「今週、金曜の夜は大学の同級生と飲みに行ってきます」
と伝えた瞬間、至の左右対称に整えられた眉が左だけピクリと動いたのを、綴は見逃さなかった。本当は子供のように「やだ。どうせ女もいるんでしょ?」と駄々をこねたいのに、大人の理性で我慢している証拠だ。わかっていても、今更誘いは断れない。至の不満を少しでも解消したくて、綴はこう付け加えた。
「でも、一次会だけで帰ってきますね」
ホッとしたのか、わずかに口元が緩む。ベリー色のリップカラーで彩られた唇は瑞々しくて美味しそうだ。至の綺麗な顔はいくら見ていても飽きない。
「飲み会が楽しいのなんて、学生のうちだけだから。楽しんで来なね」
綴にとってはまだ未知の世界である社会人特有の苦労をにじませながらも、前向きに送り出してくれた。そんな至との約束を守るため、綴は二次会には行かないと固く誓った。──はずだった。
「皆木は二次会いくよな」
「俺はパス」
「え~行こうよ~!」
会計を終え、店の外に出て話していると、両側から腕を掴まれた。右側はこの会を誰より楽しんでいた盛り上げ役の男子。左側は座席にいる間ずっと綴の隣をキープしていた女子。単純な腕力だけを考えれば、まず女子の手を振り払う方が楽だろう。だが、彼女の上目遣いには謎の圧がある。
「俺、この後用事あるから」
ありもしない予定をでっち上げながら、幹事に助けを求めてみたが、彼は目も会わせてくれない。綴を頭数に入れて、次の店の空席の確認を取るつもりなのだろう。途方に暮れた綴は俯き、大きなため息をついた。
両手を封じられながら、ラストオーダーで注文した烏龍茶を飲み干したタイミングで『今から帰ります』とLIMEを打ったことを後悔する。これでは、最悪の手段として一次会が長引いたと誤魔化すこともできない。コツコツと近づいてくる音が、終わりのカウントダウンのように聞こえた。
「綴お待たせー」
ふと響いた、聞き覚えのある声に引き寄せられるように、綴は顔を上げた。そこに立っていたのは至だ。綴が先ほど耳にしたヒールの音は、至が履いているロングブーツがアスファルトを蹴る音だったのだ。
「迎えに来たけど、まだ取り込み中?」
至が喋り出すと綴の周りにいた男子の目は胸元に、女子の目は顔に釘付けになった。その隙に綴は拘束を解き、至の元に駆け寄る。
「その人って、綴くんと同じ劇団の人?」
さっきまで綴の腕にしがみついていた女子は、平凡な綴と容姿端麗な至が親しいことに納得がいかないらしい。役者仲間という理由をつけて、無理やり飲み込もうとしているようだった。
「そうそう。綴くんと同じ劇団。で、彼女の茅ヶ崎です」
至はブロマイドやフライヤーと同じ、完璧な笑顔を作る。
「一次会終わったみたいだし、綴返してもらうね」
至がそう宣言すると、二人を引き止めるものは、その場に誰もいなかった。
「向こうに車止めてあるから、行こ」
アルコールの入った飲み物を飲んで体温が上がっているせいか、指に絡まる至の手が妙に冷たく感じる。まだ、イマイチ状況が飲み込めていない綴は至には連れられ、曲がり角を右折した。そのまま少し歩くと、駐車場が見えてくる。その一番手前に馴染みのある車が止まっていた。
「迎えに来てくれて、ありがとうございました」
助手席に乗り込み、シートベルトを伸ばしたところで綴は大事なことを言い忘れていたことに気がついた。至へのお礼だ。
「私がやりたくて受注したお迎えクエだし、綴は気にしないで」
「でも、場所も言ってなかったのに、よく分かりましたね」
「葉大生ホイホイの飲み屋だって臣が教えてくれた」
「なるほど」
臣は今日の食事当番であり、同じ大学のOBだ。飲み会があるから夕飯はいらないと連絡するついでに、いつものところに行くと添えたことを思い出した。場所さえ特定できれば、あとは簡単だ。出発する時間に関しては、綴が自ら合図を出している。
