下げる。
「言っておくが、俺は君がどうしたいのか、聞いていないからな」
君が俺を好ましく思っているのは知っているが、どんな関係を望んでいるのかまでは知らない、と告げる。
「まあ少し、わかってきたが」
それだけ言ってから、苦笑する。
「どうも、俺ばかりが話していると、君の心の声が聞こえなくていけない」
そうして、口を噤んだ。あとは、その澄んだ瞳で、目の前の男を見つめるだけだ。その、言葉にしない心を感じ取ろうとするかのように。
冨岡はいつものごとく、顔にも目にも感情を浮かべず、その視線を受け止めていた。ただ微かに、本当に微かに、その青みがかった瞳の奥に、ちらりと焔の切先が、飛び散る火花が、揺らめいた。
それに気づいたように、煉獄がはっと彼を見た。もう一度見ようと、大きな瞳を見開く。
そして今度こそ、冨岡の静かで冷たい瞳の中の火花を、その瞳が捉えた。それは弾けて、煉獄の煌めく瞳にも移り、小さな焔を点した。そのことに怖気づいたかのように、煉獄が少し後ずさる。
冨岡が、ふっと微笑んだ。
めったに見せることのない表情に、知らなかった熱を宿した瞳。その目で、煉獄を捉える。
「とみ、おか」
射すくめられたように、名を呼ぶ声が途切れた。
想像もしていなかったのだ。彼がその透明な眼差しの中に、これほどの焔を飼っていただなんて。うっかり触れたら、骨も残らぬほどに、焼き尽くされてしまいそうだ。
否、知っていた。冷たい素振りの下に、熱い心を持った男だとは。だが、こんなふうに、自分にその熱を向けることがあろうとは。
つう、と汗が背を伝ったのは、暑さのせいばかりでもあるまい。煉獄は突きつけられたのだ。この熱を、火花を、その身に受けるのかどうか。
そんな彼の動揺などは気にせず、冨岡は身を乗り出して、煉獄の顔に自分の顔を近づける。
「っ、また、練習か」
かろうじて、煉獄が問いかける。
冨岡はもう笑みを収めたいつもの顔で、ただその目だけを熱く艶めかせて答える。
「いや、もう練習は必要ない」
昼下がりの空では、むくむくと高く湧き上がる入道雲が、真っ青な背景を塗りつぶしていった。