「そういえば、至さん……」
綴は運転席の方に向けた目を、慌てて逸らす。ただでさえ、大きく空いた胸元から谷間が丸見えなのに、そこにシートベルトが挟まって大変なことになっているからだ。直視していたら、綴の下半身まで大変なことになってしまう。
「どした?」
「いや……今日の服、雰囲気がいつもと違うなって」
綴はファッションに疎い。自分の服も、見た目より動きやすさや丈夫さ、安さに重きを置いて選んでいる。けれど、至が今身につけている服はよく見る私服や、少し気合いを入れて着てきてくれるデート服とは系統が違う。綴がそう理解できるほどに、色使いや素材感が別物なのだ。それから、露出度も。
「上から下まで万里に借りた」
説明しながら、至はヒールが高く歩きにくそうなブーツを脱ぎ、運転に適したスニーカーに履き替える。
「言われてみれば確かに。万里が着てそうな服っす」
季節を問わず露出の多いギャルファッションに身を包んだ万里が入寮してきたばかりの頃は、綴も目のやり場に困った記憶がある。しかし、年長者の左京に「風紀が乱れる!」と注意されても万里は「これくらいで乱れる風紀の方がどうかしてんだろ」と反論し、堂々と好きな服を着続けた。その結果、綴もいつの間にか慣れてしまっていた。
「もしかして似合ってない?」
「似合ってます!」
至の言葉を食い気味に否定する。新鮮には感じるが、似合っている。だから、綴はあまり至の方を見られないのだ。
「でもなんで、わざわざ他人の服を借りたりしたんすか?」
「迎えにいくついでに、若い子に綴は誰の彼氏か理解らせなきゃと思って。それには地味なOLよりギャルで行く方が効果ありそうじゃない?」
「俺は普段の至さんを地味なOLだと思ったことないっすけど」
オフィスに馴染むスーツに着替えても、至の華やかさは失われない。本気で地味なOLがタイプだという男には刺さらないだろう。
「はっ……くちゅん!」
「大丈夫っすか?」
「この布の少ない服防御力が低すぎる……肩鳥肌立ってて草」
くしゃみをした後、至は自分を抱きしめるように服で覆われていない両肩をさすった。迷わず暖房を入れようとした至の手を、綴が制する。
「俺は飲んでて暑いくらいなんで、上着着ます?」
「着る」
見事なまでの即答だ。綴はシートベルトを一度外し、脱いだブルゾンを手渡す。
「はぁ、ヌクモリティ……やっぱり迎えに来て良かった」
長身の綴が羽織ってもゆとりのあるそれは、至の身体をすっぽり覆ってしまう。見た目にも暖かそうだ。
「正直、俺も来てもらえて助かりましたけど、そんなに心配でした?」
「心配だよ。綴のこの何気ない優しさが女を勘違いさせるから」
「ちょっと、嗅がないでくださいよ」
大袈裟な表現を訂正するつもりだったが、それより先にブルゾンに鼻をくっつけて匂いを嗅ぎ始めた至を止める。
「ヨシ! それじゃあ、次行きますか」
「次? 寮に帰るんじゃ……」
「綴、同級生のみんなに用事あるって言ってたじゃん」
「そっから聞いてたんですか?」
綴が驚いている間に至は助手席の方に手を伸ばし、グローブボックスを開ける。
「綴の声、ちょっと離れたとこからでも聞こえたよ」
舞台役者ならば、声がよく通るのは立派な長所だ。それはそれとして、酔っ払って無意識に声が大きくなっていたのかもしれないと綴は反省する。
「ちな、行き先はここね」
なんらかのキャラクターグッズが詰め込まれた収納スペースから、至が取り出したのはカードだ。そこには、綴が時々至と一緒に利用するラブホテルの名前が書かれている。
「行きますか」
シートベルトを締め直しながら綴がそう言うと、至は機嫌が良さそうな横顔でアクセルを踏み込んだ。